いたくないっ!
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第四章 暗闇の亜空間
1
暗闇の亜空間に、オタの鼓動が響いていた。
加えて、すぴすぴフンフンとオタの荒い鼻息が。
山田定夫、梨峠健太郎、土呂由紀彦の、三人。
彼らがいつも集まる、定夫の部屋である。
何故ことあるごとこの部屋に集まるのかというと、なんのことはなく、定夫の家はトゲリンと八王子の家のちょうど中間にあるからというただそれだけである。
暗闇、といっても漆黒の闇ではない。
パソコンモニターからの灯りによって、室内はぼーっと照らし出されている。
フィギュアやアニメポスターバリバリのオタ部屋が。
そのパソコンモニターには、アニメ映像が流れている。
彼らが作っているアニメである。
映像部分の進行具合は、残るは編集での微調整のみということで、音無しでもいいから一回通して観てみよう、どうせなら映画鑑賞のような気分を味わいたいので部屋を暗くして観てみよう、ということで、部屋を暗くしていたのである。
実質三畳ほどの暗闇空間の中にデブ二人とガリ一人が、まるでブロイラーの鶏のごとくひしめき合ってハアハアいっている。
鶏と異なるのは、彼らがみな、なんだか充実したような、幸せそうな顔をしているというところくらいであろうか。
いや。
ような、ではない。彼らは充実感、達成感、幸福感を、間違いなくその胸に味わっていた。
みなで作品を作り上げていくという喜びと幸せを。
さて、アニメの物語部分がすべて終了して、黒背景に白文字のエンドロールが流れている。
といっても、一画面に余裕で収まる程度のものを小出しにしているだけであるが。
総監督 山田定夫
コンテ 山田定夫
キャラクターデザイン 梨峠健太郎
作画監督 梨峠健太郎
CG作成・編集 土呂由紀彦
演出 山田定夫・梨峠健太郎・土呂由紀彦
制作 スタジオSKY
と、これだけしかないのだから。
なおスタジオSKYであるが、定夫、健太郎、由紀彦、の頭文字だ。
一昨日、八王子の思いつきでグループ名を決めようということになり、考えて出され、急遽エンドロールに組み込んだのだ。
クレジットが本名であるが、これは伏せるべきか検討中だ。
伏せる場合はおそらく、レンドル、トゲリン、八王子、だろう。
黒背景の中で文字が完全に流れ終えたことで、部屋は光源を失って真っ暗闇になった。
しばらくそのまま、余韻に浸る三人。
やがて、定夫は腕を伸ばし、勝手知ったる我が部屋の電灯紐を迷いなく掴み、引っ張った。
ぱちぱちと蛍光灯が瞬きし、部屋に白い灯りがついた。
三人は、パソコンモニターの前であまりに密着し合っていたことに気が付いて、慌てたように距離を取った。
「いや、なかなかいい感じに仕上がってきたね」
八王子は、ベッドへと這い上ると、ガリガリの小柄な身体を小さくぼよんと弾ませた。
「いい感じどころではなあい! 感動、感動の嵐がっ、拙者の胸の中を吹き荒れているでござるっ!」
一体どんな身体の震わせ方をしているのかトゲリン、黒縁眼鏡がカタカタカタカタ、ずり下がるのではなく反対にずり上がっていく。よい機会だとばかり、滲む涙をティッシュで拭い、ぶちぶびいっと勢いよく鼻をかんだ。
定夫も、なんともいえない嬉しさ、こそばゆさが、全身を駆け巡っているのを感じていた。
泣き出したり、振動で眼鏡ずり上げるほどではないが。
とにかくこの嬉しさを次のステップへの原動力にして、さて、なにをすべきかであるが、
映像はほとんど完成した。となると……
「あとは、音をどうするか、だな」
音、つまり鼓膜に入る情報、つまり声と背景曲そして効果音である。
現段階では、音が出来ているのはオープニング曲のみ。
本編部分はまだなにも取り組んでおらず、完全なる無声無音だ。
まずは映像、ということで後回しにしてきたため、仕方がないところである。
でもこれからは、むしろ音響こそが作業の中心になるのだ。
映像がほとんど終わったいま、本腰を入れて取り掛からねばならないものだ。
「それじゃあ、おれ音響監督やるよ。絵を作ったり動かしたりにはまったく関わってなかったからさ」
自分の、ネット掲示板への呟きから生まれた企画だというのに、なのに蚊帳の外的な、そこはかとない寂しさを感じていた定夫である。
常々、自分もなにか技術的に担当出来るような部分を持ちたいと考えていた。
総監督、という一応の身分ではあるが、結局お話はみんなで相談して作り上げてしまったわけであり、自分だけなにもしていないという気分は否めなかった。
音ならば、やれるんじゃないか。
と、いまふと思って、提案してみたというわけである。
「そうだね、音の製作指揮もいないとね」
「しからば、レンドル殿に音響は任せたでござる」
「でも、どんなふうにしていくつもり?」
「ああ、ええと、まず効果音だけど、これはネットからフリーのを拾って使い、足りない部分は自分で作ろうかと」
「自分で?」
「ほら、有名なのに、小豆で波の音というのがあるだろ。そんな感じに、なんか工夫してやれないかと。あとは、なんか適当に録った音を、パソコンのエフェクターソフトで加工して違う音に作り上げるとか。……音のデータって、アニさくで何個でも置けるんだっけ?」
「同時発声は、九十九ファイル。一つのプロジェクトにつき、配置音声は十万ファイル」
八王子は、即答した。
