機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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21話
漆黒の《ゼータプラス》が漆黒の星海を切り裂く。追従する2機の《ゼータプラス》と、その外見は一瞥して違うようには見えない。
戦闘指揮所のモニター越しにその様を眺めるフェニクスは、いつものように腕組みしていた。いつもと違うところと言えば、フェニクスの隣にスーツ姿の男が資料を読み上げているところだろう。庶民には手が届きそうもない気品高いスーツを違和感なく着こなす痩躯は、得も言えぬ侮りがたさを感じさせる。
「―――でして、フランドール中尉の能力の安定性は確かに回復した断言していいでしょう」
声色に言い淀みは欠片も無い。つらつらと字面を読み上げる無機質な様には、微かに癪に障る―――が、それを騒ぎ立てるほど、フェニクスは若く無頼ではなかった。顔色一つ変えず、そうか、とだけ頷く。眼前のモニターでは、漆黒の《ゼータプラス》がビームスマートガンを構え、ターゲットをロックオンしているところだ。同じモニターに別ウィンドウで開いた映像には、今回のアグレッサーである《百式改》の姿があった。
「ただ、一定以上の能力の発動に際しては斑があることは改善されていません」
「『ヴァルキュリア』ですか?」
は? と一瞬男が固まる。コンピューターのプログラムのように精緻な男の固い面持に間の抜けたような表情が浮かんだ。
「あぁ、ノースロップ少尉がつけた名前ですか。ええ、その『ヴァルキュリア』です。そもそも偶然発見された現象ですから、何分手探りな状態でして」
男が眉を顰め、困ったように右手で後頭部を掻いた。
ニュータイプ研究はUC.0079年の一年戦争以来発展し続けているが、科学と呼ぶにはあまりにも形而上的すぎるその性質故に、その能力の全容は今をもって全く把握し切れていないのが現状だった。
『ヴァルキュリア』。そう呼称される現象もまた、不可思議な能力の一端である。フェニクスはその名前の命名者―――オーウェン・ノースロップの意図はよくわからなかった。昔のゲームから取ってきたと珍しく―――というか唯一―――自信満々な表情を浮かべていたことを思い出しながら、フェニクスは腕を組みながら拳を握る力を強くして、親指の付け根を鳴らした。
「『死』―――とはまた難解なことですね」
「ええ。『死ぬこと』とは何か、なんて、研究者になってから問うことになるとは思いませんでしたよ」
冷徹を旨とでもしているかのような狷介な顔に苦笑いを浮かべる。
「案外単純かもしれませんよ」
「と、言いますと?」
「博士は確かご息女がいらっしゃいますね?」
ええ、と男が頷く―――そして、あぁと納得したように頷いた。
「―――私は彼を恨みますよ」
声は固い。だが、その声の意味するところは表面上の意味とは異なる。全くだな、とフェニクスも顔を顰めた。
この眼鏡の男、いかにも冷徹な科学者のような印象を受けるが案外人間味がある。だからこそ、この男がエレアを物のように言う物言いにも、フェニクスは露骨に嫌悪を表さないのだ。
「悪魔のような残忍を働いたのは、実は陳腐な小役人だった―――という話はご存知ですか?」
「は?」
「いえ、なんでも」
男はなにか言いかけ、押し黙った。
上から命令という名目で人を殺戮した人間と、上からの名目で人の心を弄ぶ人間。程度の差異はあれ、そこに本質的差異などあるはずもない。腕組みしてモニターを眺めながら、フェニクスは少しだけ右足に体重をかけて楽な姿勢を取った。
ビームサーベルを抜刀した《ゼータプラス》が《百式改》に襲い掛かる。ビームライフルの応射は無意味に宇宙へと飛んでいくだけだった。
