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見えなくなると

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第一章

                 見えなくなると
 もう幾つになるのか、都信子は父の義行に尋ねた。
「お父さんもう幾つ?」
「もう九十か」
「そうよね」 
 信子は父の返事を聞いて頷いた。
「私はお父さんが三十の時の子供だから」
「御前が六十だろ」
「ええ、そうよ」
「じゃあわしは九十だ」
 義行はその皺が多い顔を綻ばせて言った。
「そして母さんが八十八だ」
「そうよね」
「気付けばもう九十か」
「長生きよね」
「ははは、そうだな」
 また笑ってだ、義行は言った。
「ここまで生きられるとは思っていなかった」
「九十までな」
「若い頃は随分飲んでな」
 酒をであるう。
「それも朝までなんてしょっちゅうだったからな」
「確かにお父さんずっとそうだったわね」
「ああ、それでここまで生きられるなんてな」
「その歳まで大きな病気もしないで」
「そんなことはな」
 九十まで生きられることはというのだ。
「思ってもいなかった」
「もっと早くって思ってたのね」
「八十までだ」
 その歳になることもというのだ。
「思ってもいなかった、戦争があった時は煙草もヒロポンもしてたしな」
「随分身体に悪いこともしてたのね」
「どっちもすぐに止めて酒だけにしたが」
「そのお酒がね」
「今も飲んでるがな」
 若い頃はというのだ。
「毎日浴びる様に飲んでいたんだ、それでな」
「九十まではね」
「生きられるなんてな、しかし御前が光太郎君と結婚してだ」
 信子の夫だ、数年前に定年して今はシルバー人材派遣業で働いている。
「孫も曾孫も出来た」
「ええ、私もお祖母ちゃんよ」
「そうだな、長生きはするものだ」
「百歳まで生きる?」
 笑って言う信子だった、その還暦に相応しい落ち着いた感じの老いた顔で。
「それなら」
「ああ、じゃあその時になったら」
「百歳になったら」
「やしゃ孫の顔を見るか」
「それが楽しみみたいね」
「とはいっても九十だからな」
 彼から見て相当な高齢だからというのだ。
「満足っていえば満足だな」
「そうなのね」
「今はこうして御前等と一緒にいて」
 娘夫婦と同居していて言うのだった、その家の中で。
「婆さんもいてな」
「そうしてよね」
「穏やかに暮らしているだけでな」
「いいのね」
「ああ、もう何も不満もないしな」
 こう満ち足りた顔で言うのだった。
「百歳まで生きなくてもいいか」
「まあ百歳まで生きられたら」
「そうだな、生きるか」
 こうした話をだ、信子は九十になった父と話していた。
 これはいつも話していることで信子も義行も思うことはなかった、だが。
 ある日だ、信子は。
 その時は居間にいて本を読んでいた義行がだ、不意に。
 姿が消えたのを見てだ、まずは。
 目をこすった、そしてまた見たが。
 義行はいた、それでこう言ったのだった。 
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