フロンティアを駆け抜けて
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フロンティアを駆け抜けて
ジェムがバトルフロンティアの真実を知ってから一週間後。ここはフロンティアの施設の中で一番大きなドーム。整えた茶髪に黒いタキシードのような礼装に身を包んだ男性がバトルフィールドの端に立つのをジェムはモニターで見据えていた。サファイアの計画通り、ジェムたちの戦いに魅せられた人々がジェムとサファイアの親子対決を心待ちにしている。ジェムは仲間たちと共に今日のために特別に設置されたステージの控室で待機していた。
「いよいよ……ね」
「……緊張してますか」
「当然よ。本当にお父様と戦うんだもん」
「そうだな。だが悪い緊張ではない。全てはお前に託した。力の限り戦え。お前はもう勝ち負けに囚われる必要などない」
「……ええ、アルカさんのお茶も効いてるし、大丈夫よ」
アルカとドラコがジェムの傍で声をかける。アルカの調合した緊張をほぐすお茶を事前に飲んでいることもあって、ジェムの表情は張りがあるが気負ってはいない。
「……私がジェムにこんな形でお茶を作ることになるなんて、わからないものですね」
「ふふっ、最初は体が痺れる毒だったからね。あの時は本当にびっくりしたわ」
「さて……最後に確認するが、体に不調はないな?視界は平気か?」
「うん、ドラコさんありがとう」
ジェムは鏡で自分の姿を確認する。皺ひとつない青のパーカーとアルカとおそろいの花柄のミニスカート。丁寧にそろえた茶髪には母親に貰った雫の髪飾りだ。
「────さあ!!いよいよこの厳しいバトルフロンティアの施設をすべて制覇したチャンピオンの娘、ジェム・クオールの入場です!!彼女は若干十三歳。反抗期を迎え父親に親子喧嘩を正々堂々挑んだとのこと!!それをチャンピオンとして、父親として絶対王者はどう迎え撃つのか、目が離せません!!」
これがジェムの入場の合図だ。ジェムは立ち上がり、ドアに手をかける。これを開ければすぐにバトルフィールド、サファイアの目の前だ。
「ダイバ君……私、ダイバ君の分まで戦うから見ててね」
ずっと黙っていた少年、ダイバはそのドアの前に立っている。サファイアの企みがなければ、今こうしてサファイアに挑んでいるのはダイバだっただろう。それでなくとも思うところはあってか、この控室に入ってからは一言も口を開いていなかった。ジェムの言葉に、ようやく彼が口を開く。
「君がチャンピオンと戦うことに今更文句なんてない。ただこれだけは覚えていて。僕は君ならチャンピオンに勝てると思って納得したんじゃない。……君の戦いの結果ならどんな形だって納得できる、これからも生きていけるって思ったからここにいるんだ」
「うん……ありがとう。すっごく元気が出たわ」
ダイバはあれからエメラルドやネフィリムと自分の考えを話したらしい。具体的にどんな内容かは頑なに教えてくれないけれど、それでもジェムを、そして自分のことを認めたようにジェムには思えた。その証拠にダイバは拳を握り、ゆっくりとジェムの前に出す。ジェムも驚くことも怯えることもなく拳を握ってこつんとぶつけた。またお互いに子供の、小さな手が触れる。
「行ってくるわ。そして……終わったら、約束通り、みんなで旅をしましょうね」
「ああ」
「約束ですからね」
「……うん」
バトルタワーでの戦いを終えた後でした約束を口にする。大事なのは勝敗ではなく父親に、見ている人に自分の想いを伝えることだ。腰につけたモンスターボールには、六匹のポケモンがやる気十分で出番を待っている。ジェムは扉を開き、まっすぐ歩いてバトルフィールドへ立つ。サファイアと向き合った瞬間、歓声がどっと沸きまるで音のシャワーに飲み込まれそうになった。ドラコのハイパーボイスとは違う。皆が口々に騒ぎ自分を好機の目で見る視線を受けることに怯まないと言えば嘘になる。でも、その弱気を跳ね除けるためのおまじないは既に貰っていた。
「────この可憐な容姿に誰よりもまっすぐ駆け抜ける強さを宿っていると誰が想像しただろうか!! いや、それは彼女の目が証明している!蒼眼のチャンピオンと紅眼の巫女から受け継いだそのオッドアイ……が!?」
司会者の実況が止まる。たくさんのカメラが入ってきたジェムの顔をクローズアップで映し出しオッドアイを映し出そうとした。しかし――ジェムの目はオッドアイではなく両目が真っ赤になっている。泣き腫らしたり寝不足のそれではない。カラーコンタクトで片方を赤色にしているのだ。観客がどよめく。
「────おおっとこれはどうしたことだー! 彼女の目が真っ赤に!!」
皆の視線が好機ではなく疑問の瞳になる。ジェムの言葉を待つ姿勢になる。それを察して、ジェムは渡されたピンマイクの電源を入れ口を開いた。
「……私はお父様が許せない。私達のバトルフロンティアへの挑戦を操って見世物にしたことを。だから……最初は蒼い方の目はくり抜いて捨てようかとも思ったわ。お父様と同じ目なんて、いやだから」
「ジェム……お前」
「勿論、そんなことをしたらお母様が悲しむからやめたけど。女の子は体を大事にしなきゃダメって教わったから」
観客たちの一部が悲鳴を上げる。わずか十三歳の少女が平然と、淡々と自分の目をくり抜こうとしたと口に出したのだから当然だ。冗談や虚勢とは思えないほどジェムは平常心で、自然に喋っていた。事実、もしジェムがシンボルハンターとの戦いで母親から受けた愛を知らなければそうしていただろうとジェムは自分で思っている。父親を許せず、母親の愛を信じられず、絶望して両の目を捨てたかもしれない。
「……それに、今安全なところから見てるお客さんのことも嫌い。このフロンティアで戦って、ポケモンバトルってすっごく痛いし苦しいものだって私は思った。自分の意志でやるならいいけど、苦しんでる人やポケモンを見て笑顔になる人なんて大嫌い」
「ジェム、言い過ぎだ。私の事をどう思おうと構わないがお客さんへの言葉は慎みなさい」
「言ったわよねお父様。……私はお父様と喧嘩をしに来たの。お客さんの事なんて知らない。お父様に憧れるのはもうやめる。私は……私と私の大事な人の為だけに戦う。名前も声も知らないたくさんの人の事なんて知らない!!」
ジェムの言葉に客席が沸騰する。怒声歓声興奮哄笑。でももうジェムには関係ない。実況や観戦なんて、勝手にしていればいい。
「司会。バトル開始の宣言をお願いします。ここまで頑なならばもはや私も言葉での説得はすまい。やはり私に出来るのは勝負に勝つことと……ホウエンチャンピオンとして、挑戦者を圧倒することで観客に楽しんでもらうことだけだ」
静かな、しかし内に深海の重たさを秘めた声だった。司会が咳ばらいを一つして宣言する。
「ではルールは説明不要、由緒正しき六対六のダブルバトル、もう心行くまで親子喧嘩をやってくれ!!」
巨大モニターがジェムの表情からサファイアとジェムの二人に切り替わる。フロンティアでの全ての戦いを終え――チャンピオンのサファイアが勝負を仕掛けてきた。後は目いっぱい憧れだった人への決着をつけるだけ。ジェムは腰につけた二つのボールを片方ずつの手でつかみ放る。
「いくよルリ、ラティ!!」
「りるぅ!」
「ひゅううあん!」
地面をポンポンと弾みながらマリルリが、紅白の身体でフィールドを飛翔するラティアスが登場する。ジェムが特に頼りにしている友達と相棒だ。対するサファイアが右手を開くと手品のようにモンスターボールが二つ現れ、そこから同時に二体のゴーストタイプが現れる。オーロットやシャンデラとは違う、しかしタイプは同じポケモン。
「ガラガラ、ジュナイパー。頼んだぞ」
両手に太さの違う骨を持ち、その両端に炎を揺らめかせるガラガラと、フードを被った人間のようにも見える矢の名手ジュナイパーが現れる。揺らめく炎とフードから影が滲み、本体の横に小さな気配を感じ取る。やはりサファイアの隠れた本質である『死線幽導』は加減なく使うつもりだ。だとしても、ジェムは臆するつもりはない。
「それでは……バトル開始ィ────!!