「必要充分なスペックだな。音は、おれが作ってみる。手伝ってもらうこともあると思うけど、とりあえず取り掛かってみる。じゃあ、効果音はそんな感じで決定で。次は……」
定夫は口を閉ざし、数秒の沈黙の後、
「声を、どうするか」
閉ざした口は一つであるが、開いた口は三つであった。
見事なハモりに、三人は思わず苦笑した。
「まずは、登場キャラを整理してみよう」
定夫は、床にノートを置き、登場人物の名を書き出していった。
「女女女女男男。という比率」
「要するに、女性の声をどうするかが最優先課題、ってことだよね。主人公もそうなわけだし」
という八王子の言葉に、定夫は小さく頷いた。
「雇うか。……歌の時のように」
トゲリンが、何故だかかっこつけた口調で呟いた。
眼鏡デブの甲高いネチョネチョ声なので、まったく様になっていなかったが。
「誘うか。……学校で」
定夫も、その口調を真似してみるが、
「無理無理無理」
と、二人に一瞬で否決された。
「分かってるよ。冗談でいっただけだって」
冗談、というよりははかない願望であろうか。
自分の気持ちながら、よく分からないが。
学校では、空き缶や石を投げつけられるなど日常茶飯事の、女子たちから猛烈に嫌われている彼らである。そんな場所で、いや、そんな場所でなくとも、女子生徒の手など借りるのはまず不可能というものであろう。
「では作るか。……メグで」
八王子もおかしそうに口調を真似した。
メグとは、唄美メグミという音声合成ソフトのことである。
定夫がネットを通じて曲の提供を受け、八王子がこのソフトで歌声部分を作成したという、振り返ればそれが、この物語が動き出すきっかけであった。
「でも結局、メグではなんか物足りないということで、生身の歌い手に依頼することになったわけだからなあ」
また合成音声に戻していては、本末転倒というものであろう。
メグへの好き嫌いは、また別のこととして。
そもそも、歌とアニメ本編のどちらかを合成音声にせねばならないのであれば、誰がどう考えても歌であろう。数分程度の紙芝居のようなアニメならいざしらず。
歌は「狙い」だと思わせさえすれば、合成だろうと、下手だろうと、変な声であろうと、問題ないが、アニメの口パクましてや美少女の声ともなれば、そうはいかない。「変」では、絶対に成り立たない。「狙い」では絶対に成り立たない。
そう考えると、歌を肉声にした以上は、声優も肉声でないと違和感が生じてしまう。
だが、ならばどうするという明白確固たるアイディアは出なかった。
「ではこの議題に関しては宿題として各々で考えて、明日、意見をつき合わせることにしよう。ほかに、声のことで、なんか議題に上げとくことあるかな」
という定夫の言葉に、八王子が小さく手を上げた。
「変身時の掛け声はどうしよう。なんて叫ぶ?」
2
「マギマギ大変身、カレーーライス!!」
沢花敦子の元気な大声が、部屋中に轟いた。
変身ヒロインの、声の練習をしているところである。
これは、教育テレビで放映しているアニメ「料理魔女クックドゥドゥー」の、久留米ククルちゃんが変身する時の掛け声だ。
ククルちゃんはその回に出てくる料理パワーを使って変身する。
レシピ魔法で食材オーラを飛ばして敵を倒し(大根などの食材で殴り掛かったこともあったが)、
戦闘後は、アニメから実写にいきなり切り替わって、子役の野口愛美演じる実写版ククルちゃんが「今日の料理」を実際に作って、番組は終わる。
この作品の、変身シーンの特徴を一つあげるなら、バンクシーンを一切使わないことであろう。
つまり、毎回異なる変身シーンが作画される。
その回の料理パワーにより戦闘コスチュームのデザインが異なるため、当然といえば当然であるが、調理道具をかざして叫ぶところから毎度描いているのだから徹底している。
四回、五回、とククルちゃんの声を叫んだところで、変身掛け声練習は次のお題だ。
敦子は、そっと目を閉じる。
頭の中にいるキャラクターを、入れ替えた。
指をパチンと鳴らすと、目を開き、笑顔で勢いよく右腕を振り上げた。
「よおしみんな、変身だっ! レッツトライ、今日も張り切ってえ、いっくぞおおお! 精霊マジック発動レベルワン、磁界制御、力場制御、魔動ジェネレーターブーストアップ! チェック完了、内圧良好! ワン、ツー、スリー、フォー、へえんっっしいいいいん!」
これは、「めかまじょ」の主人公、小取美夜子の変身時の台詞である。
「変身完了三振残塁、メカ魔女ナンバーワン、ミヤ参上! 悪い子はあたしがおしおきだあい!」
「三振残塁」の口上は、第七話。「目指せ官僚」、「阪神完敗」、「極道撲滅」など、韻を踏んだものか、もしくは語呂のよい台詞が使われる。野球、阪神に関する台詞が多いのは、監督が兵庫出身のためであろう。
「めかまじょ」は、飛行機墜落事故で瀕死の重傷を負った女子高生である小取美夜子が、肉体の大半をメカにされることにより奇跡的に一命を取り留め復活し、いじわるな人を科学魔法で改心させたり、悪いやつらをこらしめたりするアニメ作品である。
友人のお好み焼き屋復活のため尽力するなど、初期は人情ものストーリーが主体。
飛行機事故が仕組まれたものであったことが判明してから物語はちょっとハード路線へと進んでいくのだが、変身シーンは変わらず爽快で楽しいものだ。ユーロビートのリズムで、クラブDJがノリノリで喋っているかのようなビート感に溢れた独創的な口上で。
変身時のギミックもユニークだ。
