おとそ
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2部分:第二章
第二章
「食べられるだけ有り難いと思いなさいよ」
「あるだけましってことか」
「そうだよ」
この夫にしてこの妻ありであった。負けてはいない。
「食べられるだけ有り難いんだよ、この御時世」
「俺が博打で儲けた金でもこれだけか」
「悪銭身に着かずっていうしね」
妻の言葉は実に身に滲みる。
「仕方ないさね。まあおまんまが食べられるだけでもいいってことよ」
「じゃあそれはいいさ」
繁太郎は渋々ながらそれには頷いた。
「けれどな」
「何だい?」
「おとそがないっていうのはどういうことなんだ」
彼は抗議した。
「正月だぞ、それでおとそがないのか」
「おせちもないよ」
「それはもう我慢する」
腹立たしいがそうするしかなかった。
「けれど正月だぞ。それでおとそがないのは」
「ないから仕方ないだろ」
シズは言い返す。
「そこいらにあるの飲んでいなよ。水でもさ」
「水が酒になるか」
彼はそれに反論する。
「馬鹿言ってるんじゃねえ」
「じゃあどうしろってんだよ」
シズは段々喧嘩腰になってきた。
「そんなの何処にもないってのに」
「あるじゃねえか」
だが繁太郎の言葉は意外な方向に転がった。
「あるって?」
「そうさ、あるところにはあるじゃねえか。酒もよ」
「闇市にかい?」
「それだよ」
彼は言う。
「あるじゃねえか、たっぷりとよ」
「あれは止めときな」
だがシズはそれをすぐに取り下げるように言った。
「ああしたとこに出回ってる酒なんてロクなもんじゃないよ。下手したら死ぬよ」
「生きるも死ぬも運次第だ」
繁太郎は暴論を吐いた。
「酒が怖くて博打が打てるか」
「あんたが死んだらあたし達が困るんだよ」
博打打ちでも大黒柱だ。それに死なれては路頭に迷うというのだ。
「だから馬鹿なことはしないことだね」
「ええい、五月蝿い」
だが繁太郎は聞き入れようとしない。
「おめえが行かねえってんなら俺が行く」
そう言って家を出ようとする。
「ちょっと行って来るぜ」
「どうなっても知らないよ」
シズはむっとした声をかける。
「死んでも目が見えなくなっても」
スカトリにはメタノールも混ざっていた。それで死んだり失明したりした者が多かったのだ。とんでもない酒であった。三合飲んだら死ぬとまで言われていた。このことから三冊出しただけで潰れる雑誌のことをスカトリ雑誌と読んでいた。
「だから大丈夫だ」
繁太郎は強情に言う。
「俺は運がいいんだからな」
「それでもたまに大して勝ってないじゃないか」
「ええい、五月蝿え」
いい加減頭にきた。実は彼はそれ程気は長くない。むしろ短気だ。
「金はあるんだ、行って来るぜ」
「死んでも知らないよ」
「死んだら棺桶に花札でも入れとけ。じゃあな」
「全く」
暫くして一升瓶を抱えて戻ってきた。そしてそれを手にどっかりと家の中に座り込んだ。
「戻ったぜ」
「酒はそれだね」
「ああ、杯持ってきてくれ」
「あいよ」
シズは言われるまま杯を持って来た。そしてそれを手渡す。
「大丈夫なんだろうね、その酒」
「多分な」
「多分って」
「飲んでみねえとわかりゃしねえよ」
そう言ってその杯に酒を入れはじめた。トクトクと音がする。
「そうだろ?どんなに美味い酒でもな」
「そりゃそうだけれどね」
「まあこれで一年のはじまりだ」
彼は言った。
「おとそだ、おとそ」
「やれやれ」
「飲むぜ、今日は」
そう言って早速飲みはじめた。彼は瞬く間に一升空けてしまった。
「ふう」
「凄いね、一升あっという間じゃないか」
シズはそんな彼を見て言った。彼女は飲んでいない。何か危なそうだったからだ。
「久し振りだぜ、こんなに飲んだのは」
「そうかい」
「なあ」
「何だい?」
「ちょっと・・・・・・気分が悪いや」
「えっ!?」
それを聞いて顔を顰めさせた。
「それってまさか」
「そのまさかかもな。何かよ、頭が」
「ちょっと御前さん」
シズの顔が見る見るうちに蒼ざめていく。
「冗談じゃないよ、やっと戦争が終わったってのに」
「医者呼んでくれ」
彼は言う。
「何かよ、目まで」
「ちょっと、ちょっと」
彼女は慌てて子供達を呼ぶ。
「早く医者呼んできな。このままじゃおとっつあんが」
「早く頼むぜ」
彼は言う。
「何かよ。少しずつ」
「しっかりしなよ、何言ってるんだい」
夫の側に来て必死に声をかける。
「あんたに死なれたら困るんだよ、お願いだから死なないでくれよ」
「へへへ、やっぱり運の尽きかもな」
最後に自嘲めかして笑った。
「おとそで終わりってな」
そう言ってその場に崩れ落ちた。そこに医者がやっとやって来てまた大騒ぎとなったのであった。
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