東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!
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たわむれ
陰陽塾。
誰もいない早朝の教室内。
窓ガラスに映った自分の制服姿をじっと見つめる秋芳の姿があった。
狩衣を模した陰陽塾の制服。色は男子が黒で女子が白。
祓魔官が漆黒の装束を身に纏うことから、闇鴉の異名をもつ、こんにちの陰陽師たちだが、この制服姿も見ようによってはカラスを彷彿とさせる。
(はたから見るぶんにはたいして感慨もわかなかったが、いざ自分で袖を通してみると、この制服もいいもんだな。レイヴン、か……)
人を上まわる雑食性の生き物で残飯や死骸を漁るカラスの姿はいかにも不潔で不吉な印象がある。だが反面で伝説や神話上のカラスは神の使いとして描かれることが多い。
北欧神話では主神オーディンの斥候として、ギリシャ神話ではアポロンに仕え、日本神話では八咫烏などが有名だ。
黒と白、陰と陽。光と影……。陰陽師をカラスになぞらえるのは、たしかに合っているのかもしれない。
なにより養子の身といはいえ賀茂の性を持つ自分には縁がある。
賀茂氏の祖である賀茂建角身命の化身こそ、すなわち八咫烏だとされるからだ。
「あれ? ずいぶん早いんだね秋芳君」
そんなことを考えている秋芳に声をかけてきたのは眼鏡をかけた、いかにも育ちの良さそうな男子生徒だ。見覚えがある。
(こいつはたしか百枝――)
「ああ、おはよう。君はたしか百枝……天馬くんだっけ?」
「天馬だよ! ペガサスって、それどこの聖クロニカ学園理事長!?」
さすが眼鏡キャラ。つっこみにキレがある。
「おっと、すまん。人の顔と名前をおぼえるのはどうも苦手でね、まだあやふやなんだ」
「もう一週間経つんだから、いいかげん覚えてよ。ていうか絶対わざとでしょ、今の」
秋芳たちが入塾してから一週間が経過した。
ひと通りの授業を受けたが、座学に関しては特に問題はない。秋芳にとって、すでに知識として知っていることのおさらいにすぎなかったからだ。
ただ意外にも一部の実技には手を焼いた。
符の作成と簡易式の操作だ。元来、呪符による安定や増強に頼らず、自前の呪力で術を行使することを好む秋芳にとって、木行符だの火行符だのと一枚一枚書くのは性に合わない。さらに筆画を上手く正確に書けたかも採点の対象になるので、基本もそこそこに自己流で通してきた身にはこれまたむずかしい。書道教室に通うような気分で美しい字を書くよう努めている。
簡易式とは陰陽師が使役する式神の中でも、もっとも初歩的な種類の式神だ。
形代と呼ばれる核に術者が呪力を注入して作り出すものだが、その簡易式を変化はなしで、ただそのまま動かすというのが存外めんどうだ。
汎式陰陽術と賀茂に代々伝わってきた陰陽術の式神使役法の差が如実にあらわれた。ひと言でいえばレスポンスが異なるのだ。
市販の人造式なら呪力を注ぎ込むだけで動くし、凝った式神を作りたいのなら、これまた自己流で作り上げるのだが『正式な作法』にもとづいて単純に動かすことが、これほど神経を使うものとは思わなかった。
もちろん慣れればどうということはないのだろうが――。
「一人でなにしてたの?」
「自分の制服姿に見とれてた」
「あはは、なにそれ」
「ん~、いや、陰陽塾の制服ってちょっと変わったデザインだろ? だから自分が実際に着るのはどうかな~、て思ってたんだが、思ってたより着心地が良くてな」
「そんなに変かな? まぁ、女子の制服はけっこう目立つみたいだけど」
「見た目はともかく、色々と凝ってるよな。わずかながら呪的防御が施されてて、見た目より丈夫だし、あちこちにポケットがあって呪具の類を持ち歩くのに便利だ」