無骨な右腕に鍵穴があり、鍵を差し込みぶるるんエンジンをかけて魔道ジェネレーターを始動させるのだから。
一話目からずっと変わらず、変身はバンクである。
敦子は、アニメのバンクシーンを見るたびに、つい色々と考えてしまうことがある。
キャラの心情を、どう演じるべきなのかを。
バンクシーンとは、要するに同じ映像の使い回しだ。特撮ヒーローのメカ合体や、戦うヒロインアニメの変身などが有名だろう。
もともとは、予算削減効果を狙っての、いわば苦肉の策。
制作現場としても、使わなくて済むのであれば使いたくなかったのではないか。
しかし、長い歴史の中で価値観も変わり、一種歌舞伎の口上と同じような扱いになっている部分も、現代では間違いなくあるだろう。
つまり、バンクにすることにより、観る者の魂が熱くなるのだ。
お約束化されることにより、熱くなれるし安心して盛り上がれるねという効果もあるだろう。
合体や変身バンクの直後にメインキャラが死ぬことはまずなく、「さあ、これから反撃だ」という痛快な気分への切り替えスイッチを入れてくれるものだからである。
敦子が悩んでしまうのは、「だったら声の演技もまったく同じ方がいいのかな」ということ。
それとも、その時その時のキャラの心情を想像した上で、微妙な演じ分けを心がけるべきなのか。
結論の出る類の問題でないこと、分かってはいる。
分かっているけど、バンクシーンを見るたびについつい考えてしまうのだから仕方ない。
まあ、そんなシーンのあるアニメで自分がかかさず観ているのは、日曜朝の一本くらいなものだが。ああ、あと「めかまじょ」もそうか。
自分はまだプロ声優ではないし、声優だとしてもどうするべきかは監督の判断。
でも、このように色々と想定していくことは大切なことのはず。
想定、つまりイメージすることは、役者の肥やしになりこそすれ、無駄になることなんかないんだから。
自分はただ色々なことを考えて日々チャレンジして、トレーニングを積んでいくだけだ。
明日のために。
未来のために!
未来のわたしが声優として活躍することが、色んな人たちに笑顔や夢を与えることになる。
そう信じて。
「よおし、たくさんイメージ練習するぞお! めかまじょ変身バンクシーン、吹き替え百本ノックだあ。まずは不良少女風! ……てめえらあっ今日もはりきってえ、レッツトライでぶっちぎるぜえええっ!」
3
「あーーーーーーーーー」
「あーーーーーーーー」
「ひぇあーーーーーーーーー」
なんだか頼りない情けないみっともない奇声が、騒音の中に溶け消えてゆく。
中央公園にてその奇声を張り上げているのは、定夫、トゲリン、八王子、アニオタ三人組である。
自動車の騒音が声をかき消してくれるのを利用し、こうして大声を出しているわけであるが、それでもやはり近くを歩く人たちが奇異の目を向けて過ぎて行く。
まあ、声など出さずとも、見た目だけでも奇異の目で見られるに充分な彼らではあるが(特に定夫とトゲリン)。
何故ここで声を張り上げているのか。
要は、発声練習のためである。
単なる奇声にしか聞こえずとも、目的としては純然たる発声練習である。
「あーーーーーーーっ」
「あーーーーーーーーーーーー」
「ひぇわーーーーーーー」
では、どうして発声練習などをしているのか。
自主制作アニメの、吹き替えのためだ。
もちろん自分たちで担当可能な部分つまり男性キャラの、である。
女性キャラに関しては、どうするかまだまったく決まっていない。
結局のところ、合成音声を使うのか、誰かに声の依頼をするのか、このどっちかになるのだろうが。
とりあえず現在やれるところをやろう、一つずつ確実にピースを埋めていこう、と、公園にて情けない奇声を……いや、発声練習をしているわけである。
自分たちで声を当てたいと思った理由は、予算削減の意味もあるが、自分たちで作品そのものにより参加したいからという思いが大きい。
特に定夫は、その思いが強い。
トゲリンのように上手な絵など描けないし、八王子のようにアニメ作成ソフトを扱いこなす技量もないからだ。
総監督を任されている身分とはいえ、これまで自分だけ蚊帳の外的な寂しさを感じていた。
でも声ならば、自分だって参加が出来る。
演技はおそらく酷いものだろうけれど、でも、いくら酷かろうとも何度も何度も自分にリテイクを出せば、まぐれで上手に聞こえる声になることだってあるだろう。アニメ視聴で鍛えられた耳で、そうしたまぐれの声だけを拾っていけば、それなりのものに仕上がるはずだ。
生での芝居ではなく、録音なのだ。忍耐力さえあれば、充分に可能なはずだ。
声の仕事を甘くみるつもりは毛頭ないが、しかし、作品作りという意味では、絵を描くことと比べて遥かに参加しやすいのは事実。
そう。声ならば、素人でもなんとかなるのだ。
劇場アニメなど、プロが作る興業作品での素人起用は、客を舐めきった最低最悪の所業だが。
とはいえ、そうした作品に出る素人だって、この「無限リテイク大作戦」を使えば、そこそこよいクオリティの声が録れると思うのだが。なのにどこの映画も、どうして毎度毎度ああも演技が酷いのだろう。
リテイク一回も出していないような、そんな声を何故そのまま採用してしまうのだろう。
宣伝目的なら、タレント起用以外に他にいくらだって方法はあるだろうに。
素人タレントどもも、声の仕事がきても辞退すればいいのに。
そうだよ。アニメ好きを公言して人気取りなんてしなくていいから、アニメが好きなら辞退しろよ。
ゴミカスどもが!
