大切な一つのもの
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5部分:第五章
第五章
「では宜しいですね」
「はい」
歌の騎士にとって断る理由はありません。それが皇帝から与えられた使命なのですから。それに歌となれば彼にとっては最も得意なものです。これで負けるということは有り得ない、自分でもそう確信している程でした。
「それでは」
「参加されますね?」
「無論です」
毅然とした顔でまた答えます。
「では今から」
「ダーヴィット」
騎士の言葉を受けてザックスはそれまでずっと部屋の隅で大人しくしていたダーヴィットに声をかけてきました。
「騎士殿を案内して差し上げよう」
「歌のコンクールにですね」
「そうだ。では騎士殿」
窓辺から離れて歌の騎士の側にまで来て声をかけます。
「御一緒にどうぞ」
「わかりました。賢者ザックスよ」
「あ、いや」
賢者と呼ばれると苦笑いを浮かべてそれを否定してきました。
「私は賢者なぞではありません」
「ですが」
「私は只の靴職人です」
そう言うのです。
「ただ。それだけの男なのですよ」
「そうなのですか」
「はい。妻は死に子供達は独立していった男やもね」
少し自嘲が入っていました。
「それだけです。ですから」
「賢者と呼ぶな。そういうことですね」
「そうして頂ければ何よりです」
厳かな声でそう述べます。
「それで宜しいでしょうか」
「わかりました。では靴職人のザックスさん」
「はい」
今度はにこりと笑って言葉を返しました。
「私をこの世で最も大切な場所のところへ。どうか」
「わかりました。それでは」
こうして歌の騎士は街の広場に案内されました。そこは少し高い丘になっていて歌を歌う台が緑の丘の中央に設けられていてあちこちの木々が花々で飾られていました。見ればもうコンクールがはじまっていて何人も歌っていました。
「おや」
ここで黒い服を着た神経質そうな男が歌の騎士に気付きました。
「騎士殿ですな」
「そうです」
歌の騎士はにこりと笑ってその黒い服の男に答えます。
「コンクールに参加したくて参りましたが」
「この街の方ではないですよね」
「ええ、まあ」
そう男に答えます。
「それが何か」
「このコンクールには一つ決まりがありまして」
男は神経質そうな顔のまま彼に答えます。
「途中参加される方はこの街の方だけなのです」
「それは本当ですか!?」
「残念ですが」
真剣な顔で述べます。
「ですから申し訳ありませんが」
「まあまあベックメッサーさん」
ここでザックスがその黒い服の男に声をかけます。ダーヴィットも一緒です。
「いいではありませんか。参加したいというのならどなたでも」
「しかしですな、ザックスさん」
ベックメッサーと呼ばれた彼はそれでも難しい顔をしたままです。
「規則は規則ですし」
「ここは私の顔に免じて。推挙ということで」
「貴方のですか」
「そうです。それにこの方は」
ここで歌の騎士の身の上を出してきました。中々交渉の上手い人であります。
「皇帝陛下からの御命令でこちらに来られていますし」
「陛下の」
「そうです」
流石に皇帝の名前を出されると。杓子定規気味なベックメッサーでも無碍にはできません。暫し考える顔を見せた後で歌の騎士に言うのでした。
「わかりました。それでは」
「宜しいのですね?」
「はい、これは特例です」
難しい顔のままでしたがこう言うのでした。
「それでは一番最後で宜しいですね」
「ええ、歌わせて頂けるのでしたら」
彼は答えます。
「それだけで充分です。それで」
「はい。では順番になれば御呼びします」
やはり杓子定規気味に歌の騎士に述べます。
「それまでくつろいでお待ち下さい」
「これでいいんですよね」
参加が決まった歌の騎士はザックスに顔を向けて問います。もうはやる顔になっています。
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