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乱世の確率事象改変

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浅き夢見し、酔いもせず

 一筋の光が煌き、引き裂くように彼方のモノを照らし。切っ先が指し示すのは敵として認識した最強の飛将。
 切り結ばれた視線とは裏腹に、注がれる感情の全ては深淵の深さに呑み込まれていく。
 何も映さない昏い瞳。感情一つ表さず、武神と呼ぶに相応しい強者は微動だにしない。
 まだ遠い。まだ遠すぎる。きっとそうだ。だから奴は何も感情を浮かべない。
 そう思いながらも雪蓮の脳髄は只々冷えて行く。遠くとも深淵の底を覗き込めば、背に来る悪寒は止まらなかった。
 昔よりは小さく見える。しかし……それで暴力の桁が可愛くなったのでは無いと思い知る。
 がらりと変化した空気を感じて、本能が警鐘を鳴らしていた。自身が冥琳の次に信頼している“勘”が、この場からの退避を訴えかけていた。

 アレと戦ってはならない。アレと相対してはならない。アレと一太刀でも合わせてはならない。

 前は大丈夫だった。長く共に戦ってきた戦友と、そして信頼できずとも信用出来る同質の武人達が共に戦うと知っていたから。
 しかし此処にその者達はいない。兵士達には悪いが、雪蓮は理解している。
 例え孫呉の兵士達が精強に鍛え上げられた古強者であろうとも、アレの前では紙屑に等しい。故に本能が訴えかける危機感は自身の死の未来に他ならない。

 幾重も脳髄に浮かぶのは殺される自分の姿。
 袈裟で分断されるか、一瞬で頸が胴体と離れるか、心の臓を真っ直ぐに突き抜かれるか。どれにしても子供と大人のような力の差が感じられる。
 しかして、生物的な本能を彼女の心が抑え付けていた。
 普段なら高揚して来る強者との対面のはず。しかしそれとは別種の高揚感が身を震わせ包んでいる。
 後ろ、前、横……幾多もの視線。
 自分の背中を支えてくれる兵士達の熱気と裂帛の気合。戦場を住処としてきた彼女は、彼らの力が自分を強くすると知っている。

 例えば、例えばだ。
 彼女が自分の為に戦っているならその力は手に入れられない。自分の幸せを願って戦うのなら、彼らの想いは彼女を強くしない。
 自身の欲望は確かに人を強くする。鍛錬を積ませ、経験を積ませ、そうして自分を磨き上げる。
 しかしながら、戦場で爆発的な力を発揮させる異常事態というのは得てしてそういった輩には起こり得ない。自分が積んできた経験と力以上のモノなど出せる訳が無いのは常であろう。

 言い換えよう。
 死にたくないという想いは確かに強くとも、自分が幸せになりたいという想いは確かに強くとも……愛する者の為に戦う時にそれらより強くなるのも人間という種。
 生死入り乱れる舞台でしかソレは起こり得ず、そういった時にこそ……英雄というモノは過去最高の力を発揮する。

 敵に春蘭が居たのなら、きっと孫策とは戦うなと皆に注意を促し、そして、彼女は一人で雪蓮と戦い、自分を置いて華琳を守れと言うに違いない。春蘭でさえ命を賭けなければ今の雪蓮は止められない。
 雪蓮の状態を見抜けたのは、今この場所には断金の友しか居ない。王という重要な役目を負いながらも命を賭ける戦姫が、どれほど強いか知っているのは彼女だけ。

 ギシリ、と雪蓮の拳が握られる。いつもよりも力が入る。それでいて最善の所作を繰り出せる最高の状態であった。
 疲れなど全く感じない。脳のリミッターなど既に外されてしまった。自然と浮かぶ笑みは慈愛に満ち、先程までの暴力的な空気など欠片も見当たらなかった。
 一呼吸。たわわに実った果実が揺れ動く。威風堂々と胸を張った孫呉の王が、大きな、大きな声を上げた。

「我が名は孫策っ! 江東を守護する虎なり! 平穏を乱す徒は決して許さぬ! その頸、噛み切るまで我が牙は止まることはないぞ! 同朋の命、その血と肉で贖って貰おうかっ!」

 叩きつけられる覇気に劉表軍の兵士達がたたらを踏んだ。同時に、孫呉の兵士達がその隙を見逃すはずも無く、周りに群れていた薄緑色の鎧が朱に染まるのも詮無きこと。
 突き刺すように向けた剣は指揮する為には無かった。怯えた敵兵を一人、また一人と切り裂き屠る。戦姫は馬上であれども舞い踊るように武を結ぶ。
 視線は決して敵将から離さないというのに、まるで草を薙ぐように兵士を物言わぬ屍に変えていく。

 それでも、肩に方天画戟を担いだ少女は動かない。
 まだ遠く。兵士の壁の向こうで赤い馬に跨ったまま、無機質な瞳で雪蓮を見つめていた。
 なんのことは無いと、突き刺さるような覇気を受けても同様せず、危機感など感じないまま人形のように。

――敵将は怯えて前にも出れないぞ、なんて煽ってみてもいいんだけど……なんか変ね。

 違和感が一つ。雪蓮は眉根を僅かに寄せた。
 これだけの気迫を見せても相手が何も反応しない。前なら少しは興味の籠った視線を向けてきたモノである。
 取るに足らない相手だと思われているのか……否、全く別種だと直感が告げていた。
 じっと見やった。一人、二人と切り殺しながら最強の瞳を。
 吸い込まれそうな闇の中、その瞳には何も映っていなかった。

――嗚呼、なんだ。

 いやに冷静な自分を不思議に感じる。だが、不思議なことに落ち着き払った自分の心は慢心では無く……落胆に彩られた。

――私達の平穏は……“この程度の敵”に乱されたのか

 想いが無い。人の命に価値さえ感じていない。人々が形作る営みに心を向けることすらない。下らない。本当に下らない相手……雪蓮はそう思った。
 欲望の為に嬉々として戦うモノ達なら、まだ分かる。吐き気がする程大嫌いだが、自分の幸せという分かり易い欲望があるのだ。
 そういった相手なら怒りを向けられる。しかしこの相手には、憐みしか浮かばなかった。