「もっと腹からっ! あーーーーー」
「ああーーーー」
「ひぇあーーーーーーーー」
「トゲリン、さっきから、なんであーーーーがヒヤーーーーになるんだよ!」
「失敬な、なってないでござるよ! ヒヤーーーーーーーー。ほらこの通り」
「あああああ」
「あーーーーーー」
日々ボロクソけなしまくっている俳優やタレントよりも、遥かに遥かに酷い定夫たちであった。
4
定夫の部屋は、普段と様子が違っていた。
あ、いや、オタ臭プンプンという意味では、まこと普段通りであるが。
では、なにが違うのか。
窓枠に、べたべたと目張りをしてあるのだ。
音漏れ防止のために、隙間という隙間を埋めているのである。
厚手のビニールテープを何重にも貼って、その上に防音性能を持つシートを貼り、さらにテープを貼っているという徹底ぶりだ。
三人みんなでゴーゴーやパラパラなどを踊った日には、三十分と経たずに残らず窒息死してしまいそうなくらいに、びっちり隙間なく。
なんのためか。
防音のためであるが、どうして防音が必要なのか。
それはアニメの吹き替えにあたり、近所迷惑防止と、情報漏洩阻止を狙ってのものである。
窓枠だけではなく部屋のドアにも毛布を置くなどの防音対策がされているが、これは単に山田一家に聞かれてしまうことの恥ずかしさ防止のためである。
六畳間、そこから学習机とベッドの面積を除いた三畳分ほどの中央には、ダンボール箱が胸の高さほどに積まれており、その上にマイクが置かれている。
音声収録のために、三人でお金を出し合い購入したマイクだ。本体からUSBケーブルが伸びており、パソコンに繋がっている。
価格は、九千円。
割り勘とはいえ、アルバイトもしていない高校生には高級過ぎるマイクだ。プロの現場用途ならば、安物過ぎる低ランク品なのだろうが。
「だからひと、ひとりにてこずってい……」
「だまれー、ちゃくちゃくとこちらにゆうりなじょう、きょうはととのいつつあるのだー。ビ、ベ、ヴェルフ、ヴェルフはいるか」
「はっ」
彼らは今、男性キャラだけのシーンの、吹き替えに挑んでいた。
練習と、録音環境シミュレートを兼ねてのものであり、本番ではない。
しかし、もしも偶然であれよい音声が録音出来たならば、その音声をそのまま採用するつもりでいる。
自分たちはどう考えても下手くそであり、何十回も、何百回も、納得いく演技が出来るまでチャレンジするつもりであり、納得いく演技などおそらくそうそうは出来ないだろうからだ。
つまり、そういう意味において既に収録本番は始まっているのである。
始まってはいるが、しかし、くどいようだが三人とも演技力はさっぱりであった。
くどくもなる。
酷い。
あまりにも酷い演技であった。
録音を聞いてみるまでもない。
収録している最中に、自分のあまりの棒読みに、もうどうしようもなくもどかしく情けない気持ちになってくる定夫であった。
定夫は、耳が肥えているということには自信がある。
だてに長年アニメオタクをやっていない。
だてに声優の演技や声質にこだわりを持っていない。
利き酒ならぬ、利き声も得意中の得意だ。
たまにナンバとミツヤの声がどっちか分からなくなるが、女性声優なら取り違えたことは一度もない。
カナイとコーロギの聴き比べも楽勝だ。
などとそんな、最近のライトなアニメファンが知るはずもない声優のことなどはどうでもよくて、なにがいいたいのかというと、耳は間違いなく肥えているのだから「自分たちのなにが悪いのか、どう悪いのか」、は誰にいわれるまでもなく分かっており、分かっているのにそれをまったく改善に生かせない、そんな自分が情けなくなってくる、ということなのである。
とにかく、トライアンドエラーを繰り返し、少しずつ経験を積んでいくしかないのだろう。
プロ声優を目指すつもりなどはないが、「たまたままぐれの名演技」が生じる可能性を少しでも高めるためにも。
しかし……
「はー」
定夫はふと虚しい気持ちになり、ため息を吐いていた。
まことどうでもいい話かも知れないが、ため息を吐くに至ったプロセス、その心の機微についてとりあえず説明すると、
まず、アニメの主人公は女の子であり、その友達も当然ながら女の子であるということ。
ジャンルとしてはバトルものだが、脚本的に力を入れているのは主人公と友達との掛け合いであるということ。
つまり、
自分たち担当分の音声は、要するに枝葉の部分、切り捨てても惜しくない部分、ということ。
名のあるキャラとはいえ、視聴者にとってはキャラAキャラBキャラCといっても過言でない、そんな声を延々ひたすら練習していることに、不意に虚しさが込み上げてしまったのだ。
主人公との掛け合いならば、俄然やる気が出ようというものだが、如何せん女の子の声をどうするかはまだなにも決まっていない。
という理由あってのため息だったのであるが、
「お」
定夫は、突然なにかピンときたような表情になって、手を叩いた。
「そうだよ、八王子が作ってた音声あるじゃんか。あれ、当て込んで、やってみようぜ」
名案なりーっ、という顔で提案をした。
そう、女子キャラの音声データは、あるにはあるのだ。
八王子が、唄美メグを使って実験的に作ってみたデータが。
「全然作り込んでない音声だけど。遊びで、ちょっとやってみようか?」
「や、や、やってみよう!」
