俺の涼風 ぼくと涼風
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13. 久しぶりの外出(2)
市街地のバス停に到着したあと、私とゆきおは、手をつないだままバスから降りた。バスの社内は暖房がかかっていたためか、外気は意外と肌寒い。私の身体がぶるっと震えたのだが、隣のゆきおは、そんな私を見逃さなかった。
「寒いの?」
「んー。バスの中が暖房聞いてたからかな」
「コート貸そうか?」
ゆきおが、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。私は慌てて首を横に振り、せっかくのゆきおの好意を拒否した。そんなことして、ゆきおに風邪を引かせるわけにもいかないし。
「いいっていいって! 早くパンツ買いに行こうぜ!!」
「そお? 結構厚着してきたから、ぼくは平気だよ?」
「だーいじょうぶだって! ほら! 行こうぜゆきお!!」
これ以上、余計な心配をかけるわけには行かない。私はゆきおの左手を取り、スタスタと歩き出した。私達が歩くこの先に目当てのお店があるかどうかは分からない。だけど、これ以上立ち止まっていたら、心配するゆきおが、きっと私の肩に無理矢理コートをかけようとしてくる。そんなことをさせるわけには行かなかった。
「ちょ……涼風! そんなに急がなくていいからっ!」
「てやんでいっ! 急がねえと日が暮れちまうぜっ!!」
……本音を言うと、ちょっと羽織ってみたかったというのは、秘密だ。
ゆきおを引っ張りつつ、でも時々ゆきおに進む方向を修正されながら十数分後。ちょっと大きなスーパーに到着した。二階建てのスーパーで、一階には食料品、二階には紳士服や婦人服などの売り場があるようだ。
「……ここで買おっか」
「だな。二階に上がってみようぜ」
見た目も都会のセンス抜群な感じではなく、よく言えば無難な……悪く言えば個性のない、地方特有の雰囲気のあるスーパーだ。出入りするお客さんも、若い人は少ない。ここなら、提督のパンツもきっとリーズナブルな値段で置いてあるだろう。
私とゆきおは手をつないだまま、エスカレーターを使って二階に上がる。入り口横のフードコーナーから、今川焼きとクレープのいい香りが漂ってきたが、今は我慢だ。そのまま二階へと上がり、紳士服売り場の下着のコーナーにやってきた。
「提督、どれ履いてるんだ?」
「トランクス。締め付けるのが嫌なんだって。えーっとね……」
山のようにあるパンツの中から、ゆきおは一枚の水色ストライプのトランクスを手に取った。サイズはLサイズ。これが大きいのか小さいのかはさっぱりわからないけれど、息子のゆきおがこれでいいというのなら、きっとサイズは問題ないんだろう。
「柄はそれでいいのか?」
「前も似たようなの履いてたし、これでいいよ」
同じく水色ストライプのトランクスをあと2枚、ゆきおは手に取っていた。合計で三枚も買うのなら、一枚ぐらい違う柄のものを買ってもいいと思うんだけど……。
「他の柄は買わないのか?」
「いいよ。父さんもこれで文句ないはずだから」
うーん……どうにも面白くない。私の視界のすみに、ケツの部分に時代劇でよく見る家紋が入った、赤地の派手なパンツが目に入った。
私はそのパンツの元まで走り、それを持ってゆきおの前まで戻ってきた。このパンツ、手にとってみると、よく伸び縮みする生地でさわり心地がいい。家紋は私もよく知ってる……なんだっけ……若い人たちを引き連れたおじいちゃんの時代劇で見た、印籠に描かれてるのと同じ家紋だった。
「ゆきおー。これは?」
「それはダメ。ボクサーパンツって言ってさ。父さんは嫌いなんだよ」
「ふーん……」
「僕はいつもこのボクサーパンツなんだけどね」
「んじゃ、ゆきおがこれ履いたらいいんじゃねーの?」
「僕のは買わなくていいのっ!!」
私の意見は根本から否定か……それにしても、男のパンツってのもけっこう色々とあるものだ。なんだかちょっとおもしろい。
「ゆきおー」
「ん?」
「履いてるパンツ見せて」
「ぇぇえええエエ!?」
紳士服売り場の下着コーナーの一角で、ゆきおの、絹を割いたかのような悲鳴が響いた。