「まぁでも―――」
フェニクスが言いかけた言葉は、モニターの中で爆ぜた言葉に飲まれた。
※
「いやー良い風だねぇ」
うんと伸びをする。程よくアルコールの入った身体に、やや角張った夜のそよ風は程よい心地よさだ。栗色の髪の少女―――マリーダ・クルスも、エイリィに同意するように頷いた。
鉱物資源衛星群パラオ。複数の小惑星と岩塊が連結シャフトで結合されることでできた鉱物資源衛星の中でも三角錐状の岩塊『カリクス』には3万人の人間が住む。コロニーと同原理によって居住を可能とした『カリクス』居住ブロックにも、地球やコロニーと同じように風が流れる。やや頽廃的なところも、やはり地球と同じなのだろう。
「んでどこ行くの?」
マリーダ、と前を歩いていく少女に声をかける。
翌々日から新たな任務に就くということで、マリーダが『パラオ』で過ごす家でのパーティに招かれたエイリィは、無事に―――テルスの手料理を食べた複数人が顔を顰めたこと以外は―――パーティが一頻り済むと、マリーダに連れられてどこかへと連れられて行かれることとなったのだ。
髪の色も、触り心地も、肌の柔らかさも、プルートと似た少女が振り返る。
目の碧さも同じ―――無口なところはちょっと違う。
大人びた―――というより老成した、といってもいいほど年恰好に似合わない静かなマリーダが、顔に困惑を匂わせた。
「その……さした問題ではないのですが……」
珍しくマリーダの歯切れが悪い。出会ってから数日しか経っていない間柄だが、彼女の人となりはおおよそつかめている。
古くからの知古というわけではないが、マリーダ・クルスとは馬が合う。真面目気なマリーダに、気軽なエイリィの組み合わせは自然と重なり合うところがあるのだろう。こういう手合いは普段から接しているだけに、口数の少ないマリーダと一緒にいるのも苦には感じなかった。
サントの家から数分、「カリクス」の居住ブロックでも市街に当たる部分を過ぎ、広大な貯石場が目の前に広がる。
未処理の廃鉱石が堆積し、山のように聳える荒々しくも脆い鉱山。こうしてできた人工の山は、パラオでは珍しくない。資源としては低品質の鉱物しか取れえなくなって以来、行く当ての無くなった鉱物はこうして打ち捨てられていく。機能しなくなって以来大分経とうにも関わらず、おぼろげな光を放つ注意灯を頼りに覚束ない足場をすいすい上っていくマリーダに続きエイリィもえっちらおっちらと山を登っていく。
ふと、彼女が立ち止まり、彼女が振り返る。
穴、だった。
歪に穿たれた穴は、一目で採掘のためのそれとは異なることを見て取った。コンクリートの補強すらされておらず、ぽっかり空いた空無の先にはただ黒い色が染まっているばかりだ。
マリーダが中に入る。一瞬、穿たれた穴のどこか素っ気ない外見に気後れを覚えながら、エイリィもマリーダの後塵に続いた。
洞窟、というだけあって、中は音が少ない。静かに吹き抜ける腐敗した風が、音を外に引き摺って行くようだ。
緩やかに下る道を20mほども歩いたであろうか。
さっと、逢魔の陽光が差し込んだ。
細い通路の先、ぽっかり空いたがらんどうに溜まる柔らかな丸い光。虫食いのようにぼろぼろの石柱が整然と並び、既に“手元にあるもの”としての性格を失い、人から隔てられた長椅子が列を作る。縦長の洞窟の奥には、椅子と同じように時代から捨象された祭壇が厳かに立ち聳え、色も褪せて微かに赤さを窺い知れる絨毯がかぶせられていた。
その最奥。聖書を物語るためでもなく、体裁を整えるために壁にはめ込まれたステンドグラスからそそぐ人為の光を受けて光る“贖いの証”に、エイリィは自然と息を飲んだ。
