赤い男
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5部分:第五章
第五章
「しかし背広ではないのか」
「違いました」
「十八世紀の貴族の服でした」
それだったというのである。
「その服でした」
「その服で別荘に来たのです」
「首相は御存知ありませんか」
「その男をだな」
フルシチョフは怪訝な顔で彼等に話した。
「私が知っているか、か」
「はい、誰なのでしょうかあれは」
「急に別荘に来ましたし」
「それを考えますと」
スターリンはまさに猜疑心の塊であった。クレムリンの奥深くにいると言われていたが実際はそのモスクワから離れた森の中に要塞の如き別荘を造りその中にいたのだ。そしてその別荘に来られたのは。
「党の中でかなりの地位の方ですが」
「それなら御存知と思うのですが」
「どうなのでしょうか」
「残念だが知らない」
こう返すフルシチョフだった。
「赤い服だな」
「はい、そうです」
「貴族の服です」
「そんな服を着ている者は党にはいない」
そうだというのである。
「貴族なぞ。この国にいる筈がない」
「そうですね。プロレタリアの国である我が国に」
「貴族なぞ」
「まずはそこがおかしい」
フルシチョフはこう話す。
「有り得ないことだ」
「ですね。しかしです」
「実際にそうでした」
「その服で来たのです」
「しかもだ」
フルシチョフはここでさらに言った。
「あの別荘を知っている人間はごく僅かだ」
「そうです。書記長があそこにおられると知っていたのは」
「僅かです」
「そうはいません」
「この国において」
「私を含め僅かな人間だけだった」
スターリンの猜疑心はそこまで深かったのだ。別荘の中にしてもだ。要塞そのものであり彼はそこで孤独な生活を送っていたのである。
「私が知っている人間ばかりだ」
「はい、しかも車で来なければなりません」
「秘密の道で」
「車は動いてはいなかった」
そうだったとだ。フルシチョフはまた話した。
「そうしたことはなかった。
「ではあの日別荘にはですか」
「誰も来られてはいない」
「そうなのですね」
「そうだ。それに別荘に車は来たか」
フルシチョフはこのことを問うた。
「実際にだ。門に来たか」
「いえ、全く」
「一台もです」
「来ませんでした」
それ自体がなかったというのである。
「扉も開きませんでしたし」
「ではやはり」
「あの時来客は」
「あった筈がない」
フルシチョフの今の言葉こそが真実であった。
「間違いなくな」
「そうですね。しかもです」
「書記長の執務室にすうっと入っていったのです」
「ごく自然に」
「別荘の中も知っていたのか」
フルシチョフはここで腕を組んだ。
「しかも書記長が何時何処におられたのか把握していたか」
「そうです。それも」
「全てです」
「わからない。全てが有り得ない話だ」
フルシチョフのその様々なものを見てきたことを窺わせる顔が曇っていた。
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