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東京レイヴンズ 今昔夜話

作者:織部
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夜虎、翔ける! 4

 膨大な霊気がほとばしった。

 気持ち良い――。

 木気の竜と化した平坂橘花の全身から霊気がとめどなく放出している。
 まるでダムが決壊でもしたかのように全方位にむけてほとばしる力はしかし、彼女自身を疲弊させることはなかった。
 だがその量と濃度は周囲にも彼女自身にも危険なレベルに達していた。
 木気は震。雷や風などの揺れて伝わるものがあてはまる。平坂の放つ霊気は稲妻や暴風と化して地上に降りそそいでいた。
 東京でも滅多に発生しないフェーズ4に相当する霊災だ。

(まるでいつか観た夢みたい……)

 怪獣になって街を破壊する夢。子どもの頃に観た夢とおなじ状況が、いま現実のものとなっているのだ。
 高濃度の霊気にあてられ酩酊状態になった平坂は思う存分に手に入れた力を行使し、自分を抑圧していた存在を破壊してまわる。
 粗野な体育教師や卑屈な数学教師がたむろしていた喫煙室を中心に雷を落として真森学園の校舎を半壊させた。
 路上パフォーマンスに対して異常なまでの敵意を見せて取締りをおこなっていた警察官たちの根城。警察署を竜巻で襲い、パトカーを何台も吹き飛ばした。
 ガラの悪い連中のたまり場だった公園に木々を芽吹かせて鬱蒼とした密林にし、人の侵入を阻むようにした。
 悪趣味なS教団の本部に衝撃波を放ち、灰塵と化した。
 街を睥睨するかのように丘の上に建つ多嶋邸はどう壊してやろうか。そんなことを考えながら空を飛ぶ平坂に猛スピードで追いつく飛影があった。
 鴉羽織を羽ばたかせた春虎だ。

急々如律令(オーダー)!」

 無数の呪符が放たれ、細かな紙片に分裂し、平坂をかこむように渦を巻く。
 いずれも金行符だ。
 金剋木。
 金気は竜身から吹き荒れる木気をまたたく間に拡散し、ついには紙片が全身にまとわりつき動きを阻害する。

(邪魔をしないで!)

 大きく身をくねらせ、強引に呪符をはぎ取る。それだけではない。霊気の奔流にのせて逆に金行符を打ち返してくる。もはや〝術〟ともいえない力業だが、おどろくことではなかった。
 一流の陰陽師がもちいた呪詛を力業で粉砕した荒御霊の存在を、春虎は目の当りにしたことがある。霊災とはそういうものだ。
 刃と化した金行符が金光を放ち乱舞する。

「くっ、鴉羽!」

 漆黒の翼が旋転した直後、無数の羽根が渦巻き状に放射された。
 金行符に触れるや火花を散らし消滅させる。鳥の羽は五行では火に属する。
火剋金。
金行符による反撃をすべて無効化した。

「正気にもどるんだ、平坂っ。――搦めとれ! オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」

 同時に複数の術式を処理し、なんと一度に一〇の不動金縛りを放った。散弾のごとく打ち込まれる呪縛は外的拘束力よりも内的束縛を強化した術式を組み込んである。
 竜に変化したばかりで霊的に不安定な存在である平坂に対し、これは一種の鎮静剤のような効果を発揮した。

(……夜虎、君?)

「街を破壊し尽くすつもりかよ、まったく。帰るぞ、とりあえずその姿をなんとかしないとな」

(……いやよ、どこにもいかない。帰れない。あたしはずっとこのままでいたい)

「平坂っ」

(やっと、やっと手にした異能の力。だれが手放すものですか)

 金縛りによって鎮められていた平坂の霊気がわずかに揺れて変調をみせる。いやな気がかすかにただよう。
 瘴気だ。
 平坂の心に歪みが生じつつある。

(こんなすごい力を手に入れたのに、いまさらつまらない人間なんかにもどってたまるものですか)

「力ってのは尊いものだ。むやみやたらにふるっていいものじゃない。そんなものはただの暴力だ。いまの平坂は力にふりまわされている。それはな、よくないことなんだよ」

(……その『よくないこと』に、あたしはずっと晒されてきたのよ)

「え?」

(あたしもね、真森学園には転校してきたくちなの。前の学校でいじめられてたから)

「なんだって?」
 地味な外見ながら溌剌としてはっきりとものを言う平坂がいじめを受けていたとは、想像できなかった。

(小学校、中学校、高校、真森に入るまえまでずっといじめられてきたの。だから真森に入るときに決めたの。あたしは変わる。生まれ変わるんだって。いじめられ続けてきた平坂橘花はもう死んで、あたらしい平坂橘花が生まれるんだって。……でもね、夜虎君。そんな単純には生まれ変われなかったわ。ずっとくすぶってたの、昔の、いじめられてた弱いあたしが)

「…………」

 はじめて会ったときから平坂は妙なテンションだった。個性的な言動で周りを驚愕させる『典型的なオタク女子』という感じだったが、あいにくとこの学園にはその手のタイプが多かったので特に気にはならなかった。個性うんぬんというのなら、陰陽塾にもとんがった連中はたくさんいた。
 だがそれは素の平坂ではなかったのだ。いつわりの自分、かりそめの仮面をかぶり、ずっと生活していたのだ。

「だからって暴れていい理由にはならない」

(正論ね、夜虎君。いじめられてたからって、人をいじめていいわけがないわ。でもね――。それがどうしたっていうのよ!)