十字架に磔にされた聖人のペルソナは、長い年月を経てその容貌は苦悶にも安らぎにも取れない様へと変わり果てていた。静謐な空間、響く音は呼吸の音、じっとりと身体の境界線に滲む音無き音の淡い音色だけだった。
キリストの神により支配された中世を過ぎ、時代を経るごとに少しずつ“死んで”いき、ついには破戒者によって死を宣告された。それでも神は息も絶え絶え、現代に微かな光を残している。各コロニーには今だ教会が聳え、多くはないが祈りをささげる者もまだいる。
それでも形骸化し、机上あるいは書面の上に押し込められていった神をただ惰性で祈るだけというのが実情で、祈りをささげる者たちはいったい何に己の篤い信徳を捧げているのか理解すらしていない。
だが、ここには確かに神がいる。
宗教と言う枠組みなど最早関係ない。ただ素朴に裸形の神なる何ものかに呼びかけ求められ、それに応えるようにして祈りとともに神なるものの内へと参入していく、本当の信仰の空間が、ここにある。エイリィはジーンズのポケットに片手を入れて天井を仰ぐ。
「こんなところがあるんだねぇ……」
サイド3出身者で、第二次ネオ・ジオン抗争後のネオ・ジオンに参加したのもつい最近のエイリィは、こうした場所があるのは知らなかった。
あぁ、でもそうかと納得した。サントの家の人々はキリストの教えにコミットしていた。食事前にも祈りを捧げていたことを、エイリィは思い出した。
「私はよくわかりません」
その偶像を眺めたまま、マリーダは控えめな声で言った。
「何故人々は神に頼るのでしょう? 神なんているはずもないのに」
隣に並ぶエイリィに半身を向けたマリーダの瞳が真っ直ぐと見抜く。
20世紀から始まり、宇宙世紀現代。無神論を語る人間は嘲りと共に神を侮蔑する、あるいは神などと言う存在を荒唐無稽なものとしか見なさない人間が主流と言って間違いない。だが、マリーダの眼差しはそういう短慮な類のものではなかった。
こういうのは、自分の役目ではないんだけどなぁ。思いながら、エイリィは像を見やった。
マリーダはまだあの家に住み始めて長くない故に、無暗な質問を信仰者に尋ねるのは憚れるのだろう。もちろん、信仰を持つ人に何故神を信じるのかと尋ねるのは、それはそれで有意義な会話になるのだろうが。
「あくまで私の考えだけど」前置きしたエイリィは、ボロの長椅子の手すりの部分に腰掛けた。
「存在の不安さに対する一種の答えなんじゃないかなぁ、と思うんだけど」
「存在の不安さ?」
「まぁなんて言うのかな。人間は究極的に何故の答えに答えられない生き物なわけじゃない。科学にしたって歴史と共に発展しているけど、何をもって完成したと言えるのかはよくわからないし、そもそも科学は真理を見つける学問じゃないし。倫理学とか正義論を持ち出したらいっそうわかりやすいだろうけど、メタ的な視点では人は絶対に答えを得ることはできない。突き詰めてしまえば人は確かな足場を得ることなんてできやしない。でも、何か頼るものが欲しい。立脚点が欲しい。世界を説明する手段が欲しい―――だから人は神を作り出して存在の基盤を固めようとしたんじゃないかな。神話は世界生成のためにあるとは言われているけど、その根底にあるのはやっぱり、わからないものをわかって安心しようとする努力なんじゃない、かな。確か日本の鎌倉仏教にそういうのがある―――と思ったり」
「科学と同じ?」
マリーダが眉を顰める。
「神は人格的だと思うとわかりにくいけど、例えば古代ギリシャのとある人は、神が人間の形をとっているのは我々が人間だからで、例えば馬が言語を持ったら神は馬だと言うだろうみたいなこと言ってたし。そもそも例えばi×i=(e^π )^iみたいな数式こそ神の存在だということも十分だと言えるかもね。まぁ私の意見でしかないし、科学者と神学者に胸を張って言えることではないけれど」
