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俺の涼風 ぼくと涼風

作者:おかぴ1129
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5. 海に出たことのない艦娘(2)

「行こうぜ! ゆきお!!」

 うつむき、悩む素振りを見せたゆきお。でもやがて右手をギュッと握りしめ、山吹色に輝く眼差しで私を見つめ返し、そして力強く頷いた。

「……うんっ!」

 そこからの私たちの行動は早かった。二人で手をつなぎ、この新宿舎をこっそりと脱出した後は、駆け足で入渠施設の前を通り過ぎ……

「すずかぜっ! 走らないで!! もっとゆっくり!!」
「てやんでぃっ! のんびりしてたら日が暮れちまうぜッ!!」

 私達の宿舎の前を、伝説の傭兵よろしく物陰に隠れながらこそこそと移動し……ダンボールで身を隠しながら、執務室前の中庭を抜け……

「と、父さんに見つからないかな……」
「いけるいける! ダンボール箱被ってるんだから!!」

 いつも何気なく移動する鎮守府の大冒険の末、出撃ドックに無事到着した。

「よかった……誰にも見つからなかった……」
「あたぼうよ! あたいを甘く見ちゃダメだぜ!!」

 ちゃぷちゃぷと小さく波打つ、水面に気を取られるゆきおをその場で待たせ、私は自分の艤装の主機を足に装着した。水面に立ち、ゆきおのそばまで移動して、ゆきおのことをおんぶする。

「す、涼風……ごめん……重くない?」
「大丈夫に決まってんだろ! 白露型はつえーんだっ!!」

 実際、身体の小さなゆきおの体重は、とても軽い。日頃遠征で魚雷発射管を背負ってる私には、ともするとそっちの方を重く感じるほどだった。

「ゆきお、あたいにしっかりつかまれよ!」
「う、うん……」

 ゆきおの温かな両腕が、私の肩を優しく掴んだ。これじゃ吹き飛ばされる。

「ダメだゆきお! ちゃんとあたいの首に腕を回せって!!」
「お、おうっ!」

 今度は、ゆきおは私の肩に抱きつき、しがみつく。ゆきおの左手が私の右肩をつかみ、右手は私の左肩をしっかりと掴んでいた。両肩に、ゆきおの手のぬくもりが、じんわりと伝わった。

「よーし! いくぞゆきおー!!」
「お、おーっ!」

 主機の回転数を限界まで上げる。ゴゴゴゴという主機の音が出撃口に鳴り響いた。私とゆきおの後ろで、水しぶきが上がる。

「つめたっ」
「大丈夫か?」
「大丈夫。顔にちょっとかかっただけ!」
「上等だ……ッ!! 全速ぜんしーん……」

 私の肌に触れるゆきおの両手に、力が篭もる。私は主機のギアを切り替え、溜めに溜めた加速力を一気に開放した。

「よぉぉおおおそろぉぉぉおおおお!!!」
「ふぎゃぁぁぁああああアアアアッ!!?」

 途端にドカンと音が鳴り、ゆきおをおぶった私の身体は、猛スピードで前方に跳ね飛ばされる。これだけすさまじいロケットスタートをきめたのは久しぶりだ。

「涼風! スピード!! スピード落として!!!」
「てぇぇぇええやんでぇぇええええ!!!」

 私の背後では、ゆきおがとんでもない悲鳴を上げながら私のことを制止するが、それはあえて無視する。久しぶりのトップスピードで水面を走り、みるみる沖に出てくる私達。ゆきおの両手が、必死に私の肩を掴んでるのが分かる。

「……ッく……!!」

 私の耳元で、時々ゆきおの声が聞こえた。かなりの力を込めて、私にしがみついているようだ。猛スピードで走る私に振り落とされまいと、私の身体に必死にしがみつくゆきおの両腕からは、ぽかぽかと心地いいゆきおの体温が、カーディガン越しに感じられた。



 ある程度沖に出たところで、私は少しずつ主機の回転数を下げる。次第に私達はスピードが落ち、自転車ほどのスピードまで落ちて……やがて私たちは、目の前に水平線がどこまでも広がる、この大海原で静止した。