 それがどうした――。おそらくは宇宙で最強の言霊を口にした。

(大陰陽師のあなたにあたしの人生がわかる!? どれだけみじめな人生だったか! ずっといじめられ続けてきたあたしの気持ちがっ! 教科書のページを接着剤でくっつけられたり、上履きに水飴を入れられたり、机の上にゴミ箱の中身をぶちまけられたりもしたわ。お腹をなんども蹴られ、教室でパンツを脱がされたり、いかがわしいお店でバイトさせられて見ず知らずのオヤジの汚いものを見せつけられた。なんども自殺を考えたわ。駅のホームで電車をまっていると、ついつい踏み出したくなるの)

 その言葉にいつわりはないであろう。
憎・恨・怒・忌・呪・ 滅・殺・怨――。ありとあらゆる負の感情とともに平坂が受けた過酷な体験が瘴気をとおし、映像となって伝わってくる。
 春虎は悲しくなった。空から爆弾がふってこない。赤紙一枚で若者が徴兵されない平和で豊かな国にも、このような陰惨で卑劣な虐待行為が存在していることに。

(あたしのなかの、もうひとりのあたしが、あたしをゆるさない。あたしがゆるしたあいつらをゆるさないの! 人にさんざん酷いことしたやつらが、なんの罰も受けずに学校を卒業して、社会に出て、なに食わない顔で人生を楽しむ。こんなことがゆるされるはずないわ!)

 轟ッ!

 爆発的に膨張した瘴気が不動金縛りを引きちぎろうと猛り狂う。

(あたしは強い! あたしは自由! だれにも負けない! だれにも邪魔はさせない! この力で復讐してやる! あたしをいじめたやつら全員殺してやる!) 

 清冽な霊気は消え失せ、もはや瘴気の塊と化した竜が呪詛の叫びをあげる。
 春虎は平坂の中に鬼を見た。
 タイプ・オーガなどに分類される、こんにちの汎式陰陽術における鬼ではない、本来の意味での鬼だ。
 鬼。
 漢字の『鬼』は死霊をあらわす語だが、日本における『おに』は姿が見えないことを意味する『(おん)』に由来するといわれる。形をなさない感覚的な存在や力。もののけの『もの』と同義だ。
 またあるいは異形そのもの、神と対をなす悪しきもの、死を招く災い、辺境に住む異邦の人々も鬼と称された。
 象徴的な例としては斉明天皇が崩御したさい、朝倉山の上に大笠をかぶった鬼が現れ、葬儀の様子をながめていたと日本書紀にある。
 広義では正体不明の妖しい存在を人々は鬼と呼び、狭義では人を喰う異形のものを鬼という。角を生やし、怪力をもち、悪行におよぶ無慈悲で獰猛な化け物。その正体は人や物の霊であったり零落した古き神であったりさまざまだが、生きながらにして鬼になるものもいる。
 おのれ自身の負の感情に飲み込まれて理性を手離し、人が人でなくなる。
 人の心には誰しも陽と陰がある。風の流れや川のせせらぎなど、この世界を形造る森羅万象にも同じように陽と陰がある。その陰に見入られた者は外道に堕ちる。人ならざる、異形の存在、鬼へと変生する。
 紀州道成寺にまつわる安珍と清姫の伝説がまさにそうだ。
 情念につき動かされ、人は鬼にも蛇にもなる。現在では霊的存在が憑依した者を生成りというが、生成りとは本来鬼に成りかけの状態を指す言葉だ。角が生え牙がのび、怪力や異能の力を得るが、まだ人の面影は残っている。そこから先の真蛇の領域にまで進んでしまえば人の面影も薄れ完全な化け物になってしまう。
 安珍を追って川をわたった清姫はなお逃げ続ける安珍を憎い恋しいと思うあまり、恋の呵責に砕かれてついに鬼から蛇の道へ、一匹の竜へと変化した。
 おびえた安珍は寺に駆け込み、鐘の中に身を隠したが、竜は鐘を巻き込んで火炎を吐き、中の安珍を焼き殺してしまった。
 人が鬼にも蛇にもなる。それもなにかの呪いではなく、おのれ自身の情念によって。その結末は悲惨にしかならない。
 人はひとたび堕ちればどこまでも際限なく堕ちてゆく。狂々(くるくる)、狂々と――。

「……おれは一方的にいじめられた経験なんてないけど、人をいじめて平気な顔してる連中はたしかにムカつくよな。ぶっとばしてやりてぇよ」

(夜虎君……)

「つーかさ、元不良とか元ヤクザとかが更生してまっとうに人生歩んでます、て話を社会や学校はやたらと美談にしたがるけど、納得いかないよな。あたりまえのことやっててもてはやされるとかアホかよ。ずっと真面目にやってた人間のほうが偉いっての。不良が普通のことをやると美談になるなんてクソ喰らえだぜ」

(ふふふっ、そうよね)

「だから、平坂。おまえを『そっち』側にはゆかせない。そうなる前におれはおまえを止める。おまえは殺さない、おまえの中の悪を殺す」

(やっぱり邪魔をするの!?)

「ああ、そうさ――。おまえの邪気、祓ってやる」

 全身に霊気をみなぎらせ、呪を唱える。

「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、とお――」

 雅楽にも似た神妙な抑揚の呪文がくわんくわんと木霊する。

「――ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ」

 ふわりと鴉羽織の漆黒の裾が上がると、そこから無数の赤い光が蛍のように舞った。
 その数、十。

(なによ、こんなの――ッ!)