口元に手を当てたマリーダは眉間に皺を寄せたまま、長椅子の埃を払い、腰を下ろした。
数式が神である、というのは一見荒唐無稽だが、数学者の多くが己の業績によって神の存在証明をしようと試みているという事実は興味深いだろう。特に神と科学を結びつけるのは違和感があるし、エイリィも知識で知っているだけの話で納得していない事実でもある。
「神は己の存在の不安をかき消すための方法論―――なるほど」
言いながら、マリーダは顔を上げて、向こうで磔にされている聖人の像を眺めた。
どうやらマリーダは納得したらしい。キリスト教の神学者だったら異議を唱えるだろうが、まぁそれはどうでもいいことだ。
宗教の存在意義の大部分は、きっと人が安心するために在るのだから。そして、限界状況を引き合いに出すまでもなく、人は皆、本当に無「神」論者ではいられないほど強くないことは自明なのだ。
ただ、本当に自我が安心するために神的なものを用いて良いのか、つまるところ利便性に神を貶めていいのかという問いはあるのだが、まぁ、それは今は別に良い話だ。
「―――わかったと、思います。なるほど、それなら神は必要なのかもしれません」
納得気、というわけではないが、16歳の少女が肯く。まだ出会って数週間ほどの仲だが、屈託のない笑みは初めて見た気がした。倦んだような表情で、世界の舞台裏の汚濁をまざまざと見つめる―――そんな風な老成の薫りを漂わせる彼女は、だが16歳という少女なのだ。その未熟を思い出させる表情に、エイリィは我知らず息を飲んだ。
マリーダが立ち上がる。手すりに座るエイリィの脇を抜け、所々が剥げて灰色の下地が露出した赤いカーペットの先へと歩いていく。隣を過ぎた時、ふわりと甘い匂いが鼻を擽った。熟れたパッションフルーツのような、情欲的でもあるような、全くそんな頽廃を感じさせもしないような奇妙な匂い。その甘く身を切るようなメランコリーの匂いを引き摺って、マリーダが偶像の前に立つ。
ペルソナも無くなってしまった。表情を表出することすらできなくなってしまったその神的形而上学的存在、否、むしろ存在それ自体のその現れは、どこか静謐な情愛を感じさせる。
ステンドグラスから降り注ぐ、角を失った丸い黄昏の光に包まれたマリーダの後姿に、エイリィは彼女の甘くさっぱりした匂いを思い出した。
聖女。そんな言葉は頭を掠める。御子を産んだ聖母は、きっとこのような神の知的愛を思わせる姿だったのだろう。
いや、それとも巫女の姿なのだろうか。神あそびの祝祭の中で神を身に宿した、神女の厳かな背中―――。
エイリィには、よくわからなかった。
マリーダが振り返る。肩にかかるくらいのセミロングの髪が狐の尾のようにしなり、やや長めのもみあげがひょこひょこと揺れた。
綺麗、だった。幼げで、それでもどこか溟い影を滲ませた頽廃のかんばせに、笑みは無い。陶器の人形を思わせる無機的なキャラクター、されどそれであるが故に現れ出るペルソナの罅割れの亀裂、その瑞々しさを、エイリィは直観したであろうか。
「貴女は、何か、気分のいい人ですね」
「そう、かな?」
「神経に変なざらつきがない。貴女は私を落ち着かせる」
不思議な表現だが、エイリィはなんとなくその言葉を理解した。
「エイリィ、貴女とはまた会って言葉を交わしたい」
マリーダの表情が揺らぐ。どんな顔をとっていいのか迷った後、彼女の碧い瞳がいつものように憂いを帯びる。
笑っていたほうが可愛い、と思う。
「おう、任務が終わったら、また」
身を正して敬礼する。マリーダも返礼の敬礼をした。
次に会ったら、マリーダにもっと笑うように言おう。
笑っていたほうが、この少女には似合っているから。
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