儚き想い、されど永遠の想い
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272部分:第二十話 誰にも言えないその七
第二十話 誰にも言えないその七
「では今度は」
「二人で、ですね」
「黒パンを食べましょう」
「黒いパンも」
どうなのか。真理はここでは夫の話に合わせた。
そのうえでだ。こう言ったのだった。
「美味しいものですね」
「そうですね。白いパンに慣れていますが」
「黒いパンもまた」
「パンも一つではないですから」
日本人、それも当時の日本人があまり知らないことをだ。彼は話した。
「様々なパンがあります」
「そうしてその様々なパンをですね」
「これから二人で食べていきましょう」
「はい、それでは」
こうした話をしたのだった。それからだ。
真理は暫く咳をすることも吐血もしなかった。しかしだ。
不安に覆われてだ。時折だった。
婆やにだ。こんなことを尋ねたりしたのである。
「噂で聞いたのですが」
「何でしょうか」
「樋口一葉ですが」
明治中頃の女流作家だ。たけくらべやにごりえが有名である。
「あの人は若くして亡くなっていますね」
「惜しいことに。あの人も」
「確か」
「労咳です」
またしてもだ。この病のことだった。どうしても気になり話に出してしまうのだ。
「その病で」
「そうでしたね。あの人も」
「まだ二十七でした」
婆やは無念そうに話す。
「若いのに」
「二十七ですか」
「はい、本当に若くして」
世を去ったというのだ。労咳によって。
「残念で仕方ありません」
「労咳になれば」
「助かるものではありません」
首を横に振りそのうえで真理に話す。
「それだけ恐ろしい病なのです」
「そうなのですか」
「あの、それにしても」
ここまで話してだ。ふとだ。
婆やは真理のあることに気付いてだ。こう問うた。
「近頃労咳のお話が多いですね」
「えっ・・・・・・」
そう言われてだ。真理はぎくりとした顔になった。
その彼女にだ。婆やはさらに尋ねた。
「またどうしてでしょうか」
「それは」
「労咳で死んだ小説家が多いからでしょうか」
今はただこう考えた婆やだった。
「だからでしょうか」
「はい、実は」
事実を隠してだ。真理は答えた。
「それで」
「そうですね。その樋口一葉にしても」
「その他にも。音楽家の」
前に話した滝廉太郎のことだった。
「実に多いですから」
「脚気と労咳は我が国の敵です」
まさに国民病だった。それこそ露西亜に匹敵する敵だったのだ。
「ですから」
「亡くなられた方も多いのですね」
「そうです」
他に国民病と言っていいものとして瘡病、つまり梅毒があった。これでも命を落とした者は多い。しかし婆やは真理にも義正にも縁のない病とわかっていたのでこの病は話には出さなかった。
その婆やがだ。また話した。
「何時かは消えて欲しいものですね」
「そうですね。本当に」
「今は無理でも」
最後に言った言葉もだ。真理の心に突き刺さった。
助からない、若し労咳ならばだ。真理はこのことが心から離れなくなりだ。血を吐いたことを常に考えるようになってしまった。
そして労咳に怯えその中でだ。気持ちを沈ませるばかりになっていた。
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