初の、女子との掛け合いシーンの収録に、定夫は俄然やる気になっていた。
収録の段取りは、次の通りである。
まず八王子が、アニメ動画に女子声データを配置する。
それをカラオケでいうオケのようなものとして、合間合間に自分たちの男声を吹き込んでいくのだ。
ついに、ついに、女子と、話せる。
と脳内仮想現実を妄想して心わくわく踊らせながら、収録に挑む定夫であったが、
しかし……
終えてみると、
声を入れたアニメをいざ再生してみると、
それはとても視聴に耐えられるレベルに程遠い、実に最低最悪な代物に他ならなかった。作品と呼ぶのもおこがましいほどの。
すぐ気付く大きな理由としては二つ。
一つには、合成音声の質。
まだ作り込まれていないせいもあるが、とにかく女の子の声が無味乾燥抑揚皆無。
文字にするならすべてカタカナ、といった喋り方だ。
もう一つは、定夫たちの声。
滑舌悪く、また、合成音声以上に棒読みの酷い演技。
この掛け合い部分の吹き替えが本日初めて、ということ考慮に入れても擁護出来ないレベルだ。
今後のためにテンションを高めようと思っただけなのに、逆にドン底のドン底にまで落ち込んでしまう定夫なのであった。
おれには、声すらもないのか、と。
「まさかここまで酷いものになるとは。……ヘタウマ絵のアニメとかならば、おれたちみたいな声でも、味があると思わせることが出来るんだろうけどなあ」
深夜アニメ、五分アニメ、などでよく使われる手法だ。
作り手がまるでアニメを愛していないから出来る最低愚劣の行為と思うが、妙な味わいがあると褒めてしまう一般人が多いのも事実ではある。
だからといって、いま作っているアニメをヘタウマ絵に作り直すわけにもいかないし、そんなつもりも毛頭ないが。
「メグの質については、ごめん、まだあまりいじってないから。だって使うかも分からないし。……ぼくたちの声に関しては、少しずつよくなっている実感はあるんだけどね。でも、他人が聞いたら酷い演技なのかなあ。とりあえず、メグちょっといじってみようかな」
「いや。八王子殿が本気でチューンすれば、メグ殿はもっと美声を輝かせてくれるとは思う。だがしかし、やはり女性キャラは肉声にこだわった方がいいと思うのでござる。生身本物というだけでなく、しっかりした演技力を持った人で」
「そうね。じゃあ、歌の時みたくさ、誰かにやってもらうってことで決定しちゃおうか?」
「実質その二択しかないんだけど、でも、それもなんかなあ……」
定夫は、なんとも複雑そうな感情を顔に浮かべた。
「レンドル殿の心の葛藤、拙者には理解出来るでござる。外注ならば、ああ確かに上手ではあろう。しかしキャラへの思い入れがない。つまり、魂がこもっていない」
「そういうこと。歌を頼んだ時は、歌の歌詞に対しての魂はこめてくれたと思うけど、アニメのキャラに対してとなってくると、感情の入れ方はまた別だからな。ささっと器用に演じてはくれるかも知れないけど、おれたちと思いを共有してくれることは絶対にないわけで」
むー。と、また渋い顔を作る定夫。
腕を組んだ。
なんだかんだと、アニメ制作はここまできたのだ。
作画はほぼ終わって、後は音を入れるだけ。
つまり、残るはダルマの目に黒を入れるだけ。
いや、龍の目に一筆を入れるだけ。
それだけで、龍は雲間を突き抜けて、無限に広がる青空へと飛び立つのだ。
ここまで、きたのだ。
ここまできて、いまさらアニメ制作をやめるつもりなどは毛頭ない。
やめられない。
絶対に、続ける。
絶対に、完成させる。
と、胸に宿る決心に濁りは微塵もなかったが、ただ、あまりのままならなさに途方に暮れてしまっているというのも現在の間違いない感情であった。
どうすればよいのだろうか。
どうすれば、この現状を打破することが出来るのだろうか。
自然にヒントが浮かぶまでしばし休憩を、というわけにはいかない。そのままになってしまい、魂に埃がかぶってしまう。
常に進み続けないといけない。
考え続けないといけない。
しかし……
ぐるぐる回る思考。
この、なんとも惨めな気持ち。それを作ったきっかけは、自分たちの演技の下手くそさにある。
そこから、女性声優を使いさえすればいいのだろうかという自分たちのモチベーションの話になっていっただけで、気持ちの根本は演技の酷さ。
千回もリテイクすればいくらだっていい演技の声など出せるだろう、
などと、なんと声優をあまく見ていたことか。
ガッデム畜生、と自分のバカさ加減に文句をいわずにいられない。
だが、まだ彼らは知らなかった。
女神は、すぐそばにいたのである。
5
次は四時限目。
視聴覚室で英語のヒアリングである。
沢花敦子は、視聴覚室のある北校舎に移動すべく、中庭を突っ切っているところであった。
いつもの面々、橋本香奈、須藤留美、大島栄子、三人のクラスメイトと一緒に。
などと述べるとまるで敦子が存在感一番のように感じるかも知れないが、正反対もいいところで彼女は一番目立たない。
この中で最も背が低く埋もれてしまっていることもあるが、なによりほとんど喋らないからだ。
眼鏡、しかも地味な黒縁、ということも要因の一つだろうか。
「そしたら、本田と山崎がぶつかりそうになってさあ」
「えー、仲悪いじゃんあいつら。お金の貸し借りで、親友から一気に憎み合う仲になったとか。で、どうなったの?」