「そうそう! 呪符とかいっぱい持てるから、これに馴れちゃうと普段着の時とか落ち着かないんだよね」
「笑狸のやつも着たがってたよ」
秋芳の使役式である化け狸の笑狸。彼(彼女)の立場はあくまで式神。塾内での行動は自由だが、厳密には塾生ではないため、制服は支給されていない。
「あ、そういえば笑狸ちゃんももう来てるの?」
「いや、寝てる。昼過ぎには来るんじゃないかな」
「そう……」
「残念そうだな」
「え、いや、あ、う、うん。まぁ、そうかな」
赤面して言葉をつまらせる天馬の様に思わず苦笑する。
この一週間で秋芳以上にクラスメイトと打ち解けた笑狸は、男子からも女子からも人気がある。もしここが陰陽塾という『お堅い』学び舎でなく一般の学園だったなら、今ごろ告白されまくっていることだろう。
いや、ひょっとしたらすでに何人か想いを伝えているのかも知れない。
狐狸精は天然の誘惑者なのだ。
「あいつに制服を貸してやったら喜ぶぞ」
「ふ、服の交換!? そ、それはなんていうか、倒錯的なプレイだね!」
「は?」
「おたがいの匂いとか、ぬくもりとか、なんかそういうのが、こうグッと来るよね!」
「え~と、天馬くん。君そんなキャラだったっけ?」
どうも色々と想像を駆け巡らせ、あらぬ方向に向かって妄想が進んでいるようだ。
「……な~に朝っぱらからイカガワシイ会話してるのよ、アンタ達」
いつの間に教室に来たのか、一人の女子生徒が会話に割り込んできた。
亜麻色の髪をハーフアップにし、下品にならない程度に薄く施した化粧が健康的な肌に良く似合っている。
倉橋京子だ。優等生である彼女も登校は早い。
「あ、おはよう倉橋さん」
「『あ、おはよう』じゃないわよ。朝から男二人だけでスケベな話なんかして、キモいわよ」
「き、キモいってそんな……」
「いや、スケベな話じゃなくて恋の話だよ」
「女の子の服の匂いを嗅ぐのが恋バナ? そんなのただの変態じゃない」
「信濃なる、千曲の川のさざれ石(し)も、君し踏みてば玉と拾はむ」
「え?」
「……たしか万葉集だったかしら。その歌がどうしたのよ」
「わ、すごい倉橋さん知ってるんだ」
「河原に転がっているただの小石でも、愛しいあなたがじかに踏んだと思えば大事な大事な宝物。宝石として私は拾いますよ。好きな人の触れた物、接した物すら大事にしたいと思う恋愛心理だよ」
「人の服の匂い嗅いでハァハァするのと、それは次元がちがうでしょ」
「いやいや、恋愛と匂いは密接な関係にあるんだ。そうちがうとも言い切れないぞ。たとえば夏目が自分の着ていた上着を寒いからとかけてくれて、その瞬間彼の匂いがほのかに香ったら、なんとも言えない心地になるだろう?」
「そ、それは……。そうね。て、なんでそこで夏目くんの名が出てくるのよ!」
「そりゃあ、なぁ」
「そりゃあねぇ」
目を見合わせる秋芳と天馬。
倉橋京子が土御門夏目に好意をよせていることは、はたから見れば一目瞭然だ。
「もう、この話はおしまいっ」
そう言ってきびすを返し、自分の席に向かった京子がクルリと振り返り秋芳に問いかける。
「ところであなた、今日も放課後は自主練?」
「ああ、そのつもりだ」
日々の学習や鍛練なくして上達などありえない。
生まれつきの能力差というものは確かに存在する。だがどんなに優れた天稟の持ち主でも、いっさいの努力や修練もなしに高みに昇ることなぞできるわけがないのだ。
歌でも運動でも芝居でもなんでも、その道のプロと呼ばれる人たちは普通の人が遊んだり寝てたりしている時間を練習に費やしているからこそ、プロの座にいられるにちがいない。
「実技室を使わせてもらって簡易式の操作練習をする予定だよ」
