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霊感体質の若者を襲う恐怖

作者:南 秀憲
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霊感体質の若者を襲う恐怖

 今朝は、八時三十分から始まる一時限目に必修科目がある為、俺は七時過ぎの人いきれがムンムン漂いおまけに痒い耳すら掻けない満員電車の犠牲者の一人に、否が応でも甘んじざるを得なかった。
 やっと、最後尾の車両から吐き出されたJRのS駅で、H電車に乗り換えようとして、階段を
フラフラよろめき、数人に軽く当たりながら特急電車に何とか間にあった。最後尾の車両に乗っている人の多くは、Hの特急電車に乗り換えようとして慌てて階段を小走りで降りるのだ。
 日頃の運動不足が祟っているのかなぁ? 最近、スポーツはおろか散歩すらしていない。やっぱ、少し体を鍛えよう!
 
 案の定、JR以上の芋の子を洗うような混雑した車内で、子供の時に良くしたオシクラマンジュウを、ウンザリする程に何度も何度も繰り返さざるを得なかった。
 乗客が吐き出した水分で、微かにしか見えない窓外をぼんやり見ていた時、銀色に輝く草刈鎌を持ち、ボロボロに破れた服を身に纏い、翼を生やした死神を見たような気がした。
 目を瞬いた瞬間、それはもう既に視界から消え去っていた。
 俺の見間違いだろうか? それにしては、今でも脳裏にあのおぞましい姿は、明確に焼き付い
ている。誰かの悪戯だろうか? そんな事はあり得ない。電車は、時速百キロメートル以上のスピードが出ているのだから。俺の心に引っかかるが、何かの見間違いかもしれない。
 そうしておこう! 世の中、平穏無事が何よりで、心にストレスを溜めないのが極意だと何かの書にあった。
 その時、唐突にある小説の一部分が脳裏に浮かんだ。
 他の者の魂を捧げなければ、この俺が【死神】の犠牲になる。確か、ホラー小説にそう書いて
あった。その真偽はともかくとして、念の為にそれを実行して最悪の災厄を回避した方が賢明だ。
 そんな軽い気持ちで、窮屈な車内を他の乗客より頭の分だけ背が高い俺は、適当な奴を探して
周りを見回した。
 耳を気持ち良さそうに掻いている男がいるぞ! 俺がしたかったのに、のうのうとそれをして
やがる。チクショウ。あいつに決めた。【死神】さんよ! あいつに俺の代わりをしてやってくれ! お願いしまーす!
 半分、冗談のつもりだったが、その男はドサッという鈍くて嫌な音を発して倒れ込み、一瞬で
首と胴体が離れた。男女が発した鋭い悲鳴が、まるで小石を池に投げたように、急速な速さで、
周囲に広がった。
 首からは心臓の鼓動に合わせて、ドク、ドク、ドク、ドク……と血液が噴出している。血だまりが、うつぶせの男から徐々に広がっていく。顔半分はパックリと鎌で切られたのか、脳漿と切られた灰色の脳が、あたかも柔らかいきぬこし豆腐のように流れ出している。
 車内は、文字通り阿鼻叫喚が飛び交う地獄絵図だ。血も凍るような絶叫が、未だに車内に響き渡っている。
 乗客は、窓ガラスが割れんばかりの大声で喚きながら、我先に他の車両へと逃げようとしているが、何も知らない他の車両の人々が大勢詰めかけるので、思うに任せない。
 まるで木々の葉を震わせる木霊のような騒ぎだけが、益々大きく車内に反響し、嘔吐があちこちにぶちまけられた。つられて俺も吐きそうになったが、何とか堪えた。
 俺が負うべき些細な責任――本当は大きな責任に違いない――が、脳裏を過った。でも、俺の
命に代えられない! 可哀そうという感情よりも、助かったという安堵の方が優先して当たり前だ。誰でも自分自身がこの世で一番可愛いのだから! たとえ薄情な男だと思われてもいい。第一、誰も俺の所業だと判別できる筈はないからだ。ヘヘヘへ……。
 車掌が連絡したのだろう、N駅に着くと大勢の警官、刑事に囲まれ事情聴取を無理やりされ
た。焦点が定まらず一時的にフヌケのようになった乗客、腰が抜けて立てない乗客も大勢いた。勿論、駅前にはパトカー、救急車が犇めいている。
 ストレチャーに乗せられ病院に運ばれる乗客も多数いた。
 この事件が起こった事で、俺は、一時限目の必修科目を受講出来なかった。
 職務尋問とも事情聴取ともとれる、上から目線の警察の質問攻めから解放されたのは、十時過ぎだったので、駅で遅延証明書をもらい、いつもの店できつねうどんとおにぎりを二つ食べてから、普通電車に乗り換えてK駅で降りた。
 