「ラティ、『ミストボール』!」
「ジュナイパー、『エナジーボール』」
開幕した瞬間、ラティアスとジュナイパーの放ったエネルギー弾が放たれる。ぶつかり相殺してミストボールが霧となって広がりジェム達を覆った。相手の特殊攻撃の威力を弱め、更に自分たちの姿を隠す幻惑の霧。ガラガラはそれに構わず二つの骨をぐるぐると回し、火車の大輪のような炎で霧を掻き消しながら突っ込んでくる。
「ガラガラ、『フレアドライブ』」
「ルリ、『アクアテール』!」
迎え撃つマリルリの体がゴムまりのように弾み飛び上がり勢いのまま尻尾に水を溜めて巨大な水風船を叩きつけた。マリルリとガラガラがお互いに仰け反り、ガラガラがブレイクダンスのようにバック宙返りをして下がり、マリルリが転がりながらジェムの傍へ戻る。
「炎技でルリの水技と互角の攻撃力……!」
「ルリに特性の『ちからもち』があるように私のガラガラには『ふといホネ』を持たせている。攻撃力を倍にする手段などいくらでもあるということだ」
「だったらこれはどう! ルリ、ジャンケン……『パー』!」
マリルリが『はらだいこ』によって腕に最大のパワーを溜める。そして物理技でアクアジェットによる水の噴射を直接ガラガラに向けて放った。『ハイドロポンプ』すら凌駕する量と水圧が飛んでいく。
「ガラガラ、『守る』」
太い方の骨を前に出し片手で回転させてまるで円形の盾のように防御する。対してまるで気軽に踊っているような所作だが、骨の盾は流れ来る水をあっさりと弾き飛ばした。
「そして、ただ強いだけの攻撃などいくらでも受け流せる。では……少しばかりやり過ぎた娘に灸を据えてやろう」
「やり過ぎたのはお父様の方よ……来るよルリ、ラティ!」
「ジュナイパー、『ブレイブバード』。ガラガラ、『シャドーボーン』!」
ジュナイパーが自身の羽に矢をつがえ放つ。撃たれた一本の矢は猛禽の飛翔のように風を切りラティアスの霧を吹き飛ばし、ガラガラが骨の一本を投げ回転するブーメランのように迫る。二つともが、当たればただの物体以上のダメージを受けることを感じさせるものだ。
「ラティ、『リフレクター』!」
「ひゅううん!」
ラティアスが自分とマリルリを守る壁を発生させ、矢羽と骨がぶつかる。二つの攻撃を受けて壁は壊れたが、勢いは止まり――骨の影だけが壁をすり抜けマリルリを弾き飛ばした。
「りるっ……!」
「ルリ、大丈夫!?」
「るるう!!」
マリルリが小さな腕で力こぶを作って元気をアピール。いつもの仕草にほっと息をつきながらジェムは考える。
(今の攻撃……お父様のポケモンは影での攻撃が得意なのがわかってたのに受けるまで影に力が籠っているのに気づけなかった)
ジェムも、そしてこれまでサファイアに挑んだ者達もサファイアのゴーストタイプで統一したパーティーの攻撃手段が影であることは知っている。それでもなお燃える骨から感じた威力は本物そのものでそちらに注意を向けさせた。だが本命はそちらではなくその下に映っていた影。目の錯覚や影に隠れることによる認識のしずらさに加えて使用される五感ではなく気配を作り出すことによって生まれるフェイントである『死線幽導』の力を自分で体感しその技術の凄さに震える。
「ジュナイパー、『リーフブレード』。ガラガラ、『フレアドライブ』。狙いはマリルリだ」
「……!!」
ジュナイパーの羽根に今度は鋭くとがった枝がつがえられる。同時にガラガラが二つの骨を器用に回しながら突っ込んでくる。ドラコとの戦いの時とは違い、今回のサファイアは積極的に攻めるつもりのようだ。
「ルリ、『アクアジェット』!」
ガラガラの骨の間合いに入る前にこちらから素早く懐に潜り込み顔の骨を砕く勢いで殴りつけようとする。だが当たる直前ガラガラの体がすり抜け横に移動した。『影分身』を作って本物は影の中に隠れそれを気づかせないためにわざと派手に骨を回して気づかれないように────
「そうしてくるってルリはわかってるわ! ルリ、『じゃれつく』!!」
「るうう!」
「ガラッ……!?」
マリルリがガラガラの体に抱き付いて密着し、そのまま転がりながらぽかぽかと殴る。マリルリを狙い撃ちにしようとしたジュナイパーが溜まらず枝を撃つのを止めた。多少乱戦になったところで正確に打ち抜けるコントロールはあるが、子供のようにじゃれ回っていては次の予測が出来ない。下手に撃てばガラガラに当たる可能性がある。
「構わない。ガラガラに当たったとしても大きなダメージにはならない。その為の『リーフブレード』だ」
「ラティ、『冷凍ビーム』!」
ジュナイパーが指示通り撃とうとした瞬間その羽をラティアスが冷気の光線で凍てつかせ止める。ジュナイパーはバックステップをしながら飛びあがり無理やり羽搏くことで氷状態になることを避けた。ガラガラもマリルリを振りほどき距離を取る。
「ここから反撃よ! ラティ、ルリに『ミラータイプ』!そして『波乗り』よ!」
「ひゅうん!」
ラティアスの瞳が輝き仲間のマリルリを見る。するとラティアスの紅白の体がマリルリと同じ水玉模様になった。自身が水タイプとなったことでいつもより大きく相手の二体を飲み込む『波乗り』を起こす。ガラガラもジュナイパーも『守る』により自分の影に隠れてやり過ごし波が通り過ぎた後――フィールドにはラティアスだけが残っていた。マリルリもどこかへ消えている。サファイアは一瞬の沈黙の後、ジュナイパーに指示を出した。
「……ジュナイパー、ラティアスに『リーフブレード』!」
「やっぱり……お父様はそうするしかないってわかってた! ルリ、『滝登り』!」
マリルリが隠れていたのはラティアスの起こした波によって発生した大量の水の底。ジュナイパーの影の傍までもぐりこみジュナイパーが姿を現した瞬間に真下から鋭いアッパーを浴びせた。不意を突かれたジュナイパーが錯乱したような悲鳴を上げる。
「ラティ、『サイコキネシス』で追撃!」
「ガラガラ、『シャドーボーン』でラティアスを狙え」
「今ならガラガラの骨がない……ルリ、『アクアジェット』!!」
「ガラガラ、『はらだいこ』からの『暴れる』で迎えうて!」
「ルリも全力全壊の『はらだいこ』からの『捨て身タックル』よ!!」