 平坂の怒号はしかし、しじまの中にかき消えた。無音。周囲のあらゆる音が遠ざかり、ただ春虎の呪だけが響く。
 平坂の視界がせばまり、感覚が薄れ、意識が遠のく。心臓が鼓動を早めたような気がしたが、その感覚すらすぐにあやふやになる。
 まどろみにも似た安息。瘴気が消え、あらゆる現実感が遠ざかり、くわんくわんと木霊する呪文と霊気が平坂を優しくつつみ、慰撫する。
 赤い光が宙をおどり、たゆたう。
 十の赤光――非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)が。
 御霊振の呪法。
 布瑠の言と呼ばれる呪文で、本来ならば十種の神宝と呼ばれる物部氏の始祖神ニギハヤヒノミコトが伝えたとされる神器とともに使用される呪文。
 この十種の宝は謎につつまれた神器であり、古事記や日本書紀といった記紀には記載がない。聖徳太子と蘇我馬子が記したとされる『先代旧事本紀』や『令義解』という律令の解説書などに伝わる秘儀だ。
 その十種とは息津鏡(おきつかがみ)
 辺津鏡(へつかがみ)
 八握剣(やつかのつるぎ)
 生玉(いくたま)
 死返玉(まかるかへしのたま)
 足玉(たるたま)
 道返玉(ちかへしのたま)
 蛇の比礼(おろちのひれ)
 蜂の比礼(はちのひれ)
 品々物の比礼(くさぐさもののひれ)
 これらの神器を合わせて呪文を唱えると、その神威が顕現するとされる。
 しかしいにしえの鎮魂祭(みたましずめのまつり)でこの呪法がもちいられる場合は十個の玉を用意して十種の神宝になぞらえ、由良由良と揺り動かす手法がとられた。
 それゆえに御魂振は玉振りの術とも呼称される。春虎はさきほど復活した神樹に実る霊果、非時香菓を玉に見立てて古代の呪法を再現したのだ。
 御魂振は魂に関わる、こんにちでいう帝国式陰陽術に分類される禁呪だ。謎が多く、使用するのは困難だが、極めれば死せる人も生き返らせる強力な呪術。
 不老不死の霊果である非時香菓ならば玉の代わりの触媒にはもってこいだ。
 悪しき心を殺し、良き心を蘇らせる。
 平坂の意識は精神の奥底へと沈んでいった――。





 きっかけはささいなことだ。
 中学校でオタク趣味全開の話をしていたことが、その手の話題を嫌悪する連中の気に障ったというだけ。
 オタクは数年後には犯罪者に成り下がるんだから、自殺においこんでもいい。
 そのような自分勝手な大義を掲げ、やつらは牙をむいた。
 平坂が階段を降りようとしていたときのこと。後ろから背中を強く突かれてバランスをくずし。転倒しそうになった。
 下手に踏みとどまろうとせずに、勢いでおどり場までの十数段を一気に駆け下り、最後の数段は跳躍して着地して手をついた。インドア派にもかかわらず運動神経の良い平坂だから途中で転ばなかったが、もし転んでいたら大ケガはまぬがれなかっただろう。
 おどり場に手をついたまま恐怖に震えている横を数人の同級生が薄ら笑いを浮かべて通り過ぎていった。だれが突いたのかはわからない。
 だが、ほかの人もその瞬間を目撃していたはずなのに、なにも言わなかった。
 平坂は思った。階段を転びそうになって駆け下りるあたしの姿は、あいつらにとってはさぞ滑稽に見えたんだろう。おもしろかったんだろうな、と。
 人がケガをしたときのことも考えずに。
 頭が悪いというのは知能指数が低いとか偏差値が低いとか学歴がないとか、そういうことではない。頭が悪いというのは想像力がないということだ。想像力がないからこそ、自分の行為がどれだけ恥ずかしいもので、どれだけ醜悪なものか理解できない。
 ああ、なんて愚かで恥知らずな連中なんだろう。
 そのときはまだそう思える心の余裕が、平坂にはあった。

 ある日の文化祭、校内で水飴が売られていた。
 平坂が下履きで校舎の外に出ていたわずかの時間に、それをやられた。仕掛けた側にしてみれば上履きに水飴を入れるというのは気の利いたいたずらでしかなかったのだろうが、上履きの内側にこびりついてなかなか取れない水飴を洗い落とす作業が、どれほどみじめで悔しいか、想像もつかないのだ。
 頭が悪いから、想像力がないから。

 そんなことが、幾度もあった。
 いじめる側といじめられる側の心理には、決定的な断絶が存在する。
 いじめる側はおそらく、それがたいしたことだとは認識していない。階段で背中を突くのも上履きに水飴を入れるのも、ちょっとしたいたずらで、たいしたことだとは思っていない。そんなことをやったことなんか、とっくに忘れている。
 だから実際はいじめていたのに「いじめてなんかいなかった」と認識している輩が多い。罪を認識していないやつに罪の意識が生まれるはずもない。
 だが、やられる側にとって、それは死を覚悟しなければならないほど重大なことなのだ。
 だから死ぬまで忘れない。死ぬまでゆるさない。

「いじめられてるのに、どうして学校や親に訴えないのか」

 いじめられた体験のない人は、そう疑問に思うかもしれない。
 だがいじめられっ子は、どこかの時点で絶望してしまうのだ。大人に訴えてもどうにもならない、と。
 上履きに水飴をいれられた時は、さすがに教師にそのことを知らせ、こうした嫌がらせを頻繁に受けていると説明した。上履きという決定的な証拠があるのだから、訴えを聞いてくれるはずと思ったのだ。
 しかし、教師はなにひとつリアクションを起こさなかった。
 校舎の裏で複数の女子に小突き回された時のこと、その場を通りがかった教師がいた。
 その現場を目撃した教師は「なにをしているんだ!」と、問い詰めてくるにちがいない。そうなったら、これまでのことを洗いざらい教師にぶちまけよう。そう決心したがしかし、彼が平坂らを見て発した言葉は予想していたものではなかった。