 大学へ行く四台のバスは、相変わらずの寿司詰状態だ。
 それを横目で見ながら、俺は、入学以来そうして来たように徒歩で学校に向かう。
 途中に昼なお暗い公園があり、いつも、そこでおかっぱ頭で憂いと憎しみの混じり合った九歳位の女の子に出会う。季節に関係なく花柄の半袖のワンピースを着、墓石のように押し黙って、真っ赤な靴で石ころを蹴って遊んでいる。その子の肌はペスト患者のように黒い、否、闇のように漆黒である。そればかりか、目、鼻の穴、口は、墨汁を更に濃くしたように真っ黒だ。
 顔には悪魔めいた凄絶で邪悪な笑みが張り付き、周囲の空気を凍ったように冷たくさせ、負のオーラと生魚か卵が腐ったような耐えがたい臭気を、辺り一面に発散させている。
 その子を見て、体中の血液循環が一時的に悪くなり、悪寒が背筋を走った。
 この世に多くの執着を残して、成仏できずに流離う悪霊となった地縛霊に違いない。
 ブランコや滑り台があるので、偶に近所の子供も遊んでいるが、誰一人としてそのおぞましい子にまるで気づかないようだ。
 人間は本来、霊感はあるが、母のお腹という神聖な所から、汚れだらけのこの世に生まれることで、徐々にパワーが落ちる。稀に、その力が残っている俺のような人間を「霊感が強い」と言うのだ。だから、子供なら見えたり感じたりしてもおかしくはない筈なのに……。霊感に恵まれていない子供が、この辺りでは多いのだろうか? 幽霊が出ると言う噂が近所で広まっていれば、誰も怖がってこの公園で遊ばないだろう。
 今日も俺はその子に出会ったが、いつものように出来るだけ目を会わせないように努力するものの、思わず目が釘付けになってしまう。
 前後の学生達は、何も気づかず歩を進めている。とは言え、明らかにその子を霊として見える者もいるが、そ知らぬ顔をしているのだ。彼等の顔には、おぞましい怪異を周囲に発散させている霊を無視しようという明確な意思が、浮かんでいるのだから……。
 霊が見えるのも困りものだ。俺と霊的周波数が一致している霊のみ、実際に肉眼で見えるか、頭の中に映像化されるのだが……。もしも、常に霊の存在を感じていれば、精神に異常を来たし、今頃は、皮の拘束服で自由を奪われ、劣悪な待遇の【精神病院】という名の【監獄の囚人】になっていただろう。
 なだらかで湾曲した薄暗い坂を登りつめる辺りで、いつもの老人の霊に遭遇する。彼は、長く伸ばした白い髭をしごきながら、突然変異で生まれた孟宗竹で,下部の節の間が交互に膨れて亀甲状になっている仙人が愛用していそうな杖を、体と一直線にして何もない空を指して喚いている。
 「AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA……」
 空気を引き裂く雷鳴よりも大きい声なので、思わず両手で耳を覆った。
 ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクが千八百九十年代終わりから千九百八十年代初めに描いた絵画『叫び』の男そのものだ。極度にデフォルメされた顔は、まるで茄子のように歪んでいる。
彼の周辺だけ、濃い色あいの背景の空すらも歪んでいる。
 確か、前回は、
 「ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ……」
 と言っていた。老人は余程英語に心酔しているのだろう。
 彼は、一度も
 「ああああああああああああああああああああああああああ……」
 と、日本語で叫ばないからだ。
 良い霊達ばかりなのだろう、俺に一切危害を加えた事は、これまで一度もなかった。
 どんなに足掻いても、その場所から移動出来ない自縛霊達だ――俺には、黄泉の国へ送れる技量もないし、それが可能な苦行もしていないし、敢えてする気も毛頭ない。一応、同情はするが……。
 同じ霊を見る事になるのに、それを結構楽しんでいる部分が、俺の心の中に大きな比重を占めているのかもしれない。
 何人かの学生が、俺の様子を見て、
「クスクスクスクスクス……」
 と笑うか、まるで精神異常者に関わりたくないと言うように、そそくさと俺から走って離れて行く。
 毎度こうだから、今では、俺は気にも留めなくなった。
 
 霊がいる坂を登りきり、明るい日差しが眩しい桜並木の道を一直線に進む。
 四月には桜のトンネルになるが、今は五月初旬なので、目にも鮮やかな緑の葉が木々を彩っている。その下を、俺は今まで味わった緊張感と恐れから解き放たれ、胸を張って大学へ向かう。もう霊と遭遇しないと知っているからだ。例え、同じ道を帰りに通っても、全身の筋肉という筋肉が強張り、血液という血液が凍てつくような恐怖に満ちたあの霊達二人には、もう会わないのだ。

