乱世の確率事象改変
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桃の香に龍は誘われど
久方ぶりに訪れた部屋は乱れに乱れていた。
雄と雌の匂いが充満し、みだらに投げ出された肢体をそのまま眠りこける数人の美女が寝台に横たわっている。
女であるが故に、彼女はその光景に嫌悪感を浮かべながら、それでも確かな歩みを進めて目的の人物の前に近寄って行った。
薄い掛け布だけを纏っている劉璋は気怠そうに彼女――桃香のことを見上げた。
「随分とまあ……こんなとこに来る気になりやがったなぁ、おい」
「……」
遣る気の欠片も無い声が桃香に投げられる。じっと見つめる瞳には、やはり嘗ての力強さは無い。
「なんだぁ? 俺の寝首でも掻きに来たか? 大歓迎だぜぇ、そういうの」
楽しそうに嗤う彼は、ほんの少しも目は笑っていなかった。
「……蹲っているだけじゃ、何も変わりませんから。でもあなたをどうこうする気はないよ」
「ってかよく守備の兵士が通しやがったな? それともアレか? また諸葛亮と徐庶の指示か?」
「うん、緊急であなたに伝えることが出来たから……私が来た」
そうかい、と大きなため息を吐いて劉璋は身体を起こした。同時に疲れ果てて眠る女達の頭を叩く。
「客が来た。邪魔だから失せろ」
言われて直ぐに服を整え始める女達は慣れているようで、桃香に一寸だけ恨めし気な目を向けてから部屋を出て行った。
じっと桃香を見つめる劉璋は虫けらを見るように目を細める。
「おい……俺の着替えを覗きたいってのか?」
「はっ……ご、ごめんなさいっ!」
やっとその視線の意味に気付いた桃香も、女達と同じように部屋から出て行った。
後に残った静寂に盛大なため息を零して、劉璋はやれやれと首をふる。
「まったく……輝きを失っても緩さは変わらねぇのか、あいつは」
変わらない部分に好ましさを感じつつ、衣を順に纏っていく劉璋の顔は最近でも一番穏やかなに綻んで。
切り替えるまではしばらく余韻に浸っていようと、誰も居ない部屋の中で小さく喉を鳴らした。
「で? 緊急の用事ってのはなんだ?」
衣服を整え、場を執務室に移して発された第一声に棘は無い。親しみあせ籠った声には親密なモノにだけ向ける感情が込められていた。
椅子に腰を下ろしている桃香の表情は固く、一息飲み込んでから、意を決した表情で口を開いた。
「西涼からね、使者が来たの」
「へぇ」
「この益州と同じように曹操さんの所から宣戦布告があって、もう既に軍備を整えて侵攻を開始したんだって」
「ふぅん」
「それでね……曹操さんの、ううん、魏の兵力は二十万。西涼の兵数は十万にも満たないらしくて……助けて欲しいって」
「そうかい」
淡々の相槌を打つ劉璋の表情は何処か他人事のように。いや、間違いなく他人事なのだろう。他の土地のことなどどうでもいいと、その顔には書いてあるようだった。
それがどうした、だからどうした、そんな話になんの価値があるのか……口を開けばそんな言葉が今にも飛び出しそう。
桃香は眉を寄せ、深く息を吸い込む。僅かに輝きを取り戻したように見える瞳から、劉璋は彼女の本質を読み取り始める。
――やっぱこいつは他の人間を救いたい状況になれば立ち直るらしい。思考の切り離し? いや、ただ単に救済欲求の発露ってとこか。傷つきそうな人間を放っておけない、そんな性質。
呆れる程のお人よしだ、と劉璋は思う。
まったく理解出来ない人種ではあるが、やはり劉備はこうでなくてはと一人納得してもいる。
だが、目の前の状況よりも他の地域を優先しようとしている彼女の心に、深い呆れと苛立ちも覚えた。
