黒魔術師松本沙耶香 仮面篇
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19部分:第十九章
第十九章
「今日も一泊だったわね」
「はい」
出口でホテルマンが彼女に答える。
「その予定です」
「そう。それじゃあ今日の夜食はね」
「何を」
「シーフードがいいわ」
シーフードとはまた別のものを見るような笑みになっていた。
「今日はね」
「畏まりました。それではワインは」
「スパークリングがいいわ」
これもまた沙耶香の好みであった。
「御願いね」
「はい。それでは」
ホテルマンは沙耶香のその言葉に頷いて答えた。
「そのように手配致します」
「御願いね。それじゃあ」
「外出されるのですね」
「違ったニューヨークを楽しんでみたいから」
妖しい笑みになった。その笑みで述べてきた。
「それでよ。それじゃあ」
「行ってらっしゃいませ」
ホテルマンは沙耶香に言葉を贈りそこで扉を開けた。沙耶香はその扉を潜り今度は右手に見えるチェス盤を見るのであった。見れば黒が白を攻めていた。
「もう少しね」
その黒の状況を見て呟く。
「チェックメイトは。さて」
そのうえで左手を見る。そこにはすみれが咲いていた。
紫のささやかなすみれであった。沙耶香はそれを見てまた呟くのだった。
「すみれもいいものね。じゃあ」
そこに女性を見ていた。
「今朝は。すみれの様な娘がいいかしら」
そう呟いてホテルを後にした。そうして青い渦を出してその中に入る。そうして向かうのはやはりタリータウンの街であった。ニューヨークとは思えないのどかな光景が続く。沙耶香はその中の赤煉瓦のミュージックホールの前に来た。そこで通行人に尋ねた。通行人は黒人の青年であった。トレーニングウェアを着てランニングに精を出していた。
「少しいいかしら」
「あれ、あんた」
その青年は沙耶香の顔を見て少し意外そうな顔をして声をあげた。
「アジア人か」
「そうだけれど」
「へえ、日本人か中国人だね」
「そのどちらだと思うかしら」
「日本人だろ」
青年は笑いながら沙耶香に言ってきた。ランニングを中断させて。
「ルームメイトが日本人なんだけれどな。そっくりなんだ」
「美人のルームメイトみたいね」
沙耶香はその言葉を聞いて目を細めさせた。
「それはまた」
「といっても男なんだけれどね」
青年は肩をすくめて苦笑いを浮かべてみせた。
「生憎と」
「男でもいいと思うけれど」
沙耶香は目を細めさせたまままた彼に述べるのだった。
「そういう趣味はないのね」
「俺はノーマルなんだ」
そういうことであった。
「男は遠慮する主義なんだ。向こうもね」
「あら、面白くない話ね」
「日本にはそういう話が多いらしいけれどね」
「その通りよ」
それは笑顔で認めるのだった。
「我が国では昔から同性愛で捕まった人間はいないのよ」
「それはまた凄いね」
これがキリスト教圏の者には驚くべきことなのだ。言うまでもなくキリスト教圏においては同性愛は恐るべき悪徳であるからだ。オスカー=ワイルドもこれで捕まっている。なおワイルドは十九世紀の人間だ。十九世紀においても欧州では同性愛は逮捕され裁判にかけられるべき大罪であったのだ。これを聞いて首を傾げる日本人は多い。好みでなくともだ。
「恐ろしい国だよ、日本は」
「その恐ろしい日本人が聞きたいことだけれど」
「一緒にこのミュージックホールに入るとか?」
青年は二人の背景にあるその赤褐色のミュージックホールを親指で指し示した。見ればかなり古い建築であった。
「ここでかしら」
「この街の名物さ」
青年は笑って沙耶香に説明した。
「十九世紀からあるな。どうだい?」
「悪いけれどそれは遠慮しておくわ」
沙耶香はまた目を細めさせて彼に述べた。
「それよりも朝食を」
「おや、それは残念」
青年はそれを聞いてまた肩をすくめさせた。
「俺は帰ってからルームメイトとサンドイッチの予定だからね。一緒になれそうもないな」
「そうみたいね。それでだけれど」
「朝食ならあそこがいいぜ」
青年はすぐにすぐ側にあるハンバーガーショップを指差した。如何にもアメリカといった感じのやたらと赤や黄色が目立つ派手な外観の店であった。
「サンドイッチもあるしな」
「美味しいのかしら」
「日本人が味わってもな」
あえてこう言ってみせてきた。
「満足できると思うぜ。少なくとも俺のルームメイトはそうさ」
「そう。じゃあ信用していいかしら」
「俺は信用できる男で有名なんだ」
アメリカンジョークを次々と言うが。それでも彼が裏のない信用できる青年であるということは沙耶香にもよくわかった。
「俺もあそこは好きだぜ」
「そう。じゃあ頂くわ」
その話を聞いて決めた。
「サンドイッチでも」
「ああ。じゃあな、日本人のお姉さん」
青年はそこまで言うとまたランニングの姿勢に入った。
「サンドイッチを楽しんでくれよ」
「ええ。機会があればまた」
青年に挨拶を告げて懐から何かを取り出した。
「会いましょう。これはその時までのチケットに」
「おっ、悪いね」
沙耶香はその何かを青年に投げ渡した。それは赤いダリアであった。
「こんなもの貰えるなんて。俺も大した色男だね」
「美人に何かを教えるというのはそれだけで色男よ」
そう青年に告げて媚惑的な微笑を浮かべるのであった。
「だからよ。贈り物と考えてくれてもいいわ」
「わかったよ。じゃあな」
「ええ、また」
青年に別れを告げてそのハンバーガーショップでサンドイッチを注文して食べる。青年の言葉通りそれは確かに美味かった。コーヒーも絶品であった。
それを食べ終えてから店を出る。その足で向かうのは教会であった。
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