 歴史あると言えば良い耳触りだが、老朽化し煤と埃が浸み込んだ経済学部の建物の中にある事務所に、先ほどの遅延証明書を提出し、薄暗い階段を下りて地下にある喫茶店のドアーを開けた。
 ホール担当のおばちゃんに不味いコーヒーを注文し、モウモウと立ち上る紫煙に目を細めながら、友達を探した。知り合いの数人に手を挙げ、簡単に挨拶を交わした。
 久しく話していない木田を見つけたからだ。二百円のコーヒーを半分程残し、いつものようにハードカバーの哲学書に夢中になっている彼の前の椅子に、黒のダンヒルのバッグを横に置き座った。下駄顔には不釣り合いなデカイ丸い黒縁のメガネを掛けた木田は、まだ俺に気付いていない。
 大きな咳払いをすると、やっと気付き、不思議そうな顔で俺を見た。
 「俺が、妖怪にでも見えるのかい? アハハハハ。ところで、何を読んでいるんだい? 深刻な顔をして。『実存主義』関係の本なのか?」
 一つ大欠伸をしてから、木田は真面目な顔をして語り出した。
 「最近、超心理学に没頭しているよ。研究対象は、テレパシー、予知、透視などが含まれるESP(extra-sensory perception) とサイコキネシス(念力)だ。
 加えて、臨死体験や体外離脱、前世の記憶、心霊現象をも研究している」
 「へーえ。哲学にドップリ浸かっていたのになぁー。なにか心境の変化でもあったのかい? それとも、何かおぞましい体験でもしたのかい? まぁー人間は、常に変化を求める生き物だからなぁー」
 俺の問いに答える代りに、木田は気難しい顔を崩さず、外に出ようと誘った。
 コーヒーも半分しか口にしていないし、ダンヒルのたばこに、自慢の金色のカルチェで火をつけたばかりだったが、強い意志に従わざるを得ない雰囲気に押されて、彼の後に付いて行った。
 
 さほど広くない泥で濁った池の前にある、半分朽ちたペンキの剥げかかったベンチに腰を下ろし、木田の言葉を待っているが、二十分程押し黙ったままだ。俺も彼にならい、地べたを一列に行進している、体長二~三ミリで、胸部から腹柄節にかけては赤褐色をしている赤蟻を、ぼんやりと見ていた。
 やっと、木田が重たい口を開いた。
 「水野、君は霊が見えるんだろう? 是非とも協力して欲しい思考実験があるんだ。頼む!」
木田の顔には、何故か、はにかみ、自嘲と鬼気が宿っている。彼のこんな表情は、俺の記憶にはなかった。
 「あぁー。いいよ。その前に、時間は早いけども、腹ごしらえしないか? 学食でおにぎりを買ってくるよ。具はなんでもいいだろう?」
 パートとして精一杯働いている馴染みのオバチャンに、無理を言って本来のメニューにないおにぎりを七つ作ってもらった。一万円札を手渡すと、いつもの様にバイバイをして足早に去った。
 きっぷのいい『江戸っ子』気分を満喫したかったのだ。
 
 ところが、先程の場所に戻って周囲を見渡しても、木田の姿は何処にも見当たらなかった。
 「変だなぁー。俺に思考実験とやらを頼んでいたのに……。トイレでも行ったのかな? 少し待つか」
 俺は、不満に少し苛立って呟いた。半時間ほどイライラしながら待っていたが、薄汚い白鳥にお握りを少しだけお裾分けして、全部平らげてしまった。それにしても、白鳥の食欲には目を見張った。確か、オジサンが定期的に餌場に好物を補充しているのに……。
 汚れた水と一緒に、ピチャピチャと嫌悪感を惹起させる音を立てて、おにぎりを飲み込んでいる。一緒に飲み込んだ水はどう処理するのだろう? 家に帰ってから調べる価値は充分ありそうだ。
 その日は、四時限目の俺が専攻している『経済学説史』に出席し、寄り道をせず一時間半ほどかけて、真っ直ぐ明石市の自宅へ帰った。
 
 翌日の日経新聞を読んで、心臓が口から飛び出るほど驚愕し、同時に軽い眩暈に襲われたのだ。
 木田は、日が変わろうとする十一時五十九分、大阪市福島区の自宅マンションから、飛び降り自殺をしていた。
 その瞬間、錐で頭頂部をえぐられたような熾烈な痛みを憶え、木田の飛び降りた数分後の映像が、判然と脳裏に再現された。
 それは、口に出すのも憚れるような酷い死に様だった。
 駐車場の車に最初に激突したらしく、後頭部が砕け、顔面は腸が飛び出した胴体にめり込み、手足は壊れた人形のようにバラバラの方向を向いている。
 白の車のボンネトに飛び散った大腸が、未だに蠕動運動をしており、血液と脳漿が体から噴き出して辺り一面に広がっている。
 車と車の狭い間に、土気色になった遺体の真っ赤な両眼が、恨めしそうに宙を睨んでいる。
 ドスンと大きな音がしたにも関わらず、どの部屋の明かりも消えたままだ。本人が生活していたマンションも同じだ。誰もまだ気付いていないようだ。
俺には、こんな経験は初めてだった。
木田の強い想念が俺に見せた数分,否、数秒の映像だろう。
翌日は友引のため、二日後の夜七時に、お通夜が執り行われることになった。酷く嫌な予感に襲
われた俺は躊躇していたが、日頃から親しく付き合っている友人の誘いを断りきれず、六時半頃、十九名と共にマンションの真新しい集会所に行った。
 もう既に、二十~三十名程列をなして、ご焼香の順番を待っている。やっと、俺達が、木田の両親にお悔やみを言い、ご焼香をさせて頂いて、値の張りそうな棺桶に収まった木田に近づいたその時。
 俺は、アイスピックで脳天を何度も突き刺されるような激甚な痛みに、気を失いそうになった。友達は、俺が倒れないように支えてくれたようだ。
 「顔色が青白いぞ、大丈夫か、水野。何だったら、横になって休ませてもらうように頼もうか?」
 「あぁー、有難う。一瞬、眩暈に襲われただけで、今は何ともないよ。心配かけて悪かったなぁー」
「でもまだ、顔色が……」
 皆が、親身になって心配してくれる事に感謝する一方、『遠くの親戚より近くの他人』だなぁ、と呑気な思いが、俺の脳裏を素早く過った。
 