数秒間の技の交錯。ラティアスの追撃に骨を投げて牽制しその隙をマリルリが突く。ならばと骨がなくとも攻撃力を最大限にあげたガラガラが己の拳をマリルリの腹に叩きこみ、同じ技で最大の攻撃力を持ったマリルリの拳がガラガラの顔の骨を砕いた。ガラガラとマリルリが互いにフィールドの端まで叩きつけられ、倒れる。息もつかぬほどの攻防に観客が湧きたち生意気な小娘を打ちのめせという声と親心のないチャンピオンをやっつけろという声が二分する。でも、ジェムにはその両方の声に興味がない。実況者が何か言っているが、ジェムには響かない。倒れたマリルリの傍に駆け寄る。
「ルリ……ありがとう。ガラガラ、ちゃんと倒せたよ」
「りるぅ……」
「ご苦労ガラガラ。緒戦は上々だ」
起き上がれないマリルリのお腹を優しくさすり、痛くないように抱きしめてあげた後、ジェムはマリルリをボールに戻す。チャンピオンもガラガラをボールに戻す。
「わかってた……か。計画通りだというならジェム、何故泣く?」
仕切り直しとなった盤面を前にサファイアがジェムに問う。戦いは始まったばかり、盤面はほぼ互角。なのにジェムの双眸には涙が浮かんでいる。ジェムは戦いを挑む前、どうやって父に打ち勝つかをみんなで考えた時のことを思い出す。
────ジェム、あのチャンピオンの守りを打ち崩すにはどうすればいいと思う?
────フェイントに引っかからないようによく注意して戦う……かな?
────と、考えるだろうがそれは逆効果だ。『死線幽導』はいわば常人には感じ取れぬ気配を敢えて出すことで効果を発揮する。よく見る。わずかな気配を逃さない。そうした気構えを持っているほどかかりやすくなる。
直接チャンピオンと戦い、あと一歩まで追い詰めたドラコはそう言った。よく見なければ『影分身』や『身代わり』に騙されよく見れば『死線幽導』に騙される。ならどうすればいいのか。
────……なら、攻めさせたら。向こうが守りに入ってる限りドラコのようによっぽどの対策をしないと当てられないんだ。ならいっそチャンピオンから攻撃するように仕向けたほうがいい。
────でもお父様は……私の知ってる勝負ではほとんど自分から攻撃しないよ?
────だろうな。絶対王者は自分から攻め急ぐ必要などない。相手の攻めを受け止めながらじっくりと戦うのがベストだ。
ダイバがそう提案する。有効かもしれないが、一時的二ならともかくバトル中ずっと攻め続けさせることをチャンピオンはしない。どうしたものか、と考えているとアルカが口を開いた。
────ジェムはチャンピオンの娘なんです。それを利用して、挑発してみせたらどうですか。
────お父様が挑発なんて乗ってくれるかな……
────いや、悪くない考えだアルカ。確かにあのポーカーフェイスはジェムの挑発になど乗るまい。だが……ジェム、あいつにとって一番大事なものはなんだ? お前か?
────ドラコ、それは。
────いいのダイバ君。そうだよね、そうするしかない……アルカさん、なんて言えば効果があるか一緒に考えてくれる?
ジェムの父にとって何より大切なのは自分との戦いではない。あくまで見ているお客さんだ。なら戦いの前に奇抜な言動で恐怖と同情を惹き、そのうえでサファイアのエンターテイメントを、ひいてはそれを見て楽しむお客さんを悪く言えばどうなるか。
「誰よりもお客さんのことを考えるお父様なら、お客さんが私に怒ってれば代わりに私を攻撃するしかない……お客さんを悪く言うヒールをやっつけなきゃいけない。だから最初から攻撃的だったしルリがどこにいるのかわからなくても待つんじゃなくて攻撃したんでしょう? 私と本気で向き合うより……お客さんのことを優先するって、わかってた」
でも、わかっていたはずのことが辛かった。自分はずっと父親に憧れてこの日を夢にまで見ていたのに。その父親の目には自分が映っていない。彼の目にはお客さんの事しか見えていない。だからジェムは泣く。その涙を、力に変える。
「だから勝負する相手の努力を利用して誘導して、まともに向き合うことすら忘れちゃったお父様には絶対……負けたくない!ラティ、メガシンカ!!」
「ひゅううあん!!」
ジェムの涙と雫の髪飾りが輝きラティアスの体が大きく、水玉模様から本来に赤が交ったような紫色になる。そしてジェムは、今から出すポケモンをもう一度見つめる。ボールの中のポケモンはちらりと控室の方を見た。その後ジェムの方を見て頷いてくれる。
「では頼むよ、ゴルーグ」
「ゴオオオオオオ……」
人間の二倍の背丈がある土の巨人、ゴルーグがフィールドに現れる。ジェムを見る黄色い瞳がカッと光り、スポットライトのようにジェムを照らした。
「さあどのポケモンを出すジェム。キュウコンか?ジュペッタか?それとも……」
「……全部違うわ」
「何?」
「お父様……これが私達の答えだよ! アマノさんとアルカさんの苦しみをお客さんに媒介するために……出てきて、スタペシア!!」
「ラァ~!!」
フィールドに一枚の巨大花が咲く。ジェムがゲットしたのではなくバトルタワーでジェムとダイバを苦しめたアルカのポケモンだ。大きな声で叫びをあげ花の中央から黄色い花粉を鬼のようにばら撒くのはラフレシア。
「……あの子から借りたのか」
「私がお父様を受け入れられないのは、アルカさんやドラコさん、ダイバ君が利用されたのが許せないから……だからみんなと一緒に戦いたい」
「……愚かな」
それを見たサファイアの声には、静かだがはっきりとした怒りが滲んだ。ゴルーグと落ち着きを取り戻したジュナイパーが攻撃の態勢を取る。
「『ブレイブバード』に『メガトンパンチ』だ」
「ラティ、スタペシアを『守る』!」
矢羽と拳が巨大花を狙い、それをメガシンカしたラティアスの念力がまとめて逸らす。その間にラフレシアは花粉を有毒な物に変えていく。
「ラティ、『ミラータイプ』! スペタシア、『毒の粉』よ!」
「ラァ~」
「ゴルーグ、『神秘の守り』」
「ゴッ!」
ラティアスがラフレシアのタイプを吸収し紫色の体が毒々しくなる。ラティアスが巻き込まれないことを確認してからラフレシアは毒花粉を放つがサファイアの手持ちに『影分身』『身代わり』『神秘の守り』『守る』が使えないポケモンはいない。ゴルーグが両腕から力を放つと、味方を状態異常から守るオーラを発生させた。これで『毒の粉』は無効だ。
「スタペシア、『花吹雪』!」
「……無駄だ。ジュナイパー、『ブレイヴバード』!」
「また矢を……」
「いいや、違うな」