「そう……呂布、あなたは……心を閉ざしたのね」

 欺瞞で奪われた大切な主と友。そして戦友との別離と敵対。信じていた心は、きっと裏切りを感じてしまったことだろう。絶望に堕ちる理由は直ぐに思い浮かぶ。
 自分達が彼女を追い詰める一端を担った。それなら陳宮の憎しみにも納得できる。悪龍は其処をより深く染め上げたに違いない。
 近しいモノの喪失は哀しく辛い。人の後ろ暗い感情を増幅させる。

 少しだけ笑いそうになった。
 なんという堂々巡りだろうか。自分達は悪龍を憎んで、過去の行いから荊州の人々は自分達を憎んで、今親を殺された孫呉の子供達は荊州の人々を憎んで、終わることのない螺旋は巡る。
 止めたいのに、完全には止めることは出来ないと知っている。自分が誰かを憎んでいたから特に分かる。
 悩んでも悩んでも決して答えの出ない永遠の問題。人が持つ性と業。

――やったらやりかえされる。いつの時代も、それは変わらない。

 棚に上げることはしない。此れは孫呉の責だ。それを背負うのは……誰だ?
 内に問い掛ければ自然と答えは出よう。否、誰であれそれは知っている。民でさえ、掌を返して責め立てる。

――此れを背負うのは私。王として全ての責を負うのは私の仕事。この憎しみ、この恨み、この怒り、この業……乱世の理に則って、“力”で無理やり背負わせて貰う。

 相応の対価を支払えと、敵は皆考えている。
 責任を取るとはそういうこと。現代でも上のモノが首を括るのは変わらない。
 だが、今は乱世。それがどうしたと居直るつもりなど無いが……真正面から踏み倒すことも必要だ。そうしなければ、この世に一人の人も残ることは無いのだから。

 ぐ、と丹田に力を込めた。
 溢れる熱気は冷めない。溢れ出る力は抑えずともよい。心のまま想うまま、自分の力を振るえばいい。
 故に雪蓮は笑う。清々しい程に美しい、戦姫の声が張り上がった。

「ははっ、あははははっ! 来い! 天下無双の飛将軍よ! 悪龍を想いし大敵達よ! 虎が憎いか! 憎いのだろう!? ならこの孫策の頸を落としに来い!
 愛しい勇者達よ! 偉大なる先代の虎が為し得なかった事を、私と共に紡いでみせよ!」

 歌うように言の葉を紡ぎ、舞いのように剣閃が煌く。

「此処は戦場! 想念と魂が交差する生と死の境界線である! しかして我らが魂の場所は何処にあろうか! 踏みしめる大地にっ、頬を薙ぐ風にっ、英霊たちが宿っているぞ!」

 雄叫びが天を衝く。虎の叫びのような幾重の声に、荊州兵の前列は腰が引けて行く。確かに立っていられるのは、ねねと共にあった飛龍隊のみであった。
 止められるモノは居なかった。段違いの暴力には、同じく段違いの暴力をぶつけるしかない。
 気迫も、想いも、全てが荊州兵と孫呉の兵士には差がある。それを埋めるにはどうすれば……弱者は強者に縋るしか無くなる。

 幾多の目、目、目がソレを見つめた。
 何故お前は後ろに居るのだと、まるで責め立てるかのように。
 大きすぎる力を持つものが後ろで見ているだけなら、ソレを責めずにはいられないのが弱い人間の性。悪感情さえ向け始めた兵士達に、ねねは苛立ちから声を上げた。
 ただし……悪辣で、残虐な笑みと声を携えて。静かな声は、不思議と兵士達の耳にも響いた。

「……そんなに死にたいなら死ぬがよいのです」

――民を愛しているというのなら、自分一人だけで、頸でも括って死ねばいいモノを。

 心の中で矛盾に毒づき吐き捨てる。
 所詮は戦に理由を求めている時点で、お前など矛盾の塊でしかないのだと。
 言の葉には想いが宿る。彼女は消えかけていた心の炎に対して、何が一番の起爆剤となるかをよく理解していた。

「“お前達さえいなければ”荊州の平穏は守られたというのに」

――お前達さえいなければ、皆で幸せに暮らせたというのに。

 涙が溢れそうな程に昏い怨嗟の叫びが魂を揺さぶる。
 あの陽だまりを奪ったのはお前達だ。暖かい微笑みも、意地っ張りな優しさも、男勝りな笑い声も、飄々とした猫なで声も、そして……やっと人になれた優しくて弱い少女も……

「お前達のせいでっ! ねね達は大切を失ったのですっ!」

 音が止む。まるで彼女が操ったかのよう。三つ重なる音の真名を持つ彼女の声が、戦場の轟音を掻き消した。
 ギシ、ギシ、と拳が握られる。
 ケダモノに堕ちていた男も、少女の気高さに忠を誓った男も、薄緑色の飛龍の叫びに心を揺さぶられた。
 思い出すのは自分達の平穏。何が欲しかった? 何が大切だった?