 突然、突き刺さるような粘っこい視線を背に感じ、上を見上げると、生前と変わらない木田が、天井近くでフラフラと揺れながら、俺の顔を見て、にっこりと微笑んでいる。
 幽体離脱は、生きている人間の肉体から霊魂が浮遊する現象だ。だのに、彼は【正真正銘の死者】である。彼が幽体離脱するのはあり得ない話だ。俺が、読んだ超心理学の書が正しいとすれば……。
彼は、俺の脳に直接語りかけて来た。
「水野、君は僕以外にも霊が見えるんだろう? 前も言ったように、是非とも協力して欲しい思考実験があるんだ。頼む……」
 と言うなり、ぼんやり霞みがかったように、次第に消えていく。もう、輪郭さえ霞んでいる。本
人は、まだ話の続きをしょうとしていたのにも関わらず。
 彼は、具体的に何の思考実験を望んでいたのだろう? 今更、そんな事を忖度してもどうしょうもない。彼の冥福を祈るのみだ。
 どうしても俺に頼みたいのなら、夢にでも出現するだろう! 
 ご両親に、四十九日にはお邪魔する旨を伝えると、とても喜んで下さった。何度も泊まりに彼の家に行き、手厚い歓待を受けたからだ。
 再度ご挨拶をし、途中で友達と別れ、寄り道をせずに明石の家に帰り、母に頼んで大量の塩で清めてもらった。

 その夜は、二階のベッドに潜り込むと、朝まで夢すら見ずにぐっすり眠った。
 翌日は、母の朝食作りの物音で目が覚めたが、不快ではなかった。素早く着替えを済ませ、一階
の居間に降りて行き、難しい顔で新聞を読んでいる父の横に静かに座った。
 今は、大証に株を公開している商社の社長をこなしているが、その経歴は変わっている。子供の時には神童と呼ばれ、皆の期待に違わず、日本の最高学府で博士課程を終了後、アメリカのハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、プリンストン研究所等で研究に励んでいた。
 勿論、博士号を持っているが、その研究対象は、物理学の一分野で、物質の最も基本的な構成要素(素粒子)と、その運動法則を研究対象とする素粒子物理学だ。会社の経営とは、全く関係がないように思える。
 でも、俺はそんな父を心から尊敬している。教養と優しさを身に付けており、かてて加えてユ
ーモアのセンスにも満ち溢れ、俺は多くの事柄を学んだし、良き相談相手でもある。
 一人っ子の俺には、父の背中は、とても頼もしく見えた。

 翌日もまた、一時限目から、必修科目の英書講読の授業が待っていたので、コーヒーとトーストを慌ただしく流し込んで、JR明石駅行きのバスに飛び乗った。何時ものようにJRのS駅で降りH電鉄のホームで特急電車を待っていた。
 ちょうど通勤時間にあったっていたので、ホームには沢山の人で溢れていた。
 (コリャ立っていても文庫本すらゆっくり読めない。しかし、日本も国土の割に人が多いなぁー)
 と、ボンヤリ考えていた。
 この時、奇怪な出来事が起こった。
 最後部車両が止まる俺の列の先頭に、こんな時間には珍しいイチャツク二十代と思われる男女が、互いの顔をトロンとした目つきで見つめ合いながら、談笑している。次の瞬間、先頭車両が目の前に来ているのに、美形の女性は彼氏を笑顔で見つめながら、頭部から数メートル下にある線路に飛び込んだ。それを見ていた周りの人々は、彼女を助けようとしたが、間に合わず、鈍い音とともに先頭車両の運転席の下側にはねられたようだ。肉片と血液が宙に舞った。
 ホームにいた数人の駅員が、慌てて線路に降りて十数分もの間その女性を探した。ところが、その女性どころか、履いていたハイヒール、バッグ、衣装等も見つけられなかった。
 更に、肉片と血液の痕跡は雲散霧消しており、連れの男性は、いつの間にか煙のように消失していたのだった。
 これを目撃していた、駅員、乗客の全員がポカーンとあっけにとられた表情をしていた。
 駅員が呼んだのであろう、数名の警察署員が来て目撃者に事情を聴いていたが、到底理解出来ないような顔をして早々に帰って行った。
 しかしながら、これらの一部始終を見ていた俺は、激甚な恐怖が胸の奥底から湧いてきたのだ――地獄に落ちることが出来ない悪霊が、我々に映像として見せた禍々しい怪異だ、と思えたからだ。
 気分がすぐれないので、この日は大学に行かず家の近くにあるゲーセンとパチンコ店で、夜遅くまで過ごした。

