竜門珠希は『普通』になれない
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第1章:ぼっちな姫は逆ハーレムの女王になる
本当に賢いヤツらの生き方
前書き
むしろ義務教育の範囲でつまずく奴らがこの進学校にいないという設定なんですがそれは。
「あーもう、精神的にキツい」
「吐き出したいモノ吐き出せるだけまだマシだろうが」
素直に心情を吐露しながら、緩慢な動きで自分の下駄箱を開けようとする珠希に、昴は率直に返す。
「キツい」のは誰にでもある感覚だ。
男だろうと女だろうと、若かろうと老いていようと、健やかだろうと病んでいようと、無理や強制が続けば精神が、肉体がそう訴えてくる。そのキツさを感じるゲージに個人差はあるものの、脅迫的な共感や同調圧力に束縛されて内側に溜め込んでしまうよりは、まだ今の珠希のように吐き出してしまうほうがマシである。
だが今の「キツい」状況の遥か彼方にある「修羅場」を舐めざるを得なくなったことがある珠希からすれば、昴の言葉は否定して噛みつく対象ではなく、至極真っ当な言葉のひとつにすぎなかった。
同調圧力など本物の社会が与えてくるプレッシャーの前では生温い。脅迫的どころか、ほぼ脅迫紛いに「できる・できない」もしくは「やる・やらない」のどちらかしか選ばせず、否定すれば足場がなくなるだけだ。
足場がなくなれば遅かれ早かれ生きていく糧を失う。愛や友情で腹は膨れない。だが生き残るためには知恵と武器が必要で、その武器が幼い若さしかないなら知恵をつけなくてはならない。否定だけして悲劇のヒロインを演じていては意味がない。
「……まあそうかも」
「あ、ああ……」
「でも無理はしちゃダメだよ? 珠希さん」
「うん。そこは大丈夫だよ星河くん」
そこを知っているあたり、あっさりと引き下がった珠希にむしろ昴のほうが内心拍子抜けしてしまったくらいだった。
――まあ何にせよ、今は我が家に帰らなくては。
常時空腹の野球バカと面倒臭がりの干物妹と、性欲だけは有り余っている母親とたまに寝に帰ってくるような父親がいる、あの家に。
そう考えると、昴が勘違いしたほうの意味でも家に帰りたくなくなってきた珠希である。
「……あれ?」
そして靴を履きかえようと下駄箱を開けた珠希の視界に飛び込んできたのは、普段下駄箱の中にあるはずのない物体だった。
「何だろこれ?」
これ、封筒? そもそもなぜ下駄箱に?
ローファーの上に丁寧に添えるようにして置かれていたそれを手に取り、そもそも自分の下駄箱にこんなものを入れた覚えがなかった珠希は首を傾げる。
「手紙? 珍しいねこんなところに」
「それラブレターなんじゃね? 古典的なケースだと」
「へえ、ラブレターか。ふー……ぅえええぇぇぇええぇぇぇっっっ!?」
「び、びっくりしたぁ……」
「な、なんだよ。そんな驚くことか?」
下駄箱に手紙という古典的パターンが今さら通じるのかどうかは別にしても――まるでその古典的を初めて目の当たりにしたかのような珠希の反応に、いきなり大声を出された星河と昴はともに半身に構えて受け身の体勢を取っていた。
「え? えっ? これ、ほんとにラブレターなのっ?」
「昴が言うならそうなんじゃないの?」
白い封筒を手に、まるで宝くじで高額当選でもしたかのように確認を求める珠希に、あくまで――実際に他人事なのだが――それは他人事のひとつであるというスタンスをとる星河は判断を昴に仰ぐ。
だが実のところ、当の本人は手に持った封筒がまさかラブレターだとはつゆとも考えず、むしろ先日返り討ちにした上級生たちからの果たし状と思っていた――などと、どこの硬派マンガの世界だよ、とツッコみたくなるような脳内変換をしていた。
「俺に聞くなよ。中身見りゃいいじゃねえか」
「あ、それもそうだね」
「ちょ!? 待て待て待て……っ!」
昴は適当に返したつもりだったが、本気で星河と昴の目の前で封筒を開けようとする学年どころか学校でもナンバーワンと称してもいいくらいの美少女の腕を掴んで制止する。
「なになに、何なの?」
「いいか竜門。悪いことは言わねえ。人前で開けるのはやめろ」
「なんでさ?」
「お前なぁ……。仮に百歩譲ってそれがラブレターだとする。それを関係ない俺たちの目の前で開けて読むのはありえねえだろ?」
「………………………………あっ!」
たっぷり十数秒の間を置き、珠希は肝心なところを珠希自身に気付かせるような昴の問いかけに反応を示した。
この女ッ。マジで何か俺たちと……てか、一般人とズレてやがる!