――ああそうだ。あいつらのせいだ。

 たった一人の少女が人を狂わせる。たった一人の少女の憎しみが兵士を狂信に堕としていく。
 深くて昏い感情の奔流が、その戦場を呑み込んだ。
 すっと、少女が指を立てた。呆れ果てたような表情で、瞳には憎悪と怨嗟を溢れさせ、彼女はぽつりと呟いた。

「孫呉……死すべし。孫策は月輪の敵、飛将の刃にて屠り去らん」

 雪蓮は自身の誤算を紐解く。此れはただの一騎打ちでは無く、少女の憎しみを踏み倒す為の戦。
 同時に、自身の思惑通りに満足する。なんのことは無い。自分の敵は飛将軍だけで、軍として迫りくる相手はいつだって最愛の断金が屠ってくれるのだから。

 ねねが口から零した語句に反応した少女が一人。
 先ほどまで人形のように動かなかったのに、雪蓮に向けてゆらりと方天画戟を突き付けた。
 唇が僅かに開いた。瞳はやはり何も映さない。隣で今にも泣きだしそうなねねの方を、いつでも彼女は一回たりとも見やしない。

「……行く」

 胸を手で押さえながら、ねねは引き裂かれそうな叫びを上げた。

「死にたくなければ道を開けるのです! 敵がいようと構うな! 飛将軍の刃は、邪魔する者を敵味方問わず切り裂きますぞ!」

 幸運だったのはその周りが飛龍隊だったこと。
 ねねの命令が飛んだ瞬間に、彼らはなりふり構わず道を開けた。
 一寸の間も待たずに、大陸でもただ一頭の赤い馬が嘶き……戦場に一陣の暴風が吹き荒れた。

「ぅぅ……れんどのっ……れんどのぉ……」

 ぽとりと大地に沁み込んだ涙の雫は、小さな少女の慟哭と共に。




 †




 僅かな空気の変化さえ見逃すまいと、冥琳の神経はいつも以上に研ぎ澄まされていた。
 兵士の一挙手一投足全てが見えるような感覚。こういった時はいつでも勝利を収めてきた。
 しかし……言い知れぬ不安が胸に去来してもいた。
 敵の顔付きが変わった。雄叫びを一つ聞いて、そして無音の中で何故かよく聞こえた少女の声によって。

――陳宮や荊州兵にとって、我らの不幸は当然の報い。そう思うのは人として当たり前のことだ。

 冷めた頭で不安を隠しながら思考を回す。
 乱世は慣れ合いでは無い。人が幾多も死に、夢が幾つも破れて行く。
 この乱世が誰かの幸せの為の茶番だというのなら、きっと冥琳も雪蓮も、そのモノを許せない。兵士であっても、民であっても、誰であっても同じだろう。

 自分達は生きている。人々が命を賭して戦っている。それはなんの為だ? 与えられるだけの幸福の為か?
 否……一人一人が慕う主の元、作り出される未来を信じて戦っている。それは何処の誰でも変わらない。
 だからこそ、冥琳はねねの言葉を呑み込みつつも、正反対の想いを宿して切り捨てる。

「お前は我らが攻めて来なければと言うがな……そんなモノは女人の戯言だろうに」

 鋭く光る眼差し、眼鏡をクイと持ち上げた。

「手を差し伸べた程度で変えられるのなら変えていたさ。他と手を繋ぐ程度で変わるのならこの世界はどれだけ優しいことか。
 我らが求めるのは孫呉の永劫なる平穏だ。他に食い荒らされぬように力を付けなければ生き残れない。それがこの大陸の常であると……お前も軍師ならば分かっていたはずだろう?」

 ジクリ、と胸に刺さった楔が軋む。蒼髪の上の魔女帽子を思い出す。

――私だけは忘れるなと言ったな、鳳統。杞憂だよ。敗者である私はお前よりも知ってる。信頼は大切だ。それでも、友であろうと他国や同盟国であろうと利用しなければならないのが“国家”というモノなのだから。

 甘い幻想に絆されることは無く、彼女だけは氷の上を歩くかのように冷たく国を想う。
 誰かが厳しくなくてはならない。雪蓮でさえ甘いと冥琳は知っている。孫呉最高の軍師が背負うモノは、余りに過酷で大き過ぎた。

 ゆるりと手を上げるだけで指示を飛ばす。手足のように動く兵士達は彼女と共に戦ってきた古強者たちばかり。

「お前は董卓が作る世界を信じた。私は雪蓮が作る世界を信じている。ただそれだけの違い、立場が違っただけ。“もしも”お前達董卓軍が我らの立場だったなら、そして我らがお前達の立場だったなら……私が言っていることをお前は口から諳んじる」

 牙を剥くように唸り、声を震わせた。
 聞こえていない一人語り。届くわけも無い理論。どちらもの言い分に付け入る矛盾と、貫き通せる理由がある。
 出来ることなら智者として、真っ向から言葉の刃で斬り合いたいモノだ……そう冥琳は思う。

――お前の、そして荊州の平穏を奪ったのは我らだ。しかし謝るつもりはない。

 研ぎ澄ました刃のような視線がねねを射抜いた。
 飛将軍が飛び出した後に出てきた敵は練度が段違い。一つの指示間違いさえ許されないギリギリの戦。

――乱世を生き抜こうと言うのなら……

 彼らが宿す想いに敬意を表して、冥琳は薄く笑った。

「力を示せっ! 自分が正しいと敵を喰らって証明しろ!」

 彼女は王佐。小覇王を大陸の覇者に導くただ一人の輩で、小覇王の代わりに王となっても文句を言われぬ才と器を持っていた。
 そして誰よりも矛盾を知っていて、また、誰よりも乱世の理不尽を理解していた。

 ぶつかり合う精兵と精兵。血みどろの戦場は醜悪さを否応なしに増していく。





 †





 まずい、と白蓮は舌打ちを一つ。
 戦場の様相ががらりと変わった。
 彼女はこの空気を知っている。決して止まることのないモノ達が上げる狂気と同じなのだ。
 荊州兵は狂った。目に見えて動きが変わっている。
 粗雑であった連携はそのままなのに、一人一人が命すら厭わずに駆けていた。まるで袁家のあの部隊のよう。あの……紅揚羽の張コウ隊のよう。