 次の日の朝十時頃、いつものようにH電車の特急電車に乗り、空いた社内で純文学の文庫本を五分程熱心に読んでいた時だった。
 奴が現れたのだ。
 またかと思って、正直言ってウンザリした。
 電車に乗っている俺を待っていたのは、一昨日の【死神】野郎だろう。
 今日は、電車の座席に大きな態度で座っていて、余りパットしない女性と一体化しており、ボロボロに破れシミだらけの服を身に纏って、薄汚い翼を生やし、ミイラ化した左手を上下に何度も振っている。まるで俺を呼んでいるような仕草をしているのだ。
当然、俺は知らん顔をしていたが、いやに俺に懐いた動きを見せる。上の歯と下の歯を合わせて
ガタガタと大きな音を車内に響かせ、俺の注意を引こうと躍起になっているようだ。
そんな姿を目の当たりにした俺は、周りの乗客の反応を気にせず、思わず大声をあげ笑ってしま
った。それを見た【死神】も骨だらけの腹辺りを激しく叩き、キャキャ……と、笑っている。
とは言え、彼は、同時に仕事もこなしているのだ。女性の心臓から魂を取り出し、薄汚い皮の袋
にさり気なく押し込み任務を達成した満足の笑顔をした。
 彼の一連の行動は、俺にしか見えないようだ。
 乗客の誰一人として、彼に関心を示しているような素振りを全く見せないからだ。
 一昨日のような騒ぎは、もう御免だ。後々、煩わしい。それでなくとも、俺は、めんどくさがりやだ。そんな俺の気持ちを彼は察したのか、女性は急には死ななかった。多分、数時間後に黄泉の国へ旅立つのだろう。そういう意味で、【死神】に深く感謝した。
 (でも待てよ! 国内の年間死亡者数は、約百三十万人で、戦後統計をとり始めた千九百四十七以降最多となることが、厚生労働省が、公表した人口動態の年間推計で明らかだ。世界レベルだと、スゲー数になる。幾ら一人の死神が頑張っても、とても手に負えない数だ。だとすると、かなりの数の死神が活躍している。
 つまり、昨日の死神と、今日のは別人だろう。それで、殺す方法が違うんだ。
 死神にも、それぞれのやり方、つまり、個性があるんだ。
 彼等は、死を迎える予定の人物が悪霊化するのを防ぎ、冥府へ連れて行く役がある。その社会も、人間界と同様、ノルマもあるのだろうか? 年に一回かどうか分からないが、成績優秀死神に神様が直々に表彰状と副賞を手渡すのだろうか? 副賞は、一体なんだろう? 単なる俺の空想かも知れないが、案外、「当たらずとも遠からじ」だったりして。
 いずれにせよ、俺には死神が見えるのだ。「百聞は一見にしかず」の英訳は「Seeing is Bilieving」であり、直訳すれば、「見る事は、信じる事である」になり、俺に見える者は、例え死神であっても実在するのだ。成程、これで納得したぞ! )
 そう思うと、俺は妙に安心した。今後も、種々の変わった死神に会えるのにワクワクした。
 
