乱世の確率事象改変
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真逆の龍
前書き
かなり遅れて申し訳ありません。
コトリ……
日向に浮かび上がる一時の平穏。崩すのも億劫に感じられる静寂を乱した盃の一つに目を向け、紫藍の髪を開いた片手で掻きわける美女が一人。
机上に並べられる酒瓶の数は一つ二つ……空いているのも一つ二つと。美女の対面もまた美女で、大陸を盛り上げている少女達とは少しばかり違い、彼女達二人は昔の戦を知っている。
昼間から酒宴とは何事か、と咎めるモノはいない。酒を飲んでいても変わらず仕事を行える事を皆知っていて、人柄からも信頼されている二人はこの城では咎められることは無い。
「儂らと共に留守番とは……あの方はもう少し人を疑うという事をするべきじゃな」
漏れるのはため息。
南蛮遠征には二人の内どちらかを向かわせればよいモノを……護衛として古参の将を残すことなく居残った桃香に対して、盃を置いた美女は眉を寄せた。
彼女の名は厳顔……真名を桔梗。此処益州にて古くから尽くしてきた歴戦の将である。そして対面に座り穏やかに微笑む美女もまた……益州に尽くしてきた忠臣……名を黄忠、真名を紫苑と言った。
「それが桃香様の美徳だもの。あなたも真っ直ぐ信じて貰えることに満更でもないでしょう?」
クスクスと口に手を当てての上品な笑み。ジトリとそれを睨んだ桔梗がまた杯を引っ掴んだ。
「……ふん、しかし儂はまだ認めておらん。確かに劉備殿の性根は信用に値するし優しさや慈愛の心も見て取れる……が、何処か引っ掛かる」
喉を鳴らして一気に流し込んだ。熱が喉から流れる感覚が心地いい。胃袋の溜まった熱さを、ため息を付くように吐き出した。
「焔耶ちゃんはあんなに慕ってるのに」
「あの阿呆は知らん! 発情期の雌犬に成り下がりおったあの阿呆など!」
「あらあら、その言い方は無いんじゃない?」
「見れば分かろうに! あの阿呆は街ですら劉備殿の護衛を買って出て近づく男共を睨み、ただ話し掛けようとするだけの男にすら噛みついておるんじゃと! 拳を振り上げることすらあるとも聞く! それが阿呆以外のなんと言える!?」
思い出すだけでも腹立たしい……娘や妹のように可愛がってきた弟子の今の姿は、武人としての人生を生きてきた彼女には不快だった。
ただの色恋ならばいい。だが、盲目で妄執する愚かしい愛弟子の姿など、即座に破門を言い渡してしまいたい程の無様さがあった。
「あー……アレは確かに……」
街でのそんな姿を思い出した紫苑の口にも苦笑いが浮かぶ。恋は盲目と言うが、さすがに突き抜け過ぎているとは感じていた。
「拳骨だけでは何も変わらん。一回きつぅく締めなければならんが……劉璋のクソ坊主の牽制にはなっておるから引き離すことは出来ん。歯痒いぞ」
すっと細めた目が殺気に彩られる。酒の席には似つかわしくない嫌悪と侮蔑の感情が匂い立つ。
桔梗の発言を受けた紫苑も、諦めたように瞼を閉じた。
「そう……劉璋様は……やはり……」
「劉備殿を手籠めにするつもりだろうよ。力無く、知恵も無く、しかし見た目は良く、それでいて悪感情を極力向けずに、偉ぶることも媚び諂うこともなく対等に話し掛けてくる女子はクソ坊主には新鮮じゃろうて。素直にいう事を聞かないからこそ欲しくなる。現に関羽や張飛、趙雲共が居なくなってから屋敷にネズミが増えた」
「手を出せば終わりだと分かってないのかしら。愛紗ちゃんや鈴々ちゃん、星ちゃん相手だと私達でも止められないわよ?」