ラフレシアが花粉を集めて花弁のようなものを作り一斉に相手へばら撒く。対してジュナイパーは矢をつがえるのではなく自身の体を矢として花弁をものともせずまっすぐラフレシアに突っ込んだ。ラフレシアの巨大な花が吹き飛ばされ、更にジュナイパーがきりもみ回転をしながら鋭い羽根でラフレシアの体を傷つけることで一撃で戦闘不能にする。アルカのポケモンはポケモンバトルの為のポケモンではないので無理はさせられない。ジェムは倒れたラフレシアの体を抱きしめる。花粉で服や顔が汚れるが気にしない。毒の影響はアルカが事前にジェムには影響がないように調整している。
「スペタシア!ありがとう、よくやったわ」
「よくやった……? ラフレシアは私のポケモンに何のダメージも与えられていない。あの子のポケモンは相手を欺き毒に陥れることは得意としていてもこのようなまっとうなバトルに向いていないことをジェムも知っているはずだ。そもそも――」
「私達の気持ちを知らないくせに知ったふうな口を利かないで! お願いリザードン!!」
「ガアアアアアアア!」
ラフレシアを戻し、ジェムは続けて出すのはオレンジ色の翼竜。ドラコから借り受けたリザードンだ。翼を羽搏かせ、竜の咆哮をあげ、フィールドに声を響かせる。己を体と炎を蒼く染めあげるメガシンカは、使わない。
「ドラコのポケモンなら確かに強力ではあるが、それで私に勝てると本当に思っているのか?」
「愚問よ! わからないなら何度でも言ってあげるわ。私達みんなの力で勝つ! リザードン、『火炎放射』!ラティ、『サイコキネシス!』」
ラティアスの念力がジュナイパーの動きを封じ、リザードンがその体を焼き尽くす。ジュナイパーの体が燃え尽きて消滅した。『身代わり』だ。
「ゴルーグ、『ヘビーボンバー』」
「ゴオオオオオオ!!」
「ラティ、リザードン逃げて!」
ゴルーグの巨体が飛び上がり、空中で五体を広げて超重量級の落下を行う。誰から見てもわかりやすく脅威である一撃をリザードンとラティアスはその範囲から逃れるようとする。
「『影縫い』だ」
派手な動きのゴルーグに隠れて狙いを定めた本物のジュナイパーが二本の黒い矢をつがえラティアスとリザードンの影を射抜く。その瞬間二体の動きが止まり逃げることが出来なくなった。ゴルーグのプレスに捕まり、二体が押しつぶされ――姿が、朧に消えた。本物のラティアスとリザードンはゴルーグをしっかり回避している。
「『影縫い』は確かに二体の動きを封じたはず……まさか」
「お父様が撃ったのはラティが作った偽物の影よ!『影分身』を使えるのはお父様だけじゃないわ。ジュナイパーだけの得意技が『影縫い』ってことだって私知ってるんだから!ラティ、リザードン、『龍の波動』よ!」
地面に落ちたゴルーグの背中を二体の翼竜が赤と紫の波動が焼く。ゴルーグの背中の土が崩れた体が影に滲んでいく。その影には何の力も感じられない。
「……油断しちゃダメよ」
「ひゅうん」
「……ガッ」
戦闘不能とは限らない。『死線幽導』によるフェイントは気配で欺く。倒れたふりをして機会を伺っている可能性も高い。ラティアスが素直に頷き、リザードンが誰に向かって言っているとばかりに炎の息を吐いてさらに羽搏く。
「さすがにかからないか……『シャドーパンチ』だ」
「リザードン、『エアスラッシュ』!!」
影の中から巨大な拳のロケットパンチが飛んでくるのに対し空気の刃でジュナイパーをけん制しつつ拳を切り刻もうとする。だが相殺しきれず、拳がリザードンの体を殴り飛ばした。ラティアスがフォローに入ろうとするが、ジュナイパーが矢継ぎ早に木の枝を放ち牽制している。
「続けて『爆裂パンチ』」
「……ッ、『フレアドライブ』!」
ゴルーグの体が完全に影から出て、砲丸投げのように思い切り振りかぶってからの拳をリザードンが炎を纏って突進して迎え撃つ。しかし力の差は明らかだった。一秒も持たずにリザードンの体が押し負け、吹き飛ばされて地面に落ちる。
「リザードン、大丈夫!?」
「ガア……アッ!!」
「いたっ……!」
リザードンの傍に寄って手を伸ばすジェムを、リザードンは払いのけ彼女の小さな体を突き飛ばした。尻もちをつき、声を上げるジェム。
「……ラティ、リザードンに『いやしの願い』!」
「……ガアア!」
ラティアスがリザードンを回復させるよりも早く、『爆裂パンチ』により混乱したリザードンがジェムに摂氏何千度かという炎を吐こうとする。ジェムに避けられるはずもなく、回復しようとしたラティアスに止められるはずもない。ジェムが炎に呑まれるのを防いだのは――ゴルーグの巨大な腕だった。リザードンの口を無理やり上から殴り、炎を吐けなくして今度こそ戦闘不能にする。実際に炎は撃たれなかったにも拘らずストーブに当たり続けた時のような鋭い痛みの熱がジェムを襲って飛びのいた。混乱の影響があるとはいえこうなったのはそもそもリザードンはジェムの手持ちではないからだ。少しのずれがトレーナーにも牙を剥く。
「危ないところだった……私が止めなければ焼け死んでいたかもしれないんだぞ」
「……」
「仮にリザードンがメガシンカできていれば、そもそもゴルーグとリザードンの勝敗は逆だっただろう。……つい最近出会ったばかりの相手から借りたポケモンで本来の力を引き出せるはずもない。ラフレシアもリザードンも……そんなまやかしの友情に頼るより、ジェムが何年もずっとにいたポケモンで戦った方がずっと強かったはずだ。安全に戦えたはずだ」
サファイアにとって、この状況は想像の外であっても想定していた強さよりはむしろ低いということなのだろう。ラフレシアを出した時の怒りは愚策を取った娘に対する落胆と失望だったのかもしれない。サファイアはバトルの状況が写された電光掲示板を見やり、言う。
「私のポケモンは残り五体。ジェムのポケモンは残り三体。恐らく残りのうち一体はダイバ君のものだろうが、ジェムが使ったのではメガシンカ及び力を引き出すことはできない。ジェム……お前の気持ちは十分に分かった。だが付け焼刃の友情と対策では私を倒すことなど出来はしない。……もう勝負は決まった。負けを認めてくれ」
無情な宣告だった。勝利宣言に観客は沸き立ち、サファイアの勝利を確信する。ジェムはしりもちをついて座った姿勢のまま仰ぐようにサファイアの顔を見る。その青い双眸がジェムを睨む。そこに籠る強い力にジェムは起き上がることができない。二十年公式無敗のチャンピオン、このフロンティアで起こったすべての出来事を操る支配者、相手の死力を尽くした戦術をすら誘導する技術。そんなイメージがジェムの脳裏に浮かぶ。自分なんかが勝つなんて無理だ、そう思わされる。