「うん。同じ方向に避けようとして、右、左、右、左、避けて避けて、そのうちチッチッチッチッってお互い舌打ちしながら、で、おんなじタイミングで『真似すんなよ!』」
「友情を再認識するパターンか」
「うーん。でもね、そしたら結局、怒鳴り合い殴り合い蹴り合いの大バトルが始まった」
そういうと橋本香奈は他人事のように、ははと笑った。
いつも通りの、他愛のない雑談である。
いつも通りに、敦子以外の三人で会話を回している。
敦子は、いつもは聞くだけ聞いて相槌頷き担当なのだが、今日は聞いてすらいなかった。
本日発売のコミックス、「誰もいない学級」の内容が気になって仕方なかったから。
いつも目立たないのは喋らないからで、なぜ喋らないのかは、自分に合う話題がないからであるが、今日はいつもと違うそのような理由によって、いつもと同様に目立っていなかった。
目立ってはいないが、心の中ではそわそわせかせか、むずむずむずむず。
早く、放課後がきて欲しい。
早く、本屋に行きたい。
どう話が展開するのか、謎が解明するのか、気になって気になって仕方がない。
気になって仕方ないからこそ、早く知りたいからこそ、これまで雑誌連載の情報が入ってこないよう慎重に行動してきた。
辛い日々だったけど、でもそれも、あと少しだ。
四時限目、そして昼休み、五時限、六時限、そして本屋へ、「誰もいない学級」へ直行だ。
果たして、次元の神は誰なのか、門倉先生なのか、進一なのか、由貴なのか。
前巻の終わり方からして、たぶんそれが明かされるのだろう。
普通に考えて、やっぱり由貴かな。
表情の死んでるように見えるコマが多くなっていた彼女だけど、それが画風の変化ではなく、意図的なのだとしたら、たぶん。
しかし、漫画家に付き物である絵柄の自然な変化までをも読者への謎かけに利用してしまうとは、みたあおや先生の発想力にはほんと脱帽する。
読者を楽しませようといういたずら心で一杯なんだろうな。
漫画家と、声優。違いこそあれども、わたしにも同じように、ドキドキやワクワクをみんなに届けられるような、そんな人間になれるのだろうか。
なりたいな。
そんな爽やかな願望を胸に呟きながら、北校舎へと入り、廊下を歩いていると、不意にその目が驚きに見開かれた。
「あーーーーーーーーっ!」
絶叫していた。
「どうした、敦子!」
「日本脳炎かあ?」
「今日も背がちっちゃいぞお!」
香奈たちに囲まれ頭をぐりぐりやられる。
いたたっ!
ち、違う、日本脳炎ではない。
ついに、
ついに、わたしは……
発見したのだ。
遭遇したのだ。
遭遇っ、したのだあああ!
などと興奮気味モノローグを続ける敦子の視線の先にいるのは、
彼らであった。
ぶくぶく肥満したオカッパ頭の男子が二人、挟まれたようにガリガリ男子が一人。
「うわ、イシューズだ」
「最悪!」
「おえーっ」
香奈たちも彼らに気付いたようで、嫌悪感満面の渋い顔になっていた。苦虫を口の中ぎっちり詰め込まれたかのような。
そう、
敦子は久々に、イシューズさんたちと巡り会えたのである。
初めて見かけて以来の、二度目の出会いを果たしたのである。
そのことに敦子は感激、興奮していたのである。
イシューズとは、学校で有名らしい、アニメオタク三人組だ。
敦子が、アニメ仲間がいて羨ましいな、と思っていた三人組だ。
会えただけで感激するくらいなら、彼らのいる教室に行けばいつでも拝むことは出来ただろう。
それでは運命の遭遇にならないから自重していたのであるが、まさかこんな予期せぬタイミングで会えるとは。
まあ、運命の遭遇といっても、恋愛感情とかそういうものでは勿論なく、どちらかといえばレアアイテムゲットという程度の、流れ星を見たという程度の、茶柱が立ったという程度の、そんな感覚であったが。
それにしても、イシューズさんたち、今日はなんの話をしているのだろうか。
気になるなあ。
「ちょっとごめんっ、先に行ってて!」
彼らの背中から視線をそらすことなく、追うように早足で歩き出していた。
「えー、もう時間ないよお!」
須藤留美が大声で呼び止めるが、敦子は振り向かなかった。
聞こえてはいたが、一瞬でも彼らから視線を逸らしたら、もう二度と遭遇しないような気がして。だって彼らは、もしかしたら妖精さんかも知れないのだから。
大丈夫、どんな人たちなのか、どんなこと話しているのか、妖精じゃないのか、ちょっと見てみるだけだから。
もしも授業にちょっと遅れたとしても、増田先生だっていつも五分遅れてくるし。
そんなことよりもっ、
と、敦子は三人の背中を早足で追って、三メートルほどの距離にまで近付いた。
三人のうちの、ガリガリ男子が、
「トゲリンさあ、フラボノマジカとか担当した村井修栄氏のタッチ、あれをかなり参考にしたでしょ」
やった、アニメの話だ! って、まあ当たり前か。
村井修栄さん、わたしの好きなアニメーターだ。
ほのぼの系のキャラデザが得意なんだよ。
フラボノマジカ、好きだったなあ。
「やはり見抜かれていたでござるか。たまたま影響を受けつつあったので、むしろ開き直って、あえてぐっと近づけてみたでござる。以前よく参考にしていた、春風群司氏のタッチもひたすら繊細では……」
氏、とかいってるよ。
まあ、当たり前か。
ん、当たり前……かな?