 今日は、いつもとは違う道を通って大学に行こう、と決めた。
 何も、変な霊に会いたくないからじゃない。むしろ、俺には、楽しみの一つだ。
 駅から真直ぐに行くと、道が左右に分かれる。
 いつも、左の道路を歩いていた。この道を歩いて行くのが、近いと受験の時に高校の担任から聞かされていたからだが、今後も同じ道を行くのは、どうもノウがないように思える。
 二回生になった記念に右の道を行こう、と決めると何だかウキウキしてきた。右の道は、かなり急な坂で、そこを登り切ると平坦な道に出た。ふうふうと喘ぎ、なかなか正常な息に戻らない。この坂は、ただ一軒の家の為だけにあるようだ。つまり、大きな屋敷があるので、道は左右に分かれている。
 見る人を圧倒させるような立派な屋敷だ。俺の左側に、その豪邸が静かに佇んでいる。何部屋あるのだろう。先ず、第一に頭に浮かんだのは、掃除が大変だという、実に小市民的な考えだ。広く長い玄関の突き当りには、大きな二枚のガラス戸がある。
 俺が、何気なくガラス戸を見た時だ!
 図体が四メートル近くもある大きな人、否、怨霊の恨めしそうな恐ろしい横顔が見えた。
 髪の毛はザンバラ、半分ミイラ化した顔、目のない眼窩からは強烈な怨念が周囲に漂っている。余程、この屋敷の主人か、この屋敷に住んでいる誰かに激甚な恨みを持つ自縛霊だろう。
 俺は、ガタガタと震える足を何とか動かして、離れるのに成功したのだが、背中に無数の氷柱を指し込まれているかのように、全身から冷や汗が吹き出して来た。下着を絞れば、多分、小さな湖さえ出来たに違いないだろう。
 俺は、急いで大学に行こうとしたが、何かの力が反対方向へ引っ張ろうとしているのを、肩に
感じたので
「やめてくれー! 俺には、何も恨まれる筋合いはないぞ! だから、離せ―! この野郎!」と、周囲の空気を切り裂かんばかりの大声で叫んだ。
 振り向こうとした瞬間、護身用のスタンガンに電流を通したような強烈な電流が、肩から全身
に流れ、俺の体は、雷に打たれたように大きく震えた。TVでよくやっている実験用マネキンさ
ながらだ。思わず、俺は、下着をたくしあげ、臍があるのを確認してホーと安堵のため息をついた。
だが、安心したのも束の間、次の攻撃が始まった。俺の頭を大きな口でかじろうとしたのだ。
 凄まじい恐怖を経験した為に胃がキリキリと痛んだ。そればかりか、猛烈な吐き気に襲われた。
俺は、一心不乱に
 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
 と、仏様を強くイメージして心の中で拝んだ。すると、呪いが解けたのか、嘘のように悪霊は雲
散霧消した。
 「ざま―見ろ! へん。あほー! 」
 俺は、悪態をついてやった。
 でも、悪霊の姿は充分見ていなかった。まあ、今度、じっくりと見物してやろう。
 スマホを見ると授業開始まで後十分しかないので、早足で大学に向った。

 英書講読は、俺の最も好きな科目の一つなので、真面目に授業を受けた。
 今日は、ケインズの講義だった。『雇用・利子および貨幣の一般理論』の一部であるが、彼は経済学者としては、俺の好みだ。その理由は、彼が、確率を、数学でなく論理学の一分野として捉える論理確率主義を主張し、確率や不確実性に対し、哲学的問題に考えを広めているからだ。
 ちょっとは、俺だって経済学の勉強には真面目に取り組む事もある。
 自慢じゃないが、いや、自慢になるが、幼い頃からIQは抜群に高く、小・中校と常に学年で
一番だったが、高校一年の終わる頃から、複数の女性と付き合い、学業をほったらかしにして、女
性に対する腕を上げたのだが、それに反比例して成績は急降下した。勉学に励んでいれば、東大に
楽に入れたのに……。高校一年までは、担任の先生も太鼓判を押していたが。
 まあ、過去を幾ら振り返っても、もうその時に戻れないから、くよくよしないで、前を向き物事
の明るい面を見るように心掛けている。
 俺は、上杉 鷹山(うえすぎ ようざん) を尊敬している。彼は、江戸時代中期の大名、出羽国
米沢藩の第九代藩主で、米沢藩再生のきっかけを作った名君だ。
 彼の名言、『為せば成る、為 さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』を、俺のモッ
トーにしている。こう言うと、如何にも聖人君子のようだが、人は、自分に欠けているモノを求め
生きるんだ、と俺は思う。だから、俺は、決して聖人君子ではない、だだ、そのような人物を人
生の目標にしているのは、紛れもない真実だ。
 まだまだ、生意気な小僧だが……。