「いつまでふざけてるんだ、さっさと教室に行け。授業がはじまるぞ」

 たったそれだけ。教師はそれ以上はまったく、なんの追及もしなかった。
 平坂は拍子抜けし、そして絶望した。
 自分が一方的に殴られている光景は教師にはふざけている。としか見えなかったのだ。
 それからじょじょにいじめ行為を教師や周囲に訴えようとは思わなくなった。きっと他の教師もおなじだろうと思ったからだ。目の前で決定的な現場を目撃していながら、それを認識できない人間に言葉で「いじめられています」と訴えても、聞き入れてくれるはずがない――。そんなふうに考えるようになった。
 相談したって、どうせ聞く耳なんか持たないんでしょ。
 真剣に考えてなんかくれないんでしょ。と――。
 平坂は孤独と絶望のなかでずっとまった。
 中学の三年間、アニメに出てくるようなかっこいい男の子が空から降ってきて、自分をみじめな境遇から救ってくれるのを、ずっとまった。
 赤錆びた校舎の階段で、なまり色の雲を映す窓の前で、放課後の校庭で雨に打たれ、無音の叫びをあげてまった。
 明日は何かが変わり、この絡みつく鎖を解き放ってくれるのだと信じてずっとまった。
 まって、まって、まって――。
 立花学園入学。
 堀川夜虎というかっこいい男の子が、空から降ってきた。
 比喩ではない、ほんとうに空から降ってきたのだ! 





 進学先の高校でもまわりの面子はほとんど変わらず、またいじめが続くのかと暗澹としていた入学式の日。案の定、新しいクラスにも加害者たちが数人いてさっそくからんできた。
 それだけではない、路地裏に呼び出されてサラリーマンふうの中年男性のお相手を強要された。

「いいのかい、彼女いやがってるんじゃないの?」

 遠慮がちな言葉とは裏腹に無遠慮で舐めるような中年男の視線に、平坂の全身に虫酸が走る。

「へーき、へーき、この子だれにでもこうだから」
「じゃあね平坂。いい子にしてたら、あたしらよりも多くお小遣もらえるかもよ~」

 仲介料をせしめた女子たちは上機嫌で平坂を置いて去って行った。
 嫌悪と恐怖で生まれたての小鹿のように震える平坂に好色な中年男がにじり寄る。

「こわがらなくてもいいんだよ。なにも本番しようってわけじゃないんだ。もちろん君がその気ならお兄さんはオールOKなんだけどね、ぐひひ」

 お世辞にも『お兄さん』とは言えない年齢の男は平坂の首筋に顔を近づけて獣のように匂いを嗅いだ。

「あー、良い匂い! 髪の毛もすっごい綺麗な黒髪だねぇ、一度も染めたことないとか。さっきの子たちみたいに安物の香水ふりまいてケバケバしい金髪に染めるよりも断然良いよ。○○学園の制服も合ってるし、もう最高! それじゃあさっそくホテル行こうか」
「いや……」
「あ?」
「いや、あたし、いやっ」
「いやじゃないよ~、ちょっとタッチするだけだから。君は寝てるだけでいいんだよ。かんたんでしょ。気持ち良くしてあげるからさ~」
「いやっ」

 震える脚を無理やり動かして男から逃げる。薄暗い路地裏から人の多い繁華街に出ようとした、その時。複数の影が行く手をさえぎった。

「逃げんなよ、眼鏡!」

 下腹に鈍い痛みが走る。つい今しがた平坂を置き去りにした女子のひとりが膝蹴りを入れたのだ。

「ボッチのてめぇをせっかくあたしらの仲間に入れてやろうってのに、なに勝手こいてんだ。チョーシくれてんじゃねぇぞブス!」

 乾いた音が響き、口の中に金臭さが広がる。平手打ちを受けたのだ。

「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」

 周りの加害女子たちがはやし立てる。

「ちょ、ちょっと君たち、暴力はだめだよ、暴力は~」

 おいついてきた中年男が制止するも加害女子たちの暴力はおとろえない。

「なに言ってんすかー、こういうのにはキツクしないとダメなんすよー」
「えー、でもちょっとひどくない?」
「●●さん、こういうのむしろ好きじゃない? ……なんならさぁ、キャットファイトしてあげよっか? もう一諭吉であたしらのエロいバトル見せてあげるよ」
「……いいねぇ、それじゃあお願いするよ」

 うす暗い地下室。使われていない什器倉庫に連れ込まれた平坂はそこで殴る蹴るの暴行を受けると同時に、あられもないポーズをとらされた。暴行はケガをするほどの力はくわえられなかったが、痛みと屈辱と恐怖は最大限に高まり、頭の中は真っ白になっていた。

「はい、平坂ダウン! 罰として脱がしま~す」
「もう下着と靴下だけじゃん。あはは、なんかエロ~い」
「最後はぼくに脱がせてよ」

 埃臭いマットレスの上に横たわった平坂の目から涙がこぼれ落ちる。
 もう死のう。
 あれだけ泣いたのにまだ涙なんて出るのだと、不思議に思うとともに生への執着が急速に薄れてゆく。
 舌を噛みちぎってほんとうに死ねるのかな、痛いのはいやだな、でもこんな薄汚いおやじに身体をまさぐられるくらいなら、死んだほうがましだし……。
 そんなことを考えながらぼんやりとながめた天井に、ひとりの少年の姿がある。
 ふわりふわりと、宙に浮かんでいる。

「え?」

 次の瞬間、みしり。と音を立てて少年の足が中年男の頭をふみつけていた。

「ぐぇぇっ!?」
「よっと」

 蛙が踏みつぶされたような声をあげて卒倒した中年男のとなりに華麗に着地した少年――齢は平坂と同じか少し上くらい。明るい髪色をして、あざやかな錦の眼帯を左目に巻いているのが印象的だ。

「入学パーティではしゃぐにしては度が過ぎてるぜ。おまえらそのくらいにしとけ。あんまりオイタが過ぎるとただじゃすまないぞ」
「な、なんだよテメェ!? いきなり出てきて邪魔するんじゃねぇ!」
「ほら、立てるか? あ~あ、せっかくの新しい制服がしわくちゃだな。なんならこのおっさんからクリーニング代でももらうか」
「おい、こら、テメェ。シカトすんじゃねぇぞ。この眼鏡のナイト気取りか!」
「いいや、ナイトじゃなくてウィザードだぜ」
「はぁ? なんだそりゃ、わけわかんねー。おまえもこの眼鏡とおなじアキバ系かよ」
「いや、ウィザードじゃなくてそのものずばりインヤンマスターだな。あー、それに本庁は秋葉原にあるから、アキバ系っちゃアキバ系かもな」

