黄金獅子の下に
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黄金獅子の下に 2
前書き
続きです。
切れ目ではないけれど、ここくらいしか切れる箇所がありませんでした。
それから三日ばかり過ぎ、黒く塗装し直されている報告に満足したビッテンフェルトがドックにやって来ることは二度となかった。
マクシミリアンだけは、とにかく納期に間に合わせるように、と毎日口うるさい。
ビッテンフェルトの一件があってから、余計に嫌みが増えたように思う。
「あんなの給料に入ってねぇよ」
ベッカーはそう愚痴るが、それはマクシミリアンとて同じだったろう。彼は彼で上から言われて、それを下へと伝えているだけなのだから。
「主任、次、お願いします」
「おう、今行く」
ベッカーの前には修理を完了した駆逐艦があった。図面を見ながら、細かい数値を入力していく。
「……もう、ちょい右…ああ、そこだ」
滑らかに塗装を終えた側面に白い光が当てられていた。その位置を図面と艦を見比べながら、僅かに移動させていく。
「こんなものだろう」
次、というようにベッカーは手を差し出し、作業用のゴンドラに乗り込んだ。グリムも助手として乗り込む。
白い光の輪郭が描かれているそばでゴンドラは止まった。
ベッカーがレバーを操作すると塗料が噴射され、それを微妙に吐出量を調整しながら、輪郭の中を塗りつぶしていく。
隣で見ているグリムにはただ広面積が塗りつぶされていくようにしか見えない。しかも微妙に濃淡がある。レバーがそのままならば、一定量で塗料が噴きつけられるはずのものを、わざわざベッカーはむらを作っていく。
しかし下から作業を見ているニューマンらには、その濃淡がそうとは見えない。距離があるからではなく、船体のカーブに沿っているからだ。
「どうした」
グリムは黙ったまま、タンクから伸びるホースを捌いている。
「…いえ……これって、いつものように離れて見たらむらには見えないんですよね」
マスクをしたままなのでモゴモゴと声が籠もる。すぐそばでなければ何を言っているのかわからないだろう。
「当たり前だろうが。そうなるようにやっているんだから」
何を今さら、というようにベッカーは呆れ顔で言い、さっさとゴンドラを動かせ、と顎をしゃくりあげた。
「小さな壁なら全部同じでいいんだがな。でなけりゃ外装みてぇに一気に全体を塗っちまえばいい」
その光景は見学したことがあった。
シャワールームのように天井から塗料が降ってくるのである。そこにあるものすべてが染められてしまうのだ。大きなものだから、そんないささか乱暴な方法が用いられる。
船体に浮かんでいる光の輪郭ギリギリまで塗りつぶすと、ベッカーは手慣れた動作で噴霧口を切り替えた。ペン先のように絞った口から細い霧が吹き出す。それが光の線に沿って動いていくのを、グリムは魔法を見ているかのような表情で追っていた。
「ほれ、切り替えだ」
手早くハンドピースに繋がっている塗料のチューブを取り替える。足元に二度三度と噴射して色を確認すると、まるで刷毛で塗っているかのように線の際に噴き付けていく。
同じように船体のカーブを計算して濃淡をつけ、仕上がりはまるで平らな面に描いたようだった。これがコンプレッサー一台だけでの仕事とは何度見ても信じられない。
グリムの役目は作業がしやすいようにゴンドラの位置を動かし、ホースが邪魔にならないように退け、塗料の色や、必要に応じてさらに小さな噴霧口に付け替えるだけだ。
「……こんなもんか…どうだ?」
ベッカーが振り向けば、下にいるニューマンや、ドックの二階にいるハートマンが腕で丸を作った。
「じゃ、いいだろ。とにかく描いてありゃいいんだしな」
「とにかくであの出来なんだから……」
「主任には適わないです」
ゴンドラから降りるとベッカーは邪魔臭そうにマスクを剥ぎ取った。
「別に特別なことはしてねえだろうが。図面通りに塗ってるだけだよ。俺のハンドピースだけ特注ってわけじゃねぇし」
自分でも見上げて描いたばかりの国章を確認する。帝国の軍艦には識別番号は書かれていない。そのかわりに帝国国章が描かれている。