まあいいや。
「『はにゅかみっ!』のキャラデザを担当するかも知れないって噂を聞いた時は、これは違う、観てはみたいけど、でも、って思ったけどなあ」
「好きだけど違う、ってね」
そうかなあ。
わたしはむしろ、春風さんがやるべきだったと、今でも思っている。
だって、「はにゅかみっ!」って原作が本来アニメ向きじゃないよ。なら春風さんの方が、微妙にマッチしたものが作れたかも知れない。かわりに、あそこまでの人気アニメにはならなかっただろうけど。だから是非とも、春風さんでOVA作って欲しいなあ。
「……は、ルクシュプリルのキャラデザの時だよね。で、そっちが受けたもんだから、『ももいろものみち』も第二部からキャラデザが変わった」
「いや、単に事務所の圧力と聞きましたぞ」
「古くさい絵柄が飽きられてて事務所内でもともと揉めていたのを、強行していただけ。圧力というなら、その、第一部の強行こそ圧力だったんだよ。案の定、不人気だったから、だから第二部から変わったんだよ。契約問題とか圧力じゃないよ」
わたしはそうは思わないぞ。
まったく飽きてないぞ。
国民の総意みたいに、でしょとか決め付けないで欲しいなあ。
圧力とかよく分からないけど、でも、飽きられたからでもないよ。
「さすが八王子、『ももいろものみち』のことだけは、トゲリンより詳しいな」
「関連記事が出てる雑誌、全部買っているからね」
「そうか、拙者の知らぬ、さような問題が制作現場にはあったのでござるな。しかし、第一期と第二期、変わらぬはエンディングの秀逸さでござるな」
うんうん、そうそう、そうなのでござる。
ほんと、いい歌なんだあ。
特に二期のはよか……
「特に二期のはよかったよね」
かぶったあ!
「編曲が最高でござるよ。ニンニン」
うお、本当にニンニンとかいってる!
香奈ちゃんのいってた通りだあ。
つ、次っ、次はっ、やぶさかでないとかっ、とかっ、いいそうっ!
「まあトゲリンと八王子のいう秀逸さは、曲の調べ、に関していうのであれば、おれも同意するにやぶさかではないが」
ほんとにいったああああ!
って、一人で興奮しちゃったよ。バカか、わたしは。
……しかし、やっぱりこの三人は目立つなあ。初めて見たきり全然出会わなかったけど、いざこうして遭遇してしまえば、本当に目立つ。
存在感は、あんまりなさそうなんだけど。日陰が似合いそうな感じで。わたしもだけど。
矛盾してるけど、そう思う。
こうしていつもいつも、熱く楽しそうに、アニメの話なんかしているんだなあ。
いいな。
混ざりたいなあ。
「『ふ、甘いな、なぜ気付かない? 神はすでに死んでいることに』ってとこだよね、確かそれ」
「その通りだが、しかし違うでござる、抑揚がまるで。『神はすでに死んでいることに』でござるよ」
「もっと似てない!」
いやいや、もっともなにも、二人とも抑揚まったくダメでしょ。
ああ、いいたい、わたしもその台詞、いってみたい。ゼフィル様のその台詞、いってみたいっ。
しかしこの人たち、よくここまで自分を開放できるよなあ。
わたしには、無理だ。
生徒行きかう学校の廊下で、ござるとかニンニンとかいいながら大声でアニメキャラの話をするだなんて、とても。
漫画やアニメの話なんて、周囲は誰も興味のない人ばかりというのもあるけど、そうでないとしても、つまりそういう仲間がいたとしても、さすがにここまでは出来ないな、わたし。
声優になりたい一心で、家では必死に練習している。それを家族は知っている。という、それにしたって、恥ずかしいから家族にはなるべく聞かれないようにしているくらいだというのに。
まあ、「アイドリ」を観る時だけは、つい家族みんながいる居間でハイテンションに手を振り回して大声で歌ってしまったりもしちゃいますけどお。
「抑揚といえば、ほのかちゃんのさあ」
出た!