 ゆきおは相変わらず私の身体にしがみついている。私の右耳にほっぺたを押し付けているゆきおは、どうやら目をギュッと閉じているようだ。おかげで、今目の前に広がる、水平線が遠くの遠くまで続くこの光景に、まだ気がついてないらしい。

「……っ!!」
「おーいゆきおー」
「……っ!」
「ゆーきーおー」
「……ん、んん? 涼風、止まった?」
「おう」

 ゆきおのほっぺたが、私の項から離れた。そしてその直後……

「うわぁ……」

 私の右耳のすぐそばで、ゆきおは温かくこそばゆい吐息とともに、感嘆のため息をもらした。

「……スゴい……スゴい……すごい!!」

 私の身体を、ゆきおの両腕が再びしめつけた。でもそれは、さっきまでのような、振り落とされないための必死の抵抗ではなく、目の前の美しい光景に対する、ゆきおの感動の反応だった。

「すごい! こんなの初めて見た!!」

 ゆきおが私の身体にしがみつくのをやめ、背筋をピンと伸ばして、より遠くを見ようと背のびをした。でも、どれだけ遥か彼方を見つめても、その先に続くのは水平線。遮るものは何もなく、目の前に広がるのは、秋のお日様の光を反射して、キラキラと美しく輝く水面。

「どこまで続いてるんだろう? 涼風! この水平線、どこまで続いてるのかな!?」
「ずーっと先までだ! ずーっと先の、そのまたずーっと先の先まで、ずーっとずーっと続いてるんだ!!」
「そっかー! 何もないのか!! 僕達の前には、遮るものはなにもないんだ!!」

 私の肩から右手を離し、その手でひさしを作って遠くを見つめるゆきおは、ひどく興奮しているようだった。周囲をキョロキョロと見回して、いつもあの小さな部屋で静かに本を読んでいる姿とは、似ても似つかぬはしゃぎっぷりで、水平線の端から端をひたすら眺め続けていた。

「!? 涼風!!」
「ん? どしたー?」
「後ろ! 後ろ振り返って!!」

 肌がむき出しの私の右肩をぺちぺちと叩き、私に反転をせがむゆきおに促され、私は身体を反転させる。目の前にあったのは、豆粒ほどの小ささになってしまった、私たちの鎮守府と、その周辺地域の光景だ。

「見て! 鎮守府があんなに小さい!!」
「へへ。結構なスピードで走ったからなー」
「すごい! すごい涼風!!」
「あたぼうよぉ!!」

 ゆきおに『スゴい』とほめられ、私はつい得意になり、ゆきおの足を支える左手を離し、その手で自分の鼻の下をすりすりとこすった。その間もゆきおは興奮気味に周囲を見回していて、ここから見える、こちらに飛び出た半島を指差していた。

「涼風! 涼風!! あそこ、伊豆だ! 伊豆半島だよ!! てことは、あっちが浦賀で……あそこは駿河湾かな!?」

 私たちの周囲の、いたるところを指差しては、それがどこかを興奮気味に教えてくれるゆきお。いつもなら、遠征の時のただの通り道でしかなかったこの航路が、ゆきおと一緒にいるだけで、ドキドキが至るところに隠された、この上なく楽しい航路へと変貌した。

「んじゃゆきお! あっちはどこだ?」
「あっちは御前崎! もうちょっと西に行ったら、別の鎮守府があるはずだよ!!」
「隣の鎮守府なんてすごく離れてるように感じるけど、こうやって見るとあたいらの鎮守府から、そう離れてないんだなー」
「そうさ! だってここから見えるもん!!」

 その鎮守府の場所を探してみたが、私たちがいる場所からは、距離が離れすぎていてよく分からない。でもゆきおがそういうのだから、きっとその辺りに、隣の鎮守府はあるのだろう。

「ねえ涼風!」
「んー?」
「僕はね! 伊豆半島の向こう側から来たんだ!!」

 ゆきおは笑顔でそう教えてくれ、さっき教えてくれた伊豆半島の、その向こう側を指差した。それが具体的に何という場所なのかは教えてくれなかったが、あっちの方角からすると、神奈川とか東京とか、その辺なのだろうか。海に出たことがないと言っていたから、内陸なのかもしれない。

