黒魔術師松本沙耶香 仮面篇
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9部分:第九章
第九章
すると百合の花びらが散った。そうしてそれはすぐに何羽かの黒い蝶達になったのだった。
蝶達はスタジアムの周りを舞う。暫くして蝶達は沙耶香の前に集まりその腕の中に消えた。沙耶香はその蝶達を受け止めながら呟くのだった。
「大体はわかったわ」
うっすらと笑って呟く。そうして蝶達を収め終えてそのままその場を後にするのであった。
沙耶香はその夜はすぐには帰らなかった。まずは歌劇場に向かうのだった。
メトロポリタン歌劇場だ。ニューヨークが誇るアメリカで、いや世界で最も有名な歌劇場の一つである。シャガールの絵画でも知られている。
外観は近代的でありミラノのスカラ座やウィーン国立歌劇場等とは全く違う。ガラスからシャガールの絵画が見える。沙耶香はその絵画を見ながらまずは中に入るのだった。
「ロイヤルボックスを予約していたわね」
歌劇場のボーイに対して声をかける。
「松本沙耶香りという者だけれど」
「日本から来られた方ですね」
「ええ」
にこりと笑ってボーイに答える。見れば白人の背の高い青年だ。その隣には黒人の青年もいる。オペラであっても黒人の関係者が多いのもまたアメリカであると言えた。メトロポリタン歌劇場では黒人のプリマ=ドンナが戦後続いている。レオンタイン=プライスはそのはしりでありオペラ史にその名を残す伝説的歌手の一人である。
「その通りよ」
「はい、それでしたら予約があります」
ボーイは礼儀正しく言葉を返してきた。礼儀に無頓着だとよく言われているアメリカであるが流石にメトロポリタンともなると違うというわけだ。
「どうぞ。こちらです」
「わかったわ。それじゃあ」
ボーイに案内されてボックスに入る。その下では無数の観客席がある。この劇場はかなり巨大なことでも有名であり観客席も多い。なお歌手にはかなりの音量が要求されるのは言うまでもない。そうした意味で歌うのが難しい劇場だともされているのだ。
「今日はジミーだったわね」
席に座った沙耶香は後ろにいるボーイに尋ねた。
「指揮者は」
「はい、そうです」
ボーイはすぐに答えてきた。この劇場の音楽監督であり経営以外の殆どを取り仕切っているのがジェームス=レヴァインである。眼鏡の巨漢でありそのユーモアのある人柄が親しまれている。
「そう、なら楽しみね」
「今日はジミーの得意の作品ですし」
「あら、それは何かしら」
沙耶香はその言葉にはあえてとぼけて笑ってみせるのだった。
「ジミーはレパートリーが多いけれど」
それでも有名な指揮者である。メトロポリタン歌劇場は所謂大レパートリー主義であり一回のシーズンで公演される演目の数もかなり多いのである。派手好きで量が多いのが好きなアメリカらしいと言えばらしい。やはりアメリカのオペラハウスなのである。
「その中の。何なのかしら」
「ロッシーニです」
イタリア十九世紀前半の指揮者だ。ベルカントオペラの大家であり様々な作品を作曲している。また大変な美食家としても知られている。
「ロッシーニ!?じゃあ演目は」
「セビーリアの理髪師です」
「いいわね」
演目を聞いた沙耶香の目が楽しげに細まる。
「ジミーが一番好きな作品ね、ロッシーニだと」
「そうですね」
ロッシーニの最大の傑作の一つである。モーツァルトの傑作フィガロの結婚の前のストーリーに当たる作品であり楽しい喜劇だ。彼が作曲する前にパイジェッロも作曲しており初演の時には騒ぎにもなっている。
「では。今から楽しみにしておくわ」
「有り難うございます」
「それでね」
さらに言うのだった。
「ワインが欲しいわね」
「ワインは何を」
「お国のワインを」
妖しい笑みを作って述べた。
「お国といいますと」
「決まってるじゃない。アメリカのワインよ」
実はアメリカもワインの産地なのだ。カルフォルニアワインがそうである。これが意外といけるのだ。ワインは欧州だけではないのだ。
「カルフォルニアのね」
「お客様。かなり洒落た方ですね」
ボーイは沙耶香がそのアメリカのワインを頼んだのを見て顔を緩ませてきた。
「あら、それは何故」
「アメリカのワインを頼まれるからですよ」
「それが何故洒落ているというのかしら」
「日本の方はどうも」
ここで言葉を濁すのだった。
「何かというとフランスやイタリアのワインを好まれるので。我が国のワインは」
「確かにね」
これは沙耶香も知っていた。やはりフランスやイタリアのワインは日本ではかなりの人気だ。実際に美味い。あとはドイツのワインだ。これもいいと評判だ。
「あまり一般ではないかもね」
「そこで頼まれるとは。これまた」
「どの国のワインもいいものよ」
沙耶香は笑ったまままた述べた。
「アメリカのワインもね。味わいがいがあるわ」
「有り難い御言葉です」
「ただ。欲を言えば」
「はい?」
ここで言葉が微妙になる。沙耶香はまた言うのだった。
「もう一つ欲しいわね」
「もう一つですか」
「ワインに必要なのは」
笑ったまま言葉を続ける。
「何かしら」
「それは様々ですが最もオーソドックスなのは」
「チーズね」
それであった。ワインに最も合うものの一つと言えばやはりそれであった。
「いいのはあるかしら」
「無論です」
ボーイは笑顔で答える。
「カンサスのいいものが」
「ではそれをもらうわ」
話はこれで決まった。奇麗なまでに。
「いいかしら、それで」
「是非共」
ボーイの言葉にも屈託がない。
「どうぞお召し上がり下さい」
「ワインは二本ね」
沙耶香はこう付け加えてきた。
「二本ですか」
「そう、一本は私の為」
やはりこれは譲れない。
「そしてもう一本は」
「もう一本は!?」
「それは言わないでおくわ」
だがそれはあえて隠すのだった。
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