 彼女が受け持った遊撃と攪乱の仕事は難しい。
 何処が不利かを見極めて、その都度その場を援護しなければならない。
 戦況把握は確かに高いが、朱里と冥琳による指揮の動きでなんとなく何処に動けばいいのか分かるのがありがたかった。
 ただし、目の前の敵の動きは衰えず、敵兵を減らそうとすればするほど孫呉の被害が増えて行くばかり。

 白蓮の騎馬隊には目も呉れず、敵は我さきにと孫呉の紅い鎧を目指し続けるのだ。
 狂った兵士は恐ろしい。それは白蓮が誰よりも知っている。

――どうすればいい? この狂気を覚ますにはどうすれば……

 このまま戦っていては孫呉の被害が大きくなり過ぎる。なにせ、敵は全滅もお構いなしに向かってくるような輩ばかり。こんなモノは通常の戦では測れない。
 きっと朱里も分かっているはず。それを信じて動いて来たが……白蓮は少しばかり堪えていた。

 哀しい兵士達。死ぬ為に戦う兵士達。其処にある想いは間違いなく本物で、彼女が大切にしていた愛しいバカ共を思い出す。

――でも違う。こいつらはあいつらとは全く違う。

 その違いを、白蓮は明確に感じ取る。

 バカ共は誰かの為に怒って抗った。
 目の前の敵は自分の為に怒って戦っていた。

 だからだろう。白蓮に侍る白馬義従は苦々しげに侮蔑の視線を向ける。
 其処にある想いは本物だが……彼らにとっては不快に思う感情でしかない。

「……正面から戦おうなんて思うなよ?」

 第一師団の副隊長に告げる。頷くも、彼は敵兵を射殺さんばかりに睨みつけていた。

「忠義なんて無い。悔しい想いと許せない想いはある。でもそれは全て自分の為。そんなあいつらはお前らとは全く違う。
 孫呉はきっと負けないけど……それでも戦だから数が減る。この狂気を覚ますか、殲滅しない限りこの戦は終わらない」

 考えても自分では出ない答え。ふいと頭に思い浮かぶのは一人の友達だった。

――この程度の相手の狂気くらい覚ませないと、あのバカが溢れさせる狂信は払えない。

 似て非なる在り方。今の敵兵よりも濃密に仕上がった最悪の軍と、いつかは戦わなければならない。
 殲滅しない限り止まることは無い、と自分で行ってみて笑いそうだった。
 間違いなくその部隊は、殺し切らないと止まらない。彼を抑えても彼が勝利を確信していたら止まることは無い。
 最後の一兵に至るまで戦い尽くすこのやり方は、なるほど彼の部隊と似ているのだろう。

 今はいい、と頭を振った。あの化け物部隊のことを考えれば、少しばかり頭が落ち着いてきた。
 胸を張り、弓に矢を番え、彼女は一人二人と敵を殺していく。

「指示を待とう。私達に出来るのはそれくらいだ。それと絶対に小蓮と離れるなよ? 第二との連携重視で掻き回せ」

――ただ、秋斗の部隊相手なら考えなくていいことも、この敵が相手なら考えとかなくちゃな。

 冷静に判断しなければ戦況は引っくり返る。
 此処が一番の正念場。彼女は判断を誤るわけには行かない。
 信頼はある。部隊の者達は任せても仕事を遣り切ってくれる宝だ。ずっと従ってくれている大切な戦友で、あの戦でも頼りにしてきた奴等。
 それなら、と白蓮は一つだけ自己の予測を織り交ぜる。

「副隊長。白馬義従の動きは私が居なくてもある程度出来るだろ? 軍師の指示には全て従え。小蓮のことも任せた。私はちょっとさ、無茶する奴の援護に行って来るよ」

 無茶ばかりする男が友だから、この戦場で無茶をしようとしているモノの考えもなんとなく分かった。
 そしてそういうモノがどういった時に窮地に立たされるかも。

 拳を包んだ副隊長に微笑んで、彼女は白馬を翻した。
 悪辣な敵との戦いは慣れている。その思考を読み解くことも、不可測で何が起きるかも、人の感情は度し難く、命令だけに従えるほど甘くない。
 広い戦場でも熱気が一番高い場所は直ぐに分かった。其処目掛け、彼女は最速で馬を駆けさせた。

――まだ死ぬには早いぞ孫策。刺し違えてでも、なんて考えはやめておけ。お前はまだ此れからの孫呉には必要だ。

 疾く急げと、腹を蹴られた愛馬は大きな嘶きを上げた。

――なぁ、秋斗。孫策を救えたら、お前も救えるかな? この戦の後に孫策と周瑜を説得出来たら、お前を止められるかな? 死に場所ばかりに突っ込みながら、命を果たしてでも自分が望む世界を作ろうとするお前を諦めさせれるかな? そんなこと考える私は、やっぱり甘いか?

 白蓮の心の底にある友の笑顔は、いつだって平穏の世界に置き去りで。
 彼に似た誰かを救い、自分達と手を繋いでくれると示すことでやっと、彼と笑い合えるような気がした。

――私は平穏に暮らすお前と生きたいんだ。くだらないことで笑って、貶して、ふざけ合って……昔みたいにさ。

 命を使い果たす生き様も好きで、その想いは本当に大切だと理解している……が、白蓮はやはり、大切なモノ達が死ぬことなく笑って生きていて欲しいと願う優しい王であった。






 †






 何故、何故、何故、何故なのだ。
 ねねの心中を支配しているのは疑問ばかり。本来なら有り得ない事態が目の前で繰り広げられていた。
 飛龍隊の特性として旧呂布隊のようにはいかずともある程度自身の思うままに動かせることは出来る。
 後悔と怨嗟と憎悪に塗れた狂兵も作り上げた。この戦場は自分の思惑通りに作り上げられたと言っていい。兵士達の士気は上がり、連携は出来ずとも戦のカタチとしては最善。敵が必死であろうとごり押し出来るくらいにはなったはずなのだ。
 周瑜の指揮は確かに上手い。其処に諸葛亮まで加わっているのだから一人では限界がある。公孫賛の遊撃も攪乱も飛び抜けたモノではないが時間が経てば容易く崩されるのは目に見えている。
 しかし狂えば、命果てるまで戦わせられるならまだまだやれる。そう思っていた。
 だというのに、たった一つの誤算が全てを劣勢へと落とした。