「涼風は?」
「へ?」

 私の胸に、たった一拍だけの、酷く強烈で、とても気持ち悪い心臓の鼓動が、ドクンと走り抜けた。

「涼風は、今の鎮守府にずっといるの? 前はどこかの鎮守府にいたの?」
「あたいはー……」

 ゆきおの右足を支える私の右手から、少しずつ力が抜けてきているのが分かった。昔のことを思い出していることをゆきおに悟られないよう、私は努めて、大きい声で返事を返す。

「……あたいは、ずっと今のところにいた!!」

 ごめんゆきお……私は今、ウソをついた。

「そっかー。でも、ずっと同じ場所にいられるってのはいいね!」
「そっか?」
「そうだよ!」

 私のウソを真に受けたゆきおは、そう言って私に対し、ニッコリと微笑みかけてくれた。その一切の疑念のない、私の言葉を信じきった笑顔が、私の心にほんの少しだけ、チクッと刺さった。

 『御前崎の向こうは浜松だ!!』と騒ぎ立てるゆきおの声に混じり、私の通信機からの呼び出し音が鳴った。いつも出撃の際には艤装と一緒に通信機も身体に取り付けているが、それを今回も持ってきてしまったようだった。私とゆきおに対し、通信機は『ピーピー!!』とけたたましく鳴り響き、私達に、通信相手の逼迫さを必死に伝えているようにも聞こえた。

「あれ?」
「あ、悪い。通信機持って来ちゃった」
「バレちゃったのかな」
「かもなー」

 もうしばらくゆきおとはしゃいでいたかったけれど、こう執拗に呼び出しをされたら気になって仕方ない。私は回線を開き、通信相手と会話をすることにする。

『涼風か?』
「お、摩耶姉ちゃん」

 相手は摩耶姉ちゃんだった。でも、その声には、いつものような朗らかさや気楽さがない。なんだか作戦中のような、逼迫した雰囲気なような気がするけど……気のせいだろう。構わず私は、通信を続ける。

『お前、いまどこにいるんだ?』
「沖に出てるよー」
「涼風!! 鯨だ! 鯨がジャンプした!!」
『ひょっとしてさ。今、雪緒と一緒にいるか?』
「ぉお。よく分かったな摩耶姉ちゃん! 今、ゆきおと一緒に沖から鎮守府眺めてる!!」

 この時、通信機の向こうから、『ひゅおっ』という、摩耶姉ちゃんの雰囲気が変わる音が聞こえた気がした。その瞬間、私の心が異変を感じ、『ヤバい』と警報を鳴らしたが、時すでに遅し。

『バカやろうっ! 今『涼風と雪緒がいないっ』て、鎮守府大騒ぎになってんぞ!!』

 私の鼓膜を、ビリビリと容赦なく攻撃する、摩耶姉ちゃんの怒声を前に、私は思わず肩をすくませ、身を縮こませた。

「ひゃっ!?」
「おわぁあっ!? す、涼風っ!!」

 その拍子に体勢を崩してしまい、私がおんぶしているゆきおもろとも、思わず海面に倒れ伏しそうになってしまう。すんでのところでなんとかこらえ、心配そうに見守るゆきおを尻目に、私は摩耶姉ちゃんとの通信に再び集中した。

「へ? なんで?」
『当たり前だろバカっ! 何の連絡もなくいきなり仲間が二人もいなくなったら、どこの誰でも心配するだろうがッ!!』
「うう……」
『いいからさっさと帰ってこいっ!!』

 うわ……摩耶姉ちゃん、相当怒ってる……。言葉の端々に、摩耶姉ちゃん特有の、いつもの優しさがまったくない……でも……

「ちょ! 涼風ッ!! あっちでイルカもジャンプした!!」
「……」
「来てる!! ジャンプしながらこっちにたくさん来てるよ涼風!!」

 息を切らせたゆきおが、こんなにはしゃいでる。このまま帰るのもなんだか忍びない……。

「え……えーと、摩耶姉ちゃん」
『あン!?』

 うう……怖い……怖いけど……

「えーと……もうちょっと、ここにいて……いいかな」

 言ってしまった……後悔は、いつも口走ったあとで心を駆け巡る。

『うるせー!! 黙ってさっさと帰ってこいッ!!!』

 今まで聞いた事無いような、摩耶姉ちゃん史上最大級の雷が落ちた後、私の耳に『ガチャン!!!』という、通信が切られた轟音が鳴り響いた。あまりの音の大きさに、私の耳にキーンという耳鳴りが襲いかかった。あんなに怒った摩耶姉ちゃん、随分久しぶりだ……。