 眼帯男子はつっかかってくる女子らを軽くあしらいつつ平坂の服の乱れを正してその場を去ろうとうながす。

「ッメェ、女だからって甘く見てんじゃねぇぞ!」

 激昂したひとりの女子が蹴りを放つ。スリッパの裏のような顔をしたそいつはケンカ慣れしているようで、なかなか様になっている。だがそれは空を切り、なぜかとなりにいた女子の腰に命中した。

「あイタっ。なにすんのさっ!?」
「え? あ、ご、ごめん。あ、あんだよコンチクショー!」

 ふたたびケンカキックの体勢に入るスリ裏女子に間髪入れず眼帯男子が問いかける。

「あんた、名前は?」
「んあ?」
「名前はなんていうんだ」
「寺島だよ。テメェこのやろ、ふざけんなコラ、この名前を忘れられなくしてやっぞコラ、思い出すたびにビクブルして小便漏らすぞコラ」
 男の子の眼帯におおわれていない片方の視線がすっと上り、まっすぐに寺島を見すえる。
「それは名字だな、下の名前は」
「久子だ」
「ひさこ……」
「そうだよ、あたしの名前は久子だよ、文句あっか」
「ひさこ」
「なんだよ」

 寺島久子は反射的に眼帯男子の目を見返した。すると強張っていた久子の肩からすとんと力が抜け落ちて、目の光が消え失せて呆けたような表情となる。

「ひさこ、さがれ」
「う、うぃーす」

 寺島久子はふらふらと後退した。

「「「へ?」」」

 仲間の女子たちはなにが起きたのか理解できなかった。寺島は熱くなるとわれを忘れておとなの男性にすら突っかかり、暴力をふるうタイプなのだ。それが見ず知らずの少年の言いなりになる。ありえないことだった。

「ひどいな、靴の跡が残ってる。こりゃクリーニング代はおっさんからだけじゃなくてこの子たちからも徴収する必要があるな。――おまえら、なんて名前だ」
「う、うるさい」
「なんて名前だ?」
「岩崎……、あすか……」
「おまえは」
「藤田……、祐美……」
「おまえは――」

 女子たちは戸惑いつつも少年の眼から視線をはずすこともできず、問いかけに答えていく。

「久子、あすか、祐美。財布の中身を全部出せ」
「…………」

 困惑の表情を浮かべつつ、あやつり人形のようなぎこちない動きでのろのろと所持金をさし出す。

「久子、あすか、祐美。この場でスクワット三十回、五セットしてろ」
「「「う、うぃーす」」」

 首がおかしな方向にまがった中年男性のまわりで三人の女子がヒンズースクワットをしはじめる。そんな珍奇な光景を背に、少年は平坂の肩をやさしく抱いてその場をあとにした。





 かすかに花の香りが匂う春先の風が心地よい。
 うす暗い地下倉庫とは別世界の明るい住宅街を見知らぬ少年とつれだって歩く平坂はまだ自分の身になにが起きたのかを理解できなかった。

(あたし、助かったの?)

 あらためてとなりを歩く救いの主を見る。下品にならない程度に染めた明るい茶髪、やや長身で無駄な肉のついてないすらりとした身体つき、清潔感はあるのだが春先に似つかわしくない漆黒の外套と錦の眼帯はなにかのコスプレだろうか……。

「堀川夜虎」
「え?」
「おれの名前。夜虎でいいよ、友だちはみんなそう呼んでる」
「え? あ、はい。あ、あたしの名前は――」

 この人に自分の名前を告げても平気だろうか? さきほどのシーンが脳裏をよぎり、思わず口ごもる。

「……平坂橘花です」

 だが逡巡は一瞬だった。この人は窮地を助けてくれた恩人だ。いまさら自分になにかしてくるとは思えない。なにかしてきたとしても、あの連中よりましだ。

「よろしくな、平坂。おれも春から立花学園なんだ」
「あ、そうなんですか」

 入学式にこんな目立つ男子生徒なんていたかしら。いや、式が終わってすぐ着替えたのかもしれない。しかし眼帯に黒マントとは、またずいぶんと中二チックないでたちだ。

「あの、さっきは助けてくれてありがとうございました」
「ははっ『ました』とか、かしこまらなくていいって。同級生なんだし」
「でも、ほんとうに助かりました。あたし、あのまま殺されちゃうんじゃ、死んじゃうんじゃないかって……」
「もしなんかあったらまた助けてやるよ」
「あ、ありがとう……」

 気持が落ち着いてくるにしたがい、さっきの不思議な出来事が気になりはじめる。
 いったいどんな術を使って寺島たちを意のままにあやつったのか、そもそも最初空中に浮かんでいなかったのか――。

「あの、堀川君て――」

 いったいなにもの? そう問いかけようとしたとき、わずかに表情を変えて足をとめた。
 桜の葉がただよう心地よい春風に、害意が混入してきたのを感じとったからだ。
 平坂たちの左手には河川敷が広がっているが、ほかの三方向から足音がわき起こって接近してきた。荒々しくアスファルトを踏む足音は中途半端な統一性をもっている。だれかに指揮された集団だが、機動隊や自衛隊のようによくは訓練されていない。たとえるならヤクザや暴走族の群れといったところか。