今さら思い出したかのように驚いた表情の珠希を前に、昴は改めて珠希の常識度を疑ってかかる。
「俺の言いたいこと理解したか?」
「まあ……うん。手紙の主のプライドくらいは理解した」
それは差出人の直に伝える勇気や覚悟のちっぽけさを皮肉ってるのか? と下種の勘繰りをしたくなる返事をする珠希だったが、白い封筒をそのままバッグの中にしまったあたり、最低限の理解はしてくれたようだった。
そして、はたして珠希がもらったそれがラブレターかどうか確定していないものの、学校を出て帰路を辿る3人の話題は必然的にそちら方面に進んでいく。
「……で、でも珠希さん。やっぱモテるんだね」
「どうだろ? 高校生になってももらえるとは思ってなかったし」
時に女子間の嫉妬ややっかみの火種となるラブレターだが、珠希の周囲の女子はある意味珠希よりも利発的で狡猾で、珠希がモテることを好意的な方向で利用することに決めた。
つまり、小心者のうえ男女交際に奥手な珠希を自分たちの監視下に囲い込むと同時にフリーでいさせることで自分たちは獲物をゲットしようと企んだのだ。
そうでなくても珠希は無意識に周囲に異性を惹きつけ、同時に馬鹿な男が魅せられるポイントである家庭的な側面やあざとさというものを目の前で実践してくれていたため、当初のメインターゲットである珠希から、珠希の周囲にいる、珠希に及ばずとも珠希を手本に自分磨きに余念のない別の少女へとターゲットを変更した男子もいる。
しかもこれらの行為をすべて、見知らぬ男子の告白から自分を守ってくれていると珠希が勝手に思い込んでくれたおかげで彼女たちは巧みに上物レベルの交際相手を見つけていた。
そしてこの真実を当の珠希は未だ知らなかったりするのだが、この作戦のために彼女らが吹聴して回ったのが、珠希への告白に手紙やメール、SNSの類の利用を禁止するというものだった。イイ男を呼び寄せる珠希を24時間自分たちの監視下に置けない以上、勝手に珠希がカレシを作っていなくなられては困るためだ。そりゃあ、少しは珠希に悪い虫がつかないようにとの心配もしていたが。
そんなこんな、紆余曲折の末――この吹聴の結果が義務教育の9年間一度も珠希にカレシができなかった事実の一端に繋がっていたりする。
「で、それがラブレターだったとしてお前は付き合うのか?」
「ストレートな質問だねー」
「そりゃもうビーンボール狙ってるからな」
「あっぶな。知らない人といきなり付き合うくらい危ないよ」
「じゃあ断るの?」
「たぶんね。そもそも中身見てないけど、きっと」
「そうなんだ……」
「ふーん……」
顔も知らない・教えてくれない・手紙だけで名乗り出てこないような相手と男女の仲になるつもりはないと告げる珠希に対し、星河はどこか安心したような声色で、昴は意外といった風体で返す。
実のところ、星河も昴も珠希のこの反応は意外だった。
そもそもこのガチオタを隠し通している少女、外見だけとってみればさぞ交際相手には困らないだろうという美貌に、この県下有数の進学校に入学できるレベルの学力、バスケ部相手にバスケで勝つだけの身体能力と運動神経、そして多忙な両親に替わって一家をまとめる家事能力などなど、ここまで来たら僻みや嫉みから欠点らしき欠点はないのかと粗を探したくなってくるくらいだ。
その数少ない欠点に友達の作り方を知らないことと著しい自己評価の低さがあるものの、当の本人がそれをあまり欠点だと自覚していない現状を前にしては、星河も昴もただただ困惑するしかなかったが。
「てか竜門。お前、何気にビーンボール知ってるんだな」
「弟が野球やってるからね。その流れで」
「へえ、そうなんだ。じゃあもしかしたら昴と出会ってるかもね」
「え? 昴くんも野球やってたの?」
「星河。お前は余計なことをぺらぺらと……ったく」
