銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第五十九話 来訪者(その3)
■帝国暦486年7月5日 帝都オーディン ブラウンシュバイク公爵邸 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
シュトライトが表情を歪ませた。
「閣下、残念ですがフレーゲル男爵の行方が確認できません」
ブラウンシュバイク公の顔が歪んだ。苦痛、怒り、哀しみ、それら全てが入り混じった表情だ。
見たくなかった。この男のこんな顔は見たくなかった。この男は敵なのだ、いつか滅ぼす敵。常に傲慢で他者を踏みにじる事をなんとも思わない男、だから叩き潰す。しかし、今目の前にいる男は可愛がっていた甥の不祥事に苦しみ、怒り、哀しんでいるごく普通の男に過ぎなかった。
「念のため、ミッターマイヤー少将を監禁している軍刑務所に問い合わせました。フレーゲル男爵が来たそうです」
「!」
シュトライトの言葉が応接室に響いた。ブラウンシュバイク公は目を閉じている。まぶたの奥で彼が見ているのは何なのだろう、幼いフレーゲルの姿だろうか。
「御苦労だった」
ブラウンシュバイク公の言葉が重く響いた。
「フレーゲルは処断せねばなるまい」
「しかし、閣下」
「シュトライト、フレーゲルは一度不敬罪を犯しているのだ。本来ならあの時処断されていてもおかしくは無かった。それを今回の討伐で雪がせようと思ったが、ここでも陛下の命を軽んじるような行動をとるのであれば処断するほかあるまい」
「……」
「わしはブラウンシュバイク公爵家の当主だ。一門、そしてわしを頼りとするものに対し責任がある。フレーゲルは二度にわたって公爵家を危機にさらした。彼らのためにも処断せねばならん」
苦渋に満ちた声だった。そして反論を許さない当主の声だ。フレーゲルは救えない、皆判っただろう。溜息をついてアンスバッハがブラウンシュバイク公に声をかけた。
「では、小官が参りましょう」
「いや、わし自らフレーゲルを裁く」
「しかし」
「黙れ、アンスバッハ! オットー・フォン・ブラウンシュヴァイクに逆らうか!」
一喝して大きく胸をあえがせると、ブラウンシュバイク公は一転して静かにアンスバッハに話しかけた。
「アンスバッハ、卿の気持ちはありがたいと思う。しかし、わしは卿を恨みたくないのだ。わかってくれ」
もう誰も何も言えなくなった。この男を止める事は出来ない。
「ヴァレンシュタイン中将、同行してもらえるかな」
「はっ」
俺には見届ける義務が有るだろう。フレーゲルがここまで追い込まれた一因は俺にも有る。
■帝国暦486年7月5日 帝都オーディン 軍刑務所 ジークフリード・キルヒアイス
「きさま、ミューゼル……」
私たちがここに着いた時、フレーゲル男爵はミッターマイヤー少将を撃ち殺せと命じていた。間一髪だった。私たちはその場でフレーゲル男爵の仲間を撃った。フレーゲル男爵が怒りにあえぐ。
「それ以上、動くなとは言わぬ。動いてみろ。そうすれば、私としても卿らの肥大した心臓を撃ちぬく口実ができると言うものだ」
「小僧、小僧……」
フレーゲル男爵は繰り返す。全身を震わせ両目は狂気に火花を散らしている。
いけない、もうすぐフレーゲル男爵は暴発するだろう。そのときラインハルト様はご自身を抑える事が出来ないだろう。私が撃つ、そのときは私がフレーゲル男爵を撃つ。
「そこまでだ、皆銃を下ろせ」
太く、低い声が響く。
「ブラウンシュバイク公!」
「伯父上!」
ブラウンシュバイク公だった。何人かの軍人を背後に引き連れている。おそらくブラウンシュバイク公に仕えるものだろう。そしてヴァレンシュタイン中将もいる。
私もラインハルト様もロイエンタール少将もどうしていいか判らずに困惑していると再度ブラウンシュバイク公が声を発した。
「もう一度言う。皆銃を下ろせ」
私たちは顔を見合わせ、銃を下ろした。
「フレーゲル、この愚か者!」
ブラウンシュバイク公の怒声が響いた。
「伯父上?」
「お前は一体何をしていた?」
どういうことだろう。これはブラウンシュバイク公の知らない事なのか。私だけではない。ラインハルト様も訝しげだ。
「それは、この卑しい平民に制裁を」
「卑しい平民とは、ミッターマイヤー少将のことか?」
「そうです。我らの一門のコルプト大尉を殺した……」
「フレーゲル、わしが何時そのような事を命じた?」
ブラウンシュバイク公の声は苦い。
「伯父上?」
「わしが何時そのような事を命じたと訊いておる」
「しかし、此処に監禁したのは伯父上の命令で」
「監禁は命じた。しかし殺せなどとは命じておらん」
「……」
ブラウンシュバイク公は殺せとは命じていない? ではなぜミッターマイヤー少将を監禁したのだろう。
「わしがミッターマイヤー少将を監禁したのは、口の利き方を教えるためだ。正論を吐くのはよい。しかし正論が常に受け入れられるものではない。受け入れさせるにはそれだけの配慮がいる」
口の利き方? 私はラインハルト様を見た。虚をつかれたようだ。ミッターマイヤー少将、ロイエンタール少将も呆然としている。
「お、伯父上?」
「ミッターマイヤー少将」
「はっ」
ブラウンシュバイク公は今度はミッターマイヤー少将に話しかけてきた。