「かこまれちまったな」
「え? ええ!? えええッ!」

 およそ善良とはほど遠い連中が平坂たちのまわりをかこんでいた。人相は醜悪で雰囲気は下品かつ粗暴、将来は政治家の手先か暴力団くらいしか就職先がないようなやからだ。
ある者は両手にメリケンサックをはめ、ある者はチェーンをふりまわし、ある者はバタフライ・ナイフをちらつかせ、ある者はヌンチャクをもてあそび、ある者は木刀をかまえ、ある者は特殊警棒をかざしている。
 さすがに拳銃をもつ者はいないが、そのかわりにガスバーナーを手にした者が数人いた。ガスバーナーで身体を焼くというのは暴力団が好むリンチや拷問のやりくちだ。
 その三〇人くらいの群れの中から見覚えのあるスリッパの裏が進み出る。

「さっきはよくもやってくれたね」

 寺島が仲間をつれて復讐にお出ましになったのであった。

「あたしらはここいらじゃ泣く子も黙る『タチバナ国』のメンバーなんだよ。そのあたしらをコケにしたんだ、あんたらふたり全裸にひんむいて富士川で泳がせたあと、ガスバーナーで顔を焼いて歯をひっこ抜いてやる!」
「もうスクワットし終わったのか、ずいぶん早かったな」
「まぁね、あたしはテコンドーやってるから体力には自信あるんだよ、ほかのふたりは伸びちまったけどね」
「武道を習っているのにやることはヤクザ者のそれだな。礼節を重んじ、粗暴なおこないを慎むとか、そういうことをおまえのかよっている道場じゃ教えてくれないのかよ」
「うちの道場じゃ人を蹴倒す技しか教えてくれないし、あたしはそれでじゅうぶんさ」

 やりとりのあいだ、夜虎はかすかに身動きし、印を結んだ。数枚の札が地面に落ちる。そして平坂にそっと耳打ちする。

「結界を張ったから身動きするなよ。もうあいつらにはおまえのことは見えない」

 言われずともすでに足がすくんで身動きなどしたくともできない。恐怖に声も出ない状態だ。

「ヤッチマイナー!」

 寺島の号令一下、男たちが獰猛な声をあげて動き出した。
 ガスバーナーをもった浅黒い肌の男が夜虎の顔めがけて青白い炎を吹きつけようとした。
 ひょいとその炎をかわして、夜虎は指先でなにかを払う仕草をするとバーナーの炎がありえない角度に曲がった。青白い高熱の炎がバーナーをもつ男自身の顔に吹きつけられる。

「~~~~ッ!!?!ッ」

 髪が燃え上がり、声にならない悲鳴をあげて地面をころげまわる。そのあいだにも炎は拡大し、髪から襟首へ、背中へと燃えうつる。全面攻撃の出鼻をくじかれた男たち立ちすくみ、声をのんで惨状をながめるだけだ。

「爆ぜよ真紅の小人たち、急々如律令(オーダー)

 触媒に火行符を使う必要もない、火だるまになりかけの男を中心に熱風が渦巻き、発生した火気の調伏呪がまわりの連中を追尾して焼き焦がした。
 火に炙られた男たちは口々に悲鳴をあげて近くを流れる川に飛び込む。水遊びには時期早尚の川面にいくつもの白い柱をつくり、焼死をまぬがれようと必死で水にもぐる。ただこんどは溺死をまぬがれるために火傷に染みる泥水のなかを泣きながら泳がなければならなかったが、それくらいの運命は甘受するべきだろう。なにせ集団でひとをなぶり殺しにしようとした連中だ。
 そのあいだにも不思議なことが起きた。地面に落ちた札がぐんぐんと大きくふくれ上がり、夜虎そっくりに変化。簡易式による式神だ。
 式虎たちは火傷をまぬがれた男たちに応戦する。
 まるで一流の軽業師のような身軽さをはっきし、水平にふりまわされたチェーンを跳躍してかわし、相手のあごを軽く蹴る。たいして力を込めたようには思えなかったが、口から折れた歯をまきちらして転倒した。着地した式虎の頭上に木刀が猛スピードで落ちかかるが、一転してそれをかわし、地についた両手を軸にして脚で相手の脚を払った。カポエイラのエリコーピテロ――逆立ち回転蹴りを思わせるそれを受けて膝を砕かれた相手がもんどりうって砂をかむ。跳ね起きようとした式虎に特殊警棒をふるっておどりかかった男は、素早くかかげられた式虎の両足に腹を乗せられた形になり、そのまま足をふるうと放物線を描いて川面へと落ちていった。
 三〇人を超す男たちのほとんどが立ち上がれなくなるまで三分も要さなかった。

「おんどりゃアホんだら! しばいたろかボケェ!」

 べつに大阪出身でもないのに大阪弁で息巻いたニッカポッカ姿をした土方ふうの男が走り、堤防のそばにたどりつく。堤防補習用のショベルカーが置いてあり、それに乗り込むと巨大な土木建設用機械を動かしはじめた。
 ショベルカーやクレーンなどの鍵はおなじ機種ならおなじ鍵で動かせる。男は建設関係の仕事をしたさいに鍵をちょろまかしていたので、それを使ったというわけだ。
 オレンジ色の鉄塊が夜虎目がけて突進を開始した。

「ショベルカーなんかにやられたんじゃ土蜘蛛にもうしわけがたたないよなぁ、なにせおれは装甲鬼兵の生みの親なんだし」

 微塵も動じずに肩をすくめる。狼狽したのは式虎にのされてへたばっている連中だった。そのまま寝そべっていてはうなりをあげて前進してくるショベルカーに轢き殺されてしまう。善良な市民を脅しつけるときの元気はどこへやら、泣き声をあげ、血と涙と小便を流しながらショベルカーから逃れようとした。
 それでも動けない者がいて、肉薄するショベルカーを恐怖の目で見上げながら「おかあちゃーん」「ナナイー」「オモニー」と、多種多様な母国語で泣きわめく。
 完全に血迷った土方男は味方に目をくれず、ひたすら巨大な土木建設機を驀進させるばかりだ。