まさかの幼なじみから野球少年だった経歴をバラされてしまい、昴は口の軽い星河に小さく悪態を吐きながら、顔を覗き込んでくる珠希から視線を逸らした。
「別にいいじゃんか、昴。そもそも昴はいろんな人に少しでも自分のことを理解してもらおうとする努力が足りないんだよ?」
「その言葉は俺じゃなくてお前の隣の女に言ってやれ」
「いちいちあたしに絡んでくるねー。昴くん」
「その半分はお前が勝手に自爆してるからだけどな」
「は? 何言ってんの?」
「あ? 寝言は寝て言えコラ」
「ちょっと、二人とも……」
自分を挟んでいがみ合う珠希と昴に、星河はげんなりした表情を浮かべ、呆れ半分の声色を漏らす。
なぜここまで見事に犬猿の仲なのだろうかと、星河は何か別の話題を見つけなければと思うと同時に、この二人のクラスメート――ひいてはこないだ知り合ったたまきと昴のいるクラスのクラス委員、匂坂雅紀の心境を気遣うばかりだった。
それからしばらくして――自分の頭上でいがみ合い、無意味な言葉の応酬を続ける珠希と昴に挟まれていた星河はようやく別の、それも結構な時間を稼げる話題を見つけた。
「あ! そういえば、昴、珠希さんも。テスト勉強ってしてる?」
「あん? テスト勉強?」
「何それ? もう中間とかの時期だっけ?」
犬猿の仲のくせに反応は同じという珠希と昴を前に、星河は心の中で思った。
もう、なんか、爆発してしまえばいいんじゃないかなこの二人。……いや実際にされると困るけれど。
「違うよ珠希さん。1年生だけ受ける、学力レベル測るためのテストの話」
「え? 何それ?」
「そんなのあったか?」
なにこの二人、もうなんか――星河の一度開いた口が塞がらなかったのは言うまでもなく――何にせよ爆発されても困るが、この二人が新一年生対象の学力測定テストの存在を全く頭に入れていないのはもっと困る。主に当の本人たちが後々に。
「でもさ星河くん。テスト範囲って中学までのなんでしょ?」
「うん。まあ、そうだけど……」
「じゃあ大丈夫じゃん。普通にしてれば」
「だな。むしろ勉強とか今さらじゃねーの?」
石橋を叩いて渡る慎重さを見せる星河に対し、あくまでも平常運転でいいと余裕の態度の珠希と昴。
なにこの二人――(以下、三度目のために省略)
とはいえ、入学試験に際して生まれつきの身体の弱さとタッグを組んだ緊張からくる腹痛とも戦っていた星河に対し、実のところ、珠希と昴はともに高校の歴史に名を刻むレベルの好成績で入学試験を突破している。
家族ぐるみで付き合いがある星河を唯一無二の親友と公言してもいいレベルで大切に(注:決して薔薇的意味ではない)思っている昴からすれば、星河がどんなレベルの学校を受けても同じ学校に行けるようにあらゆるステータスを無際限に鍛え上げていたのが功を奏していた。
一方の珠希に至っては、筆記試験の最中に問題冊子の空白に薄く成人男性向け雑誌の表紙ポーズ案を書き込み、面接試験中には冷蔵庫の中身を思い出しながら夕食のメニューを考えるくらいのマルチタスクの無駄遣いをしていても合格していた。
そんなことをしているから筆記試験の総合成績は主席レベルの点数を叩き出した昴に負けているのだが、そんな個人情報は教師側が口を滑らせない限り当人たちに知らされることなどまずありえないので問題ない。
「今さらだからこそ不安なんだよ」
「なんだよ星河。お前はもう少しどーんと構えてろよ」
「しょうがないだろ、昴。僕はこういう性格なんだから」
慎重な言動は決して短所にはなりえないのだが、石橋を叩きすぎて壊してしまうのは欠点でしかない。それこそ没個性になるくらい小心者と評される慎重さと、いざというときは階段の踊り場の窓から外にダイブするくらいの大胆さを持つ珠希のようになれればいいのだが、今のところガチオタを隠し通せている万能型少女とさりげない一言に毒気がある病弱少年は違う。