授業時間外であっても講師の許可があれば塾内の学習施設は最終下刻時間まで利用可能だ。もっとも一人一人の生徒がいちいち講師にうかがいを立てていては煩雑なため、この決まりはほとんど有名無実化していて、黙って居残り勉強をしていても特に注意されるようなことはない。
「あたしもつき合ってあげるわ」
「それはまた、どういう風の吹き回しだい?」
「べつに、ただの気分よ。こ~んな可愛い子が勉強見てあげるんだから、感謝なさい」
「ああ、嬉しいよ。放課後を楽しみにしてる」
放課後の実技室。
実技室といっても地下の呪練場ほど凝った造りはしていない。
室内の呪力・霊力が外に漏れることがないよう、扉や窓の上部に注連縄や御幣で結界が張られている以外は一般の教室と同じような造りになっている。
机の上に人の形をした紙片が二枚ひょこひょこと動いている。太い十字架の上部だけを三角形にしたような切り抜き。人形と呼ばれる種類の形代。簡易式だ。
これを核に様々な形状に変化させることができるのだが、今はそのままの姿で動いている。
動かしているのは秋芳と京子だ。二人とも印を結び呪力を送っている。
「あらなによ、あなた普通に動かせるじゃない」
「連日練習してるからね、だが普通じゃダメなんだ。俺は賀茂の人間だからな」
「……たしかにそうね、わかるわ」
名門としての矜持。陰陽道の大家である倉橋の家に生まれ、その家名に恥じないよう教育を受けた京子にはその気持ちがよくわかった。
そんな京子の思いを察した秋芳がつけ加える。
「いやまぁ、そんなたいそうなものじゃないけどな。ただ伸び代のあるうちはがんばりたいだけさ」
ふと、なにかを思いついた秋芳がさらに呪力を送る。ひたいに向け剣指(人差し指と中指を立て、薬指と小指を曲げて、その指先を親指で押さえる)を立て、集中し念を凝らす。
(……点滴穿石、とく心を細くせよ。水滴のみが石に穴を穿つ――)
糸のように細く、錐のように鋭く研ぎ澄まされた水滴が巌を刺し貫く。
そのような情景を思い浮かべて、より細部まで呪力をめぐらせる。
すると簡易式の動きに躍動感が生まれ、節に合わせて踊っているかのような動きをしだした。
「……なにこれ、銃で撃たれてのたうち回る人?」
がっくし。
肩を落とす秋芳。どうも自分のイメージ通りの動きにはならなかったようだ。
「『フラッシュ・ダンス』の踊りのつもりだったんだがな。ホワット・ア・フィーリンっ♪ てダンスのシーン」
「昔の映画? あいにくと知らないわね。面白いの?」
「お話は良く言えば王道、悪く言えば陳腐なサクセスストーリー。けどダンスシーンのカメラワークと音楽は評判良いよ。新宿の映画館でリバイバル上映しているから、時間に余裕があるようなら観に行くのを薦めるよ」
「そうねぇ、映画なんてまともに観たのずっと前だし、たまにはいいかも」
倉橋家の令嬢として茶道や華道や書道、さらに日本舞踊まで習わされていた京子だが、陰陽塾に入塾してからは呪術の習得に集中するという名目で、ようやく習い事の時間を減らしてもらうことができた。
そういう意味で今は『時間に余裕がある』と言える。
ふいに京子の中に茶目っ気がわきあがる。
「えい」
京子のあやつる簡易式が秋芳の簡易式の足を払い、ころばせる。
「む」
すぐに起き上がらせ、お返しとばかりに背後に回り、机から落とそうと押しやる。
「甘いわよ」
机際まで寄ったところで今度は京子の式が身を入れ替えようとするのを、秋芳の式がそうはさせじと妨害する。
「――――っ!」
「――――っ!」
二人の式はまるで動きの巧みな紙相撲のような様を見せている。
しばらく押し合い圧し合い、いなしいなされの攻防が続き、同時に床に落ちた。
「あははっ、面白かった。式神でこんなふうに遊んだのなんて始めてよ」
「俺もだ。なんか子どもの遊びみたいだな」
!?