「フレーゲルが卿に無礼を働いたようだ、済まぬ。だが、正論を吐くのと正論を受け入れさせるのは別の問題だ。よく覚えておくがよい」
「はっ」
ブラウンシュバイク公は、チラとラインハルト様を見た。ラインハルト様にも同じ事を言いたいのかもしれない。
「フレーゲル、お前は死なねばならぬ」
「お、伯父上?」
フレーゲル男爵を殺す? 思わずブラウンシュバイク公の背後を見た。誰も動じていない。既に彼らは知っているのか。思わず私は周りを見た。ラインハルト様もミッターマイヤー、ロイエンタール少将も驚いている。
「お前には貴族の義務が判るまい?」
静かな、悲しげな声だった。
「貴族の義務?」
「そうだ、判るか?」
「……」
「貴族の義務とは皇室を守る事だ」
「そんな事は」
「判っておらぬ!」
ブラウンシュバイク公の怒声が響いた。
「判っておらぬのだ、フレーゲル。判っておるのならこうも陛下に対し不忠を働くはずが無い」
ブラウンシュバイク公の声が一転して悲痛さを帯びている。本気で殺すのか。
「伯父上?」
「お前は先日の爆弾騒ぎでは陛下を見捨てて逃げようとした。そして此度はミッターマイヤー少将を殺そうとした」
「しかし、あの男はコルプト大尉を……」
「ミッターマイヤー少将は軍規を正したに過ぎぬ。陛下のご命令に従っただけだ」
ブラウンシュバイク公の声がさらに悲痛さを帯びる。
「……」
「お前は短期間の間に二度も陛下に対して不忠を働いた。わしはお前の育て方を間違えたようだ。責任は果たさねば成るまい」
疲れたような声だ。
「お、伯父上、お許しください」
「フレーゲル、ヴァルハラでわしを待て」
ブラウンシュバイク公がブラスターを抜こうとする。
「お、伯父上!」
「閣下、お待ちください」
「ヴァレンシュタイン、邪魔をするな」
ヴァレンシュタイン中将がブラウンシュバイク公を止める。何をするつもりだろう。
フレーゲル男爵の命乞いか。
「小官が処断します」
「なにを言っている」
「小官はアンスバッハ准将では有りません、元々閣下の敵です。憎まれても構いません」
「……」
「フレーゲル男爵、死んでください」
ヴァレンシュタイン中将がブラスターを構える。
「ま、待て、お、伯父上、助けてください」
フレーゲル男爵が助けを求める中、ブラスターから白線が放出された。白線はフレーゲル男爵を包み、男爵は痙攣すると崩れ落ちた。
ヴァレンシュタイン中将はゆっくりとフレーゲル男爵に近づくとしゃがみこんで首筋に手を当てた。脈を計っているのだろう。
「フレーゲル男爵は亡くなられました。外傷がありません、おそらくは心臓発作でしょう」
「?」
「何を言っているのだ、ヴァレンシュタイン」
ブラウンシュバイク公が問うのももっともだ。フレーゲル男爵は死んではいない。中将はブラスターの光線を拡散させた。あれは捕獲用に銃口を切り替えている、殺傷力は無い。
「フレーゲル男爵は亡くなられました。小官が確認したのは皆さんも見たはずです」
「……」
「死んだのです」
ヴァレンシュタイン中将は静かに周囲を見回した。普段柔らかな表情を浮かべる中将が厳しい表情をしている。
「フレーゲル男爵は死んだのです。この後、フレーゲル男爵に似た人物がフェザーンで見つかるかもしれません。しかしそれは良く似た他人です。その人物には間違ってもフレーゲル男爵の名を名乗って欲しくないものです。そのときはフレーゲル男爵の名を騙る偽者として処断する事になりますから……。ブラウンシュバイク公、遺体をお引き取りください」
中将は死んだということにして男爵を逃がそうとしている。皆何も言わない。ラインハルト様も困惑した表情のままだ。やがて、ブラウンシュバイク公の部下がフレーゲル男爵の“遺体”を運び出した。微かに中将に対して目礼をしていくが中将は知らぬ振りだ。
「ヴァレンシュタイン」
ブラウンシュバイク公が声を発した。こちらには背中を向けている。
「わしは卿に礼を言わぬ。甥を殺されたのだからな。だが、卿が此処にいたことには感謝している」
「……」
「だが、それも今日だけだ。明日からは違う。卿はわしの敵だ」
「……」
「それから少しは酒を飲めるようになっておけ。人は時には飲みたくなる日も有る。わしは帰ったら少し飲むつもりだ。」
「……」
ブラウンシュバイク公はそれだけ言うと帰っていった。
「中将、あれで良かったのですか。フレーゲルを生かしたままで」
「公式にはフレーゲル男爵は死亡したことになります。フェザーンへ追放してくれるなら問題ないでしょう」
ロイエンタール少将の問いにヴァレンシュタイン中将が答える。
「それにフレーゲル男爵を殺してしまうとブラウンシュバイク公の心が折れかねません。そうなると公爵が自暴自棄になりかねない。そちらのほうが危険です。我々はまだ、彼らと正面から戦えるほど強くは無いんです。不満は持たせても怒らせてはいけません。まあミッターマイヤー少将を助ける事は出来たのです。それでよしとしましょう。この辺が落としどころです」
ヴァレンシュタイン中将は正しいのかもしれない。しかしラインハルト様はどうお考えだろう。不満は持たせても怒らせてはいけません。確かにそうだ。その言葉は敵だけではない、味方にも言えるのではないだろうか……。
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