――何故なのです……。

 目の前で起こっていることが理解出来ない。
 目の前で繰り広げられる戦いが理解出来ない。
 目の前で飛び散る火花と金属音が理解出来ない。

――何故なのですか……。

 彼女は最強のはず。
 彼女は無敵のはず。
 彼女は天下無双のはず。
 彼女は誰も辿り着けない頂に居るはず。

――何故、恋殿が敵を殺しきれないのですか……

 信じている。知っている。分かっている。ずっとずっと一緒に戦ってきたのだから、彼女のでたらめさなどねねが一番思い知っている。
 それなのに、戦場を住処として生きてきた戦姫と互角の勝負を繰り広げていた。

 いや、互角というには語弊がある。
 恋は傷一つついていない。いつも通り無傷で戦場に居座り、目の前に来る敵からも、たまに飛び出してくる兵士からも、何一つ刃を受けることは無い。
 対して雪蓮は傷だらけ。肩で息をして、どうにか刃を掻い潜りながら受け止め攻勢に出て、殺そうと向かってくる兵士を吹き飛ばす度に致命傷では無いが傷を付けられている。

 誰が見ても雪蓮が圧されていると見る。誰が見ても雪蓮の敗北を思い浮かべる。誰が見ても飛将軍を化け物と言うだろう。
 しかしながら、ねねはその誰とも違う焦りに身を染めていた。

 一振りで十人を弾き飛ばせる飛将軍の方天画戟を、天下無双の暴力を……雪蓮は弾き返しているのだ。
 一騎打ちで殺しきれないなど有り得ないのだ。六人を相手取っても負けない化け物が、たった一人を殺せないことなどあるはずが無い。
 確かに邪魔は入っている。とは言っても、そんなモノは当人にとっては有って無いようなモノ。風が頬を撫でるのと変わりない。
 必殺の袈裟も、目にも留まらぬ程の連撃も、つむじ風を巻き起こす程の切り上げも、全てを雪蓮が受け止め弾き返す。

 方天画戟の攻撃範囲は雪蓮の持っている南海覇王よりもはるかに長い。それでいて質量や重心の関係から威力の程は段違い。
 それをたかだか細剣で受けられるなど、おかしいとしかいいようが無かった。
 傷は与えている。しかし決めきれない。一太刀でも入れば絶命は免れない凶刃がすんでの所で全て外れる。
 敵が上手いのか、とも思ったがそんなはずは無い。ではなんだ、何がおかしい? 考えていけば……おのずと答えは出てくる。

――心を閉ざし感情を失ってから武将との戦闘は初めて。虎牢関と洛陽の二つとも動きが違う。孫策も確かに強くなっているように見えるのですが……恋殿の力が明らかに下がっている。

 実力の高いモノと戦って無かったから読み違えた。兵士なら問題ないそれはどの武将であっても同じではあるが、特に恋は対軍でも機能する飛将軍というのが悪かった。
 今になって初めて知れた事実にねねの心が恐怖に染まる。
 現状はまだいい。しかし此処で周瑜が何かしら動きを投じて来たなら、“孫策の討ち取り”を命じた恋が罠に嵌まる可能性も出てきた。
 心の底からすくみ上るような、足元が崩れ去るかのような、そんな感覚が全身を包みねねの掌は知らぬうちに震えていた。
 呼吸が上手く紡げない。だが、ねねが兵士を操らなければ愛しい人は死んでしまう。

 いつでも、戦場でしてきた事。でも違う。違うのだ。
 背中を安心して任せてくれた恋は此処に居ない。
 大丈夫だと示して、くしゃりと頭を撫でて戦場に向かっていた気高い飛将軍は此処に居ない。
 向けてくれた信頼は一つも無く、命令を下して受諾するだけの関係の今の自分達で、本物の信頼で結ばれている奴等に勝てるのか否か。
 判断を誤れば全滅。飛龍隊であろうと孫呉の兵士には手古摺る。実力的にはまだ足りない。これが英雄の集いし呂布隊であったなら、孫呉の兵士など撃滅出来るというのに。
 命を使えと言えばきっと聞いてくれるだろう。そんな選択肢は愚の骨頂ではあるが。

 今の恋を信じられないから、ねねの心は焦燥と絶望に染まる。
 優勢に見える局所的な状況はただの飾りに思える。孫策が剣を振る度、命を繋ぎ続ける限り、孫呉の兵士達の力はいやに増している。
 アレを殺さねば全滅するかもしれない。殺せばいいのか? ただ殺せばいいなら手段はあるぞ。内に響く悪のケモノがそっと語り掛けるが……ねねの頭は冷静だった。

――飛将軍の刃以外で殺してしまえば孫呉の兵士はこちら側と同じに堕ちる。ねね達を皆殺しにするまで止まらないケモノになるだろう。さすがに同じモノがぶつかり合えば、まだ他にも部隊を残している孫呉側に軍配があがる。

 対してねね達には予備兵力など無く、荊州さえ落とされているから逃げるにも八方ふさがり。
 コレでもう、人形のようになってしまった恋を信じるしかなくなった。
 この時ほど、ねねは己の非力を呪ったことは無い。
 自分には何故武力が無い。自分は何故隣で肩を並べて戦えない。自分は何故、こんな遠くで兵士を指揮するしか出来ないのだ。