懐かしさがこみ上げてくると同時に、胸を針でつつかれたような感覚。続いて違和感がわき上がってきた。
(なつかしい……。ずっと昔、幼い頃にもこんなふうに誰かと遊んだ気がする。だが誰かって誰だ? 俺はあいつに、笑狸に会うまではずっと一人だったんだぞ? そんなことはありえない!)
大和葛城を本拠とする賀茂の里は連家に生を受けた秋芳は義務教育もそこそこに、もの心ついた時から修行修行の毎日をおくった。
一年の多くを山に籠もり。木々を飛び、林を駆け、精神を練り、己の霊力を高め、それを呪力に変える術を覚えた。
年端もいかない子どもの体に分不相応な高い霊力。山野にあふれる魑魅魍魎らにとっては好餌に見える。同い年の子どもたちが安全な家や学校で遊んでる時期、秋芳はすでに霊災を相手に命がけで戦っていた。
同い年の子どもらが家族みんなで遊園地や旅行を楽しんでいる時、秋芳はつねに滑落の危険と隣わせの山中で滝打ち、火渡り、あらゆる忍苦の行を耐えていた。
餓えた熊や野犬の群れと遭遇した時、ヒダル神に憑かれた時、その他あらゆる自然や霊災の猛威にさらされてきた……。
死を覚悟したことも一度や二度ではない。
本人の意志以上に、才能の有無が実力を決める。というのが呪術界の定説らしいが、冗談じゃない。あまたの死線をくぐり抜けて修得したこの力。才能なんてチンケな言葉でかたづけてくれるな! と秋芳は言いたい。
そして長い山籠もりを終え、里に帰った後に待っていたのは畏怖と嫉妬に満ちた人々の視線だった。
優れた力も度が過ぎれば驚異や恐怖以外のなんでもない。
父親からも怪物を見るような目で見られた。母親は早くに亡くし、顔も知らない。
さしもの秋芳も人肌が恋しい。笑狸に出会ったのはそんなおりだ――。
「あー、ほんとうに楽しかったわ。それだけ動かせるようならもう練習の必要ないでしょ。あ……、ねぇ。あなた射覆はできる?」
部屋のすみに置かれた射覆用の箱を指差して、京子はそう訊いてきた。
射覆とは箱や袋の中に入れた物がなんなのかをあてる陰陽術で、賀茂忠行という平安時代の陰陽師がこれの名人だったと伝えられる。
また安倍晴明を彩る説話の一つに、このような話がある。
蘆屋道満という播磨の国の法師が晴明と術くらべをするため京に現れ、二人は天皇の御前で勝負することになったのだが、その内容というのが箱の中に隠されたものを言いあてるという射覆だった。
しかし道満はあらかじめ朝廷の役人を買収し、箱の中身はミカンが十六個だと知っていたという。
勝負のさいに道満はミカン十六個と答え。それに対して晴明はネズミ十六匹と答えた。
内情を知っていた役人たちは晴明の不正解・負けを告げ、箱を開けず。道満が自信満々で開けて見ると、あら不思議。
箱の中から十六匹のネズミが飛び出して来たそうな。
この後、負けを認めた道満は晴明の弟子になったという――。
「ああ。できることはできるが、そんなに得意じゃないな」
「ちょっとやって見せて」
「よし、じゃあむこうをむいて目をつぶっているから、なにか入れてくれ。先に言っておくが俺にバレないように入れるんだぞ。射覆の術はやると決まった時から始まっているんだ」
「のぞき見するのも術のうち、でしょ。わかってるわ」
陰陽術の教本に載ってある射覆の項にはそういう一文がある。京子はそのことを言っているのだ。
後ろをむいた秋芳だが、言葉通りに目を閉じることはしなかった。八方目を使い顔を動かさずに窓ガラスに映る京子の姿を観察する。
ズルだ。
だがこれもまた一つの呪術。乙種呪術である。
部屋の棚の中には射覆用に使う小道具がいくつか置いてある。京子はそれらをしばらく物色してから、ある物を箱に入れフタをした。
「さ、あててみて」
「うむ」
京子が箱に入れたのは、「さるぼぼ人形」だ。なんでそんな物がこんな場所に、と一瞬思った秋芳だったが、あれも魔除け厄除けの呪具といえなくもないので、陰陽塾にあっても確かにおかしくはない。
「真っ赤なさるぼぼ人形」
「はい、ハズレ♪」
京子がフタを取って横に置く。箱の中には白いハンカチが一枚あるのみ。
「なぬ!?」