「まったく、しょうがないな……」

 いくら悪党でも目の前で轢死されるのは寝覚めが悪い。

「――かけまくもかしこき鍛冶の祖神(おやがみ)となる金山の神火(かむか)の神風の神らの大前にかしこみかしこみももうさく――八十国島の八十島を生みたまいし八百万の神たち生みたまいしときに生まれたる天目一箇神命をひのもとの冶金もろもろの金の工の祖とあがめまつる――」
夜虎が祝詞を唱えると、ショベルカーが急速に熱を帯びはじめた。

「アチチチチッ!」

 巨大なアームも、それをささえるブームも、先端のバケットも、ベースマシン部分も、たちまち赤熱し、操縦するどころではなくなる。
 製鉄や鍛冶の神である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)のたたら祝詞。それは金属を熱する効果があった。
 クローラ部分も溶けだし、ゴムの焼けるいやな臭いがただよう。土方男はサウナと化した操縦席からほうり出るように抜け出した。
 その眼前で熱気とともに巨大な鉄塊がぐにゃりとひしゃげ、原型を崩す。

「ひいぃっ、バ、バケモノだぁっ!」

 いまさらのように夜虎のもつ異能の力を実感した破落戸どもは、砂と泥と唾をまき散らし、周章狼狽のていで退散した。

「おれは化け物じゃなくて、それを修祓するほうだっつうの」
「……ほ、堀川君。いまのって、それにさっきのあれ。あれって呪術。それも甲種よね」
「お、よく甲種なんて言葉を知ってるな。そうだよ」
「甲種呪術。陰陽庁によって確かな効果が認められた呪術……。原則として国家資格『陰陽Ⅱ種』または『陰陽Ⅰ種』の取得者のみに行使が許されている……」
「正解、よくできました」
「最初にあいつらをあやつったのは、甲種言霊……」
「それも正解。問答無用であやつることもできるけど、名前を聞いたのはそのほうが効きやすいからだよ」
「それじゃあ、あなたって、ひょっとして……」
「ああ、おれは陰陽師さ」

 それが東京都以外の日本全国の霊災修祓および呪術犯罪の取り締まりを一任された独立陰陽捜査官、堀川夜虎との出会いだった――。





 夢を、夢を観ていた。
 楽しい夢を――。
 平坂は楽しい夢を観ていた。
 都会から来た陰陽師の少年に窮地を助けられたのが縁で行動をともにすることになる。
 東京以外でもまれに起きる霊災修祓や呪術犯罪の取り締まりをする任務に就いている独立陰陽捜査官、堀川夜虎。
 闇鴉(レイヴン)のふたつ名をもつ十二神将である彼に呪術を教わり、陰陽師としての才能を開花させた平坂は、やがて夜虎にパートナーとして認められることになる……。
 楽しい楽しい、とても楽しい、そんな夢を――。





 海沿いの道を牛車が走る。田嶋の私兵化した不良警官との戦闘で外装が多少ほころんでいる朧車の中には春虎たちの姿があった。

「いまさらだが、よかったのか。せっかくお目当ての品を見つけたのに、全部使っちまって」

 琥珀色の液体に満ちたグラスで唇をしめらせ、角行鬼が問いかける。

「いいのさ、ああまでしないとあの子は救えなかった」

 催眠療法。ヒプノセラピーという心理療法が存在する。
 普段は心の奥深くに沈んでいる潜在意識の扉を開け、その中に注意を向けていく心理療法で、通常はかいま見ることのできない潜在意識の中にある膨大な記憶の中から必要な記憶をすくい上げて問題解決や自己成長をうながすというものだ。
 春虎は平坂の中にある鬱屈した思いを払拭するために現実という悪夢から解き放ち、良き夢を見せることで悪しき心を消滅させようとしたのだ。

「それに非時の実なら心あたりがある」
「ほう」
「むかしの知り合いが苗木をもっているのを思い出した。ひょっとしたら実らせているかもしれない」
「そうか、なら次の目的地は決まっているな」
「ああ」
「……春虎様、僭越ながら飛車丸めには疑問に思うところがあります」
「うん?」
「平坂橘花の始末ですが、これでよろしかったのでしょうか」
「おれはそう思う」
「夢の中で慰撫されたとして」

 それまで黙って自分の携帯端末をいじっていた早乙女が口をひらく。

「夢の中で癒されたとして、夢から覚めた後はどうするつもり? トラウマを克服したのは良いけど、彼女には見鬼の、呪術の才が芽生えてしまったわ。心に暗い傷を負ったことのある呪術師の卵を放置しておいて、第二第三の多嶋地州になったりしないかしら」
「そのあたりは考えてあります。――夢の終わりで彼女に誘いをかけてありますから」
「誘い?」
「ええ、陰陽塾への入塾をね」
「まぁ」
「陰陽塾で正規の教育を受ければ、今後歪んだり暴走したりはしないはずです」
「それは妙案ね。彼女、知識だけならいますぐ入塾できるくらいだったもの。たりなかった見鬼も身につけたことだし。あとは彼女自身の意志だけね」
「ま、大友先生や倉橋塾長のいない、いまの陰陽塾はちょっともの足りないって気がするけどな。それでも天馬や京子みたいな良い先輩がいるし、良い方向にみちびいてくれるだろう」

 現在の塾長は倉橋京子の祖母である美代に代わって陰陽庁から天下った人物だ。春虎たちとは敵対する立場にある倉橋源司のシンパらしいが、主義主張に賛同しているわけではない。ごく平凡で無害な中間管理職。というのが春虎の見解だった。

「でも最近になってちょっと変わり種の講師が赴任したみたいよ」
「へぇ、どんな人物なんです」
「こういう人」

 手にしたケイタイを春虎にわたす。『月刊陰陽師』のウェブ版が表示されており、新人講師のインタビューが載せられていた。
 僧侶のように頭を剃った青年で、賀茂の一族だそうだ。