――ねねに華雄のような豪勇があれば……

 もう居ない友なら、豪快に笑いながら任せておけと言って退けたはずで、

――ねねに、あの裏切り者のような神速があれば……

 離れて行った神速の将軍なら、不敵な笑みに歓喜を浮かべて任せておけと言って駆けたはずで、

――ねねに……恋殿のような天下無双の力があれば……

 優しくて強くて弱かった彼女だったなら、小さくコクリと頷いて、何も言わずに全てを打ち砕いたはず。
 どれだけ望んでも彼女には力は無い。小賢しく頭は回ろうとも、こと戦場に於いては彼女達の武こそが一番純粋に結果を出せる。

 本当はその為に、彼女はバカ共と絆を繋いで来たはずだった。
 だからだろう。瞬間的にねねは後ろを見た。何か自分に出来ることは無いかと、彼女は自分の力を確かめようとした。
 後ろには、この戦が始まってからずっと付き従ってくれている副隊長と、約半数の飛龍隊の姿。残してある力はまだあった。

「……陳宮様。俺らの仕事はなんですかい?」

 彼もどれだけ危ういか悟っているらしく、声は静かで低くなっていた。落ち着き払ったその声を、ねねは聞いたことがあった。
 虎牢関で、洛陽でも、ついて来てくれた呂布隊と同じく。
 自分の命令の為に命を賭けると言ってくれる、誇り高いバカ共と同じく。

 震えていた手が、ぎゅうと力強く握られた。
 自分の非力を呪う前に、自分に出来ることを全て遣り切らなければならない。
 ねねは飛将軍の為の軍師で、この飛龍隊の頭なのだ。個になると言ったなら……やるべきことは、一つだけ。
 笑った。目を細めて強気に、それでいて悪辣に。舌を出したのは無意識の内。可愛らしい容姿に不敵さが混ざって、もう居ない悪龍のようだった。

「……決まっているのです。楽しいことで、悪いことなのですよ」

 嗚呼、とねねは心の内で涙した。
 こいつらと出会えただけでも、自分にはまだ救いがあったのだと。そして愛しい人にも、まだ救いはあるのだと。





 †





 幼い時から武を磨くことに力を入れ、王たるモノの学を身に着け、広く見聞を広め現況を知り、そうして立っているのがこの居場所。
 お姫様、と言えば聞こえがいい。此処はそんな綺麗な言葉で飾れる場所じゃない。
 幼子が妄想するような豪奢な暮らしや優雅で甘美な日常の風景……そんなモノは一切ありはしない。
 吹き出る赤、鼻につく汚物の匂い、湯気の立つハラワタ、汗と泥に塗れて日々を暮せば、そんなモノは幻想世界の出来事だと言い切れる。

 才能があったから磨いた。自衛出来る程度強ければそれで良かったのかもしれない。
 けれども人の涙を見てしまえば、自分に出来ることを一つでも多くと磨き上げてしまうのも詮無きかな。
 ずっと追いかけていた母親の背中には届いただろうか。今、私はどんな風に見えているだろうか。
 もし天から見ているのなら……ねぇ、母様。私は並べたかな?

 暴風のような戟の数々をどうにか掻い潜り、隙を突いてみても一太刀たりとて当たりもしない。
 目の前で見ればその武の鋭さに感嘆しか湧いて来ない。紅い髪の一筋さえ斬ることが出来ずに、私の身体にだけ切り傷ばかり増えて行く。

 こいつは人の頂点だ。人が極められる限界値の武力を持っている。
 まるで住んでる時間が違うかのように。呂布にとっては、私の剣など止まっているのではないかとすら思えてくる。
 でもなんでかな。
 剣を合わせてみてよく分かった。
 この女は壊れた。
 絶望に堕ちて、哀しみに耐えきれずに、昔のような最強では無くなった。

 あの頃の呂布なら武神と言っても良かっただろう。人生を賭けて鍛え上げてきた武が赤子扱いだったのだから、自信だって無くすというモノだ。
 だけど……今は届く。これは確信。間違いなく今の呂布相手なら私の剣は届くのだ。
 一太刀振られた。豪閃と呼ぶべき鋭さはあれど、その剣戟を私は受けることが出来た。
 乾いた金属音を立て、剣と方天画戟がぶつかってすぐに互いの武器を弾きあう。
 何合こうして打ち合っただろう。それでも私の手に痺れは無くて、十分渡り合える。

 内からにじみ出てくる力があった。
 後ろには傷つけてはならない人達が居る。隣には共に戦ってくれる戦友達が居る。それだけで私は無限に戦える。
 身体に疲れなど感じず、只々研ぎ澄まされた神経が全てを伝えている。
 敵の剣戟の所作も、偶に襲い来る兵士からの不可測の刃も、どれもが手に取るように分かる。

 人形のような昏い瞳は何も映していない。
 ただ命令に従って、ただ目の前の人間を殺して……ただ生きているだけのお人形。
 今の呂布は怖くない。確かに化け物だが、私は怖いと思わない。

 一閃……頬をギリギリ掠めた敵の刃。打ち上げて出来た隙に切り込むも、返しの袈裟で打ち下ろされる。しかしやはり、呂布の刃も弾かれた。

「……“軽いわよ”、呂布」

 ふいに笑えてきた。言っても無駄。でも言わずにはいられない。
 ああ、そうかと気付く。ずっと考えていたけど、やっと終わりを読み取れた。
 こいつの倒し方は……ある。

――打ち合うからダメなんだ。まず速さが違うんだから……

 分の悪い賭けだろう。これで呂布が本気を出していないとかだったら一環の終わりだ。
 そして、もし敵兵が形振り構わず私を殺しに来ても終わりだろう。

 かけ離れた武力から、兵士達はたまにしか私達の一騎打ちに介入してこないけど……万が一もある。
 いや、一騎打ちという方がどうかしてる。人形相手なのだから、これは命を摘み取る戦争のただ中。お綺麗な戦など初めから無い。
 私もまだ甘かったらしい。張コウなら、きっと嬉々として殺しに来る。陳宮は何をするか分からないし、荊州兵も同じく。だから私が死ぬ可能性など、星の数ほどあるのだ。