「クソ坊主の頭の中など知らんわ。益州の権力争いを勝ち切った途端調子に乗りおってからに……大方、自分が策士になった気でおるんじゃろ。“あの悪龍”に比べればクソ坊主などトカゲ以下よの」
「藍々ちゃんの動きに気付かない時点で劉璋様は……ねぇ?」
旧い敵の名を口に出せば、少しだけ懐かしさが胸に灯る。
「ふん……徐庶に勝てん奴が悪龍に勝てるわけがない。徐庶には悪いが悪龍は別よ。まぁ……諸葛亮が道を踏み外せば悪龍を越えるじゃろうが」
悪辣さを表に出さずに頭脳で勝ち続けた龍の顔は、二人とも未だに忘れられず。噂をすれば生き返るような気さえしてくる。
近場の軍師と比べてよく分かる嘗ての敵。
――益州の権力争いにも一枚噛んでいたなんて……もう悪龍はいないとは言っても、確実に影響は残ってる。
引き裂かれた口と魔女のような笑い声を思い出して、ぶるり、と紫苑の背に悪寒が走った。
――娘でさえ駒とした悪の龍。娘として見てくれていたのかも分からないと菜桜ちゃんは言ってた。私には……分からない生き方だわ。
昼間の東屋は暖かいはずなのに、言い切れぬ不安感が込み上げて来て、紫苑は急に愛しい娘に会いたくなった。
同じ母親として悪龍のようにはなるまい、そう心に誓いながら。
「あっれー? 紫苑さんに厳顔さんじゃないッスか。昼間の酒はさすがにダメッスよ」
少し空気が悪くなった所に軽めの声が響いた。
水鏡塾の制服を着た少女がとてとてと近付き、ひぃふぅと指を折って酒瓶の数を数えはじめる。
噂をすればなんとやら……彼女は悪龍所縁の人物――姓名を徐庶、真名を藍々という。
「こんにちは、藍々ちゃん」
「こんな唇を濡らす程度の量で酒を飲んだとは言わんわい」
「四本も開けて……これで唇が濡れるだけとかありえねーッス」
盛大なため息と共に酒瓶を一つ摘まみあげて振ってみる。やはり中身は空なのか、引っくり返しても雫がポトリと落ちるだけ。
机に置き、ジトリと二人に咎めを向ける。
「武官の仕事にとやかく言うつもりはありませんが、お二人のこういうとこを嫌う文官が居ることお忘れなく。
特に厳顔さん。星さんや紫苑さんは文官と結構話すんで許されやすいです。しかし――」
「ああ、ああ、分かっとる。耳にたこじゃわ。だからこうして文官の目すら届かぬ東屋で昼食がてら酒で唇を濡らしておるんじゃろうに」
そもそも武官文官の別なく“人”を見る二人であるからこそ文官達が向ける嫌悪や侮蔑に揺らがず、分かっているからこそ自身を押し通すことを選んでいるのが桔梗という女だった。
彼女は藍々の視線を受け止めて何処か楽しげに笑った。
「で、小娘よ? 気配を消してまで儂らに何を聞きに来た? 先ほどの話も聞いておったじゃろ。わざわざ自分から出てきおってからに」
一寸停止した藍々の気配が変わる。
「……劉表様の計画は全てが上手く行ってるわけじゃないッス。幻影に怯えすぎです。
あの方は私達に託した、私達が出来ると信じた、不確定な計画をその都度修正して完成させられると信頼した、だから……」
言葉を区切り、たっぷりと間を置いて彼女はついと目を細めた。
「……そろそろ本格的に協力してくれないッスかね? もう劉璋如きに構ってる暇はないんですよ。あなたの存在証明である戦すら出来なくなってしまいますよ、厳顔さん」
「ほう……」
高ぶった空気はまるで戦場のよう。ぴりぴりとひり付く感覚が心地いい。桔梗の口は、無意識の内に吊り上っていた。
紫苑の雰囲気も戦場のモノに変わる。
「藍々ちゃんは何か危機を感じたのかしら?」
「危機なんてもんじゃない。多分……此処からの対応を誤ると戦にさえ持ち込めずに負けるッス」
「その為に早くクソ坊主を消したいと?」
「穏やかに暮らしてもらうだけッスよ」