英書講読が終わり、二時限目の「東洋史」の授業を受ける事にし、メッチャでかい教室の一番
後ろの席に座った。一般教養科目だから点呼もなく、教授が黄土色に日焼けするほど何年も使って
いるノートを、棒読みするのを聴いているだけの退屈極まる講義だ。
 だから、睡眠不足を補おうとこの教室に来た。寝る気満々だった。
 ところが、教授が入って来る前に、俺を身つけた山口 佳代≪やまぐち かよ≫が、横の席
に移動してきた。俺と話が合うからだろう。いや、それ以上の感情を俺に抱いている。俺に会う
と、何かと理由をつけて長い時間話そうとしたり、学外の洒落た喫茶店に誘ったりし、如何にも、
恋人同士であるかのような振る舞いをしたがるからだ。
彼女は、大きな黒い瞳が印象的で、背中まで伸ばした黒髪を先だけ軽くウエーブをかけている。
どちらかと言えば、美人の部類に入るだろう。
 だだ、大きな欠点があるが、本人は、長所だと思っているから極めて厄介だ。
 それは、メチャクチャおしゃべり好きな事だ。多くの情報を人に与えているから、自分では、
とても素晴らしい能力に恵まれている、と勘違いしている世界の住人だ。
彼女には、守護霊が見えるらしい。俺の右後方には、江戸時代に活躍した庄屋のオヤジがいる
らしい。 
 ただ、懇意にならなければ、その人の守護霊を見るのは不可能らしい。
 更に、自分の守護霊は分からないと言って、彼女はいつも嘆いていた。
 そんな山口が、嬉しそうな顔をして俺に話しかけて来た。いつものように、霊に関する話だろう
と思った。やはりそうだった。
 二人とも、幸運な事か、残念な事か、絶えず霊が見える訳ではない。
 もしも、大勢いる霊が悉く目に入れば、気が狂う程疲れるという意味で、幸運だ。でも、残念な
がら、常に霊が見えないという事実は、誰かのようにTVに出演出来るスピリチュアルカウンセラ
ーになれないのだ。
 山口は、一昨日の昼、ため池で奇妙な霊を見た話を俺にしてくれた。彼女の家は、ド田舎にあるから、ため池があるのは不思議でもなんでもない。
 「あたし、その日は気分が重くって大学をサボったの。昼頃まで寝ていたので家族は誰も居ず、
一人寂しく居間でコーヒーとクロワッサンで軽い食事をしたの。退屈だったので、その日が仕事休
みのリサに、若葉を見ながら散歩でもしょうと誘ったの。同い年だから、話も合うし、幼馴染でも
あったのよ。昔よく土手に登って遊んだため池を見つけた。
 少し暑かったので、そこに登って涼んだ。僅かな涼風が、髪の毛をすいて行くの。とても、気分が良かった。そこまでよ、清々しい気分でいたのは。
 池の少しだけ沖に、こちらに背を向けたグレイっぽい背広を着た男の人が、釣りをしているよう
に見えたの。でも、何だか様子がおかしいの。釣りをするのに、背広姿だなんて。ほぼ中天の太陽の光が、池の細かなさざなみにキラキラ輝いているの。彼の姿は、半分程透き通って見えている。
嫌な胸騒ぎが、私を襲ったの。きっと、彼はこの世の人じゃないわ。私は、勇気を奮い立たせて、
彼に声をかけた。
 『フナを狙っているの? こんな熱い昼間に釣れましたか?』
 リサを見ると、彼女は、歯の根も合わないほどブルブルと震えているの。ハハーン、彼女にも見
えているな、と思った。そこで、私は、転がっている石ころを掴んで、彼に向かい力一杯何度も何
度も投げてやったわ。でも、悉く石は彼を素通りした。
 次の瞬間、私は大声で叫んでいた。
 『あんたは、既に死んでいるんでしょう! 多分、農薬を飲んでここで自殺したんでしょう。こんな汚い池に居ずにさっさとあの世へ行きなさいよ! 自縛霊なんて、格好悪いだけ。あたしが、戒を授けてあげようか?』
 戒を授けるなんて、嘘パチよ。本当は、そこまで修行してないの。でも、そうでも言わなきゃこ
こから消えないと思ったの。
 そう叫んだ途端、今まで晴れていた空はにわかに漆黒の雲で覆われ、彼が振り向いたの。
 貴方は、多分、知っているよね。小泉八雲の『怪談』の中の『むじな』の話。
 江戸赤坂の寂しい道紀伊国坂で、ある夜、商人が通ると、女が泣いているので、声をかけると、
振り向いた女の顔には、目も鼻も口もない。商人は夢中で逃げ、屋台の蕎麦屋に駆け込むと、蕎
麦屋は後ろ姿のままで
 『どうしましたか?』
と商人に尋ねると蕎麦屋は
 『こんな顔ですかい』
 と、商人の方へ振り向いた顔は、【のっぺらぼう】なの。
 でも、あたしが見た彼には、【のっぺらぼう】どころか、顔そのものがなかったの。肩まで伸ばした髪の毛だけが風に靡いていたわ。邪悪なオーラが、私達を包んだと思ったら、彼は、両手を合わせ、オレンジ色の燃えてるような玉を私達に向かって飛ばした。二人は上手くそれをよけると、土手の雑草を燃やし、その炎と煙が私達を襲ってきた。二人は、必死で逃げた。でも、服に火が付いたので、慌てて彼のいるため池に飛び込まざるを得なかった。だって、火傷しちゃうもん。
 幸い、浅かったから溺れはしなかたけど、水が滴る顔を、彼に向けてよーく見ると……。
 彼は、ドロドロに溶けだしたの。今までなかった目玉が、腐った卵のように溶け落ちながら、こちらに凄い怨念の嵐を吹きつけたの。目が、嵐を私達に凄まじい勢いで送るのも変だけど、本当なの。彼の体と衣服は、一瞬にしてため池に沈んだ。泡をブクブク出しながら、鼻もひん曲がるような臭い匂いを発散させ消え失せたの。
 この事は、内緒にしようと二人で決めた。だって、この噂が広がれば、怖がって誰も田畑の面倒をみなくなるわ。そうなると、大変な事になるからよ」
 山口は、機関銃のように早口で捲し立てた。ゼイゼイと喘ぎながら……。
 彼女の小さくて早口で話す言葉を、一言も漏らさないよう全神経を耳に集中していたので、俺は、ドォーと疲れを感じ、全身に疲労物質が貯まったようだ。
 その講義は、いつの間にか終わっていて、ぞろぞろと学生が出口に殺到している光景を、俺は、ぼんやり見ていた。彼女は心配そうに顔をし、俺を覗き込んでいる。
「君の話で、頭がクラクラしているだけだよ。もう、だいぶん良くなって来た。大丈夫。心配しなくても。次の講義はあるの? じゃぁ、外の喫茶店へ行こう」
 そう誘うと、ニコニコとして付いて来た。
 喫茶店で、お絞りでごしごしと音がする程顔を拭いたお陰で、全身に活力を取り戻せたようだ。彼女は、俺が元気づいたのを見てパァ―と明るい笑顔になった。
 俺は、山口に、屋敷で出会った昨日の得体の知れない、おぞましい、怨恨に満ちた自縛霊らしき怪物の話を、事細かく話して聞かせた。
 彼女は、俺の一言、一言に頷きながら、口を挟まず静かに聞いていた。
 既に、彼女には俺が毎日出会う霊――おかっぱ頭で憂いと憎しみの混じり合った、大きな漆黒の眼をした九歳位の女の子の自縛霊や、彼の周辺だけ濃い色あいの背景すらも歪んでいる茄のような顔で白い髭を蓄え、孟宗竹と体を一直線にして、アルファベットを絶叫する理解不能な爺さんの話はしていた。
 彼女とは、そんな仲でもある。俺にとっては気の置けない女性だ。
 そんな山口が、突然、あの世に旅立ったのを聞いたのは、死後五日も経った日だった。