母艦や輸送艦のように艦艇そのものが大きければ、それに合わせて図案も大きくなる。平らな面も広い。実際ベッカーも描いたことがあるが、本当に真っ平らな面で「つまらねえ」という平らな側面以上に素っ気ない感想を述べた。
ニューマンらが作業する時は輪郭線近くまではコンプレッサーを使うが、境目は刷毛を使う。ベッカーにしてみれば「刷毛の方が百万倍くらい難しいぞ。刷毛目が残るし、重ね塗りすりゃ、どうしても塗りムラができる。お前らってすごいよ、俺には出来ねえ」となるのだ。
「ま、コンプレッサーだけで仕上げるから仕事は早いけどな」
「仕上がりもいいですよ」
「ええ、主任の描いた国章は美しいです」
「ははん、お前ら、いくら煽てたって奢らねえよ」
それで終了とでも言うように、コンコンと自分が乗っていたゴンドラを叩く。
「それに国章の出来はは戦艦の戦力とは関係ないからなあ。ほら、だから俺の給料もこの年になっても安いだろ?」
ベッカーの苦笑いに、同調すべきかどうか、グリムらは顔を見合わせた。
毎日のように塗装を終えた艦艇に、最後の仕上げでもある国章を描き、黒色槍騎兵の塗り替えでのロスも残業でどうにか調整できた。
式典に帝国艦隊全艦を並べようというわけではないので、納期には間に合いそうだ。自然とマクシミリアンが怒鳴り込んでくる回数も減る。
ドック内の空気に殺伐としたものがなくなってきた頃だった。
「……こりゃ、また……」
ドックに固定されている艦を見てベッカーはあんぐりと口を開けたままになった。
「綺麗ですね」
グリムも感嘆の声をあげる。そして、同じように目を見開いて見つめた。
旗艦を手掛けたことはあるが、目の前にある艦はそのどれとも違っていた。どれとも似ていなかった。
ずんぐりと厳ついフォルム、箱を連ねたようなイメージで、艦橋スクリーンに投影されると宇宙空間に溶け込むような色合い───それが軍艦だと思っていた。旗艦は少しばかり外観が異なりはするが、それでもここまでではない。
大気圏内を飛行するのなら空気抵抗を考慮する必要があるが、宇宙戦艦にはその必要がない。だから作り易く、頑丈な形状のものが主だった。
それがこの旗艦はどうだろう。
直方体のブロックを宇宙空間に漂わせているような戦艦とは異なり、航空機のような巨大な三角翼を持っている。流線型のフォルムは美しく、その船体は神々しいまでに青白く輝いていた。
「こりゃまた……えらい別嬪さんだ」
「……主任、これ……」
グリムが声と手を震わせながらファイルを差し出してきた。
「どうした? まさか、これも色が違ってる、なんてわけじゃねえだろうな」
それだけはないはずだ、と訝しげに視線をやり、それから絶句した。
「……なるほど、まあ、そうだろう。いいんじゃないのか?」
ふんふんと頷いているうちに笑みが零れてくるのが自分でも不思議だと思う。
「白じゃあ見えねえから別のにしてくれ。あと地に合わせてちいっと薄目がいいな。ああ、それだけだ。位置は任せるから」
コーヒー飲んでくるわ、とベッカーが出て行ってから、グリムは艦の真下に立った。濃紺の船体なら輪郭線を白く投影すればよいが、白い船体ではただ光るだけだろう。
国章を描く位置は決められている。
座標を入力し、赤い光が輝く艦艇に当てられた。翼を持つ獅子が白い艦艇に浮かび上がる。
「おっ、いい感じじゃねえか、赤、いいよ」
ほどなくして戻ってきたベッカーがぽんとグリムの肩を叩き、ゴンドラへ乗り込んだ。
「いや、一人でいい。こっちは俺が動かすから、お前は下から確認頼む」
「わかりました」
ベッカーの補佐につくようになって、下から見ているように言われたのは初めてだった。いつもそばで彼の職人芸とも言えるノズル捌きを見ていた。ニューマン達にはずるいと言われたが、あそこまで近いとベッカーが何を見て、どこで調節のタイミングを測っているのかわからない。境目を細い噴出口で描く時だけは間近な分、微妙な加減がわかるのだが。
ベッカー一人を乗せたゴンドラが動き出す。
彼も最初から一人前だったわけではなく、グリムのように補佐でクレーン操作もしていたから造作なく位置を決めた。
マスクとゴーグルを付けると、いつものように足元に噴射して色と勢いを確かめる。