「? 涼風?」

 さっきまではしゃぎっぱなしだったゆきおが、私に心配そうな声をかけてきた。気がつくと、イルカの群れが背びれを海面から出して、私たちの周囲を、楽しそうにぐるぐると回っている。

 仕方ない……ここは素直にゆきおに本当のことを話して、鎮守府に帰ることにしよう。そう決意し、私は事の次第をゆきおに説明することにした。

「うう……」
「どうしたの?」
「ゆきおー。あたいたちが黙って出てきたの、怒られた……」
「そっか……」

 私たち二人の間にほんの数秒、気まずい沈黙が流れる。うつむく私と、残念そうに、名残惜しそうに、水平線の彼方の彼方をじっと眺めるゆきお。

 私の足元の水面から、イルカが一匹、顔を出した。目が水面の向こう側だから、イルカの表情は見えなかったが、『キュウっ』と意外と気の抜けた声が、パカッと開いたイルカの口から聞こえてくる。

 私は、そんなイルカの口をジッと見つめた。遠くを見つめていたゆきおも足元のイルカに気が付き、うつむいてそのイルカを見つめる。私とゆきおに見つめられたイルカは気まずくなったのか、再び『キュウ……』と情けない声を上げ、そのまま水面のはるか下へと消えていった。

 その様子を眺めた後、互いに顔を見合わせた私達。しばらく見つめ合った後、ゆきおの顔が、ふわっと微笑んだ。

「……帰ろっか、涼風」

 つられて私も、フフッと笑いがこぼれた。

「だな。帰ろっか、ゆきお」
「うん。でももう、ロケットスタートはやめてね」
「うん。ゆっくり帰ろうぜ」
「うん。二人で、ゆっくり帰ろ」
「うん」

 残念だけど……楽しい時間はこれで終わり。私とゆきおの、楽しい散歩は終わりだ。私は、今度は穏やかにゆっくりと主機を回し、この海域を離れ、鎮守府に帰投することにした。

「……涼風」

 帰り道の道中。見送りのイルカたちのジャンプを眺めながら、ゆきおが私の耳元で、ポツリと私の名を呼んだ。その時、とても温かいゆきおの両手が、私の身体にギュッとしがみついた。

「んー? どしたーゆきおー?」
「連れてきてくれてありがとう涼風」
「てやんでぃ。友達のためだ。ったりめーだぜ」
「うん。……ありがとう」

 帰路を急ぐ私たちの周囲で、楽しそうにジャンプしていたイルカたちと、距離が離れ始めた。ある程度離れたところで、私たちは、この散歩で出会った友達たちにお別れの挨拶を済ませ、家路を急ぐ。

「見送ってくれてありがとう! また会おうね!! また来るからね!!」

 離れていくイルカたちの群れに、そう叫びながら必死に右手を振っているゆきおの両目は、なんだか妙にキラキラと輝いているように見えた。



 鎮守府の出撃ドックに戻った時、そこでは腕組みをし、私達二人を睨みつける、摩耶姉ちゃんが一人で仁王立ちしていた。真っ赤な顔をしてるのに、目からはなんだか青い炎が出ているような……怒り心頭の人だけが見せる、裂帛の気迫のようなオーラが見える。二の腕あたりをチョンとつつけば、たちまち大爆発してしまいそうな、そんな感じの摩耶姉ちゃんの身体は、自身の怒りを押し殺すように、プルプルと震えていた。

「うう……摩耶姉ちゃん……」
「うう……摩耶さん……」
「お前ら……ッ!」

 ゆきおを私の背中からドックの床へと下ろし、私は海面から上がって、ゆきおと共に摩耶姉ちゃんのそばまでトボトボと歩く。本当は近づきたくないし逃げ出したいけど、そうも言っていられない。

 それはゆきおも同じようで、さっきから冷や汗だらだらで顔は青ざめている。ひくひくと動く口元は、ほんの少しだけ口角が上がって、『エヘ……エヘヘ』と笑っているようにも見えた。

