敵討ちのこと
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2部分:第二章
第二章
「はて、見慣れぬ方だが」
「私は安芸藩の者です」
「安芸藩のですか」
「そうです。実は我が主の奥方が病に伏せられまして」
「というとあの」
「そうです」
その西国に流行った疫病であると。すぐに察しがついた。
「それがどうも物の怪の取り憑いたもののようでその寝所より丑寅の方にある家の家札を取って病人に戴かせよというのが巫女の言葉でして」
「ふうむ。またそれは」
「それで今探していたのです。その家の札を」
「それがこの辺りなのですね」
「その通りです」
少年は大崎にこう答えてきた。
「宜しければ灯りでこの家の札を照らして頂けるでしょうか」
「いやいや、それには及ばぬ」
ところが大崎は気さくに笑って少年に言葉を返すのであった。
「火を貸すまでもありませぬ。そこの家の札ですな」
「はいそうです、その名は」
「沢木と申します」
「沢木ですか」
「はい。そう書かれています」
少し灯りで照らしながら答えるのであった。見れば確かにそう書かれてある。
「この札をですか」
「はい、その通り。それでは」
少年はすぐに素早くその札の方に動くとその札を手に取った。そうしてすぐにその札を剥ぎ取ったのであった。堅く釘で打ちつけてあったというのに思いも寄らぬ怪力でめりめりと剥がし取ったのであった。
「これでよし」
少年はその沢木の家の札を手に取って満足気に笑うのであった。
「これで想いが果たせます。有り難うございます」
「え、ええ」
大崎は少年のその怪力に戸惑いを見せたまま彼の言葉に頷いた。何が起こったのかわからないといった顔になっていた。
「左様ですか」
「それでは。拙者はこれで」
こうして一礼するとその少年の姿がすうっと消えた。後には何も残っておらず大崎はその門の前で呆然としていた。しかしここで門の向こうの屋敷のところから不意に大きな声が続けて起こった。
「出会え出会え」
「旦那様が大変だぞ」
「今度は一体何だ」
狐の仕業かと思っていたところで屋敷の方から騒ぎが起こったのでそちらに顔を向ける。騒ぎはさらに大きくなり叫び声さえ聞こえる。
「くっ、こ奴!」
「まだ子供だというのに!」
「旦那様の敵を取れ!」
「これは」
大崎は騒ぎを聞くうちに危険を察した。誰かが死んだのを察して下手に嫌疑をかけられてはたまったものではないと思ったのだ。
それで屋敷の前を去った。そのまま暫く夜の町を歩いていると橋のところに来た。大阪は川が多くその為に橋も多い。橋のところに来たこと自体は不思議でも何でもなかった。
ところが問題だったのはその橋の上に人がいたことだ。しかもその人が。
「お待ちしておりました」
「何と、馬鹿な」
大崎はそこにいた者を見て思わず驚きの声をあげた。そこには何とあの少年がいたのだ。刀を橋の側にある水で洗っていたのである。
「どうしてここに」
「実は私は安芸藩の者でして」
「それは先程御聞きしましたが」
「その安芸藩の飯尾という者の子だったのです」
ここで彼はだった、と過去形を使った。大崎もそれに気付いた。
「だった、ですか」
「はい。父はあの沢木、安芸藩にいた頃は岡沢という男に闇討ちに遭いまして」
ここまで聞けば話はわかる。大崎も武士であるから。
「それでは」
「そうです。ですが拙者はこの度の流行り病で命を落としまして」
「ふむ」
「ですが一身の妄執と母や姉達の必死の懇願の為か魂だけになっても世におりまして。それでこの度宿願を果たせたのです」
「そういうわけだったのですか」
大崎もここまで聞いて全てを察した。そういうことならば納得がいった。
「ただ。敵討ちを果たしたところで拙者も成仏することになりまして」
成仏を喜ぶ心の他に何かを口惜しむ顔も少年の顔に出た。
「それでですね。御願いがあるのですが」
「何でしょうか」
「安芸に母がおります」
少年はこう告げた。
「姉達も。母と姉達にこのことを告げて頂けぬでしょうか」
「敵討ちを果たしたことをですか」
「はい。証はここにあります」
こう言うと大崎に刀と首を差し出してきた。その首が誰のものであるかは言うまでもない。
「これを安芸藩の飯尾という家の鬼七郎が見事宿願を果たしたと申し伝えて下さい。それだけで話は行き渡りますので」
「安芸藩ですね」
「左様。そこにいる母に」
「ふむ。それでは」
大崎もそれを受けることにした。大阪から安芸まではかなりの距離があるが都合のいいことに彼はすぐに中津にある藩に用事で行くことになっていたのだ。これも何かの引き寄せなのであろうと心の中では思っていた。
そう思いながら受けることにした。返事は快いものであった。
「畏まりました。それでは」
「お引き受け下さるか」
「運のいいことに間も無く西に下り安芸を通り掛りますので」
「おお、それはまた都合がいい」
少年もそれを聞いて顔を綻ばせる。全く以って何もかもがよい引き寄せになっていると言えた。
「では。御願い申す」
「それでは」
彼の手から刀と首を受け取る。その二つを手渡すと彼の姿は消えた。煙の様に消えたので後には何も残ってはいない。しかし大崎の手には刀と首が残っていたのであった。
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