「ひゅうあん!」
「こぉん!」
「ラティ……キュキュ」
その時、ラティアスとキュウコン、ジェムの手持ちでありこのバトルに挑む相棒たちの声が聞こえた。続けてこのバトルには参加させられないけどジェムと一緒にいてくれるポケモン達、マリルリの声。ジェムがくじけそうになったときにいつも元気をくれる仲間の声。その声に、自分を叱咤して立ち上がる。
「……諦めないわ」
「……」
「私は絶対諦めない……最後の最後まで、私のポケモン達と……私に力を貸してくれた人たちのために戦う!愚かでも、危なくても、悪い子になってでも……私は私の大事な人のために戦うって決めたから!!」
ジェムは立ち上がり、キュウコンをボールから出す。憧れだった父親に伝えたい想いは、まだたくさん残っているから。
(……それにかなり不利だけど、二人のおかげで準備はできたわ)
ジェムがドラコとアルカからポケモンを借りたのは自分の意志を示すこと意外にもう一つ理由がある。もう少し、もう少しで勝つための布陣が整う。
「自分の手持ちであるキュウコンか……だがもう手遅れだ。ゴルーグ『シャドーパンチ』」
「ラティ、『ミストボール』!」
ゴルーグの巨大な拳の影が飛んでくる。『ミラータイプ』でラフレシアのタイプをコピーしたラティアスが放つ霧は毒ガスのように紫色でより深く仲間の姿を隠す。
「それで当てられないとでも思うのか?」
だが、影の拳は大きさに任せて振りぬかれキュウコンの額を撃つ。直撃は避けたがそれでも少し体がぐらついた。でも、これで。
「…………お父様の方よ」
「ん……?」
ジェムには、今から自分のすることが少し怖い。でも、心の準備はこの一週間でしてきた。自分の大事な人にも、自分が何をするかは伝えたし彼らも反対はしなかった。
「手遅れなのは……お父様の方よ! キュキュ、『炎の渦』! お願い、しばらく耐えて!」
「ジェム……何をするつもりだ! やめろ!」
「コオオン!!」
キュウコンが特大の炎の渦を吐いて相手を妨害する。何かを察したサファイアが猛攻を仕掛けるが、キュウコンは分身や蜃気楼を使い凌いでいく。ジェムはキュウコンを信じ、胸の前で手を合わせ唱える。ジャックに教えてもらった、バトルピラミッドでレジギガスを呼び出すのに使ったものと同種のポケモン同士の力を融合させる古代の呪文。
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(げんわくのきりをはなつりゅうよ)
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(げんかくのどくをちらすはなよ!)
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(てんのちからでまじわりて)
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(こころをむしばむどくをまけ!)
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(このぽけもんたちまぜたらきけん!)
唱え終わり、ラティアスと彼女がコピーしたラフレシアの力が交じり合い融け合う。最後に、ラティアスにいつもの言葉で命じる。
「ラティ、お客さんのみんなに……『ミストボール』!!」
「ひゅらあん!!」
ポケモンバトルをする際の観客席にはポケモンの技によるダメージを受けないように目に見えないバリアーが張り巡らされている。ポケモンの技で言う『光の壁』や『リフレクター『神秘の守り』のようなものだ。通常のポケモンバトルではそもそも起こりえないことだが、故意に観客を攻撃しようとしても届かないようになっている。――だが、抜け穴はある。ポケモンの戦いは見えるように、風や炎の勢いが伝わる無害にならない範囲の影響は届くように調整されている。
(アルカさん……ドラコさん。あなた達のおかげで、私は世界のみんなにだって立ち向かえる)
アルカのラフレシアのまき散らした花粉は、サファイアのポケモンには効かなくてもフィールドに舞う。そしてドラコのリザードンの羽搏きによって客席中に届いている。勿論『毒の粉』のような直接体に害を与えるような毒ならばバリアーに防がれる。粉は届いているがそれ自体には害はない。で、毒タイプになったラティアスが放つ毒ガスのような濃紫の霧。最後の仕上げとしてマイクのスイッチを入れ叫ぶ。
「私は……私達を笑いものにしたお客さんたちを許さない! 私達が苦しんでいるのを見て楽しんだお客さんが大嫌い! だから……みんなに、私の受けた苦しみを味わってもらうわ!!」
「ジェム……やめてくれ!」
サファイアがさすがに察したのか今まで聞いたことがないくらい焦った声で叫ぶ。でもその声はジェムを煽る結果にしかならない。自分が苦しんだことを聞いていた時は平然としていたのに、お客さんが危なくなれば焦るなんて、それがお父様の理想だと理解していても、納得など出来るはずがない。
「ラティ、『サイコシフトッ』!!」
「ジェム!!」
ラティアスの瞳が光、ラティアスが観客の心に写し移すのは自分とジェムがアルカから受けた毒の痛みの一部。体が痺れ、眠くなり、身体が痛む――ような幻覚。毒ガス状の霧を通した架空の小さな痛みでも、得体のしれない花粉と見るからに有毒そうな霧に包まれた観客たちにとってどんな興奮も楽しみも醒めるような『劇薬』になる。
その結果。
大人も子供も等しく狂ったような悲鳴を上げ。
突如自分たちに押し寄せた対岸の火事が、観客たちに大パニックを巻き起こした。
「皆さん、幻覚です! 害はありません! どうか落ち着いて――」
サファイアが叫んだ。他者を魅せ続けた王者の叫び。でもそれは、所詮一人のポケモントレーナーの叫びでもある。対して観客の数は数百数千ではきかない。マイクを使っても声など届かない。不動の王者として、戦いを自分で魅せるのではなく、他人に主導権を明け渡した彼に、自分の言葉で他人を鎮める力などない。観客たちは互いを押し合いへし合い、濃霧で一メートル先も見えない状況で逃げようとする。実際の毒を受けていればそんなに動けないという矛盾にも気づけない。彼らは、大半がポケモンの技を身に受けたことなどないのだから。