 後ろを見たくなった。愛しい冥琳の目を見て……無言の信頼を感じたかった。
 弱気になってるのかもしれない。でも出来ると奮い立たせる。
 このままジリ貧で戦い続けたら可愛い兵士達の命が多く散って行くだけだ。

 荊州兵を復讐の狂気から覚ますには大きな衝撃が必要だ。それこそ……天下無双の化け物が敗北するような大きな事実が。
 私がするしかなくて、冥琳は出来ると信じてくれてる。だから大丈夫、大丈夫だ。

 じ……と見据えればその容姿が良く見えた。
 私よりも年若い少女。背丈も私より低くてどこからそんな力が出ているのかも分からないくらい細見。

――出来ることなら本調子のあなたを倒したかったけど……そうも言ってられないのよ。全ての愛する人の為に。

 壊してしまったことは謝らない。私が徐晃と同じ立ち位置に居ても華雄は殺した。袁家に縛られていなくても董卓は失墜させた。謝るのは私と共に戦っている仲間に対する侮辱だ。

 受け入れろとは言わない。私は受け入れられなかったから孫呉の主として戦っているのだから、それを言ってしまえば私は孫呉の王では無くなる。

 不思議と憎しみは無かった。責務か義務か……否、これは私がしたいことで、私の命の意味だから。

「あなたに恨みは無いわ、呂布。でも私には守るモノがあるから……」

 チャキ……と短い金属音。柄をぎゅうと握るとその空気の変化を読んだのか呂布も構えを変えた。軽々と肩に担いだ方天画戟はなかなかどうして似合っていた。
 愛馬が小さく嘶いた。よく私についてきてくれた。でも次で終わりにするから、もう少しだけ耐えてね。
 風の音が止み、兵士達も特に動こうとはせずに私達に視線を投げるだけ。ゴクリと生唾を呑む音が幾重。

「勝たせて貰うわよっ」

 叫びと共に馬の腹を蹴った。同時に……呂布も赤兎馬と共に駆け出した。
 一太刀、一太刀だけでいい。それさえ凌げば持ち込める。
 そこからが私と呂布の最後の戦いになる。

 接敵は数瞬の間を置いて直ぐに。
 煌く凶刃が唸りを上げて首に突き付けられた。

 たった一瞬の交差に死が降りかかる。
 存外、あっけないモノだなとおかしな思考を頭に浮かべて、口元は楽しさからか笑みに変わっていた。







 私の“勘”は、まだ鈍っていなかったらしい。





 †





 ギシ……ギシ……と骨が軋むような音を上げ、二人の乙女は動きをピタリと止めていた。
 一閃の疾さはやはり恋に分があり、初手は雪蓮にとって不利であった。
 しかし、凡そ人のモノとは思えぬ反応速度で……いや、きっと持前の勘で当たりを付けていたのだろう……それを避けた雪蓮は斜めに逆袈裟に剣を振るった。
 化け物とさえ言わしめる恋の反撃は人の出せる限界値。完璧なカウンターのはずが、雪蓮の剣を方天画戟で受け止めたのだ。

 互いの馬は頭をぶつけ、それでもと主を支え続けていた。
 力比べをしているようにも見える必殺の距離。どちらかが動けば均衡を崩せるが……二人共動こうとしなかった。

 剣と方天画戟が震えていた。顔と顔を突き合わせて互いの瞳を覗き込む。

 天下無双の瞳は虚無に支配されていた。
 孫呉の虎の瞳は人への想念で溢れていた。

「……」
「ねぇ、呂布?」

 ぽつり。雪蓮の唇から零れた呟き。届いているのか、届くのかすら分からない。
 人形相手には無駄だと、雪蓮は思った。それでも楽しくて、何故か哀しかったから語り掛けた。

「どうして私があなたの剣を受けられるか、分かる?」

 ギリギリと、拮抗したままの力が強くなった気がした。
 まだ余力があったのかと雪蓮は驚くも、自分がそれを抑えられることも驚きだった。
 心に歓喜と、感謝を浮かべた。

「……私達の剣にはね、いろんなモノが乗ってるの。自分の夢だったり、他人への想いだったり、そりゃ復讐だって想いの一つよ? 憎しみは人を強くするってのはあながち間違いじゃないんだから」

 反応が返ってくることは無かった。
 周りが慌ただしくざわめいていたが、そんなモノに構っている暇は無い。虚無を映すだけの瞳の奥底を、雪蓮は真っ直ぐに覗き込んだまま。

「想いの強さによって剣は変わる。人の力って鍛錬とか訓練とかだけで強まるわけじゃない。昔のあなたの剣は……本当に重かったわよ」

 あの時の剣なら耐えられなかった。拮抗することなんて絶対に出来なかった。

「だけど今のあなたの剣には重さが無い。戦好きのバカでももうちょっとはマシな剣を振るでしょうね。それほど、あなたの剣は軽すぎる」

 ググ……と恋がさらに力を込めた。しかし、それでも全く雪蓮の方に動くことは無かった。

「長い年月想って来たわ。生まれてからこれまで、ずっとこの大好きな大地の為を想って剣を持って来た。皆の平穏を守れる力を、皆の絶望を切り拓く剣を、それが私だけの想いのカタチ」