「端に追い遣って飼い殺すのが穏やかじゃと? くくっ、言葉を飾るなよ腹黒小娘が」
心底可笑しいと桔梗は声を上げた。
その目には侮蔑の光。彼女は立ち上がり藍々に殺気を叩きつけた。
「儂はお主らのそういう所が好かん。何も知らない優しいだけの主と、気に入らないモノがあれば日陰に追い遣ろうとする部下。
策で追い詰めて失墜させるならまだ分かる。汚いもんは気に入らんが、頭の出来であっても勝負をしとる時点でどちらかが負けるのは必至じゃからの。
しかしお主らは……白黒つけずにうやむやにしたまま同調させようとしよる。結局死にたくないから従うしかないと、そう思わせてな」
ふん、と鼻息を一つ。荒々しく腰を下ろしてまた酒を煽った。
藍々は何も言わず、彼女の目を見つめるだけ。
まったく、とため息を吐いた紫苑は首を振った。
「あなたは鈴々ちゃんに負けたじゃない。さっきので言うなら勝者に従うのがあなたの言い分でしょう?」
「ああ、従ってやるとも。鈴々と白蓮と星にはな。儂が劉備軍で認めとるのはこの三人だけじゃ。その三人を認めたからと他まで認めるなど思っておるなら……紫苑よ、お主は随分と生温くなったものよなぁ」
お前は敵かと、桔梗の目が伝えていた。
旧来の友として過ごしてきた二人ではあったが、意見が食い違うことなど数多にある。ただし、今回は少し色が違った。苛立ちはなく、嬉々とした澄んだ色に紫苑は眉を寄せる。
「……その三人と私達の何が違うッスか?」
「教えてやるかよこのたわけが。紫苑もな。
このまま儂を懐柔しようとあれこれ手を巡らすつもりなら縁を切ってやりたいわい」
ジトリと藪睨みした後で瓶を掴み、一気に中身を飲み干した桔梗。がちゃん、と荒々しく机の上に置いて彼女は背を向けて歩き始めた。
歩むこと数歩。ピタリと止まった彼女はくつくつと喉を鳴らした。
「……安心せい。劉備殿の言い分が正しいことなど分かっておるわ。お主らの“クソ坊主と似たり寄ったりな”遣り方が気に喰わんだけでな。同類になどなりとうないのだよ。
ただ、本気で戦をするというなら儂を呼べ。今度はしっかりと本気のコロシアイをしてやる。その後でもまだ儂を使いたいというのなら、クソ坊主を殴るいい機会になるじゃろうなぁ」
言い放ち、もう何も言うことは無いと彼女はゆったりと進んで行く。後ろの二人からも掛けられる言葉は無い。
誰にも分かるまい、胸の内に秘める渇望は満たされないのだから。彼女の心は、熱を求め続けていた。
寂しい風に髪が擽られた。空を見上げれば天は変わらず、日輪も変わることはなく。
――戦をしたくないから取り込む、そのやり方はきっと正しい。
人として肯定しても、桔梗という個人は肯定しない。
――だがの、儂はソレを完全に認めてはいかんのだ。
ギシリと握られる掌と、不敵な笑みは何処かの誰かに似ていた。
歩いた先には整列して待機していた兵士達。彼女の姿を見ただけで、誰一人乱れずに踵を鳴らした。
向けられる視線は信頼の証。誰よりも深く繋いだ絆の太さ。
思考を切って捨てた彼女はいつものように声を投げた。
「おう、主らよ。楽しい楽しい戦はまだまだ先じゃと。己らの存在証明を世に示すはまだ遠く。暫らくは楽しい楽しい訓練をさせてやろう」
誰ともなく嫌な空気を露骨に出して彼女に泣きそうな目を向けるも、声を出すものは一人も居なかった。
「励めよ、命を散らすバカ共。戦が待ち遠しいなら強くなれ。誰かに負けるなど許せんことだ」
そうだろう……同意を示すように視線を巡らせば、兵士は一人残らず頷いていた。
嬉しくて桔梗の顔が妖艶に綻んだ。楽しげに笑う姿は見た目に反して子供の如く。
「くくっ……命散らしても楽しみ戦え、ほんに主らは儂と同じ大バカ者じゃろうて」