「お前、益州の状況分かってて言ってやがるのか?」
「……っ」
昏く影の差した桃香に構わず、尚も劉璋は言葉を並べて行く。
「城の文官や武官たちの不振な動きはお前らも察知してんだろ? こそこそと他の街の奴等も怪しい動き見せてやがる。其処でお前ら劉備軍がこの成都を離れるとなれば……悪いことしか起きねぇぞ。俺への忠臣が暴走してお前らを襲うかもしれねぇし、俺の意思に関係なく孫呉を狙うかもしれねぇ。そんでもって曹操に呼応してお前らを皆殺しにするってこともあるだろう。
最悪の事態ってのを考えるのならやっぱり転覆だ。俺の立ち位置に“誰か”が居座ろうとして戦が起きることだ。また益州の権力争いの蒸し返し、そうなりゃ救援どころじゃなく、お前らだって否応なしに巻き込まれるぜ?」
欲望と野心を溢れさせて龍の玉座を狙うモノも居る、劉璋は人を信じていないし、部下達のことも疑っている。
忠義を持ちしモノ、野心を抱えしモノ、どちらにも属さぬモノ、臆病に吹かれているモノ……千差万別の人間がいると予測しているのだ。
もはやそれほどまでに劉璋の影響力は薄まってしまった。自身が怠惰を望んでいたことも拍車を掛けて、部下達を抑えきるには彼一人ではどうしようもない。
虫が身を這いずりまわるような気持ち悪さは感じていた。それはきっと、部下達の心がいろいろな方向へと向かってしまったことにもよるのだろう。
特に朱里や藍々に関わればれば関わるほどに、文官達の小さなプライドは己の存在を証明したくなってしまう。それが恐怖であれ、憤慨であれ、同調であれ、である。
下地は出来ていた。爆弾を投下したのは黒麒麟徐公明その人。あの謁見以来、成都の文官達の心は収拾がつかなくなっていたのだ。
彼の語る予測に桃香はさっと顔を蒼褪めさせる。
分かっていた。しかし劉璋自身が語るからこそもう手遅れなのだと思い知らされる。
「はっきりきっぱり言ってやる」
冷めた口調に反して何処か穏やかな眼差しは、まるで微笑ましい子供を見るように……愛おしいモノを愛でるように。
劉璋は桃香の心を思い遣ることなどせず、楽しみに心躍らせて嗤った。
「お前らがよかれと思ってやってたことは、この益州を引っ繰り返す最悪の手に成り下がったんだよ。
皆で仲良く? 皆で手を繋ぐ? この状況で同じことが言えるのかよ? 内側さえ変えられねぇやつが外を助けたいだぁ? 笑わせるなよ劉玄徳っ!」
ふるふると、震える拳は悔しさからであろう。
桃香は一つも反論出来ない。現に芽生えてしまっている戦乱の兆しを理解していれば、劉璋に言葉を返すことなど出来ようはずもない。
――元からお前が俺のもんになっとけばよかったんだ。お前が一番上ってのが間違いだ。誰かの間に立ちたいなら一番上になんざなっちゃあダメなんだ。
上に立ち続けてきた劉璋にとって桃香の在り方は異端。しかして、彼女の行動や思想等にもある程度の理解は置いていた。
さながら現代で言う中間管理職のように、会社に於いて上司と部下の間になくてはならない緩衝材のような人間……それでこそ桃香の力が発揮されるのだ、と劉璋は考える。
上に立ってしまうと権力という力を得てしまう。否応なく抑えられる可能性を感じさせる事で必ずや桃香の理想の妨げとなる。
桃香が人々と対等の目線で接したいという願望を持っている以上、上下関係を与えてしまう権力は足枷にしかならないのだ。
彼女と自分は水と油だ。せめて自分の下で働くと決めてくれればこんな面倒事にはならないのだが、劉表を喪っている荊州との関係上完全に配下に置こうとも思えない。
劉表の娘である菜桜が治めていることにはなっているが、その菜桜が桃香に臣下の礼を取っているため劉障の部下に桃香を迎えてしまうと厄介なことになってしまう。
