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左慈

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1部分:第一章


第一章

                   左慈
 左慈は中国漢代末期にいた人物である。字を元放といいロコウという場所に生まれた。歳をとるにつれ学問と占術を学びその占いで以って漢の命運が衰えてきているのを知った。それを見て彼は考えた。
「これからは学問で身を立てても仕方がないな。折角出世しても争いに巻き込まれてはかなわん」
 そう思った彼は学問を止め仙人になろうと決意した。そして山の中で修業を積み遂に仙人となることができた。時代は彼が占った通り漢は衰え戦乱の世となっていた。中国は至る所に群雄が割拠し、互いに覇を競うようになった。それは江南においても同じであった。
 この時江南を治めていたのは孫策であった。彼は父孫堅が戦死した後袁術の元に身を寄せていたが一念発起し、江南に一大勢力を築いていたのである。若くして勢力を築いた彼を人々はかって江南を基盤として漢の高祖と天下を争った西楚の覇王項羽に例えて『小覇王』と呼んだ。彼は若くしてひとかどの英雄となっていたのである。
 彼は才気溢れる人物であった。そして若さ故であろうか好奇心の強い男であった。彼は左慈の名を聞くとその好奇心がもたげてくるのを感じた。そして彼を呼ぶことにしたのだ。
 やがて彼の屋敷に一人の老人がやって来た。見れば片目が悪く、片足を引き摺り、藤の冠に青い衣を着ている。孫策は彼を見て問うた。孫策は彼を屋敷の謁見の間で迎えた。家臣を左右に従え椅子に座っていた。見れば英気溢れる端整な顔立ちをしている。体格も立派でまさに小覇王の名に相応しい。左慈とは対象的であった。
「そなたが左慈か」
「はい」
 左慈は頭を垂れてそれに答えた。
「私が左慈でございます」
「そうか」 
 孫策はその挨拶を受けて頷いた。
「聞くところによるとそなたは仙人だそうだな」
「はい」
 彼は答えた。
「仙人は仙術を使い不老不死だと聞く。それに間違いはないな」
「呉侯の仰る通りです」
 彼は頷いてそう答えた。孫策はこの時呉侯に任じられていたのである。漢は衰えたりとはいえまだ諸侯にある程度の影響を行使できる存在であったのだ。
「私は主に変化の術を使います」
「ほう」
 孫策はそれを聞いて眉をあげた。
「それでは早速それを見せてもらいたいのだが」
「畏まりました」
 左慈はそれに応えた。すると両手をかざし何やら唱えはじめた。そして牛になった。
「牛でございます」
 牛が話した。聞いてみればそれは左慈の声であった。
「他にも何かお店見せしましょうか」
「うむ、やってみよ」
 孫策は鷹揚に答えた。だが彼はこの時心の中でその態度とは全く別の感情が芽生えてきているのを感じていた。それは彼の様な立場にいる者ならば当然のことであった。
「それでは」
 左慈はそれを知ってか知らずかまた何やら唱えた。そして今度は鷲となった。
「鳥にも化けられるのか」
「はい。この通り飛ぶこともできます」
 彼はそう言うと飛びはじめた。そして部屋の中を飛び回った。バサバサと翼を動かす音までしていた。
「まだ何かありますか」
「そうだな」
 孫策は問われて考え込んだ。
「鳥や獣には化けられるのはわかった」
「はい」
「今度は別のものに化けてくれるか。そうだな」
 彼は考えながら言った。
「花に化けられるか。青い花にだ」
「青い花ですか」
「そうだ。できるか」
 孫策はニヤリと笑って彼に問うた。青い花は滅多にないものだ。見たこともない者も多い程であった。
「できなければ私としても考えがある」
 彼はここで案に左慈を脅迫にかかった。
「致し方ないことだがな」
「左様ですか」