――民の為、と綺麗事を口には出来ん。そんな高尚なものではない。儂はこやつ等と共に……強敵と刃を交えたい……それだけなのだ。
胸が熱く滾っていた。旧知の友が敵になるやもと考えればそれだけで心が躍る。
正義などと安っぽいモノを吐く気にもならない。ただ純粋に、彼女はこの乱世が愛おしかった。
全身全霊を掛けて戦える場所が、命を輝かせる戦場が、ただ欲しかった。
これは欲だ。しかしどうしようもない欲望は止まらない。止められない。
武人とはそういうモノだと桔梗は思う。
そして目の前の男達も、自分の力を世に示したくて集まった大馬鹿野郎共。愛しい彼らと共に戦う戦場が桔梗には必要だった。
自分たちのような人種が生きた証明は、戦場でしか華開かないのだから。
「夏候惇、夏侯淵、張遼、張コウ……特筆すべきはやはり……黒麒麟か。くくっ、羨ましいぞ」
名だたる英雄たちが続々と名を上げていく。
それをこんな片田舎で……黙ってみていたという事実がどれほど悔しかったことか。
自分も何れと拳を握りしめて、練兵を始めた部下達を眺めながら彼女はふっと息を吐いた。
「最低限の義理は果たした、クソ坊主。英雄となりたいのなら策略に負けず生き抜いてみせい。男気を見せるのなら友と刃を交えることもしてやろう。儂が仕えたお館殿の血、己こそが龍と証明出来てこそ仕える価値がある。
劉備が勝ったなら死んだように生きて腐ったまま朽ちていけ。自分で選んだと勘違いさせられて止まった微睡の中で生きながらに殺される人生、そんな糞のような人生に満足できるのなら、な」
これが彼女が成長を見守ってきた太守に与える最後の機会。如何に小悪党になった太守であっても、忠義を誓ったならほいほいとその心を違えるのは嫌だった。
あとは野となれ山となれ。それでいい、それでいいと小さく呟いた。
きっと自分は曹操のところの方が性に合っている。そんな事は百も承知で……しかしそれ以上に彼女は……
「強敵と戦うことこそ武人の華よ。義理を重んじてこそ戦人の生き様よ。それをお前は忘れてしまったんじゃろ、紫苑」
正論よりも意地と武人の性をとった彼女は、自分の心に従うまま、からからと声を上げて笑った。
†
差し出された文に目を通し、ばさりと放り投げて男は少し伸びをした。
杯を満たせば手に取って一気に飲みほす。飲みなれた酒の味は喉を通れば熱く沁みわたるが……イラついた気分を晴らしてくれそうもなかった。
「何様のつもりだこの小娘」
文を送ってきた相手は見たこともない。見たいとも思わない。
外では覇王と呼ばれるその女は、劉璋の興味を引くに値しない。
劉璋にとっては外のことなどどうでも良かった。攻められることのないこの土地で、一生甘い蜜を吸って暮らせればそれで良かったのだ。
心底面倒くさい父の跡継ぎ問題を漸く乗り越えたというのに、目の前に浮かび上がったのは転がり込んできた不穏分子と外部勢力。
本当は劉璋も劉備を使いつぶす気でいた。精々役に立ってから死んでくれと思っていたし、たかだか義勇軍上がりで血統の正当性もうやむやな女など興味もなかった。
しかし、しかしだ。彼の元に来た女は少しばかり毛色が違った。
耳に甘く響く子供のような綺麗事。どれだけ辛い仕事を押し付けようと苛立ちさえ浮かべぬ性根。他人を信じて疑わない真っ直ぐさ。
モノにしてきた女達がくだらないゴミに思えるほど劉備という少女は劉璋にとって興味の対象だった。
護衛がついているから無理やり脅して従えることは出来ず、いつの間にか民からの支持を集めていたから追い払うことも出来ず、それを知ってか知らずか毎日劉璋の元に来ては街々の改善案を述べて劉璋達にとっては暮らしにくいモノに変えていく。