「ふふ、あなた窓ガラスごしに見てたでしょ。それがわかったからひっかけたの。大成功ね」
赤くて目立つさるぼぼ人形を見つけた瞬間に思いついた。式符を人形に変化させて入れる時に、こっそりハンカチを忍ばせる。フタをした後で式符の変化を解除してフタの裏側に貼りつかせ、あたかも最初からハンカチが入っていたかのように見せたのだ。
ちょっと調べればすぐにわかるトリックだが、言いあてにハズレたのは事実だ。
「ねぇ、真面目な話。こういうのじゃなくて、正真正銘。ほんものの射覆ってのはどういうものなの? 透視するわけ?」
「あれは透視ではなく見鬼の一種なんだ。対象の気を感じ見て、それがなにかをあてる。どんなに距離が離れ、物で塞がれていようが、対象が生物だろうが無生物だろうが、すぐれた見鬼はそれを知ることができる」
「そんなことが……」
「できるんだ。理屈の上じゃね。これに関しては俺なんかより倉橋塾長に訊いたほうが良い。彼女はそっち方面のプロだから」
「前に訊いたわ。でもまだ早い。こういうのは段階を踏んでおぼえていくもの。って教えてくれなかったの」
「そういや射覆の授業は二年からだな」
「でも一年でやるのは基礎的なことだけだし、正直退屈なのよね。どうせならすぐにでも、もっと専門的なことを学びたいの」
春虎あたりが聞いたら卒倒しそうな科白だ。なんとも優等生らしい。
「射覆に関してはひたすら見鬼の力を磨け。としか言えないな。小手先の技術どうこうでどうにかできる類の術じゃないし」
「そう…、まぁいいわ。ちょっとあたしもやってみるから箱になにか入れてちょうだい」
それから何度か射覆に挑戦する京子。秋芳の方もふざけずにつき合う。わかりやすいよう、色が濃かったり形に特徴のある物を入れてあてさせる。達人は紙に書かれた文字まで読み解くとされるが、さすがに初心者レベルでそれは無理だ。
「賀茂の口伝に『年毎に咲くや吉野の山桜 木を割りてみよ花のありかを』という歌がある。実体のある物ではなく、対象の〝気〟そのものを感じるんだ」
「…なかなか含蓄のある歌ね。わかったわ」
京子の正解率は悪くなかった。さすがは倉橋の、星詠みの塾長の孫だと改めて実感する秋芳。気を視る力以上に勘の鋭さを感じさせる。
「ふぅ……、さすがに疲れたわ。て、もうこんな時間じゃない! そろそろ帰りましょう。なんだかあなたにつき合うつもりが、途中からあたしの方につき合わせちゃったみたいね、ごめんなさい」
「いや、そんな謝らなくてもべつにいいよ。楽しかったから気にしないでくれ」
「そう言ってくれると助かるわ」
夕暮れに染まる塾舎。黄昏が赤い影が落し、独特の陰影が廊下を彩る。
昼でも夜でもない狭間の時。陰と陽が入れ替わるわずかな刻。
逢魔が時。陰陽師ならば警戒し忌避すべきこの魔性の時間帯が、秋芳はきらいではない。
「さっきの映画の話なんだけど」
「うん?」
「明日の祝日に観に行くわ」
「それは良い。思い立ったが吉日だ」
「でね、思い出したんだけど、あたしって他の塾生よりもあなたに一日早く出会ってるでしょ」
「ああ、そうだな」
忘れもしない。秋芳が京子と出会ったのは入塾前日の代々木公園でだ。
「でも、あたしあの時にあなたの名前を聞きそびれてるの」
「そういえば、そうだったかもな」
「みんなより一日早く会ってるのに、名前を知ったのはみんなと同じ。な~んか納得できないわ」
「まぁ、わかる気がする」
「一日ぶんの遅れを取り戻してバランスとりたいの。あなたも明日つき合って」
その理屈はいまいちわからない。だが、予定もないのに女の子からの誘いをむげにする理由もない。まして相手は倉橋家の才媛。こんなお嬢様と同じ時を過ごせるだなんて実に幸運なことである。
「喜んでつき合うよ。……デートだと思っていいのかな?」
「ええ、そう思ってもかまわないわよ。あ、でも笑狸ちゃんも一緒に行きたいて言ったら置いてきちゃダメだからね。そんなのかわいそうじゃない」
「十中八九ついてくるぞ、あいつ」
「かまわないわ。三人でデートしましょ♪」
それはデートといえるのだろうか? つうか夏目を誘わなくていいのか?