「ちょ! ゆきお!! 声大きいっ!!」
「い、いやでも!! セクハラだよッ!!」
慌てて周囲を見回す。幾人かのお客さんや店員さんが私たちの方を見て、くすくすと笑っていた。
「うう……」
「う……ああ……」
は、恥ずかしい……こんなことで注目なんて浴びたくない……私達は三枚プラス一枚のパンツを握りしめたまま、レジへと急ぎ、大慌てでお会計を済ませた。
急いでエスカレーターを降り、一階のフーとコーナー前に到着した時、フと気付く。
「……涼風」
「……ん?」
「買っちゃったよね。ボクサーパンツ」
「お、おお」
ゆきおの手にある紙袋を、恐る恐る覗く私達。紙袋の中には、水色のストライプのパンツが三枚と、真っ赤で伸び縮みしやすいタイプの、葵の御門が入った、真っ赤なボクサーパンツが、一枚入っている。
二人で相談した結果、これはもうこのまま持って帰ろうという結論に達した。本当は返金してもらいに行くのが一番いいんだが、たくさんの人にくすくす笑われてしまったあの空間に、私はもちろん、ゆきおも戻りたくないらしい。
幸いなことに、お金はけっこう余裕がある。ならば、これは私たちから提督へのプレゼントとして渡してしまおうというのが、ゆきおの作戦だった。そして、私もそれに賛成した
「ったく……僕のパンツ見せてなんていうから……」
「だって……見たかったんだもん……」
「それがセクハラだよ……」
そう言って、赤いボクサーパンツが入った紙袋を抱えるゆきおは、へそを曲げたように口をとんがらせて、私に対してごきげんななめをアピールしている。
私も段々むかっ腹が立ってきた。ただパンツを見たいと言っただけで、なぜこうも非難されなきゃいけないんだ。だんだんイライラしてきた私は、今は私から離れた位置に立ち、物欲しそうにフードコーナーの今川焼きを眺めているゆきおに対し、声を荒げて怒鳴ってやった。
「やいやいゆきお!!」
「んー……いい匂い……ん?」
「黙って聞いてりゃーケツの穴の小さいこと言いやがって! いいじゃねーかパンツの一枚や二枚! ゆきおも男なら、あたいにパンツ見せやがれっ!!!」
言ってやった。ゆきおは細っこい首を上に伸ばして、ほっぺたを赤くして、目をぱちくりさせている。この私の迫力に押されているらしい。どうだゆきお。私だってたまにはこうやって怒ることもあるんだっ。
「え、えーと……涼風……」
「なんでいなんでい! パンツぐらい、あたいに見せてくれたっていいじゃねーかっ!」
「あ、あのー……」
「あたいはな! ゆきおのパンツが見てぇんだ!! ほら! さっさと見せるんだよっゆきおのパンツを!!」
ゆきおは、私の迫力に何も言い返せないようだ。満面の苦笑いを浮かべ、紙袋を抱えてない方の手でほっぺたをポリポリとかいて、困ったように冷や汗をかいている。くっくっくっ。このまま攻め立てれば、いずれゆきおも私にパンツを見せてくれるはずだ。よし。このまま……
「おじょうちゃん」
不意に、私のことを呼ぶ、ハスキーな女の人の声が聞こえた。
「ん?」
「タハハ……」
声が聞こえた方を見回す。ゆきおの背後……フードコーナーの中から、日焼けした小麦色の肌で長門さんのように体格のいい、真っ白の無地のTシャツを着て首にタオルをかけた女の人が、真っ白い歯を私に向け、ニヤリと笑っていた。
「……お、おう」
「お前さん、この子に『パンツを見せやがれ』ってーのは、いただけねぇなぁ。いただけねぇよ」
「なんで?」
「……周り、見てみな」
ハッとして、周囲を見回す。紳士服売り場での惨劇が、またここでも再び起こっていた。周囲にいる老若男女沢山の人たちが、私のことを見てクスクス笑っている。
「……あう」
ゆきおを見ると、やっぱり恥ずかしそうに俯いて、ほっぺたをぽりぽりとかいている。顔が真っ赤っかだ。多分、私も顔が赤い。顔から火が出るほど熱い。
私に声をかけたフードコーナーのお姉さんは、私とゆきおを交互に見て、そのあと私に再び話しかける。不思議とその眼差しは、摩耶姉ちゃんによく似ていた。
「おじょうちゃん、男のパンツ姿ってのぁーな。その時がこなきゃ、見れないもんだ。軽い気持ちで、見せろってワガママいうもんじゃねぇ」
? その時? その時って、どの時?