本当は疎ましい。自分たちが甘く生きる為には邪魔だと理解もしている。
だが……彼にはどうしても劉備という少女を追い払うことが出来なかった。
毒で殺せと部下は言った。その部下は二日ほどで城から自主的に消えた。
劉璋は何もしていない。きっと劉備軍の誰かが追い払ったのだ。
――気持ち悪い……内側から自分たちの住処が変えられるというのはこれほどまでに異なモノか。
身体の中に虫が這いずっているような不快感。知っているモノが変わっていくことへの恐怖と喪失感。
認められないと自分の中の何かが否定する。下賤だと否定されようとも、自分の地位と血を守る為には必要なことだった。
真っ向から対立してくる劉備は彼に必要ない。それなのに……
――不思議と安らぐんだ。あいつが居ると。俺相手に物怖じせず本音で話して来る女なんて他には居ない。怯えも見せず、媚び諂うこともせず、ただ真っ直ぐ目を覗く奴なんて居なかった。
だから欲しい。隣に欲しい。姓が同じモノではあっても、そんなモノ気にもしなかった。
太守だからと無理に話を進めてもいいが、劉璋はしたくなかった。納得した上で劉備をこちらに落としたいのだ。
自分が惚れたのだと気付いた頃には民の生活など余計にどうでもよくなった。ただその女をどうすれば自分のモノに出来るか考えた。
ただし、彼は劉備の意見に賛同してはいない。劉璋は暗愚過ぎもせず、通常の太守としての知識も知恵も持っていたから劉備の語る理想の世界に賛同はしていなかった。
綺麗なまま欲しいとも思うが……底にある下卑た欲望も理解している。
純粋に見えるその心を汚く染めてみたい、と。
例えば徐庶や諸葛亮のような……打算や計算で人の心を操る人間にしてやりたい。
例えば自分の部下達のような……欲望を第一に考える自身の幸せに縋りつく人間に落としてやりたい。
――綺麗なモノは汚したくなる。人間だと思い知らせて堕としたくなる。世界は決して綺麗に出来てはいないんだと知らしめたくなる。
理解はされなくてもいいと彼は思う。普通の恋とは無縁だった彼の恋心は……何処か歪んでいた。
そんな想いを宿す劉璋の元に届いた手紙。
不機嫌の理由は『小娘』だけが理由では無かった。
文の端に綴られていた名前が……彼の苛立ちの最大要因。
「益州に来る使者は荀攸と……黒麒麟」
憎い相手に呪いを込めて読んでみた。
苛立ちの一番の原因は劉備軍に所属していた武将だということ。
劉備に尋ねてもはぐらかされ、関羽や張飛、趙雲、公孫賛や諸葛亮に聞いても答えは出ない。
黒麒麟のことを聞こうと呼び出してみたのだが、誰であっても喋りたがらない。
一度だけその男を否定したことがあった。
鼻で笑って、英雄とは言っても所詮は裏切り者、忠義も無いそこいらの馬の骨だと劉備たちの前で言ってみたのだ。
返されたモノは殺気と侮蔑と呆れだった。ぽつりと諸葛亮が言った言葉は今でも忘れない。
“蛙では空を飛べませんね”
侮辱だと分かって直ぐ、諸葛亮が夜にその男を想って何をしているかを暴露して恥をかかせたから怒りを発散出来たが……不思議なもやもやが心に湧いた。
劉備の視線が明らかな落胆に染まっていたのだ。自分とその男を比べて、間違いなく下に見られた。
劉備軍を抜けた裏切り者だが彼女達はその男になんら悪感情を持っていない。それが劉璋には信じられなかった。
これから戦うというのに、敵になったというのに、曹操と戦うには殺し合いをするしかないというのに……それを選んだ男を憎まない。
戻ってこないのはお前達に呆れたのだろう。ほらみろお前達の理想は幻想ではないか。手を繋ぐなどバカバカしい。お前達の元を抜けた黒麒麟がお前の理想が叶わないという証明だ。