そんな疑問を抱かずにはいられない秋芳であったが、同級生と一緒に休日を過ごすというのは今まで経験がない。純粋に楽しみだ。細かいことは考えないようにした。
夜。
陰陽塾男子寮。秋芳の部屋。
「ボクも行くよ」
案の定、笑狸はそう言った。
「俺が倉橋のお嬢様と二人きりの時を過ごす邪魔をするつもりか」
「邪魔するつもりなんてないよ。ただ一緒にいるだけ」
人、それをデートの邪魔という。
だが、秋芳は笑狸の同行をあっさりと認めた。
(あの感じだとむこうも『恋愛感情ありの二人きりのデート』を求めてるわけじゃなさそうだし、まぁいいか)
「わかった。好きにしろ」
「は~い。……それじゃあ、さ」
「うん?」
「秋芳、オ○ニーしちゃう★」
「『オ○ニーしちゃう★』じゃねえよっ! なに藪から棒にとんでもないこと言い出すんだおまえは!」
「『ナニ藪から棒』て、なんか卑猥な言葉だね」
「卑猥なのはおまえだよ!」
「だってデートの前は抜いとけって、キャメロン・ディアスの映画であったじゃない」
「あー、あったな『メリーに首ったけ』だっけ? あのシーンは笑えたわ」
「だからボクが久しぶりに秋芳が抜くのお手伝いしてあげる♪」
「いらんわ。つうか『久しぶり』てなんだ『久しぶり』て。久しいもなにもおまえとそんな行為したことなんか過去に一度もない! 誤解を招くような言いかたはよせ」
「誰に化けてして欲しい? ヴァネッサ・パン? エリン・ハザートン? ケイト・アプトン? それとも……、ボクとこのままでしちゃう?」
「眩め、封、閉ざせ。急急如律令!」
「むにゃっ!?」
教科書に載ってあった誘眠の術。今まで使ったことのない汎式陰陽術だが、ものの試し。笑狸を黙らせるついでに使ってみた。
目の前に呪符をかざされ、たちまち昏倒する笑狸。
「まったく、とんだ色狸だ『東京レイヴンズ』は健全なライトノベルだぞ。エロ・下品な話がしたいなら〇〇や××の世界にでも行け」
「う~ん、むにゃむにゃ。……ダメでしょイッセー、お●んぽこんなにエレクトさせて来たら、あらあらうふふ、イッセーくんのおペ●ス逞しすぎて、お姉さん壊れちゃう」
「いや『ハイスクールD×D』だってそこまで露骨な表現してないからね! つかおまえ起きてるだろ、俺の術に抵抗しただろ!」
「……えへへ、狸だけに狸寝入り?」
「上手いこと言ってんじゃねぇよ!?」
その後もしばらくたわいのないやり取りをした後、明日にそなえて早々に床に就くことにした。
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