「別に進級かかってるわけじゃないし、あたしも気楽に考えていいと思うんだけどなぁ」
「そうかなぁ……」
「ま、星河くんに何かあったら昴くんが何とかしてくれるよ。ね? 昴くん?」
「え? あ……、お、おう」
時分には滅多に向けてこない笑みを浮かべた珠希に話を振られ、思わず驚きと呆けが混じってしまった昴は、会話に詰まりながらも応える。
だがやはり珠希は珠希。相手によって態度を変えるのは当たり前だと思っている少女のほうが強かだった。
「ほらこのとおり言質は取ったから。替え玉でもハニトラでも脅迫でもやっちゃいなよ」
「た、珠希さん……。それはさすがに……」
「てめえ。ちったぁ頭使ったアイデア出せや!」
「頭使うじゃん。一切証拠を残さずにやるとなると」
「お前それでよく稜陽高校に受かったな! 落ちた奴が不憫すぎるわ」
「人証も物証も無い犯罪は立証できないのだよ。ワトソン君」
よくて生徒指導室連行、悪くて退学、最悪お縄につく羽目になるというツッコミどころ満載な対策法を提示する珠希に、星河はただただドン引きし、昴は約束されたツッコミ役に徹するしかなかった。
しかも犯罪教唆に近づいていく発言を続ける珠希に向けて昴のツッコミも次第に厳しさを増していくが、それさえも楽しんでいるかのように珠希は殊更芝居がかったようなおちゃらけた態度を取ってみせる。
が、昴の次の一言でその表情は一瞬、凍りついた。
「竜門。てめえ、いつか絶対に新聞の一面飾るぞ。悪い意味で」
「ああ――。こほんっ。でもそれはそれで面白くない?」
「……た、珠希……さん?」
「おい、てめえ何言ってやがる?」
さすがに癇に障ったか――凍りついた表情を軽く咳払いをしただけで笑顔に解凍した珠希だったが、吊り上がったその口の両端にまるでサスペンスドラマの中の黒幕にも通じる昏いものを察知した星河と昴は反射的に足を止め、後退りたい気分になった。
そんな二人を制止するかのように、珠希は後ろめたい昏さを表情から排除し、口を開く。
「まあ――とにかく、星河くん。これはあたしの考えだけどね、頭がいいってことはただそれだけにしか過ぎないんだよ。本来人が持つべき知識と知能と知性の意味は全部違うんだから、知識だけ求めたところでその人はせいぜい少し頭のいい猿にしかなれないってこと」
「そういうものかなぁ……」
「そういうものだよ。人類の歴史を見ても、ルールを生み出すのも施行するのも支配するのも人間だったし、それを破るのもまた人間でしょ? 知識があっても知能がなければちっぽけなマニュアル人間になるし、知性がなければ自分からすすんで絞首台上っていくだけなんだよ」
まるでそういう輩を目の当たりにしてきたかのような珠希の言葉に、星河も昴も反論の切り口を見いだせなかった。
そして広義には似通っている「知識」も「知能」も「知性」も、心理学においてはその意味を異にするが、星河や昴と同い年のはずの眼前の少女はそれを知ってか知らずか、ちゃんと区別してきた。
「だからあたしの思う本当に頭のいい人は『こと未だ成らず、小心翼々。こと将にならんとす、大胆不敵』を実践しようとするし、できると思うんだよね」
「え? ……えっ?」
「……竜門。お前やっぱこの学校受かっただけあるわ」
「ふふん。今さら?」
たわわにGサイズの果実が左右に実った胸を張り、再び芝居がかったような鼻につく態度を取る珠希だったが、さすがに主席レベルの学力を持つ昴でも珠希の知識量は勘に堪えた。
『――こと未だ成らず 小心翼々
こと将にならんとす 大胆不敵
こと巳になる 油断大敵』
これは勝海舟の言葉のひとつである。
「うーん。でもやっぱり僕は不安だなぁ」
「そっかぁ……。じゃあここから先はやっぱ昴くんに丸投げだね」
「待て。さっきまでの説教はなんだったんだよおい!」
「え? そもそも幼なじみってこういうときのためのものなんじゃないの?」