「……あたしがなんでこんなに怒ってるか、分かるか?」

 自分のそばまでトボトボと歩いてきた私たちに、摩耶姉ちゃんがかけた第一声がこれだ。

「無断で外出したから……?」
「違うっ!!」

 私の答えを即決で、そして全力で否定する摩耶姉ちゃん。ゆきおも『命令じゃないのに、軍の持ち物の艤装を勝手に使ったから?』と答え、『それも違うっ!!』と全力で否定されていた。

「うう……じゃあなんでこんなに……」
「……わかんねーか?」
「分からない……です……うう……」

 答えが分からず、俯いてしどろもどろになる私たちの頭を、摩耶姉ちゃんの、その怒りがこもった大きな両手が、がっしと掴んだ。その後、摩耶姉ちゃんの両手は私たちの頭をグワシグワシと乱暴に撫で付け、私たちの髪を乱暴に乱した。

「いだだだだた!? ま、摩耶姉ちゃん!! いだいいだい!!!」
「いだいでず!! 摩耶さんい゛だい゛でずぅぅぅうヴヴヴヴ!!?」

 摩耶姉ちゃんの、乱暴で力強いナデナデはとても痛く、だまって続けられていると、ひょっとして頭の中身がはみでてくるんじゃないかと思うぐらいに痛い。それはゆきおも同じようで、私の隣で同じく頭をぐわしぐわしと撫でられているゆきおもまた、私と同じように悲鳴を上げ、涙目になっていた。

 ひとしきり私たちの頭に折檻を加えた摩耶姉ちゃんの手が、ピタリと止まる。そしてその手が、今度は傷みきった私たちの頭の上に、優しくポンと乗っかった。

「……心配したんだぞ」
「……」
「摩耶姉ちゃん……」
「雪緒、お前もだ。提……父ちゃんに、心配かけるな」
「……ごめん」
「……ごめんなさい、摩耶姉ちゃん」

 顔を上げ、私は摩耶姉ちゃんの顔を伺う。摩耶姉ちゃんは、もう怒ってはなかった。でも笑ってもなく、なんだかとてもつらそうな……泣き出しそうな顔をしていた。

「……二人共、晩飯前に提督に謝ってこい」
「うん」
「よし、行け」

 摩耶姉ちゃんの両手が、私たちの頭から離れた。と同時に摩耶姉ちゃんは私たちの肩を抱き、出入り口まで誘導してくれ、背中をポンと押してくれた。出入り口は開いてる。執務室までの道には、誰もいない。

「涼風」
「うん」

 私とゆきおは、誰もいない執務室までの廊下を、二人で、手を繋いで歩いていった。不思議と誰ともすれ違わず、私たちは二人だけで、廊下をトコトコと歩く。さっきまでいた大海原とは全然違う、とても狭い廊下。宿舎の外やドアの向こうの部屋からは、みんなの喧騒や話し声が聞こえるけれど、でもこの廊下だけは、人が誰もいなくて、とても静かだった。

 執務室の前まで来た。ドアノブが回転するガチャリという音がなり、タイミング良くドアが開いた。

「では提督、失礼します」

 中から出てきたのは榛名姉ちゃん。榛名姉ちゃんは入り口から出てきた後、私の姿を一瞥して、再び執務室を振り返り、敬礼して去っていった。

「涼風、今のキレイな人は?」
「……榛名姉ちゃん。昔は、あたいと榛名姉ちゃんは、仲よかったんだ……」

 背を向けて、私達に表情を見せず去っていく榛名姉ちゃんの背中を二人で見送ったあと、私たちは執務室に入る。

「提督、入るぜー」
「父さん。入るよ」

 後ろめたさが、私たち二人に襲いかかる。おかげで、執務室の奥にいる提督の、顔を見ることが出来ない。

「ん。二人とも入れ」

 提督の静かな声にそう促され、私たちは俯いたまま、手を繋いで執務室に入った。

「ドアを閉めろ」

 とても静かな……ともすると感情がこもってないようにも聞こえる、提督の静かで冷ややかな声に従い、私は静かにドアを閉じた。執務室が、外界から閉ざされた。今、執務室の中で、私とゆきおの味方はいない。