「……ふぅん賀茂氏の末裔ね。なんか胡散臭いな」

 日本を代表する陰陽道の二大氏族といえば安倍晴明で有名な安倍氏と、晴明の師匠にあたる賀茂忠行、保憲親子など、幾多の陰陽師を輩出した賀茂氏だ。前者がのちに土御門を名乗り後者は勘解由小路と称することになる。
 しかし勘解由小路家は室町時代末期には没落し、江戸時代に入る前には断絶している。
 そして断絶した勘解由小路家に代わって賀茂氏宗家となった庶流に幸徳井(かでい)家というのがあるのだが、その幸徳井家とは関係ないらしい。あくまで賀茂氏の末だという。

「まぁ、山城賀茂氏や葛城賀茂氏。賀茂氏もいろいろと枝分かれしているしな、どれどれ……」

 インタビューに目を通す。

『異世界に飛ばされる系のお話を見ていつも思う。アフリカとか南米とか中央アジアとか
今でも電気もガスも水道が通ってなかったり、戦乱が続いている地域があるけど、そんな場所に行ってヒーローになれるわけないだろ、と。そもそもそんな国で生きていけるか?
 戦後の日本みたいな平和で豊かな国に生まれ育った若者がさ、電気もガスもコンビニもカップラーメンも水洗トイレもない中世の国を。
机上の空論だけの軍オタが魔法世界に行って現代兵器で軍隊ハーレムとか作れるわけないだろ。作り手も受け手も、もっとよく想像してみろと言いたい。
あ~、あとファンタジーとかによくある勇者の伝説ってやつ。
国王の悪政や盗賊に苦しむ国や村があって、人々は古くからの予言や伝説に希望を託している、いつか旅の勇者が矢ってきて悪王や盗賊をやっつけてくれるとか、なにも知らない旅人がやってくると人々は勝手に彼を勇者と決めつけ、おだてあげ、泣きつき、悪者と戦わす。てパターンがあるけど、つまり自分たちは悪政を打倒するためにはなにもしない。どこからかつごうよく正義の勇者があらわれて悪をやっつけて、またつごうよく去っていく。最初から最後まで他人に責任を押しつけて自分たちはなにもしない。
そういう手合いが多いけど、 俺はそんな連中のためにひと肌脱ごうとは思わないね。だから見たり読んだりしてても感情移入できないんだよ。
それと俺はあらすじやタイトルに〝異世界〟〝転生〟〝チート〟〝魔王〟〝勇者〟〝妹〟というワードの入った作品は、もうそれだけでスルーしてるから、アニメ屋やラノベ屋はもう少し考えたほうが良いよ』

「呪術と全然関係ねぇッ! なにこいつインタビューにかこつけて好き嫌い語ってるんだよっ! 最近のアニメ・ラノベ系批判してるんだよっ! こんなの載せるなよ!」
「そうよね、妹はべつに問題ないわよね」
「気にするところがそこかよ!」
「とにかく変わり種でしょ」
「奇をてらえばいいってものじゃないですよ」

 自分が陰陽塾に通っていた頃に、こういうやつがいたような、いないような……。妙な既視感をおぼえつつケイタイを返す。

「……とにかく、ここにはもう用はない。次の場所へいそごう。――非時の実のある、闇寺へ」





 夢を、夢を観ていた。
 楽しい夢を――。
 平坂は楽しい夢を観ていた。
 夜の校舎を徘徊する動的霊災を修祓し、校内に蔓延する呪いの人形を回収し、呪捜官に代わって妖術師をやっつけた。鬼を使い竜を駆り、地を奔り空を翔けた。
 夜虎とふたり、力を合わせて様々な奇怪な事件に挑み、その闇を暴いていった。
 そして、夢は終焉を迎える。

「もう気づいているんだろ、これが夢だって」
 
 これが夢の世界の出来事だと、うすうす感じてはいた。そんなのは嘘だと。現実にはそんなことはないんだと――。
 幸せは空から降ってこない。努力してつかみ取らなくてはいけない。
 人生で嫌なことはいっぱいあった。
 自分に生きている価値があるのかと悩んだこともあった。
 だが、もうそんなことはどうでもいい。
 平坂はわずかひと晩の夢で三年分の経験をした。夜虎とともに過ごした経験は虚構にすぎない、だが虚構もまた真実なのだ。映画や小説といった創作物は現実のものではない、だがそれに接し、感動した者にとってそれは絵空事のひと言でかたづけられるような簡単で無価値なものではない。
 本を読むことは旅をすることと似ている。
 人は読書を通じて、それまで知らなかった世界や感情。人生を旅することができる。行ったことのない南の島の青さと緑に目を細め、極北の凍った風の匂いを嗅ぎ、身を焦がす恋をする。名もない男や老女、さすらう犬になる。
 そのたびに自分の中の世界が広がってゆく。宇宙が誰にも気づかれないうちに広がるように。
 だから図書館や映画館、書店やゲームソフトの中には世界が詰まっている。いろんな時代、いろんな物語、いろんな命。そして死。
 フィクションとは、けっして無意味なものではない、現実のシミュレーションでもあるのだ。
 三年におよぶ夢の世界での生活は、平坂を変えた。
 自分は一人じゃない。生まれてきて良かったんだ――心の底からそう思える。

「春虎――、ううん、夜虎君。あたし陰陽師になる。力のただしい使い方を教えてもらいに東京に、陰陽塾に行くわ」

 何かを強く想うこと、何かを切に願うことは、それを叶えるための重要な力となる。特別な力などなくても、人は限りなく強くなれる。
 夢から目覚めた平坂橘花は、自分の足で新たな一歩を踏み出した。
 
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