「嫌な記号化してんじゃねえよ」
「え? じゃあ昴くんは星河くんを見捨てるの?」
「そうとは言ってねえ。見捨てるつもりはこれっっっぽっちもねえから!」
「よかったね星河くん。これでテストは安泰だよ」
「え? あ、う、うん……」
「てめえ……っ」
結局この後、前向きなテスト対策の中身は珠希がまともなアイデアを出さないせいでどうやっても振出しに戻ってしまいながら、ついに三人の帰路が別れる駅の手前の交差点まで来てしまった。
横断歩道を渡った先に見える階段を上り、駅や駅の北側に位置する周辺のビルと繋がるペデストリアンデッキを抜けたところで、そのまま駅の連絡通路を通り抜けて家のある南口へ向かう珠希と、改札を抜けて電車に乗る星河と昴に別れる流れになる。
「――ったく、てめえは本気で頭の使い方を知らないのかよ」
「テスト勉強よりも本当に大事なことを知ってるからね。しょうがないね」
「大事なこと? 何それ?」
ここまで来ると、夕方近くということもあって三人の周囲の人波もかなり多くなり、耳に障る雑音も増えてきたが、珠希が若干先頭になり、星河を挟み、そのやや後ろを昴が歩く形で人ごみをよけながら三人は歩を進めていく。
「そりゃあもちろん生きることでしょ。テストの点がいいだけで食って生きていけるならあたしのお兄ちゃんは今頃MIT卒業して林檎かCIAだよ」
「随分とでかい風呂敷広げやがったな」
「ねえねえ珠希さん。MITって何?」
「マサチューセッツ工科大学の略だけど?」
「へぇ……えっ?」
誰しも聞いたことあるレベルではあるが、そこは熾烈な受験競争を乗り越えてきた学生たちの集まる世界の大学ランキングで1ケタになるだけの大学だ。それくらいは星河も知っている。
「言っとくけどあたしのお兄ちゃん、テストの点だけなら海外の大学にも行けるって言われたらしいからね。英語とフランス語とスペイン語喋れるからアメリカとかヨーロッパ行っても困らないし」
「何だよそれ。お前と本当に血が繋がってんのか?」
「だよねー。できすぎだよねー。てかお兄ちゃんの語学能力はおかしいんだよ。基本理系のくせに」
自虐気味に自らの兄・暁斗の断片的情報を口にする珠希であったが、学力だけなら海外の大学に行けたというのは紛れもない事実である。
しかし当時既に竜門家の財布を握っていた珠希に心配をかけたくないとの心遣いから、「留学費用の問題」――という名目の下、アニメを観る暇が削られ、ゲームを取り寄せるのが面倒で、何より声優のイベントに出られないという声オタの生命線を断つわけにはいかない本音――を持ち出して専門学校から就職の道を選んでいた。
当然、そんな本音含む内情など赤の他人に話せるわけはないだろう。内輪の恥は極力曝け出さないのがこの国の流儀である。一応立派に社会人をしている兄の、兄としての面目を保たせるための、妹なりのささやかな抵抗だ。
なお世界的には日本のようなモノリンガルの国・地域よりもマルチリンガルのほうが多く、そこに文系・理系は関係ないことを偏見防止のために明記しておく。
その一方で日本語含む4か国語を操る声優オタの兄の妹は妹で兄以上の性能を持っているのだが、それをカミングアウトする予定は今のところ、ない。
……まあ、仮にMITに合格して卒業できたからといって、ブラック企業を避けるがあまりホワイトを通り越してニートになるのも珍しくないというのだから、本気で人生はどう転ぶかわかったもんじゃない。大学や専門学校はニート育成準備の機関じゃないのに。
「まあ何にしてもさ、まだあたしも星河くんも高1じゃん。よほどのことをしない限りはまだ軌道修正とリスタートはいくらでもできるんだからさ、何も気負うことないって」
「こればかりは竜門の言うとおりだな。俺の親父も30近くまでなら人生も修正できるって言ってたしよ」
「う、うん……」
「まだ不安?」
