黄花一輪
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2部分:第二章
第二章
田縦はその粗末な身なりの男を指し示して嚴仲子に紹介した。
「聶政殿です」
「むうっ」
嚴仲子はまずは彼の腕を見た。長く、そしてたくましい腕であった。それを見ると如何にも剣を巧みに使えそうであった。
屈んでいるその身体は豹の様である。顔も精悍で確かに犬や豚を殺しているような男には見えはしない。まさしく剣客といった趣の男であった。彼にもそれはわかった。
「聶政殿」
田縦は聶政に声をかけた。
「おや、貴方でしたか」
聶政は声を聞いて顔をあげてきた。その目の光も実に強く鋭いものであった。
「今日は何の御用件で」
「実は貴方に御会いしたいという方がおられまして」
田縦は述べた。聶政はそれを聞いて怪訝な顔をした。
「私なぞに一体どなたが」
「こちらの方です」
「はじめまして」
嚴仲子は聶政に挨拶をした。これが二人の出会いのはじまりであった。
嚴仲子はすぐに彼が只ならぬ剣技の持ち主だとわかった。そのうえで見定めたのだ。
「彼しかいない」
と。そのうえで彼との交遊をはじめた。
最初は二人だけの交遊であった。だが次第にそれは縁者にも及び遂には聶政の年老いた母にまで杯を献じ、大金を差し出す程にまでなった。あまりものことに聶政は驚きを隠せなかった。それですぐに嚴仲子のところに向かって尋ねた。二人は嚴仲子の部屋で向かい合って話をはじめた。窓一つない部屋で蝋燭の灯りだけを頼りに話をしていた。暗い光の中に二人の姿だけが浮かび上がっている。
「これは一体どういうことでありましょうか」
「何、お付き合いですから」
嚴仲子はにこりと笑ってそう述べた。
「当然ではないでしょうか」
「いえ、私にはそうは思えません」
聶政は怪訝な顔をしてそう述べた。
「杯だけでなく大金まで母に送るとは。只事ではありません」
「それはないですが」
「いえ、それでもです」
彼は言う。
「これ程のものは受け取るわけにはいきません」
「まあそう仰らずに」
「それでもです」
彼は勧められても拒んだ。
「私は異郷でこうして貧しい生活を送ってはいますが年老いた母を充分に養っております。姉は嫁ぎ、今は母子二人で静かに暮らしており不自由はしておりません。ですからそれ程のものを受け取ることもないのです」
「受け取って頂けないのですか?」
「はい」
そしてきっぱりと言った。
「ですから。お下げ下さい」
「わかりました。それでは」
ここまで言われては仕方がない。嚴仲子は引き下がることにした。聶政はそれを見たうえであらためて彼に尋ねた。
「ところで」
「はい」
顔を上げて見合わせる。今二人の目線が合った。
「何かあるのでしょうか」
「何かとは」
「貴方のことはお聞きしております」
聶政は言った。
「衛の方で韓において宰相殿と仲違いされておられることは」
「御存知でしたか」
「憚りながら市井の噂で」
彼は答えた。
「聞いております。若しや」
「そこまでわかっておられるのなら隠すのは失礼にあたりますな」
この失礼という言葉に聶政は密かに感じるものがあった。だがそれは今は口には出さず嚴仲子を見ていた。
「それではお話しましょう」
嚴仲子は静かに己のことを述べはじめた。
「その通りです。私はあの男と争っております」
「やはり」
「それが為にあの男とは互いに命を狙い合う仲。それで貴殿に御会いしたのですが。そういうことでしたら」
「お待ち下さい」
聶政は立ち上がり去ろうとする嚴仲子を呼び止めた。
「どうしても為されたいのですね」
「無論」
嚴仲子は答えた。
「その為に今こうして生き恥を晒しているのですから」
「わかりました」
そこまで聞いたうえで頷いた。それから述べた。
「では時が来るまでお待ち下さい」
「時が」
「はい、その時が来ましたら」
聶政は言う。
「私も思うところがありますので」
「左様ですか」
「はい」
言葉は少なかったが確かな話であった。それだけで充分であった。
「お話しましょう」
「わかりました。それでは」
「はい」
話は終わった。聶政が立ち上がった。
「これで」
「いや、お待ち下さい」
ここで嚴仲子は聶政を呼び止めた。
「何か」
「折角お会いしたのです。今日は」
「ですが今は」
「いえ、それとは別です」
彼は述べた。
「今は客人として」
「客としてですか」
「はい、宴を催したいのですが」
聶政を見てこう述べた。
「如何でしょうか」
「宜しいのですか?」
聶政はそれを聞いて彼に尋ねた。
「私の様なしがない市井の豚殺しに対して」
「何、そんなことは関係ありません」
だが聶政はそう述べた。
「お会いしたことそのものは縁あってのことです」
彼は言う。
「その縁に感謝したいのです。それでは駄目でしょうか」
「そういうことでしたら」
無下に断るのもどうかと思った。それでまた席に着いた。
「宜しくお願いします」
「お聞き頂き感謝します」
「では酒ですな」
「はい、それと馳走と」
こうして彼は聶政を客、しかも賓客としてもてなしたのであった。宴が終わり聶政が家に帰る時である。土産に何かを手渡そうとした時である。
「さて、何がよいか」
「若し宜しければ」
聶政はここではじめて申し出た。
「はい」
「そこにある花を頂けるでしょうか」
「花を!?」
「はい」
見れば部屋の端に一厘の花が添えられていた。それは黄色い菊の花であった。
「あの花を頂きとうございます」
「しかしあの様な花なぞ」
土産にもなりはしない、嚴仲子はそう言って断ろうとした。しかし。
「いえ、あの花こそが欲しいのです」
聶政はそう言って引き下がろうとしない。存外引かない様子であった。
「他のものはいりませぬ故」
「本当にあれだけでよいのですね?」
「ええ」
やはり言葉は変わらなかった。
「宜しいでしょうか」
「わかりました、そこまで仰るのなら」
嚴仲子は頷いた。ここは客人としての彼の心を汲み取ろうとしたのだ。
「どうかこれを」
「申し訳ありませぬ」
「いえいえ。しかし菊がお好きなのですな」
「ええ、黄色い菊が」
聶政はそれに答える。
「花では一番好きです。母上と姉上によく頂いたものですし」
「そうだったのですか」
「子供の頃ですがね。今では懐かしい話です」
そう語る顔が優しげになった。とても剣客のものとは思えない。
「その頃を思い出すのですよ」
「そうだったのですか。ではお受け取り下さい」
「はい」
聶政は菊を受け取った。そして屋敷を後にした。嚴仲子はそれを最後まで見送るのであった。最後の最後まで礼を忘れてはいなかった。
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