「うむ。だができるのであれば問題はない」
 彼は鷲に化けたまま床に降りている左慈にそう言った。
「どうだ。できるか」
「容易いことでございます」
 彼はそう言うとまた何やら唱えて変身した。そして青い花になった。
「おお」
 それを見て孫策だけでなく家臣達も思わず声をあげた。彼等の中にも青い花を見たことのない者は多かったのである。そしてその花は一目見たら忘れられない程美しい青であった。空よりも鮮やかな青であった。
「これで宜しいでしょうか」
「うむ」
 孫策は自身の心を隠しながらそれに応えた。表面ではにこやかには笑っていた。
「御苦労、見事であった」
「有り難うございます」
 そして左慈は元の姿に戻った。そこにいるのは先程の足の悪い小柄な老人であった。孫策はその老人を見て内心危惧を覚えずにはいられなかった。
 彼は左慈に褒美を与え下がらせると家臣のうち最も信頼する張昭と張鉱、そして周瑜の三人を自分の部屋に呼んだ。彼等は孫策の家臣の中でもとりわけ知識、知恵に長けた者達であった。
「さて」
 孫策は三人を部屋に呼ぶと彼等に正対した。
「先程のあの左慈という男だが」
「はい」
 三人はそれを問われて応えた。
「率直に聞きたい。どう思うか」
「そうですな」
 まずは張昭がそれに答えた。
「あやしげな男だと思います」
「ふむ」
「ただ仙人であるのでここは何もなされぬのが宜しいかと」
「そなたはそう思うか」
「はい」
 彼は畏まってそう答えた。
「そうか。確かにそういう方法もあるが」
「私もそう考えますが」
 張鉱も張昭と同じ考えであった。
「そなたもか」
「はい。無闇に何かをしては後々祟り等がありましょう。それを考えますと」
「何もするべきではないというのだな」
「はい」
「ううむ」
 だが孫策はそれには賛成していないようであった。彼は元々仙人といった存在を好まなかったのだ。彼にとってそうした存在は世を惑わすものでしかなかった。後に彼は干吉という仙人を殺しその祟りによって死んでいる。そうした考えはこの時から変わりはなかったのである。
「だがな。ああした者を呉に置いておくのは」
「ですが下手に手を下されても殿の権威を失墜させるかと」
「仙人という存在はやはり民にとって尊敬の対象ですし」
「そうだな。さて、どうするか」
「それならば密かに殺してはどうでしょうか」
 ここで高く美しい声がした。孫策達がそちらに顔を向けるとそこには女性と見紛うばかりの美しい顔立ちの青年が立っていた。服もみらびやかなものでその容姿に合っていた。彼が周瑜であった。
「周瑜殿」
 張昭と張鉱は彼の名を呼んだ。周瑜はそれを受けて少し頭を下げた。
「確かに下手に殺しては民への影響が心配されます」
「そう、それが問題ですぞ」
「祟りもありますが」
「祟りはこの際無視しても宜しいでしょう。要は殿が気をしっかりと持たれればよいことです」
「わしがか」
「はい。幸い今殿は心も体も充実しておられます。例え祟りがあろうとも今の殿なら大丈夫です」
「ふむ」
 これは当たっていた。孫策が後に干吉の祟りで死んだのは暗殺を受けその際傷を負っていたからだ。それが回復していない時に受けたからであった。身体が弱っていたのである。
「それでは殺しても問題はないな」
「私はそう思います」
「だが問題は方法か。さて」
 孫策は考え込んだ。そこで張昭が言った。
「それなら左慈を誘い出してはどうでしょうか」
「誘い出すのか」
「はい。殿が外出されて。そしてその時に」
 張昭もここまで来れば止めるつもりはなかった。やるからには成功させなければならない。そう思い主にそう提案したのであった。
「成程な。問題は場所か」
「それなら私がいい場所を知っております」
 張鉱がここで言った。彼も張昭と同じ考えであった。
「おあつらえ向きの庭があります。ここの外れの」
「おお、あそこか」