「そういうわけじゃあ……ない、と思うんだけど」
「うーん。これはなかなかしぶといなぁ」
すれ違う人とぶつからずに器用に歩きながら、はっきりと否定も肯定もしない星河の目を覗き込んでいた珠希は、口元に手を当てて考え込む仕草を見せる。
しかし、その仕草さえ他人を惹きつける魅力を持つ少女は大多数の前では余計な自己主張をせずにその場を円滑に動かす歯車になり、必要とあれば先の体育の授業のように誰もが驚くことをあっさりやってのける。むしろ何かに対してネガティブに捉える要素がない。
それは昴も同じで、普段の自己主張は抑えつつも、必要な時は誰よりも先陣を切って動くタイプだ。誰かからやれと言われれば何でもできてしまうような人が、何を後ろ向きに考えることがあるのだろうか。
そんな二人がすぐそばにいればかえって萎縮してしまうのも無理はない。が、不意に足を止めた珠希は星河のほうに振り返り、口を開いた。
「星河くん。さっきも言ったけど、人生に本当に必要なのは生きることだよ。死んだら何もかもそこで終わりなんだから」
「う、うん」
「本当に逃げちゃいけないときを見誤らなければ、最低限、人生は何とかなるよ。もちろん、いい人生を歩みたいなら努力と決断と実行は嫌というほどしなきゃいけないけどさ」
「そうだね……」
両親や兄の背中だけではなく、イラストレーター『天河みすず』の名を背負ってここまで歩んできた珠希が見てきた人の生き方というものは常に決断と実行の繰り返しだった。
誰もが遠くに見える目標のために、足元に散らばる今できること、今なすべきことを拾い集め、そこからひとつでもできるだけ多くのものを習得しながらゴールに辿りつく。けれどそれはまた別の目標へのスタート地点で、以下同じことをひたすら繰り返し、終わりのない真の終着地点を目指して歩んでいた。
当然、楽なことなど何もない。どこかに山があり、谷があり、行く手を阻むように激流が横たわっている。それらを避けようとすれば決断と実行をやめてしまえば済むのだが、それは「人の生き方」すら諦める話になる。
そうして一人のイラストレーター『天河みすず』として周囲の大人と同様に努力を積んで決断と実行を繰り返してきた珠希から見て、今の星河は既に決断していて、あと足りないものは実行に向けて背中を押してくれる人だと感じた。
「じゃあ星河くんは今、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかわかったんじゃない?」
「えっ?」
「不安に思ってるだけじゃ何も変わらないよ? そういう場合、むしろ本人が思ってる以上に状況は悪化してるんだから」
「そう……だね」
「そうだよ。やりたいようにやりなよ。何も無理に前向きになろうとする必要はないから。ぶっちゃけ、人間は前向いたまま横にも後ろにも進めるんだし」
「すげー屁理屈だな」
「外野は黙っててねー?」
「へいへい」
「――ってわけで、ここから先は星河くんの人生だよ。あたしは……ううん、昴くんもきっと最後まで責任は取らない。でも応援はするし、必要とあればいつだって手を貸すよ。それが星河くんのよく考えた末の決断ならね」
友人であれどあくまで他人。星河個人の意思と決断を尊重し、同時に自らが他人の人生に過干渉しないためにも、珠希はすすんで責任を取らないと言い放つ。あくまで手を貸すし、助言くらいは与える余地を残して。
しかしそんな人生論を――途中、外野に口を挟まれたが――説きながらも、実際は今の今までの珠希は他人から見て努力らしい努力をしてきていない。
家事はいずれ誰かがしなければいけないことだったし、仕事がある父や兄に任せっきりになるのは弟と妹を抱える姉としては見過ごせない事態だった。絵を描くのも昔から好きだったし、それに色を塗るフォトシ○ップを与えられてからは父の同僚らからも助言を受け、瞬く間にグラフィックの知識と技術を吸収したものの、ちゃっかりゲーム制作に参加させられていた。まさかそれがergだったとは当時はちっとも知らなかったが。