「ジェム、今すぐ霧を止めるんだ! あの中にはルビーやジャックさんもいるんだぞ!?」
「いないわ。二人には、あらかじめこうするって伝えてるから。別の安全なところにいてくれるようお願いしたの」
「二人が止めなかった……? いや、それはいい。とにかくこれを止めるんだ。さもないと……!」
「さもないと……お父様は私をどうするの?」
ジェムはサファイアがどうしてこんな計画を立てるまでに至ってしまったのかは知らないし今は知りたいとも思わない。でも十年以上の時間をかけて進めてきた計画で、今までにも何度も誰かの戦いを操ってお客さんを楽しませていたことは知っている。だから、その結末が、いや、この勝負もあくまで理想の過程に過ぎないだろう。こんな所でお客さんを失望させるわけにはいかないはずだ。ジェムがこのような手段に出た場合、自分の父親がどうするのか。ジェムは予想していたとしてもこの目で知りたかった。
「……残念だ」
迷いは数秒。サファイアが本来の自分の手持ちとは違う、装飾の違うモンスターボールから出てくるのはダークライ。そのポケモンの得意な技は眠らせるだけでなく相手の特定の思考を埋め込む催眠術。それを出すということは目的は一つしかない。
「ダークライ、ジェムを眠らせ……そして私の理想への心酔を植え付けろ」
「やっぱり、お父様はそうするのね」
「私は誓ったんだ……この世が退屈だというジャックさんにポケモンバトルの楽しみを与え続けると、ルビーに絶対に自分の理想を叶えてみせると、そして……たとえ私の憧れたものが偽りだったとしても、だからこそ本物のエンターテイメントを追求すると前のチャンピオンに……私自身に!!」
いつもの大人の落ち着きが消えうせた、理想に燃えた青年の声だった。年を取れば楽しみの形も変わる。自分の成長も難しくなるとジェムも話を聞いている。だからこそ大人になっても人を楽しませ続ける父親を尊敬し憧れた。それを支える母親に夢を見ていた。
「お父様、あの時言った通り私にお父様の理想を否定する権利はないわ。でももう、私を巻き込まないで」
「ここまでするつもりはなかった……だが、観客たちにここまで牙を剥いた以上、やはり野放しには出来ない」
「……お父様のバカ」
このフロンティアで父親と初めて会った夜に感情のままに言い放った時とは違う。父親の気持ちもジェムなりに考慮した上でそのうえで頑固な親に呆れたような言葉だった。その後、空を仰ぎ見て叫ぶ。
「ジャックさん、お願い!」
「まったく、昔からひやひやさせてくれるねジェムは! 待ちくたびれたよ!」
「ジャックさん……!?」
「それでは皆様ご注目! ダークライ、『ダークホール』!!」
ラティアスが『ミストボール』のよる霧を自分で消滅させ、同時に空に真っ黒に穴が開く。突然霧が晴れ響いた声にみんなの視線が向くと同時に黒い穴が観客全員とついでにバーチャルのダークライの意識を吸い込み――全員が夢の中に落とし、強制的に眠らせる。夢見の良い眠り方ではないが、パニックは収まった。万に届く観客達は、もう誰もサファイアとジェムの事を見ていない。宙から飛び降りて着地したジャックはチャンピオンに向き直って告げた。
「安心してよチャンピオン、今の騒ぎはお客さん達の中でダークライが『悪夢』として処理してくれてる。まあ何で意識を失っちゃったのかみたいな疑問に応えたり埋め合わせのバトルを用意する必要はあるだろうけど……とりあえず君の築き上げたものが全部壊れたわけじゃない」
「何故……」
ジャックはサファイアの計画に対する計画に対する協力者だった。ジェムの危険をぎりぎりで救う位置としての役割を全うしてくれていた。その彼が、何より自分の理想を誰より楽しみにしてくれていたはずだったのにどうしてと。
「君のポケモンバトルは大好きだよ。その為の手段にも僕がどうこう言えたことじゃないし肯定してる。それでも……愛弟子の頼みだからね。僕みたいな老人のために、子供を縛り付けることは、昔の君が許せないことだったはずだろう?」
「……それは」
「お母様は、昔お爺様とお婆様にやりたくないことを無理やりやらされて苦しい思いをした……それをお父様が救ったんだもんね」
ジェムも小さく笑う。そこに偽りはないしサファイアのルビーに対する愛情が消えているわけではないことは知っているから、その心は消えていないはずだと信じている。
「……助かりました。ジャックさんがいなければ私の理想は消滅していた。計画のためにフロンティアを貸してくれたエメラルドにも顔向けが出来ない所でした」
サファイアはそこから話を逸らすようにジャックに礼を言う。ジェムをダークライで支配しようとした以上肯定することは出来ないのだろう。ジャックはそれにそんなことか、と言わんばかりに応える。
「もう、今気にすることはそこじゃないでしょ? 大体なんで僕の『ダークホール』が普通に観客に効いたと思ってるのさ」
観客たちを守るバリアーは消えている。でなければ如何に本物のダークライといえども『ダークホール』で観客たちを眠らせることは出来ない。そしてバリアーの設定を消せる人物は、フロンティアオーナーであるエメラルドしかいない。
「ダイバ君がね。エメラルドさんに『僕達の計画を伝えて、この事によって出来る損失を補てんするプランを考えて提出して……最後には子供らしく我儘を言ったら頷いてくれた』んだって」
エメラルドは自分たちに害をなす相手を容赦なく潰す人間だとジェムは聞いている。そんな彼に観客をパニック状態にさせるなどと知られれば今日この日が来る前にジェムを叩きのめしに来る可能性もあった。それでもこの計画にはエメラルドの権限が必要だったから、ダイバを信じて提案を通してもらったのだ。
ジャックはジェムの心に打たれ、エメラルドも自分の息子の我儘も効いてこの計画の黙認及び収拾のための手を事前に打った。ルビーが客席にいないという言葉の通りなら、ルビーがジェムの気持ちとサファイアの理想どちらを取ったかは誰の目にも明白だ。サファイアは瞳を閉じ、呟いた。
「……負けたのだな、私は。ジェムと……仲間たちの心の強さに」
ルビーもジャックもエメラルドもサファイアの計画に協力ないし支えていた。サファイアの理想を全肯定はしていなくとも、異を唱えたことはなかったし今もそうだろう。だが、その上でジェム達の気持ちを優先した。その事実を、サファイアも認めるしかないようだった。でも。