 孫策はそれを聞いて笑顔で頷いた。
「確かにあそこならいいな。人もおらぬ」
「それに死体は江に放り込むことができますし。どうでしょうか」
「よし、ではそれでいこう」
 彼は決意した。そしてあらためて三人に対して言った。
「明日だ。それでよいな」
「はっ」
 三人はそれを受けて頭を垂れた。こうして孫策は左慈を殺すことにした。翌日の昼彼は左慈をその庭に案内した。孫策も一緒であった。
「ほう、これは」
 左慈は一本の椿の木を見て目を細めた。
「素晴らしい椿ですな」
「ははは、そうでしょう」
 孫策は表面上はにこやかに笑ってそれに応えた。だが心の中では違っていた。
(さて、どうするか)
 彼をどう殺すかだけを考えていた。後ろには馬を繋いでいる。ちらりとそちらを見た。
(使えるな)
 馬を使うことにした。それならば例え逃げても追いつくことができる。だがそれは必要ないかと思った。左慈は足が悪いのである。だが彼はここで思い直した。
(用心には用心を重ねるか)
 そういうことであった。彼はことには万全を期すつもりであったのだ。見れば左慈はまだ椿を見ていた。雪の様に白い椿であった。
「綺麗なものですな」
「この庭で最もよい椿です」
 孫策はそう受け答えた。ここで左慈はぽつりと言った。
「私は白い椿が好きでして」
「ほう」
「赤いのはどうも。血を思い出しますからね」
「血、ですか」
「はい」
 左慈は何も気付かないような顔でそれに答えた。
「孫策様もそうではありませんか」
「いえ、別に」
 そう断る。その時心の中である疑念が浮かんでいた。まさか気付いているのでは。だがそれでも今更止めるつもりもなかった。彼はあらためて左慈に対して言った。
「あちらはどうですか」
「あちらですか」
「はい。江でも見て。ここから見える江は見事なものですぞ」
「それでは御言葉に甘えまして」
 彼はそれを受けて椿から離れて江に向かった。孫策はそれを好機と見た。
(よし)
 彼は馬に飛び乗った。そして腰の剣を抜く。それで彼を一思いに切るだけであった。見れば左慈は杖をついてゆっくりと歩いていた。間違いなく殺せると思った。
「行け」
 孫策は馬を走らせた。そして左慈を追った。だがここで異変が起こった。
「むっ!?」
 何と左慈に追いつくことができないのである。彼は馬に乗り左慈は歩いているというのに。彼は最初それがわからなかった。
「これはどういうことだ!?」
 不思議に思った彼は馬に鞭を入れた。馬はそれを受け脚を速めた。だがそれでも左慈に追いつくことはできない。
「孫策様」
 ここで左慈は振り向いて彼に声をかけた。
「どうなされたのですか」
「いや」
 孫策は彼の顔を見て慌てた。気付かれている、と確信した。
「今そちらにお伺いしようとしているのですが」
「左様ですか」
 左慈はにこやかに笑ってそれに応えた。
「それではおいで下さいませ」
「は、はい」
 だが左慈のもとに辿り着くことはできなかった。彼はさらに馬を走らせてそこに向かう。だがそれでも行くことはできなかった。流石にこれには参った。
「左慈殿」
「はい」
 左慈はやはりにこやかに笑って彼に応えた。
「そちらに行っても宜しいでしょうか」
「どうぞ」
 彼がそう言うと馬は一瞬にしてその側にまで来た。馬も孫策ももう肩で息をしていた。
「御苦労様です」
 やはり左慈は笑っていた。孫策にはその笑みが何によるものかよくわかかっていた。そして彼は諦めた。それから彼を普通にもてなした。そして彼を快く送り出した。だがその顔は始終不機嫌なままであった。
「やはり仙人は好きにはなれない」
 それが彼の率直な感想であった。そしてそれは終生変わらなかった。それが為に命を落としてしまうことは知らなかった。


 
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