大正牡丹灯篭
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1部分:第一章
第一章
大正牡丹灯篭
こんな話がある。大正時代のことだ。
横須賀に木村藤次郎という若者がいた。大学を出たばかりの前途洋々で眉目秀麗な若者であった。背も高くすらりとしており海軍を主な相手にする会社に勤めていた。この会社も海軍だけでなく国内や海外の様々な企業を相手にしていて業績がかなり伸びていた。藤次郎はこの会社でも将来を渇望されていた。
「行く行くはあれだな」
社長は彼についてよく語っていた。語る場所は決まっていていつも壁に船の絵がかけられている社長室であった。そこで赤いチョッキとネクタイの姿で葉巻をくゆらせて彼のことを言うのであった。
「この会社の重役だな」
「そうですね」
社長の秘書である中西が雇い主の言葉に頷く。この初老の男も藤次郎を気に入っていたのだ。藤次郎は顔もよく仕事ができるだけでなく謙虚で温厚な人柄であったので皆から好かれていたのだ。
「楽しみなことです」
「それでだ」
社長はにこにこと笑いながらまた言うのだった。
「彼にあれはいるか」
「あれといいますと。ああ」
中西は社長の言葉ですぐに勘が働いた。すぐに納得した顔になる。
「付き合っている方ですな」
「まずは妻だ」
社長は真剣な顔で述べた。今度は笑ってはいない。
「男は妻を迎えてこそだからな」
「そうですなあ」
中西もその言葉に大いに頷く。この時代は今よりもずっとそうした意識が強いのは言うまでもない。家庭を持つことは絶対のことだったのだ。これは男でも女でも同じであり生涯独身というのはおよそ人として許されぬことですらあったのだ。
「今は遊ぶ相手でもいいがな」
「はい。ですが」
「いないのか」
「何分真面目な気質ですので」
そう社長に告げる。
「いないのです。残念なことに」
「ここは海軍将校ならば誰でもおなごには苦労しない」
社長は話に不意に海軍を出してきた。やはり海軍の街だから出て来る。海軍将校といえば問答無用で女が周りに集って来たのだ。それだけの社会的地位と尊敬を集めていたのである。これもやはりこうした時代だったということだ。だが藤次郎はその彼等でやっかみを覚える程の顔でしかも街の女から注目されていたのだ。だがそれでも彼の方から女を避けているわけでもないが少なくとも近寄らなかったのだ。
「それよりももてているというのに」
「好みの問題でしょうか」
中西は言った。
「好みの相手がいないのではないかと」
「遊ぶのならそこまで考えずともいい」
社長は特に考えることもなくこの言葉を出した。
「別にな」
「ところが遊ばないので」
「真剣な相手のみ探しているのか」
「どうやら」
中西はそう答える。
「では。探す必要があるな」
「そうですね」
二人は藤次郎の結婚相手を探す話をはじめた。
「もういい歳だしな」
「結婚は早ければ早い程いいのです」
これは中西の考えであった。社長も同じである。というよりは中西が社長に合わせたのであるが。どちらにしろ二人の考えは同じであった。
「ですから」
「探しておくか」
「はい」
「それでだ」
社長はここまで話をしたところで話題を変えてきた。
「もうそろそろだな」
「祭りですか」
「ああ。もうすぐだな」
社長の目が細くなる。彼は祭りが好きなのだ。
「今年も賑やかにいきたいな」
「はい」
そんな話をしていた。そうして祭りの時になった。二人はその夜その藤次郎を連れて夜の横須賀を歩いていた。
夜の街に海軍の白い軍服があちこちに見える。それと共に着飾った女達が見える。
出店には子供達が群がり老いも若きも楽しい顔をしている。それを見て社長達もにこやかな顔になっていた。
「木村」
社長はその中で自分の後ろにいる藤次郎に声をかけた。
「どうだ、いい祭りだろう」
「そうですね」
藤次郎もその言葉に頷く。素直な言葉であった。
「横須賀で一番賑やかになる時だ」
「そのようですね」
彼もここに来て暫く経っている。だからそれは知るようになっていたのだ。
「君は祭りは好きか」
「嫌いではありません」
社長にこう答えた。
「この雰囲気がいいのだな」
「子供の頃から。何もかもが好きでした」
彼は社長に対して述べる。
「出店も。そこを行き来する人達も」
「そうか。好きなのだな」
「ええ。とても」
社長は後ろから聞こえてくる藤次郎の明るい声に満足を覚えていた。連れて来た介があったと思った。そこで目の前に若い海軍将校が美しい女と並んで歩いているのが目に入った。彼はそれを見て少し気を利かせてやろうと思った。
「なあ」
「何でしょうか」
「わし等はこれから少し行くところがある」
「では御供します」
「いやいや、それには及ばない」
秘書に目配せをしながら藤次郎に言う。
「仕事でも何でもないのだしな」
「左様ですか」
「それでだ」
そう話したうえでまた彼に告げる。
「暫くここで楽しむといい」
「祭りをですか」
「そうだ。好きにすればいい」
こう彼に言うのだった。
「出店に入るなり酒を飲みに行くなりな。どうだ?」
「それで宜しいのですか?」
藤次郎は律儀に彼に問うのだった。この律儀さもまた彼が藤次郎を好むところであった。
「社長の御供をせずとも」
「御供なら私が」
ここで中西がにこやかに彼に述べるのであった。
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