敦子の小さな胸が、どん、と高鳴った。
例の、あれだ。
あの、たぶん自主制作の、たぶんアニメ、の話だ。もしかしたらゲームとか芝居とか他のなにかかも知れないけど。
でも、自主制作という言葉はよく聞くけれど、高校生にそんな技術なんかあるのかな。
漫画の同人誌ならそりゃ描けるだろうけど、それがアニメになるとハードルが一気に数千倍も跳ね上がりそうな気がする。それを作っちゃうだなんて、そんな技術があるのかな。
この人たちがというより、一介の高校生に出来るものなのかな。
仮に、確固たる技術力を持っているとしても、セルを何千枚カラーを何百本と買っていたら、お金だっていくらあっても足りないでしょう。
「うーん」
難しい顔で、小声を発する敦子。
現在でもアニメはセル画の裏を塗って動画作りをしている、と思い込んでいる敦子なのであった。
「あの掛け合いのところ、でござるか?」
「うん。絵そのものは、あのままでとりあえずは問題ないんだけど、抑揚というか、まあその元の台詞がさ、もっとしっくりくるものがあるような気がしてさあ」
「おれたちの声が酷かったせいで、掛け合い自体が最悪だったからな。だからこそ台詞をいじってみれば、というのは分からなくはないけど、でも、だからこそなにも考えが沸かないんだよなあ」
「掛け合い、だからね。だから、ぼくらどうこうではなく、反対に、ほのかちゃんの声がはっきり決まればいいんだよね」
こ、こ、声っ、声の話が出たあっ。
……ごくり。
6
山田定夫、トゲリン、八王子の三人は、北校舎一階の廊下を歩いている。
先ほどまで英語の授業を行なっていた視聴覚室から、南校舎にある自分たちの教室へと戻るところだ。
「……だよなあ。メグの声は、どうにもしっくりこなかったからなあ」
いついかなる時であろうとも、彼らが口にするのは、やはりアニメや漫画の話。
しかしいま、彼らの表情は実に真面目であった。
なんとなくのほんわか雑談ではなく、職人のような真剣な表情であった。
「もうさあ、決めちゃおうか。メグは使わない、人を探す方向で行くってまず決定しちゃおうか。ここで悩んでちゃ、進まない」
なんの話かというと、自主制作アニメの話である。
声をどうするかで制作が行き詰まっており、ついはぐらかすように一般アニメの話などをして盛り上がってしまうのだが、避けて通れない問題であるという認識は持っており、やがてこのように戻ってくる。
だが考えても論じてもまとまることなく、やがて現実逃避。
つまり一般アニメやゲームの話などを始める。
と、このところの彼らの言動パターンは、すっかりぐるぐる回ってしまっていた。
だからこそ八王子は、その状態から抜け出すべく即決を促したのであろう。
「拙者たちも、そう決めたいところであるが。……いや、人に演じてもらう、ということに関しては賛成なので、決定にはなんら問題ないのでござるが。ただ、そうなると必然ぶつかる壁が……」
「どういう人に、どう依頼をするか、とどのつまり、そこなんだよな」
と、定夫が言葉を続けた。
要するに、愛のない作品にしたくないのだ。
「女性声優の必要なキャラって、名のあるところだと、ほのか、香織、かるん、ないき、らせん、だよね」
「改めて列挙してみると、かなりバラエティに富んでいるでござるなあ」
「そうなんだよね。でもだからって、何人もの人に頼むなんて、現実的に無理だよね。そうなると必然的に……」
「演じ分けの出来る器用な一人に、依頼するしかない」
「器用で、なおかつ情熱のある人だな。それぞれのキャラに、しっかり魂を込めてくれる。ここ、絶対に譲れない」
「そうでござるな。我々の演技の酷さを棚にあげて、なんでござるが」
「プロでなくとも、卵でもいいから、そんな女性声優が、どこかにいないものかな。この世界、いや、出来ればこの学校にいたりなんかして、引き受けてくれたりしないかな」
願望を語る定夫。ここの女子生徒はみな自分たちに石を投げてくると思っているくせに。
まあ、だからこその願望である。
だが……
あり得ぬ夢を語ったことが、天へと届き神の奇跡を呼んだのか、
「はい、あたしやります!」
彼らは、神の声を聞いたのである。
天から雲間からではなく、すぐ背後から投げ掛けられた声に、定夫たちは、三人まったく同じタイミングでびっくん肩をすくませると、そろーーっと恐る恐る振り向いた。
すぐそばに立っていたのは、一人の女子生徒であった。
やや小柄な、痩せているとも太っているともいえない体型で、あどけないまん丸顔に黒縁眼鏡、おさげ髪で、ニキビとソバカスがちょっと目立つが、これといった特徴という特徴のない、すぐ記憶に溶けて忘れてしまいそうな、地味な外見の、女子生徒であった。
視線が合ったその瞬間、定夫は硬直していた。
まるで、蛇に睨まれたカエルのように。
これまでの人生で経験のない理解不能な状況に、すっかり混乱してしまっていたのである。
罵倒や嫌悪の言葉以外に、女子生徒が自分に声を掛けてくることなど、想像したこともなく、実際これまでただの一度たりともなかったから。
心臓が、どっどっ、どっどっ、と激しい鼓動を刻んでいた。
ごくり、
と、つばを飲んだ。
対する女子生徒の側も、なんだかはにかんだように顔を赤らめている。
仁王立ちのようにちょっと足を広げて立っているのも、どっしり構えているというよりは、そうしないと倒れてしまうのを踏ん張っているように見える。
「あ、あ……」
女子生徒の口から声が漏れる。
つい声を掛けてしまったものの、言葉続かないといった感じであろうか。
お互い、何故だかはあはあ息を切らせながら、しばしの間、見つめ合っていた。
沈黙の作り出す異様なムードに耐えられなくなったか、女子生徒は右手をゆっくり動かし、自分の胸にそっと手のひらを当てた。
「マ、マイネームイズ、あつこ」
なぜ英語なのかは分からないが、とにかく彼女はそう名乗ると、強張った笑みを顔に浮かべた。
「う……う」
後ずさる定夫たち。
と、突然くるり踵を返した。
「うわあ!」
三人は同時に悲鳴を上げると、どどんと背中を押されたかのように全速力で逃げ出したのである。
いまにも泣き出しそうな、それは情けなくみっともない、恐怖の形相で。
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