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資料 恋姫時代の後漢

作者:所長
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資料 恋姫時代の後漢

 
前書き
 この文章は、皆様の創作の枷を作るためのものではなく、より飛躍した創作のために下地としていただきたく作成したものです。何かしらの創作のお役に立てれば幸いです。

 引用する場合は、後書きにあります出典以下を併記(こちらだけで十分です)するか、こちらの小説タイトルを列記してください。ただし、明確な『引用』でなければ必要ありません。
 この文章から得た情報を参考に文章を作成した場合などには明記は不要ですが、作者に知らせていただければとても喜びます。

 誤字、脱字、内容の指摘などは具体的に行っていただけると修正しやすいです。
 内容の指摘に関しては資料を示さない推定で行われております場合、基本的に反映することはありません。ご理解くださいませ。
(2013/10/13)農業に追記。全体で細々と文章を修正。出典を検索に掛かりやすい名前に修正。 

 
 目次
 0.どんな時代?
 1.命名規則と呼び名
 2.書くときに困る 単位
 3.資料が足りない 農業
 4.みんな気にする 物価
 5.どれだけいるの 人口
 6.後漢の地域情報 略歴
 7.みんな知りたい 税率
 8.気になる諸費用 軍事
 9.役人と政府と地方制度
 10.ゲームと三国志演義





 0.どんな時代?

 最初に知っておくべきことは、竪穴式住居に一家で同居していた時代であること。物々交換の時代であること。基本的には北部の方が豊かであり、南部は未開の地であり同時にフロンティアであったこと。
 羌、匈奴、烏丸、高句麗、三韓、鮮卑などの異民族に取り囲まれ、内部にも多数の少数民族を抱えながら、それら全てを見下す漢民族(特に中央出身の役人)と他民族との戦争が絶えない時代だったこと。

 麦、稲、粟(アワ)、稗(ヒエ)、黍(キビ)、大豆などの穀物が食べられており、里芋も存在した。カラムシ、麻、瓢(瓢箪)からは繊維などを取る。桑の葉はカイコの餌として育てられるが果実も食べる。
 主食は粟だったが、生産性の問題で後に主食の座から転落したと言われる。黍は酒造りの材料にも用いられた。米や稗は水陸両用であり、特に稗は寒冷な土地でも育てられる上に使いどころが多いため人気の作物だった。
 苗床は作られず二毛作もまだ存在していないので、生産性はあまり高くない。重度の連作障害によって畑を手放す民が多く、特に長江の上流では移住が多かった。一方で冀州で輪作が行われ始めたり、初期の水車の発明が行われた時期でもある。
 米は水田(水稲)が主だったが、治水の問題で水田を持たない地域では陸稲が作られていた。品種は変わらない。収穫量は水田2に対して陸稲1だが、陸稲の方が栽培の手間が少なく病気に強いという利点がある。ここでは基本的に収穫量の多い水田として扱う。

 西暦100年頃には竹を材料にした紙が皇帝に献上されている。紙そのものは紀元前から作られていたのだとか。質は高くないが細々と作られ続けていたようだ。
 船の帆などには筵や竹を編んだものが使われるコトが多かった。

 犬、鶏、豚はよく飼われており一般的で珍しくないが、牛馬は大規模な牧場で育てられるもので一般的ではない。

 奴隷が存在した。借金などで身をやつした人間や罪人などで戸籍はなく、奴隷の子供も奴隷として、法的にも物と同様に扱われる。売買の際に檻に入れられてやり取りされることもあった。
 また奴隷ではないが、医者や商人、手工業の職人といった職業は差別されており、これらの職には厳しい税が課された事もある。医者は半ば詐欺師、商人は落ちぶれるか大成功かで明暗が分かれるギャンブラー、手工業は奴隷などが行うものと認識されている。

 史実で曹操が就任し、苛烈な取り締まりで有名になった洛陽北部尉。これを始めとして不正・不法を取り締まる役には、若い人間を据えるのが通例だった。曹操が特別だったわけではない。

 中国では量や距離を数えるときには、大阪のおばちゃん並に大げさに言うのが当たり前とされてきた。
 例えば、漢書には領土の広さを指して南北1万3368里と書かれているが、これは現代の単位で6665㎞。赤道からロシアの中部までの距離に等しく、ユーラシア大陸の最北端からベトナム中部くらいまでの距離に等しい。事実の3倍である。
 例えば、赤兎馬は一日に千里を走るとされたが、現代最高の血統馬がベストコンディションで走り続けても160㎞レース=約386里のタイムは13時間程度。
 例えば、三国志に司馬懿が宛から上庸城まで千二百里を8日で駆けたエピソードがあるが、そもそも宛から上庸城までは少々遠回りしたとしても千里ほどしかない。
 例えば、三国志演義で胡車児は500斤=111㎏の荷物を背負ったまま1日700里=約290㎞を歩くことが出来る豪傑とされたが、大人2人を担いだままフルマラソンを1日7回完走するのと変わらない。
 例えば、賊軍を討伐したとき十の首を獲った場合には「百の首を獲った」と戦果を十倍にして報告するのが慣例であったため、魏の国淵が実数を報告した時にはわざわざ曹操に理由を尋ねられている。