益州の安定させるには劉備と劉璋の上下関係の明確化は必須。そこから荊州を支配下におけば問題なく進められるだろう。
思考を打ち切った劉璋は大きなため息を吐き出した。
「考えなおせ。お前らが動けば益州の内部は余計に悪い方向に向かっちまう。助けたいって想いはお前のもんでそれは賞賛されてしかるべきことだろうよ。でもそいつをこの土地の人間に向けてやるのも大事だと思うんだがどうだよ?」
「……そう、だね。うん、そうだよ、ね」
諭すように語られる彼の声はどこか疲れていた。
その寂しげな空気を受けて、桃香の胸に痛みが走る。
どちらも救いたいという願いは傲慢なのだ。自分一人、更には仲間達の力を借りたとしてもまだ足りない。
元より全てを救うことなど出来ない乱世の理が、桃香の理想を嘲笑う。
ここで自分が動かないことは容易だ。痛みの走る胸を無視して、何処かで傷つくであろう誰かから目を逸らして……目の前の人々を救うことに尽力すればいい。
けれども思う。
内部の地盤を安定させる為に外を切り捨てる選択は白蓮の時も行った。その時とは違い、今現在は何か一つでも出来ることがあるのだ、と。ただ見ているだけでは、やはり世界は変わらないと、思考を回し、利害を計算した上でそう思った。
「でもっ……少しの救援を出すことも……ダメ、かな?」
「お前さぁ、二十万の兵力相手に救援を出すってことの本当の意味分かってんのか?」
「……」
「分かってない、全然分かってないね。西涼侵攻が終わった後でこっちまで飛び火して来たらどうすんだよ。予想なら次の侵攻は孫呉、だが予定変更してこっちを先にするかもしれねぇんだぞ?
お前らが下手に手を出したせいで準備期間の整わないまま戦う事になるってわけだ。孫呉との戦いに残してる予備兵力をそのまま投入されればこっちには抗う術が無ぇ。しかも、しかもだ……」
片目だけ細めた劉璋は口の端だけ吊り上げる。
桃香が最も恐れていることが何か、彼には分かっていた。
「お前はよ……お前が大切にしてるっていう仲間って奴が死ぬ可能性を看過出来るのかよ?」
「っ……」
救援に向かわせた先で誰かが死ぬかもしれない。乱世では当たり前の出来事である。
桃香は身内の喪失を酷く恐れているきらいがあった。確かに誰かれであっても分け隔てない人間性を有しているが、身近な人間に対してはその線がより強固なモノになる。
原因は始まりの想いであり、彼女の掲げる理想。
近くから世界を広げて行った彼女は、手の届く範囲の、心を許してきた者達の喪失を何よりも恐れるのだ。
今回の敵は甘くない。救援に向かえば誰かが死ぬかもしれない。否……表立って動かせば間違いなく殺される。
益州まで来ている彼が、嘗ての仲間だからと誰も殺さないなど有り得るはずがない。
秋斗を知っているからこそ、桃香は震えた。
容易に想像できるのは……救援に向かわせようと思っていた劉備軍で一番の将、愛紗との衝突。若しくは、自分から志願して来た星と白蓮が……再び紅の揚羽蝶が舞飛ぶ地獄に連れ込まれること。
看過出来るのか、と劉璋は聞いた。
もちろんのこと出来るはずがない。しかしそんなことにはならないと、信じていると言うことも出来ない。
圧倒的な兵力差に無駄な救援を行うことこそ愚策。本来なら対岸の火事と放置するのが安定の一手。
そしてそのまま益州に攻め込んで来たら……どうなるか。
複雑な益州の内部状態に加えて外部からの侵攻があれば、もうどうしようもない。
桃香の理想は潰える。人々はたくさん死ぬ。仲間も、反逆者として殺される。
「よく考えろ。救援に向かうってのはそんな簡単に決めていいことじゃない。お前のわがままに俺まで巻き込むな。だがどうしてもってなら……」