そう言って嘲笑っても劉備は反論することなく、自分でなくても彼を繋ぎ止められると言うだけであった。
全く理解出来ないから余計に腹が立った。
今回の文で使者としてその男が来るという。
会うのは嫌だが、使者として来る以上は対応しなくてはならないのが太守の務め。
見極めてやる、と劉璋は心に決める。所詮は下賤な人間に過ぎないと劉備の前で証明し、敵対関係を明確化させて劉備の理想を否定し、その上で劉備を手に入れる。
そっとほくそ笑んだ劉璋は、また大きく伸びをした。
昼下がりで酔い潰れるのも対面的にはよろしくない。酒を程々に抑えて窓の外を見やった。
政治事は部下に任せておけばいい。内部の変革は行いたければ行えばいい。自分がこの益州で一番上ならそれでいい。
ふと、そこまで考えて思い付いた思考が一つ。
――誰も知らんことだ。劉備はきっと……一番上になど立ちたくない人間だろう。生まれた時から王である俺だから気付いた。アレは……王にはなれない。
劉璋は確信していた。
神輿として担がれているし信頼を繋ぐのは上手い。しかし先導者としての素質が見えない。
漢の血筋だといっても民にまで親近感を持たせる行いは劉璋にとって有り得ないと感じるモノであり、それがいつか崩壊に繋がるのではないかと漠然とした予感があった。
――まあ……誰かがしなければならないからと“さも自分の意思であるように勘違いして”王にならんとしている滑稽な道化だからこそ気に入ったわけだがな。
ふふん、と鼻を鳴らして酒を飲んだ。
その化けの皮を剥いだ時の快感は如何様なものか。想像してみても分からない。
あの整った顔が醜く崩れるなら、きっとそれは自分の心を今までで一番満たすに違いない。
そんな楽しい妄想に耽って数瞬、小さく扉が音を立てた。
もうそんな時間かと外を見れば陽が頂点より傾きはじめていた。
「……よぉ。今日は何か“楽しいこと”はあったかよ?」
「はいっ。街の長老さん達と会合してきましたよー」
「……それはまた随分とくっだらねぇ事して来たんだな。じじいやばばあと話して楽しいなんて脳みそ腐ってんじゃねぇの?」
「あ! お年寄りの凄さを分かってませんね? おじいちゃん達ってすっごくいろんなこと知ってるんですから!」
「興味ねぇ。ま、頭の中身が全部胸に行ってるような女にはお似合いの仕事かもしれねぇな」
桃色の髪から甘い匂いが漂って、男の頬が僅かに綻ぶ。
報告と称して懐柔に来る彼女との時間は、男にとっては悪くないモノだった。
酷いっ、と絶句している劉備を余所に、劉璋は口を吊り上げて嗤った。
「は……お前にとっての楽しいことは俺にとって楽しいことじゃねぇ。はい。今日もお前とは意見が合いません。残念でしたー」
「そんなことないよ! 劉璋さんだって街に出てみたら分かるって!」
「俺は劉璋だぞ? なんでわざわざ街に出なきゃなんねぇんだ? お前と一緒にすんな平民」
「もう! いっつもそうやってバカにして!」
「バカにされたくなきゃもっと威厳を持てよ。俺とこうして話せてるだけありがたいと思え」
言いつつも咎めず、劉璋のそんな対応にも慣れた桃香は不満そうにしながらも椅子に腰を下ろした。
対面に座った桃香をじっくりと眺めてから視線を合わす。輝く意思を秘めた瞳を直視して、劉璋は薄く笑った。
「……お前らが来てから益州は確かに潤った。だがそこかしこで反発の声も出てる。特に公孫賛と諸葛亮を孫呉に遣わした独断は許されるもんじゃねぇ。俺が後から許可したから良かったものの、そうじゃなけりゃ今頃お前は胴体とおさらばしてたはずだ」