その後に訪れた一般向けゲーム『シンクロ』制作時の修羅場もあれは当の珠希が浮き足と勇み足で自分から勝手にドツボにハマりこんだ結果であり、自業自得と言えばそれはそれで済んでしまう。
そして、そんな珠希の裏事情などつゆ知らない星河は、たとえ不安になってもその不安を根源ごとぶち壊せてしまう少女の言葉を真に受けて奮起し始めた。
「……うん。わかった。わかったよ珠希さん」
「ならいいんだけど」
「うん。確かに不安になってるだけじゃダメだよねっ」
「うんうんっ。そのとおり」
言葉の真意が伝わったのかはわからないが、次第に背筋が伸び、語気も力強さを増してきた星河を見て、もしかしたらあたしは他人のテンションを上げるのが得意かもしれないと考える珠希だったが、実際、周囲の目を惹くレベルの美少女から声援を送られて喜ばない男がいるのだろうか。
だが実際のところ、自らが今やるべきこと、進む方向を見つけ、確実にテンションを上げていた星河は大きく息を吐き出すと、数メートル先に見える改札に向かって駆け出した。
「あ! おい星河。お前どこに……」
「少しでも早く帰るんだよ、昴。忘れてるところがあるかもしれないでしょ?」
「……ったく、星河の奴め。急がなくてもすぐ電車来るっつーの」
「それだけ張り切ってるんでしょ。たぶん」
「けしかけたくせに何ぬかしてやがる」
「言ったはずだよ。あたしは責任は取らない、って」
星河に対して(あくまで合法の)ドーピングしておきながら、それ以降の制御と始末をどうするつもりかと尋ねる昴に、珠希は茶目っ気たっぷりにウインクを返す。
そんな異性慣れしていない男をあらぬ方向へと誘導する魅力すらある珠希のウインクにはさすがの昴ももはや殺意も怒る気も湧かなかった。その代わり、魅せられ惚れ込むこともなかったが、昴の脳裏には一人、記憶から呼び覚まされた人影が映り込んでいた。
「――も、お前みたいな人だったんだろうな……」
「ん? 何か言った?」
思わず記憶の中に封印していたはずの人の影を口に出してしまっていた昴だったが、このハーレム系ラブコメラノベ主人公のごとき鈍感難聴ぶりを発揮した珠希の耳には届いていなかったようで、ほっと胸を撫で下ろし、誤魔化しに走る。
「いいや、お前の説教の仕方がお袋臭いと思っただけだ」
「まあ、我が家の家事全般やってるのあたしだし……てか今のは説教じゃないし」
「言い方が悪かったな。なんつーか、お前は星河を操るのが上手いな」
「それは褒め言葉で使ってる?」
「いい意味でな」
「ふーん……」
滅多にプラス方向に評価しない昴からの好評価に、珠希は興味なさげに昴から視線を切りながらもまんざらでもない表情を浮かべる。
「すーばーるーっ! 早く来ないと置いてくよーっ!?」
「ほら呼んでるよ? 大切な幼なじみくんが」
「……ああ。じゃあ俺も帰るわ」
「うん。それじゃね」
「ああ。……また明日な」
早くも改札を抜けていた星河と、星河に呼ばれてその後を追いかける昴の背中に小さく手を振り、二人の姿が見えなくなると珠希も珠希で改めて帰路に就くことにする。
高校までも同じ学校を選んでくれるような、ずっと一緒の幼なじみなんてのがいてくれたら少しは自分にも友達ができていたんだろうかと思いながら。
すると不意に、背後から名前を呼ばれた。
「あれ? そこにいんのもしかして珠希じゃね?」
後書き
ゲームにおけるグラフィッカーの重要性、どれくらいの人が理解できていると?
ダメダメにするのもぐう××なイラストにするのも、すべては塗り次第……
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