「あ、あの……提督……」
「父さん……」

 喉が震える。胸の奥底から絞り出した声が、震える喉を通るおかげで、ひ弱でなよなよしい声になってしまう。それはゆきおも同じようで、私と同じく、ゆきおの声は震えていた。いつもなら『優しい声』だと感じるゆきおの声も、今だけは、『怯えきった弱々しい声』だと、私の耳は認識した。

「……お前たち」

 提督が椅子からたち上がり、コツコツと足音を執務室に響かせて、私たちの元まで歩いてきた。私とゆきおは顔を上げられない。だからその時、提督がどんな顔をしているのか分からなかった。だけど、聞こえる足音はとても冷たくて、私たちに対する怒りが、一歩一歩に込められてるように感じた。

 私たちの前まで来た提督の足音が止まった。俯いた私の視線の先には、床の上の提督の足が見えた。

「自分たちが、どれだけ迷惑と心配をかけたか、分かってるか」

 冷たく、怒りを押し殺したように聞こえる静かな声が、私とゆきおの耳に届いた。

「う、うん……」

 震えた喉から、やっとのことで返事を絞り出し、一度だけ、コクリと頷く。ゆきおも、小さくか細い声で、『はい』と一言だけつぶやいていた。

「……顔を上げろ」
「……」
「……いいから、顔を上げろ」

 ともすると、冷酷な死刑宣告のようにも聞こえる提督の一言で、私は心臓を鷲掴みされたかのような不安感に襲われた。戸惑って顔を上げることが出来ず、ゆきおの様子を伺う。ゆきおも私と同じようで、両肩を小刻みに震わせ、目をギュッと閉じて俯いていた。

「ゆきお」
「……はい」
「涼風」
「お、おう……」
「顔を上げるんだ」

 静かで冷たい声による、提督からの三度目の命令だ。さすがにもう逆らえない。私とゆきおは意を決し、恐る恐る顔を上げ、提督のご機嫌を伺うように、その顔を見た。

「ふぁ……」

 その途端、ゆきおが小さくか細い悲鳴を上げた。提督の手が、ゆきおの頭をワシワシと乱暴に、撫で始めた。

「と、とうさん……っ!」
「……」
「な、なにするの、とうさんっ!」

 提督の手を振り払うように、ゆきおは両手をわちゃわちゃさせて、提督に必死に抵抗していた。でも、提督のワシワシは止まらない。ゆきおの頭をワシワシし、キレイなおかっぱの髪をくしゃくしゃと乱していた。

「……楽しかったか?」
「や、やめ……へ?」

 提督の手が止まった。私とゆきおはその時はじめて、提督が笑顔でいることに気付いた。ゆきおの部屋で、ゆきおに対して向けているような……でも、そのときよりも何倍も柔らかく、そしてそれ以上に優しい……でも、後もう少しで泣きだしてしまいそうな、そんな不思議な笑顔をしていた。

「どうだ雪緒。ずっと行きたがってた海は、楽しかったか?」
「え……う……」
「何者も遮らない、先の先の、ずーっと先までつづいた水平線……キラキラと輝く水面……初めての海は、楽しかったか?」
「う……うん」
「……そうか」

 いつの間にか、ゆきおも顔を上げ、提督の顔を見ていた。それに気付いた提督は、再びゆきおの頭をワシワシと撫で始める。ゆきおはもう、それを嫌がる素振りは見せなかった。ほっぺたを赤くして、ちょっと困ったような笑顔で、それを受け入れていた。

「……涼風」
「お、おうっ」

 突然提督に名前を呼ばれ、慌てて返事を返す。その途端、提督の手は私の頭にも伸びてきて、私の頭をワシワシと撫で始めた。私の髪が、提督の手で、ワシワシと乱れ始める。

「ち、ちょ……提督!?」
「……涼風、ありがとな」
「へ?」
「父さん?」
「俺の息子に……雪緒に、本当の海を見せてくれて、ありがとな」

 さっきまでの、冷静で冷たい声とは違う……それこそ、ゆきおのように温かく心地いい……でも、ちょっと詰まったような声で、提督は、私にそう言ってくれた。

 私の頭をワシワシとなでる提督の手は、今私が握っているゆきおの手と同じく、とても温かかった。 

 
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