「なぁ姉ちゃん」
「おう」
「その時ってなんだ? あたい、よくわかんねーや」
「それが分かる頃には、この子もおじょうちゃんに、喜んでパンツ見せてるだろうよ」
「……う」
さっぱり意味がわからない。でもゆきおは言葉の意味が分かったようで、お姉さんの言葉を聞いて、ますます恥ずかしそうにうつむき、パンツが入った紙袋を抱きしめ始めた。そのあと、俯いたままお姉さんのもとにトコトコと歩き、
「……あ、あの」
「はいよっ」
「……今川焼き、二つください」
「味は何にする?」
「あんこと……カスタード、一つずつ」
「あんがとっ」
と、今川焼きを二つ、頭から湯気を出してうつむいたまま注文していた。私は意味がわからないまま、頭の中がはてなマークいっぱいの状態で、真っ赤っかな顔でうつむき、今川焼きを待っているゆきおの隣に向かう。
「おまっとさん。二つで200円だ。仲良く食べなー」
私がゆきおの隣に来たのと、ゆきおがお姉さんから今川焼きの包みを受け取ったのは、同時だった。ゆきおは今川焼きのつつみ二つとパンツの紙袋を器用に左手だけで持ち、右手をポケットに突っ込んで、さっきのパンツのお釣りの中から200円をお姉さんに渡していた。
「はいちょうど。まいどー」
ゆきおからお金を受け取ったお姉さんは、そのまま意味深な微笑みを浮かべて、奥に引っ込んでいった。
「……涼風」
真っ赤な顔のゆきおが、私に今川焼きの包みを渡す。中には今川焼きが二つ。どっちがあんこでどっちがカスタードクリームなのかは、外見からじゃ分からない。
「ゆきお、どっちが食べたい?」
こういう時は、ゆきおに選ばせるのが一番いい。私は二つの今川焼きをゆきおに見せたが、そこでゆきおは、真っ赤な顔でニコッと笑って、
「半分こしよ。カスタードもあんこも、どっちも食べたいから」
と、とてもうれしい提案をしてくれた。なるほど。それなら、私もゆきおも、あんことカスタード、両方堪能できる。
「冴えてる!!」
「へへ……」
私の称賛は、ゆきおに届いたようだ。相変わらずほっぺたは赤いけど、今のゆきおはとても穏やかに笑ってる。私も、さっきまでのゆきおのパンツへの衝動が、潮が引いたようにスッとなくなっていた。
「外で早く食べよ」
「うん」
ゆきおが私の、今川焼きの包みを持ってない方の手を取り、てくてくと歩き出した。
「……あ、姉ちゃん!!」
ここのフードコーナーは出入り口すぐそばにあって、建物の外側からでも注文を受け付けている。私はその外からの注文を受ける窓口を覗き込み、奥で腕を組んでこっちを笑顔で眺める、お姉さんに声をかけた。
「おうっ!」
お姉さんは、私の呼びかけに、満面の笑みで真っ白い歯を見せながら、返事をしてくれた。
「さっきは意味わかんなかったけど、ありがと!」
そのお姉さんに、私はニシシと笑いながらお礼を言う。実際、あそこでお姉さんが私を制止してくれてなかったら、今頃どうなっていたことか……
私のお礼を受け、お姉さんも私と同じく、ニシシと笑う。なんだか本当に摩耶姉ちゃんみたいだなぁ。そのままお姉さんはゆきおの方を見た。ゆきおもそれに気付き、お姉さんの方を見つめる。ゆきおのほっぺたはまだ赤い。
「素直でいい子じゃないか! あんた、男だろ?」
「うん」
「守ってやんな!」
なんだか、ゆきおに一番似つかわしくないことを言われたような気が……どちらかというと、私がゆきおを守る方な気が……そう疑問に感じたが、
「……はいっ」