色も圧も問題はなかったが、いつもゴンドラの床に描かれている彼のイニシャルはらしくなく乱れていた。
「ちっ……素人かい、俺は」
グリムを乗せなかったのは、下からの具合を確認させたかったのではない。情けない微苦笑と、手の震えを見られたくなかったのだ。
「白い艦なんて初めてだもんなあ」
修理を終えた艦ではない。
新造艦らしい滑らかな塗装の仕上がりだった。その表面を静かに撫でる。赤い光が手の甲を切り分け、指の節で折れ曲がった。
「コーティングもすげえよな。どれだけ防御力が出るんだか……どれ…いつまで眺めてても飽きねえくらいの美人なんだが、こうやって撫でても埒があかねえな」
すうっと息を吸い、それを全部吐き出してからベッカーはノズルを握った。
下からでは、いつも通りに見えただろう。
だがベッカーは描き始めの位置を決める時から緊張していた。それはどんな艦でも同じだ。
そこからどの方向に、どのくらいの強さで噴き付けるか、駆逐艦ならここを濃いめに、巡航艦ならこの位置でちょいと距離を取る、躊躇はすぐさま結果に出るから迷うならまず塗っとけ───言葉にも出すし、そう思って作業していた。
「…………あっ!」
マスクをしているし、距離もあった。なので下にまで声は聞こえていないが、ベッカーの腕は普段絶対に止まらない箇所で止まった。
「っ……何やってんだ、俺は」
一度目では輪郭線まで距離を取る。二度目に少し口を絞り、際に寄る。塗りつぶしの面積によっては重なった部分での濃淡の差が大きくならないように、調整しながら三度は重ねていた。
それが一度目で際近くへとぶれたのだ。
輪郭からはみ出したわけでも、ラインにふれたわけでもないが、ベッカーが描きたい位置ではなかった。
「故障ですか?」
グリムからはかなり離れている。
赤いラインははっきり見えるのだが、そこから逸れているわけでもない。だからベッカーが妙な位置で止まり、それから動かなくなってしまったのだから、まずは故障を疑った。
極たまにだが、噴霧口やレバーが壊れることがあるし、グリム達が一番やってしまうのが吸気穴を詰まらせてしまうことだ。
返答はなく、ゴンドラが下がってきた。
「下はなんともないですよ。圧も下がってないですし、塗料の残量も十分です」
「……ああ、だと思う」
邪魔そうにマスクを外しながらの返答は抑揚なく、小さかった。
「じゃあ、どうしたんですか?」
「ああ……失敗した」
グリムは自分の耳から入った音を、他に似たような音で、聞き間違えやすいものがないか、まずは脳内で、それから口中で反芻した。
「ミスったんだよ」
何度も失敗って言うな、聞こえてる、そうベッカーは鼻を鳴らす。グリムにしてみれば、自分達に対しての発声でないだけに、これも衝撃的ではあった。
「つい見惚れて手が滑った」
「………綺麗、ですからねえ」
ベッカーの言葉通りに受け取るしかなく、同意の意味で頷いてみせる。
「白さが眩しいし……続きは一休みしてからにする。お前も休め」
休憩はするだろうが、自分をこの場から追い払おうとしているのは明らかだった。どうせ今夜も残業が確定だし、ベッカーの方から休憩の許可が出ることは少ないのだから、拒否する理由はない。
「じゃあ、食事とってきます」
「おう、ゆっくりしてきていいからな」
ゴンドラからは降りたが、コーヒーを飲みに行く気分にもなれず、白い艦艇を見上げる。
「さて……どうしたもんだか…って、どうしようもねえけどなあ」
思わず見惚れてしまう程の美しいフォルムなだけに、僅かなぶれが気になる。修正が必要なほどではなく、輪郭の際を塗る時に色むらが出ないように気をつければいい程度ではあるが、ここ数年もベッカーは塗り直しをしたことがないのだ。
幸い手の震えと緊張感はゴンドラを下ろすと無くなりはしたが、もう出ないとは言い切れない。あれ以上ぶれたら、今後こそ本格的な修正が必要になるだう。
「……? グリムの奴、もう戻ってきたのか。えらい早飯だな」
だがドックに入って来たのはヘルメットを被った軍人だった。入り口付近で白い艦に見入られたように立ち止まっている。
後書き
国章の描き方ですが、帝国なので人力あり、です。
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