「何勘違いしているのお父様? まだ私たちのポケモンバトルは終わってないわ」
「そうだよ。その他大勢のお客さんは見てないけど、僕やルビーにエメラルド、それにジェムと戦ったブレーン達はこの勝負の決着を待ってるんだからね! みんな、出ておいで!」
「お母様、ダイバ君にアルカさんにドラコさん!こっちに来て!!」
ジェムとジャックの呼び声に控室からルビーとジェムがバトルフロンティアで出会った友達がやってくる。そしてサファイアの入ってきた方からゴコウやネフィリム、エメラルドのフロンティアブレーン達が登場する。中でもダイバ、アルカ、ドラコの三人の子供たちはジェムに駆け寄ってそれぞれ口を開く。
「ありがとうございます、ジェム。……おかげで、生まれて初めて報われた気がします」
「うん、どういたしまして!」
「よくやった。流石だと言いたいが……まだまだ竜の扱いが甘いな、これからゆっくり私が叩きこんでやろう」
「相変わらず厳しいのね……でも、ずっと信じてくれてありがとう」
「僕のメタグロス、借りといて負けるなんて許さないから」
「わかってるわ。ダイバ君、これからもよろしくね」
なんだか褒めてくれたのはアルカだけだったような気がするけど、でもそれが自分の友達だからいいかなとジェムは思う。向きなおれば、ジェムの父親と母親が会話を終えたようだった。
(何を話したのか気になるけど……後でお母様に聞こう)
母親とはいつでも電話で話せる。いつでも自分の話を聞いてくれる。そう信じられるから今は聞かない。
「さあお父様……決着をつけましょう!」
「ああ……そうだな。そして私が勝つ」
サファイアの声はもう取り乱してはいない。そして同時に、ジェムが聞き続けた大人の落ち着いた声ではなく、少し年上の少年のような勝負への期待がある。どんなに無理やりであれ、お客さんの目を気にせず戦える状況になったからかもしれないし自分の中での凝り固まった理想を激しく揺さぶられたからかもしれない。まだ幼いジェムにはわからない。今はただ、憧れだったホウエンチャンピオンがやっと自分に向き合ってくれる。それだけでいい。
「ジュナイパー、ゴルーグ。ご苦労だった」
パニックが起こり、サファイアが取り乱している間にキュウコンは相手の二体を倒していた。倒れた二体を戻す。
「本来の出す予定だったポケモンとは違えどダークライも私がこの手で呼び出したポケモン。だが私の手持ちではないし……ヴァーチャルポケモンでは戦力にならない。だから、私の使うポケモンは後二体だ」
確認ではなく断言。勿論ジェムも否やのあろうはずがない。戦うなら本気のサファイアと戦いたい。これでサファイアの残りポケモンは二体。その二体が何かは、ジェムにはわかっている。
「頼むぞヨノワール……そしてメガジュペッタ!!」
強烈な拳と防御力、特性による絶対の先制と影による爪の鋭さを持ったサファイアが特に信頼を置く二体。ジェムにはキュウコンとラティアス、メタグロスの三体がいるとはいえ決して有利とはいえない。
「キュキュ、『炎の渦』! ラティ、『龍の波動』!」
「ヨノワール、『栄光の手』!」
キュウコンが再び炎の渦を発生させ、何重もの火の輪を作る。その間を潜り抜けるように放つラティアスの波動は紅く燃えていた。だがヨノワールの二十年間の栄光が詰まった腕はゴルーグのそれよりもさらに大きく、振りぬかれた一撃は波動もろともキュウコンを吹き飛ばす。ジュナイパーとゴルーグ相手に時間を稼いだ時点で大きなダメージを受けていたキュウコンには耐えきれず体が倒れる。もう戦うことは出来ない。
「キュキュ……頑張って!! ラティ、『ミラータイプ』よ!」
「コォン!!」
それでも最後に力を振り絞り、九の尾そのものが炎を形どり『煉獄』の炎が輪を作る。その中を、炎タイプに変化したことで赤色に戻ったラティアスが潜り抜け、炎を纏う思念の一撃が繰り出される。それを見て酒を飲みながら観戦していたゴコウが声を上げた。
「おおっ、こいつは嬢ちゃんが儂との戦いで魅せた……」
「そうよ、これがラティとキュキュの合体技……『灼熱のベステイドバット』!!」
ヨノワールが続けて巨大化した拳を振るい、燃える闘志を具現化したラティアスと火花を散らす。数瞬の膠着の後、熱い心がヨノワールの黒く塗り固めた栄光を砕き――その本体に向かって真っすぐ突き進み頭突きを叩きこむ。
「これであとはメガジュペッタ一体よ! メタグロス、『バレットパンチ』!」
「ジュペッタ、『影打ち』だ!」
ラティアスの攻撃後の隙を尽かせないためにキュウコンを戻しメタグロスの先制パンチを浴びせる。メガジュペッタといえど無視できない鋼の拳を影で弾いている間に、ラティアスの炎が消えジュペッタから一旦距離を取る。ジュペッタも『ゴーストダイブ』でメタグロスの拳から逃れ、体勢を整えた。
(多分お父様は……ラティとメタグロスの合体攻撃を誘ってる。あの一撃を受けきるつもりがないなら、ここで逃げずに二体が合体する隙を与えず戦う選択を取るはず)
それが出来ないほどサファイアの切り札は弱くない。それを信じた上で、ジェムは宣言する。
「ラティ、メタグロス……それにダイバ君! 力を貸して!!」
「うん……ここまで来たら勝って終わらせないと気が済まない」
「ひゅうあん!」
「ゴオオオオオ!!」
ダイバがジェムに手を伸ばし、ジェムがそれを握って触れ合う。同時にラティアスとメタグロスの『思念の頭突き』が衝突し合い、メタグロスの変形を利用した合体が始まった。一見大きな隙のように見えるが、メガシンカ同士のエネルギーが二体を包んでおりそれがサファイアに手を出させない。メガシンカによるエネルギーの奔流が終わり、現れたのはメタグロスの鋼によって体をコーティングされまるで本物の飛行機のように丸みと硬さを持ったフォルム。胸にメタグロスのXラインを付けた鋼を纏ったメガラティアスの姿だ。エメラルドが舌打ちしながら笑う。
「出やがったな、俺のレックウザを倒したあの形態が……」
「容赦はしない!ジュペッタ、『鬼火』だ!!」
ジュペッタの特性により先制して放つ『鬼火』は合体後の一瞬をついて火傷にする炎を浴びせる。ラティアスなら『リフレッシュ』や『サイコシフト』で回復は可能だが、ジェムはそれを切り捨てる。
(お父様がそれを計算していないわけない、だからここで勝負に出る!)