その時、ほっぺたの赤みがさっとひいたゆきおは、まっすぐにお姉さんを見つめ、とても真剣な眼差しで、力強く頷いていた。なんだかその様子は、今まで見てきたゆきおの顔の中でも、特に凛々しく、そしてたくましかった。
二人で今川焼きを半分こして楽しみながら、バス停までの道のりを歩く。さっきまであんなにもめていたけれど、今はもう、仲良く二人で今川焼きをわけあっている。
「んー……ゆきおー……」
「んー……なーにー……?」
「あんこもいいけど……カスタードもいいなぁ……んふー……」
「でしょ? んー……」
歩きながら今川焼きを食べるという、とてもお行儀の悪いことをしながらバス停に向かう私達。実際、今川焼きはとても美味しい。あんこもカスタードも、気を抜くとこぼれ落ちるほど入っている。そしてその味も格別だ。
そのあんことクリームを包む皮は皮で、甘さ控えめでパリパリと香ばしく、それがまたあんことカスタードの美味しさを引き立てる。
「んー……この、皮もいいな」
「だよねー……今川焼きは、あんことカスタードと……この皮のコンビネーションだよ」
「んー……」
二人でほっぺたをもちもちにして、ほくほく顔で食べながら歩く。実際、この大判や焼きは絶品だ。あのお姉さんの人柄もあるかも知れない。
そうやって私たちが今川焼きに舌鼓を打っていたら、
「……ん?」
私と一緒にとことこと歩いていたゆきおが、その足を止めた。
「どした?」
「ん……」
バス停に向かう道の途中には、年末の売り出しでにぎわう雑貨屋さんがあった。どうやらおもちゃも扱っているらしく、たくさんの子供連れのお客さんが、お店を出入りしている。お店の入り口には、サンタクロースの格好をしたお兄さんも立っていて、年末の忙しさを、眺める私達に如実に伝えていた。
店の入口をしばらく見つめていたゆきおは、手に持っているあんこの今川焼きを一口で急いで食べ終わり、キッと店の出入り口を睨んだ。
「……ゆきお?」
「涼風。僕、ちょっとあの店に行ってくる」
「おう。んじゃあたいも……」
これだけ賑わってる雑貨屋さんなら、中もきっと楽しいだろう。サンタクロースもいるし、きっと中はクリスマス一色だ……と私がワクワクしていたら、そんな私を、ゆきおは静かに制止した。
「ごめん。ちょっとここで待っててくれる?」
「へ? 一緒に入っちゃダメなの?」
「ダメ」
『なんで!?』と怒りに任せ、不満をぶちまけそうになった。こんな楽しそうなお店なのに私は入っちゃダメだなんて、嫌がらせもいいとこだ……と口走りそうになったのだが……
「う……」
「……お願いだ」
「うん……」
……いつになく真剣な……今まで見てきた中で、一番真剣な表情で、ゆきおは私に頭を下げた。いつも穏やかで優しいゆきおにあるまじき真剣さ。その表情に柔らかさはなく、まるで、私のことを助けてくれた、あの戦闘のときのような凛々しさがあった。
私は、そんなゆきおの真剣さに呑まれ、つい首を縦に振ってしまった。
「……よかった。すぐ戻るから、ちょっと待っててね」
私の返事を聞くやいなや、ゆきおはパンツの紙袋を持ったまま、私に背を向け、出入り口に向かって歩いて行った。ちょうど出入り口からは、たくさんのお客さんが出てきたところだ。
「……」
小さなゆきおの背中は、そのたくさんの人たちをかき分けかき分け、お店の入り口に到達し、店内に消えていく。その小さくて細っこい背中だけを見れば、ゆきおはとても頼りない。
