天使の箱庭
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
シーン4~5
肩を並べ歩くコートの男と春香。
男「取材のほうはどうかね。」
春香「セラピーの見学は、やはり患者さんたちがもう少し落ち着いてからでないと難しいですね。」
男「そうか、まだ時間がかかりそうだな。」
春香「はい…。実は、それとは別に、ちょっと気になることがありまして…」
男「うん? と言うと?」
春香「バス会社の過去の資料をいろいろ調べていたんですが、あの会社、6年前にも
似たような事故を起こしているんです。死亡した運転手が事故当日まで2週間
連続で勤務していたことがわかり、会社が行政処分を受けているんです。」
春香、カバンから資料を取り出し男に渡す。
男「バス会社は今回の事故を運転手個人の過失だとしているが…。
もし勤務体制に問題があったとすれば、既に警察も動いてるはずだ。
俺の方でも何か掴んだら知らせよう。」
春香「はい、お願いします。」
-----資料室-----
春香と野口が並んで座り、心理学の話で盛り上がっている。
春香「そうそう、私の友達にもいますよ。いい歳してまだハローキティに夢中になってる人が。
家中がキティちゃんなんです。ぬいぐるみはもちろん、家具や食器、寝間着にいたるまで、
もう全てがキティちゃん。キティちゃんに囲まれてるとストレスが吹き飛ぶんだーとか言って。 中学生ならともかく…。」
野口「幼い精神段階に戻る、いわゆる退行ですね。でも中には創造的退行と呼ばれるものがあって、
趣味が高じて新たな創造を生むものもあります。アニメやキャラクターものに夢中になってる
うちに、イマジネーションがかきたてられて、新しい商品やビジネスを思いつくといったパター ンがこれに当てはまります。」
春香「ああ、彼女もそれです。彼女が企画したスマホ用のペット型猫ロボットが大ヒットして、
この間テレビの取材を受けてました。ペットっていえば、うちの姉の場合は自分の息子を
ペット化してるんです。もうべったり。旦那とは大恋愛の末に結婚したのに、子供の世話にばか りかまけて、今じゃ旦那はそっちのけ。」
野口「うん…。本来妻は夫と強い愛情関係を望みます。しかし、その望みが叶わないと感じるようになる と、そのままでは自分がみじめに思えてくる。すると、夫への気持ちを抑圧して、その代わりに 子供へありったけの愛情を注ぐようになるんですよ。」
春香「なるほどね。つまり姉は、子供を旦那代わりにしてるんだ。」
野口「そう。これは就活に挫折したフリーターにも言えます。彼らはよく、『自分らしく生きたい。サ ラリーマンになってやりたくもない仕事をやらされるより、自分らしい生き方を見つける方が大 事なんだ。』なんて言ったりしますが、あれも抑圧のメカニズムが働いてるんです。」
春香「サラリーマンになれなかった自分への言い訳ですね。」
野口「本来の願望を抑圧して自我の崩壊を防ごうとしているんですよ。」
春香「そうか。でも、抑圧したからって願望が消えるわけじゃないですよね。」
野口「そう。心の底に願望は残っていて、それがいつの日かあらわれないとも限らない。」
春香「もし抑圧のはけ口が見つからない場合、そのうっぷんはどこへ向かうんでしょうか。」
野口「夫婦の場合だと不倫とか、最近増えてる幼児虐待。」
春香「若者による無差別殺人なんかはどうですか?」
野口「あれは人格障害が要因の場合が多いですね。一般的な場合だと人に対する敵意というのは連鎖す るもんなんです。いわゆる、置き換えの心理ですね。」
春香「置き換えの心理。」
野口「ええ。夫に怒鳴られた妻は子供に八つ当たりし、母親に叱られた子供は下級生や下の兄弟をいじ める…、といった具合にね。」
春香「今問題になってるいじめにも抑圧や置き換えの心理が複雑にからんでいるのかも知れませんね。 もう一度、心理学勉強してみようかしら。以前、心理療法のセミナーに通って勉強したことが あって。」
野口「へぇ。島田さんは勉強熱心なんですね。」
春香「そんな… 興味のあることにだけです。」
野口「…あなたを見ていると妹を思い出します。」
春香「妹さんがいらっしゃるんですか?」
野口「ええ、二歳違いの妹がいました。」
春香「へぇ~。…あれ、今、いましたって…」
野口「ええ。死んだんです、20年前に。」
春香「亡くなった…」
野口「妹は小さい頃はお転婆で、僕と一緒にヒーローごっこをして芝生を駆け回るような元気な奴でし た。成績も良くて、高校なんか僕より偏差値の高い進学校に進んで…。ところが、その頃から、妹 はだんだんふさぎ込むようになりました。両親が心配して妹を精神科に連れていき、薬の効果も あって一旦は良くなったように見えたんですが、結局、高校には通えなくなり中退してしまいま した。それから間もなくして… 自殺したんです。」
春香「えっ…」
野口「一番近くにいた僕がその兆候に早く気づいてやれれば… そう思うと今でも悔しくて…」
春香「………」
野口「最近ね、妹がよく夢に出てくるようになったんです。いつも同じ夢で、妹が僕に何か話しかけて るんですよ。でも、その声がどうしても聞きとれなくて… 何を言ってるんだかすごく気になるん です。でも、なんとなく想像はつきます。偉そうに、臨床心理士なんかやってるんじゃないわ よ、妹ひとり救えなかったくせにって、きっと文句言ってるんですよ。」
春香「そんな… 妹さんのことは先生のせいじゃ…」
野口「へへ、すいません、なんか、暗い話になっちゃって。
そうだ、島田さん、今夜空いてますか? 良かったら一緒に夕飯でもどうです。」
春香「え? でも、奥様がおうちで待ってらっしゃるんじゃ。」
野口「あれ? 言ってなかったっけ。僕も独身ですよ。研究に没頭しているうちに、女性が誰も寄り付 かなくなってしまいましてね。久しぶりなんです。仕事以外でこうやって女性と二人きりで話す なんて。だけど島田さんみたいな美人な方が未だにお一人とは信じがたいですねぇ。恋人も?」
春香「いません。この歳になると、いいなぁと思う人はみんな既婚者。
残ってるのはカスばっかり。ああ、先生は別ですよ。」
野口「へへ、そうか、島田さんは理想が高いんだ。」
春香「そういうわけでもないんですが、相性ってやっぱり大事でしょ。
私って、人に甘えるのが下手なんです。言いたいことなんかも全部ため込んでしまうし…。
素直じゃないんですよね。
そうだ、先生みたいな臨床心理士の恋人っていいかもしれませんね。
何も言わなくても私の心をちゃんと読みとってくれそうですもの。
抑圧とも置き換えの心理とも無縁でいられそうだわ。」
野口「どうでしょうね。試してみますか?」
春香「え?」
野口「友人がイタメシ屋をやってましてね。お好きですか? イタリアン。」
春香「ええ、大好きです。」
野口「じゃあ、行きましょうよ、今夜。」
春香「はい。男性から食事に誘われるのなんて何年ぶりでしょ。もう涙がちょちょぎれそうです。」
野口「ふふ。あ、そうだ、オードブルにカラー別深層心理のレクチャーでもお付けしましょうか。」
春香「ああ、この間の続き…。いいですねぇ。楽しみだわ、是非。」
ページ上へ戻る