苦渋
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第三章
「君に頼みがあるのだが」
「まさかと思いますが」
「家族にも。同期にも伝えてくれ」
決意している顔でだ。工藤に言うのだった。
「私はこれから腹を切る」
「そうされますか」
「そうだ。そうする」
終戦と共にだ。国に殉ずるというのだ。
「そしてだ。動物園の方にも伝えて欲しい」
「中佐のことを」
「頼めるだろうか」
じっと工藤の顔を見てそのうえでの言葉だった。
「君にだ。いいだろうか」
「わかりました」
止めなかった。いや、止められなかった。
止めても中佐にとってそれは無礼、そして侮辱になるとわかっていたからだ。中佐は武士として最期を遂げる覚悟だからだ。
それがわかっているからだ。彼は止めなかったのだ。
そのうえでだ。工藤は頷いてから言った。
「それでなのですが」
「何かあるか」
「僭越ながら立ち合いを務めさせて頂きたいのですが」
「看取ってくれるか」
「はい。そうさせて頂きたいのですが」
「頼めるか」
覚悟を決めた顔から微笑んで中佐は言った。98
「そのことも」
「はい」
工藤は澄み切った顔で応えた。
「そうさせてもらいます」
「済まないな。それではな」
「今よりですか」
「既に遺書は書いてある」
かねてより覚悟していたことだった。
「それを家族にも同期にもだ」
「そして動物園側にも」
「頼む。ではな」
「わかりました」
工藤の言葉を最期に受けてだった。中佐は腹を切った。
武士の十字の切腹を行った。
そのうえで軍服を調えて。己の左に立っている工藤を見て言った。
「これでいい。そしてだ」
「そして?」
「介錯はいい」
死相を浮かべながらも澄み切った微笑での言葉だった。
その言葉を告げてからだ。中佐は。
己の口に銃を矢って発砲しそれを介錯とした。それで全てを終えた。
工藤はその全てを見届けた。陸軍の敬礼で中佐を見送った。
それが終わってからだ。彼は中佐の家族に同期の人達に中佐の遺書を自らその手で送った。そうしてだった。
最期に動物園に向かった。そのうえでこう言ったのである。
「お読み下さい」
「中佐さんの遺書ですよね」
「あの人の」
「はい、そうです」
その通りだとだ。工藤は園長に答えた。
「その通りです」
「そうですか。あの人のですか」
「遺書ですか」
「これが」
「立派なお最期でした」
彼は見たままのことを話した。
「ご自身で腹を十字に切られ銃で介錯をされました」
「その全てをですか」
「ご自身で果たされたのですか」
「そうされました」
こう園長達に話す。
「貴方達にとってはよくはない方だったでしょうが」
「はい、それでもですね」
「最後まで軍人であられた」
「そうした方だったのですね」
「遺書は封を切ってはいません」
それも言う工藤だった。動物園の職員達に話していくその姿は軍人のものだった。やはり彼も軍人であった。
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