だけど私は知っている。あの細っこく小さな、頼りない背中のゆきおは、誰よりも優しく、そして頼もしい。戦えない葛藤と恐怖と不安から私を救ってくれ、そして榛名姉ちゃんと仲直りさせてくれた。
今店内で周囲のお客さんにもみくちゃにされながら、それでも奥の方に消えていくゆきおの背中を、見えなくなるまで見守る。ゆきおは一体、お店で何を買うつもりなんだろう。……ゆきおのことだから、本か何かでも買うつもりだろうか。それともパズルか何かかな……パズルだったら、二人で作りたいな……
最初こそ戸惑ってしまった、ゆきおとのデートだったけど、今振り返ると、とても楽しかった。ゆきおに『パンツを見せろ』とセクハラを働いてしまったのも楽しかったし、お店で周囲の人にクスクス笑われたのも、楽しいみやげ話になるだろう。今川焼きも美味しかったし、素敵なお姉さんにも会えた。ゆきおと入れ違いにお店から出てきた数人のお客さんとすれ違った時、私はそんなことを考え、帰りもゆきおと手を繋いで帰ろう……そう思っていた。
……だが、このデートが楽しかったのは、そこまでだった。
――見つけた
私の耳に今、確実に届いた声があった。途端に、私の背筋に氷が流し込まれたかのような、冷たい感覚が走った。
「!?」
慌てて振り向き、周囲を見回す。背後を睨みつけ、右を伺い、左を警戒した。
忘れるはずがない。あの声は……
――俺だけの……涼風……
心臓はバクバクと必要以上に力強い鼓動をしているのに、血の気が引いていく感触が私の全身を駆け巡る。さっきまであんなに楽しかったデートが終わりを告げ、私の周囲の空間が真っ黒に見えてきた。
「……ッ!!!」
空が青さを失い、あれだけ賑やかだった雑貨屋さんが輝きを失った。ガヤガヤという音が私の心臓の鼓動にかき消され、私の周囲から音が消えた。
「なんで……なんで……」
私には分かる……あの男がいる。
再び周囲を見回す。しかし周囲にたくさんの人がいても、あの男の姿はない。
「おまたせー……?」
手にふたつ目の紙袋を抱えたゆきおが戻ってきたが、私の顔を見た途端、その顔色が変わった。
「……どうかしたの?」
ゆきおの真剣な表情から、とても優しい声が放たれた。
「……ゆ、ゆき……」
「何かあったの?」
聞く人すべてを安心させ包み込む、ゆきおの優しい声は今、あの男の恐怖ですくむ私の心を、優しく、そして温かく包み込んでくれた。私の手を取ったゆきおは、そのまま力強く、温めるように握ってくれる。ゆきおの暖かいぬくもりが、あの男の冷たさで身動きが取れなくなっていた私の身体を、少しずつ温めてくれる。
だけど。
「手……こんなに冷たい……」
「……」
「ごめんね……待たせてごめんね……」
私の手が再び温かくなることはなく、むしろ気温よりも冷たくなっていく気がした。ゆきおは私の手をさすり、必死に私の手を温めようとしてくれている。『ごめんね』と何度もつぶやき、暖かい手で私の両手を包み込んで、なんとか私の手を温めようと頑張ってくれたけど。
「ち、違うんだゆきお……」
「ごめんね……寒かったよね……今温めるからね……ごめんね……」
ゆきおが涙目で、どれだけ私の手を温めてくれても、私の全身に再びまとわりついてしまった、あの男への恐怖を拭い去ることは出来なかった。
あの男……ノムラが刑務所を脱走したことを知らされたのは、私とゆきおが鎮守府に戻ってからの事だった。
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