 須磨にあるお墓目指し、兵庫県南部の加古川市と明石市に挟まれた稲見町の自宅から、祖母、両親、妹の家族四人を黄色のビートルに乗せて、山陽自動車道三木小野インターチェンジを入ってすぐに事故に遭ったらしい。全員が死亡した。
 ここ四~五日、全然会わないなぁ、と思っていたが、まさか死亡していたとは……。
近しい人に起こる事は予見できないから、山口も俺とは親密な関係――恋愛関係にあったのかも
しれない。高校の時に成績が下がったのは、交際していた女性のせいにしていたのだ。あくまで、俺の責任として認めず、彼女達に責任転嫁して、自分を正当化していたのをこの時ハッキリと知らされた。皆に、心底申し訳なかったと、土下座しても良いくらいの迷惑を押し付けていた事を、各人一人一人謝りたい。
 山口の死は、体の大部分にぽっかりと大きな穴が開けられたように、一週間位、俺は何も手につかなかった。それほどまでに、彼女の存在が俺の体全体の大部分を占有していたのだ。
 もっともっと優しくしてやるべきだったと、後悔したがもう遅い。
 
 彼女の死を知らせてくれたのは、近くの女子大に通う従妹の梶 ユミだった。詳しい話をするというので、二日後の二時に、阪急N駅の南ある喫茶店で会う約束をした。でも、何故か山口に悪いような気がして、良心に少し痛みが走った。と言うのも、同年代の女性と密会する気がして、山口に後ろめたい気がしたからだ。
 ユミを好きになるような予感、俺には避けがたい未来の事実になる予感が、脳裏を掠った。

 山口は、怨霊となって俺を苦しめ続けるのだろうか?
 その疑問は、毎夜見る夢となって現実になってしまった。
 俺が眠っていると、山口は、般若のようにグロテスクに変化した形相で天井に現れ、その姿を見て、肌が粟立つような恐怖で全身震える。戒を授け成仏させるための葬儀もしたにも拘らず、行くべき所に行けていない。つまり、怨霊と化しているのだ。
 死に装束は茶色に変色し、しかも、ボロボロだ。
 凄まじい恐怖に胃が痛み強烈な吐き気がしてくる。
 その顔は、不愉快この上なく醜く歪み、眼窩から垂れ下がった二つの目は赤くただれ、真っ赤な粘液が糸を引いて滴る三つに裂けた青黒い舌を、口から出入りさせている。
 俺の顔に腐りかけた上半身の細かく千切れた肉片が落ち、猛烈な悪臭を放つ。所々白っぽい肋骨も見える。
 俺は金縛りにあい、身動き出来ず悲鳴すら出せない状態で一時間ほど恐怖に耐えるが、暗い淵に引きずり込まれ気を失ってしまうのだ。
 そんな悪夢を見て徐々に生気を失い、痩せていくのを不審に思った父は、俺に事細かに事情を
聞き、先祖の墓を守って頂いている浄土真宗の住職に相談してくれた。その結果、山口の俺に対する執着心と嫉妬心が相当強かったのだろう、四度もお祓いを受けた。
 お祓い(加持祈祷)は、本来は神道の祭祀で、仏教には元々祈祷の考え方がなかったが、神仏習合が進んだ結果、神職・僧侶共にお祓いをする者がいる。

 有り難い事に、ここ数週間は山口の怨霊に悩まされなくなった。

 しかしながら、お祓いの効果が何時まで続くのであろうか?
 悲しいかな、それは誰にも分からない……。


                               ―完―
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 













 
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