その想いは口に出さずともラティアスとメタグロスに伝わっている。握った手から、顔を見なくともダイバも同じ気持ちなのが伝わってくる。超強力な念力による四つの腕が出現し、それぞれがメガジュペッタを打ち抜こうとする。だがジュペッタも自身やサファイア、そしてこの場に在るすべての影を操り無尽の刃を放とうとしているのがはっきりわかった。ジェムの知るジュペッタ最強の攻撃技だ。でもお互い、もう止まらない。
「ラティ、『天河絶破拳』!!」
「ジュペッタ『残影無尽撃』!!」
四つの思念と無限の影、お互いが交錯する。しかし、無限とは夢幻。幽玄とは有限。実際には限りがあり、ラティアスとメタグロスの拳は全てを打ち砕いてメガジュペッタの体を残った一発の拳が打ち抜き────
それを見た全員が決着だと思った瞬間。ジュペッタの体が朧に消えた。
「終わりだジェム……誰も私の『死線幽導』は見破れない!!」
サファイアのジュペッタが放つ最強の大技さえフェイントに使い、本物のジュペッタが合体したラティアスの影から這い出て自分の腕の爪を伸ばして奮う。それはラティアスの鋼の装甲を深々と突き破り、中のラティアスにまで……
「それはどうかしら!」
「何!?」
「ラティ、『ミストボール』!!」
届かない。攻撃を受ける直前、メタグロスの体はラティアスから剥離し、貫いた影の爪はラティアスを掠っただけだった。戦闘不能を免れたラティアスが霧の弾を放ち、ジュペッタを包み込む。
「まずい、脱出しろジュペッタ!」
「させないわ! これで……勝負の勝ちも私達がもらう! 『ミスティック・リウム』!!」
「ひゅうううう、あん!!」
メガシンカしたラティアスの霧は圧縮して水球となり、ジュペッタの体を包み込んで溺れさせる。影の中へ逃れようとも、完全に水の中に閉じ込められてしまっては身動きが取れない。仲間たちのタイプを『ミラータイプ』でコピーし虹色になった水球が弾け──中にいるジュペッタが、ただのぬいぐるみになったように力を失って倒れた。観客も実況も消えたフィールドに、電光掲示板の決着を告げる音だけが響いた。
「……今まで、よく頑張ったな。ジェム」
王者であり父が負けた後最初に言ったのは、悔しさでも王者としての体裁を繕うものでもなく、ただ自分の娘を本心から褒めたたえるものだった。ジェムはラティアスを抱きしめ、ダイバに倒れたメタグロスの入ったボールを返しながら頷く。
「うん、お父様……今まで、私の憧れでいてくれてありがとう! 大好きだったわ! お父様の理想は認められないけど……お父様とお母様の娘として生まれてきて、このフロンティアにきてみんなと出会えて……私、本当に良かった!」
アルカとドラコにもラフレシアとリザードンを返して、この場にいる戦った相手全員の顔を見た後、やっぱり我慢できなくてジェムは泣いた。泣いていたけど、しっかり自分の気持ちを口にして、周りに礼を言う。
「ああ……そうだな。お前はもう、自分の信じた相手と歩いていける」
「うん……だからお父様! お母様! ジャックさん、ゴコウさんにネフィリムさんにエメラルドさん!!」
勝負が終わった後どうするかは、もうすでにダイバたちと決めた通り。そして、戦った直後とはいえ長居するつもりはなかった。今行かなければ、甘えてしまう気がするから。
「さようなら……私は、友達と旅に行くから!!」
ドラコがリザードンとフライゴン以外の四体の竜を出す。アルカとドラコはそのまますぐに竜に乗った。ダイバもネフィリムの抱擁から離れた後、エメラルドに背中を叩かれ竜の背に乗る。ジェムも竜の背に向かおうとしたとき、母親のルビーがゆっくり歩いてくる。
「お母様……」
「ジェム……おめでとう。ジェムは私と違って……自分の力で誰かの支配から抜けられる強い子だよ」
優しいけど、少し自嘲気味な声だった。ジェムが体験したルビーの過去もそうだし、ジェムが苦しんでいるのに直接手を貸せなかったことを悔やんでいるのはジェムにはわかった。
「それは違うわお母様。お母様が私を好きでいてくれなかったら……私は、何もできないのに勝手なことばかり言う本当に弱い子だった。お母様……大好きよ。電話、ちゃんとするからね」
「ジェム……私も大好きだよ、ありがとう。いってらっしゃい」
「うん……うん、もうちょっとしたら行くね」
旅に出ても母親とはいつでも話せる。でも触れ合えなくなるのはやっぱり寂しいからその体をぎゅっと抱きしめて、一分か五分かはわからないけどジェムの気が済むまで抱きしめ合った。その間、周りは何も言わない。それが終わった後────ジェム達は、フロンティアを後にした。
「……ジャックとは何も話さなくてよかったの?」
「うん、『僕にしてみればジェムが旅する数年なんて君たちの一日より早い』って」
「不老不死とはいえ小さいくせに上からですね……ちなみに行先って決まってるのですか?」
「あ、そういえば言ってなかったわね。今からドラコさんの故郷に行くの」
「ああ、だから私の竜に身を任せていればいい」
ホウエンの夜空は風が温かく気持ちがいい。バトルタワーの時は見る余裕がなかった始めて見る夜景に目を奪われながらも仲間たちと会話する。
「……ドラコの故郷ってどこ?」
「千年単位の歴史がある山奥とかですかね……」
「貴様ら私を何だと思っているんだ」
「ドラゴン厨」
「右に同じく」
「振り落とすぞ貴様ら」
「あはは! 私もそんなイメージだったけど……キンセツシティのジムで育ったんだって!」
「都会だ……」
「あそこってドラゴンいましたっけ……?」
「それはついてからドラコさんにゆっくり教えてもらいましょう! ね、みんな!」
ジェム達はお互いのことをまだまだ知らない。ジェム達の付き合いも人生もまだ始まったばかりだ。
(でもそれは、もう誰かに見世物にされたり、大人の人達に支配されたりなんてしない)
(私たちは自分が選んだ友達と一緒に生きて、いつか自分で選んだ道を歩んでいくんだから!)
父親の理想を拒否して、自分が何になりたいかは決まっていない。でもそれはこれからゆっくり見つければいいとジェムは思う。困ったときは、今まで助けられた人たちの手をもう一度借りてみよう。少女たちは、時に過去を振り返りながら、誰も知らない未来へと駆け抜けていく。
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