威圧は無い。ただ淡々と事実を伝えた。
孫呉の危うい状況を知り、益州としてではなく劉備軍として軍を動かした。民が感銘を受けようとも、軍は国が管理しているモノである。
客分として雇った以上、その采配は劉璋が握るべきなのだ。劉璋の庇い建てがなければ今頃桃香は冷たい土の下に居てもおかしくない。
この時点で劉備は劉璋に大きな借りを作っていることになる。
次に何を求められるか、此処に来てから劉璋と何度も話をしてきたが、桃香には分からなかった。
「南蛮遠征、んで孫呉との同盟が上手くいかなけりゃお前以外の劉備軍は全員俺の奴隷。失敗しても貸しはそれでちゃらにしてやる。喜べ」
「……なんで私は入ってないんですか?」
目を見開いた後、言い換えそうとするも引っかかった部分を問いかけた。
「そりゃあ……くく、お前の決断でお前の部下がどうなるかを思い知らせる為に決まってるだろ?」
「……」
「お前に拒否権は無い。せいぜい関羽や趙雲が頑張ってくれることを祈っとけ。南蛮もそろそろ潰したかったから邪魔はしねぇでやるよ。さ、この話は此処までだ」
じとりと睨む桃香を放っておいて、劉璋は上機嫌で机の上から文を取った。
「それより……この文をやろう」
「わわっ」
バサリと投げつけられてどうにか受け取った桃香。首を傾げてじっくりと読み進めていく内に……ぎゅうと眉根を寄せて苦い吐息を吐き出した。表情はみるみる内に蒼くなっていった。
「秋斗……さんが……」
苦悶に満ちた表情が目に入り、劉璋は厭らしく笑った。苦しみに悶える姿が、甘美な果実のようで。
「諸葛亮はよぉ、一人遊びに耽るくらいお熱な相手だってのに会えないなんて悲しいねぇ? 知らせてやったらどうだ? 独断で行った大事な仕事と、どっちに天秤が傾くかな?」
にんまりと細めた目が覗き込む。俯いた桃香と無理やり視線を合わせて、劉璋の口から小さく断続的な笑いが洩れる。
「くっくっ、俺に対する使者だから会わないでもいいぞ? どうせアレだろ、益州は曹操に従うかどうかってことを聞きに来るんだろうからお前なんざ必要ねぇわけで……それともお得意の“話し合い”ってのを持ちかけてみるか?
当然、俺は黒麒麟なんぞに話すことはねぇから曹操を連れて来いって言うだけだ。お前の言う話し合いって奴をやる義理も何もねぇし、仲良く手を繋ぐなんてまっぴら御免。みぃんな仲良く笑いあうなんてできっこないわなぁ?」
「そんなこと――」
むっとした桃香が口を開いた瞬間、劉璋はその唇に指を当てた。
「やってみなけりゃ分からねぇなんて言葉は聞きたくないねぇ。これは俺の意思だ。
お前がどうとかは関係ないんだ。俺は俺の意思で決めてる。曹操の小娘と仲良くなんざするつもりはない。そんでもって黒麒麟は……殺す。
俺はお前の言う“共存”を選んでもいいと思ってるって言ったよな? 孫呉はまぁ……態度次第かね。でも黒麒麟や曹操と共存する気は無い。アレは俺の……“龍”の敵だ」
あくまで自分が。あくまで自分の意見で。あくまで自分の意思に反するか否か。
劉璋の結論はそれだけだった。他人よりも自分の方が大切で、共存を選んだのも自分の利益と享楽になるかどうかを判断してのこと。
桃香とは全くの逆を行く彼を共存まで持って行けた時点で彼女にとっては僥倖と言ってもいいくらいだった。
へらへらと薄い笑いを浮かべ始めた劉璋は、のんびりと椅子を揺らして上を見上げた。
「別に俺を殺してもいいんだぜ? いくらでも戦くらいやってやんよ。きっと俺らは負けるだろう。徐庶が何やら動いてるし、黄忠の心もお前の方に傾いてる。んでもって厳顔は負けたからって義理のハザマで戦わないだろうし、魏延なんざ論外。
