役者と蕎麦屋
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第一章
役者と蕎麦屋
品川の蕎麦屋長兵衛はこの時店はいつも閑古鳥が鳴いていた、それで店の主柳吉は女房のお種にこんなことを言われていた。
「御前さん、このままじゃだよ」
「ああ、店じまいだな」
「そうなっちまうよ」
「この店を売っぱらってな」
そしてとだ、柳吉はその細長い顔で女房のその丸い顔を見つつ言った。
「屋台にするか」
「あたし達蕎麦しか打てないからね」
「ああ、しかし俺の蕎麦打ちは江戸一だ」
その腕に自信はあった。
「それこそ手打ちなら誰にも負けねえよ」
「特に汁蕎麦はね」
「それだよ、うちはざるやせいろはやってねえだろ」
柳吉はお種に言った。
「汁蕎麦の店だ」
「そうだね」
「汁蕎麦ならな」
それこそというのだ。
「江戸一なんだよ」
「夏は冷やし汁を出すしね」
それをかけた蕎麦をというのだ。
「つゆも自信があるよ」
「ああ、しかしな」
「最近ねえ」
お種はその丸いふっくらとした顔で溜息を出した。
「ざるやせいろが流行ってね」
「江戸は昔からそっちが主流だしな」
蕎麦といえばだ。
「前から売れてたがな」
「最近は特にだね」
「ああ、ざるやせいろが人気でな」
近頃の江戸ではだ、流行りに敏感な江戸っ子達はそちらの蕎麦になびいてしまっているのだ。
「汁蕎麦は、だからな」
「うちみたいな汁蕎麦しか出さない店はね」
「困るな、しかしな」
「このままだとね」
「店を売るしかないな」
「それかあれだね」
困った顔でだ、お種はこうも言った。
「うちの店のやり方を変えて」
「ざるやせいろもか」
「出すかい?」
「これは祖父さんが店出した時からな」
まさにその時からだというのだ。
「やってきたことだからな」
「だからだね」
「それを変えるってことはな」
「店を変えるってことだね」
「それになるんだよ」
柳吉はこうお種に言った、客は誰もいないその店の中で。奇麗に掃除されているが閑散としている。
「そうしろってのか」
「それは」
お種は亭主の言葉に困った顔になって返した。
「このままだと店じまいだからね」
「仕方ないかもな」
「そうだね、ざるやせいろも出せば」
「今の流行りだからな」
「それに元々江戸っ子はざるやせいろをよく食うからね」
むしろそちらが主流と言っていい程だ。
「それも噛まずにね」
「喉ごしで味わってな」
「それでだね」
「いい加減うちもざるやせいろを出すか」
「屋台がどうしても嫌ならだね」
「それも仕方ないだろ」
まさにというのだ。
「店じまいして屋台になるか店を変えるか」
「どっちかだね」
「ああ、もう今の江戸で汁蕎麦を食うなんてな」
それこそとだ、柳吉はお種に口をひょっとこみたいに尖らせて言った。
「直侍だけだろ」
「歌舞伎のだぜ」
「三千歳この世じゃってな」
柳吉はその演目の名台詞を手振りも入れて言ってみせた。
「そう言うな」
「あれだけだね」
「そうだよ、直侍は食うけれどな」
それでもというのだ。
「今じゃ一人もだよ」
「江戸じゃ汁蕎麦は食わないか」
「そうだよ、これじゃあどうしようもないさ」
「難儀な話だね、いや」
「いや?」
「直侍さんしか食わないならね」
それならとだ、お種は閃いてそのうえで柳吉に話した。
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