ふん、と小さく鼻を鳴らした彼は桃香から目を切って天上を見上げた。
へらへらと笑う彼の声は、何処か寂しげだった。
「好きにすればいい。所詮お前らなんか客分だ。北部への移動は事前に伝えておいてやるから勝手にどこでも行きやがれ」
「劉璋さん……」
「勘違いするなよ? 交換条件がある」
彼なりの気遣いなのだと受け取って声を漏らした桃香に、劉璋は冷たい視線を向けた。
唇を引き結んだ彼女は、コクリと小さく頷いた。
「もし部下が暴走して俺の兵がお前らと戦いに向かった時は全力で叩き潰せ。そんで成都まで乗り込んで来い。こっちも出来る限り内応してやる。そうすりゃめんどくさいカス共を迅速に取り除けるだろうからな」
願ってもない。益州内部の安寧を取り戻す為に手を組もうと提案してきているのだ。
まさか劉璋からそんな事を言って来るとは思わず、桃香は目を見開く。
一寸の逡巡の後、穏やかに微笑んだ。
「うんっ。益州の皆の笑顔を、絶対に守ってみせるよ」
「ふぅん……やっぱりお前が暗く落ち込んでるってのは似合わねぇな」
横目で桃香を見ながら挑戦的な目を向けて、劉璋も笑う。
少しだけ元気を取り戻した桃香は、劉璋の変化が心から嬉しい様子。
あの劉璋が協力してくれる、それはきっと、彼の事も変えられるという証に違いないと思えて。
「そんなに落ち込んでた、かな……?」
「ああ、死んだ魚みたいな目してやがった。嗤えたからあのまんまでも良かったんだが、うるさいバカがいねぇと俺の退屈が紛らわせないんだよ」
「あ! もう! いっつもそうやって私をバカにする!」
「うっせぇうっせぇ。事実だろ?」
「……どうせ私はバカですよーだ」
「くっくっ……ほら、もう終わりだ。諸葛亮のとこでも行って来い。俺もめんどくせぇがイロイロ準備しなきゃならねぇし」
「うん、分かった。ありがとうございました、劉璋さん」
「気にするな。これはただの取引きだ。お前の甘ったるい理想に絆されたわけじゃねぇからくれぐれも勘違いするんじゃねぇぞ」
「ふふっ、分かった♪」
「ちっ……はやく行け、うぜぇ」
「はーい」
口に手を当てて小さく笑った桃香は立ち上がり、ぺこりと一つお辞儀をしてから執務室を後にした。
ため息が漏れる。
腕を目に当てて上を向き、劉璋はだらりと片腕を垂らした。
「……バカが」
何処か満足気な声には、先程の寂しさなど微塵も含まれず。引き裂かれた口元からは、嘲笑と愉悦が溢れていた。
「これで条件は整った。感謝してやるよ、黒麒麟。お前は確かにめんどくせぇことを益州に持ち込みやがったが、俺は欲しいもんを手に入れられる。
後は諸葛亮の意識を引き付けてくれるだけでいい。出来れば関羽辺りの戦力も留めておいてくれ。願わくば……この益州で死んでくれや」
この状況を利用せずして二度と好機は得られない。燻る想いを携えているのは劉璋とて同じ……桃香はそれに気付かなかった。
「俺があいつを絶望させるんだ。あいつの絶望は俺のもんなんだ。お前なんかにはやらねぇよ、徐公明」
一人の少女の夢と、存在全てを奪いたいと彼は願う。空虚に染まった大徳を掬い上げた彼は、ただ己の欲望に忠実だっただけ。
それでいい、と彼は思う。真逆だからこそ欲しい龍を想って、一人部屋の中、喉を鳴らして嗤った。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
年度末で忙しいので今回は短め
劉璋くんと桃香さんのお話。
益州は現状で問題だらけですね
次は熱血な医者さんのお話。
ではまた
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