そっちが内戦をするなら俺らも外道悪辣全てを賭けてお前を堕としに行かせて貰うけど……その覚悟はあるんだろ? 民なんざいくらでも殺すし、お前が苦しむことならどんだけでもしてやらぁな。
ソレをした時点でお前の言う理想は幻想でしかなくなるなぁ? くっくっ」
頭は回る。益州の内乱を勝ち切ったという自負はあった。劉備を内側に入れたのがそもそもの大失敗だと劉璋は理解している。気付くのが遅かった時点で自身の先見の幅も分かってしまった。
共に戦おう、などとは口が裂けても言えない。それは男としても、劉璋という個人としても嫌だった。
――はっきりきっぱり劉備とは上か下かを決めなきゃならん。お前は上とか下とかどうでもいいとか思ってるんだろうが……外から来た奴なんぞに俺の居場所で俺よりでかい顔をさせるわけにはいかないねぇ。
は……と短く息を切り、彼はまた桃香に視線を落とした。
じっと文を見つめたままで彼女は動かない。何を考えているのか、劉璋には分かるはずもない。
「ま、とにかく情報を聞いただけだろうけど俺にもこれだけは言える。
黒麒麟は絶対にお前の敵だ。お前の大事な仲間って奴を傷つける敵なんだ。殺すつもりが無いなら俺を巻き込むな。こちとら迷惑なんだよ。殺すつもりが無い味方のせいで殺すつもりの俺らが我慢しなきゃならねぇってのはさ。
それと……ぜってぇによ、俺じゃなくても思ってるぜ? お前らの仲良し戦争ごっこに……俺達の命を賭けさせるなってな」
戦場に立たずとも、彼には自分と同じような心理を持つ人間が居ることを知っている。
ぎり、と歯を噛みしめた桃香は劉璋を強く見据えた。睨んだわけではなく、真っ直ぐに。
「うん。きっとそう。私達は恨まれることになる。
でもね劉璋さん。どれだけあなた達が殺そうとしても、誰かに恨まれても、私達は秋斗さんを……黒麒麟を殺すことは出来ないよ。私も、朱里ちゃんも、愛紗ちゃんも、星さんも白蓮ちゃんも鈴々ちゃんもあなた達を止める。だってあの人は――」
絶望の渦巻く瞳の奥には、明るい光があった。
その色を見て苛立ちがもやもやと燃え上がりつつも、劉璋は言葉の続きに耳を傾けた。
「――理想を叶える為に絶対必要な人だから」
しばしの静寂。
そうかい……とだけ言って劉璋はまた宙を見上げた。
何があったのかは知らない。内部事情までは深く聞くことはしない。それでは彼にとっても面白くない。
――それはお前と全く真逆な俺よりも必要ってことか?
聞きたくても口からは出さず、胸で渦巻く野暮ったいモノを閉じ込めたままで劉璋はへらへら笑いをまた浮かべ始めた。
それからぽつりぽつりと、真逆の二人がまた言葉を交わし始める。
相容れないと分かっていながらの不思議な関係に満足している劉璋と、いつか分かって貰えると根強く語り掛ける桃香。
誰の耳も無い部屋の中で二人の邂逅は続く。
一方通行の想いと思いが交わることはなく平行線のままではあったが……
この関係も“黒”と会えば何かが変わるだろうと、その時は二人共が確信していた。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
資格勉強のため執筆が滞っております。申し訳ありません。
南蛮にしようと思いましたが先にばば(ryお姉さん二人と劉璋君のお話を。
劉璋君はオリキャラですがこんな感じです。悪役というより三下。桃香さんに惚れた人で話し相手。
朱里ちゃんは原作でもむっつりですからね。
次は南蛮。一話か二話で終わらせます。
ではまた
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