 僅かに動く刃の位置。鍔迫り合いで膠着したままのはずが、他の追随を許さぬはずの飛将軍の方へと押し込まれた。

「ねぇ、呂布。あなたは何の為に戦ってた?」

 憐みも同情も無い。自分が行った結果の絶望で変わった英傑の武に、そんな感情を持つことは侮辱にあたる。
 出来ることなら聞いてみたかったから、雪蓮は尋ねてみた。

「戦好きなだけのバカだったとしたらもうちょっとは重かったかもしれない」

 戦うことが好きな人には、自分の楽しみの為という想いがある。

「主の為にと戦う忠義モノならそれよりももっと重かったかもしれない」

 世にありふれている武人達の在り方なら、其処に大きな力と想いが宿っていたことだろう。

「でも……違うわよね? あなたの本当の力は、あの時の力はその程度じゃなかった」

 化け物と呼ぶに相応しくとも、そのモノは人としての力を持っていた。人中の呂布とまで言わしめたその武は……どのような想いを乗せていたのか。

――呂布本来の武力は、ただ暴れまわるだけの下らない力なんかではなくて、純粋で澱みの無い人の力。それはきっと……

「……大切な人を守りたいって想いが、あなたの剣には宿っていたんでしょう?」

 自分と同じく、とは言わずもがな。
 子を守る母のように、家族を守る父のように。それを無くした飛将軍に、恐怖など感じるわけが無い。

 徐々に、徐々に雪蓮の剣が恋の方へと傾いていく。
 ギリギリと音を立てて近づくその刃を見て、人形に堕ちた恋は初めて目を見開いた。
 押し返そうともがいても、圧し戻そうと足掻いても、どれだけの力を込めてもその刃は戻る事がなかった。

「――――――っ」

 歓声が後ろから上がる。激が後ろから聞こえる。供に戦ってきた兵士達が、雪蓮へと激励の叫びを上げた。
 恋の後ろには誰も居ない。最強が圧されているという有り得ない事態に怯え、戸惑い、声を掛けることすら出来ずに居た。

 笑みさえ浮かべた雪蓮に、初めて恐怖が滲んだ恋の唇が動いた。

「……な、んで」

 か細い声が宙に溶ける。
 聞こえたのは雪蓮だけ。子供のような疑問に、雪蓮は真っ直ぐ目を見つめて答えを返した。

「私の剣には……失った人たちと、今生きる人たちの想いが乗ってるからよ」

 今尚、胸に生き続ける英雄達と、平穏を求め続ける民の声。彼女の力はその為だけに。
 理解出来ないというように、恋は小さく首を振った。瞳にはまだ、光が戻ることは無かった。
 真正面から合わされた蒼の瞳に炎が燃える。

「人形が戦場に立つなっ! 此処は今を生きる人間達が形作る夢の階だ! 絶望したなら自分の意思で殺しに来い! それが出来なかったお前に、それを為している私が負けるはず無いだろうが!」

 ズシリ、と馬の蹄が地に埋まる。
 増した重圧を受け止めて、恋の体勢が遂に崩れた。
 両の手で方天画戟を掲げて雪蓮の刃をどうにか耐える。それでも、その重さに耐えきれるかも時間の問題。
 赤兎馬が嘶いた。か細く、主を求めるような寂しげな嘶き。乗せているのはカタチは同じでも、きっと違うと赤兎馬も分かっている。

 あと少し、あと少しで倒せる。
 冷や汗を流しながら耐え続ける恋の手も徐々に下がっていた。
 首筋に、顔に、胸に、肩に……何処かしらを切り裂く未来が見えてきた。
 慢心は無く、油断も無い。このまま圧せると……雪蓮は確信していた。

 ただ……他にも勘が働いた。否、働いてしまった。研ぎ澄まし過ぎた勘が、不可測の未来を捉えてしまった。
 力は変わらず推し続ける。
 このまま振り切れば終わりなのだ。

 しかし……遠くで、弓の弦が引かれた気がした。
 先ほどから予測していた未来。これがお綺麗な一騎打ちでは無いのなら……他からの攻撃も有り得るだろう。

 穏やかな表情で雪蓮はその方を見た。
 憎しみの炎を宿した兵士が一人、雪蓮に弓を向けていた。
 ああ、なんだ……と納得と安心が湧く。

 所詮やったらやり返される。正しく、その兵士は絶望した後に自分を殺しに来たのだ。
 なら、自分を殺してもいい。殺されてなんかやらないと腹を決めていたが……

――ごめん……冥琳。ちょっと無理だったみたい。

 自分の限界を超えた上で、受け止めきれる余力など何処にも無く。
 それでいいと受け止めている自分を、雪蓮はただ不思議に思った。
 駆けだして来る兵士が一人、二人。殺させまいとする荊州兵と、それを止めようとする孫呉の兵。
 誰も雪蓮を狙う弓兵には気付いていない。この時だけを、きっとその兵は待っていたのだろう。鋭すぎる勘を持つ雪蓮だから気付けたようだった。
 否、もう幾人、未来を予測したモノも居たが……動いたモノは少しだけ。

――せめて暴力を振りまく人形だけは倒しておくから、後はよろしくね。

 風が大きく薙ぐ前に、弓の弦が弾かれた。

「雪蓮――――――っ」
「恋殿――――――っ」

 同時に声が二つ上がった。
 愛しいモノを呼ぶ叫びの声は遠く近く。
 冬の空に響き渡る雁の声のような切なさを孕んでいた。

――親しきモノに、愛しきモノに……久遠の平穏が齎されんことを。

 願いを込めて剣を振るう。矛盾の果てに辿り着いた場所と知っていても、彼女は満足だった。

――もはや儚い夢を見ることなく、世の諸行無常に酔いしれることもなし。

 肉を切り裂く音と、肉に矢が突き立つ音が戦場に一つずつ。

 同時に戦場の音が、全て消え失せた。
 開けた空に風が吹く。 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

すごくキリがよかったので分けてしまいました。
ごめんなさい。焦らしてるわけじゃないんです。なんか書き始めたら長くなってしまって……申し訳なし。


解説を少々

キングダム好きなのでこんな感じに。原作でも鈴々ちゃんの武力がやばい事になった瞬間があったので、恋姫では想いの強さで武力が変わるなんてザラなんじゃないかなと思いました。

呉√の挿入歌聞きながら書いてました。

次こそ終わらせたい。
ではまた 
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