 1.命名規則と呼び名

 名前は姓+名+字で構成されている。恋姫にはこれに加えて真名が存在するが、ここで紹介するルールには反している場合があるので注意。

 姓。
 現代の中国では基本的に同じ姓では結婚しない。当時も同じ姓の家系とは結婚を行わなかったようだ。趙雲が縁談から逃げる口実に使ったという話が残るが、この習わしが成立する以前はむしろ真逆で、一つの街が一つの姓で完結するということもしばしばあった。
 後漢時代はこれらの習わしの移行期にあり、同じ姓が一つの地域に大きく固まっていることが多い。
 つまりこの時代、民間ではまだ同姓との結婚の方が一般的だったのではないだろうか。

 名。
 諱(いみな)などと呼ばれる。普通は呼ばないし呼ぶのは失礼極まりない。というか名を呼ぶことで呪術(言霊)を掛けられると考えられていた。
 家族や極めて親しい人物、お世話になっている上司や親族で目上の人物などは呼ぶこともあったらしい。この辺りは恋姫でいう真名に近い。
 後漢成立前からの慣例により、大半の人物は一文字の名を持つ。父子間で同じ漢字を使うこと、同じ部首やつくりを使うことはタブー。目上・年上の親族に同名の人が居た場合などには成人に合わせて名を変えることもあった。皇帝・君主の諱も避けた。君主クラスになると自分の諱を呼ばせないために領内の同名の地名を変えることすらあった。
 書類などに残るのは主にこの名。姓+名、役職+姓名、名などで記されることが多い。

 字。
 成人(21歳)の前後に名乗り始めるもの。社会人として独立するのに合わせるもので、ニュアンスとしては「独立するぞ」というより「独立した」に近い。
 名家などでは親や親類が名付けることもあるが、そうでない場合、つまり大半において『自分で』名付ける。名に関連した語句や漢字が用いられる。流行があったり、教養を測る基準などとなっていた。例えば劉備の『備』は生まれつき持つの意味が、『玄徳』は老子の能爲第十にある一節で『道』を知る君子の持つ神妙な仁徳を指している。
 なお、曹操孟徳の「孟」や孫策伯符の「伯」は長男の意味。「仲」は次男、「叔」は三男、「李」は四男または末っ子を指す。
 孫堅の子供、孫策(伯符)、孫権(仲謀)、孫翊(叔弼)、孫匡(季佐)や、司馬防の子供、司馬朗(伯達)、司馬懿(仲達)、司馬孚(叔達)、司馬馗(季達)、司馬恂(顕達)、司馬進(恵達)、司馬通(雅達)、司馬敏(幼達)などが代表的。
 後世に伝わることは相対的に少なく、活躍した人物でも字が伝っていないこともある。
 それなりに知り合った間柄では姓+字+敬称で呼び、親しい間柄では姓が省略される。孫権が部下の周泰を呼ぶ際にも「幼平殿」と慎重に口にしたというエピソードが残る。
 珍しい例だが、字を付けるときに文字かぶりなど起こした場合、過去の一族や読み方が同じ漢字の人や意味を引き合いに出すなどして名を変えることもあった。

 幼名。
 小字などと呼ばれる。子供の頃の愛称。名前を付けたのはいいが呪術を掛けたくないのでこうやって呼んでね、という意味で付けられる。あまり良い意味ではない漢字を使うのが良い、とも言われていたそう。
 曹操の「阿瞞」「吉利」、劉禅の「阿斗」が有名だが、現代まで伝わる幼名は極めて少ない。「阿」は既に「○○ちゃん」という意味なので「阿瞞ちゃん」とは言わない。
 魯粛が呂蒙を馬鹿にして呼んだ「阿蒙」も「(未熟な)蒙坊ちゃん」という意味。

 号。
 別号や道号とも呼ばれる。三国志では人に付けて貰う事が多い気がするが、ペンネームのようなものなので割と好き勝手に付けることが出来た。大半が2文字から4文字。
 「臥龍」や「鳳雛」や「水鏡」が有名。
 法名や法号や道名もこのくくり。法名「玄奘」、法号「三蔵法師」が有名。

 真名。
 恋姫シリーズ独自のもの。特別に親しい間柄の人物に、心を許した証として『本人が』呼ぶことを許す名前。本人の許可なく真名を口にすることは(真名が許された他者の手で)問答無用に斬られても文句を言えないほどに失礼とされる。名(諱)に似ているが、親しい間柄で日常的に用いる点などで異なっていると思われる。
 字を持っていない人物にも真名があること、見ず知らずの他人が日常会話にある真名を推定できることを前提にした『真・恋姫†無双』魏ルート冒頭やその直後の曹操とのやり取りなどから、全ての人が知るかまたは持つものであると考えられる。
 さらに、子供(璃々)が真名を持っていることから幼少期までにつけられるだろうこと、その割に難しい漢字を用いていることから親や親族が付けていることが理解できる。
 桓帝(劉志)や霊帝(劉宏)の時代に生まれたであろう登場人物らの真名に「木」や「雨」や「士」の部首やつくりが使われており、字数も1文字から3文字でばらばら、さらに年の離れた姉妹や親戚間で同じ漢字を用いたりしているところを見るに、諱とは大幅に異なる独自の命名規則があると思われる。


 呼び方。
 敵対している相手などを憎悪を込めて呼ぶ時は姓+名。「袁術!」
 それほど親しくない間柄の場合には姓+役職で。「袁南陽太守様」
 それなりに知り合った仲である場合には姓+字で。「袁公路様!」
 親しい間柄で身分を気にする場合は字+敬称で呼ぶ。「公路様!」
 極めて親しい間柄で身分を気にしない時には字で呼ぶ。「公路!」
 極めて親しい間柄に特別に許す恋姫独自の名前が真名。「美羽!」
 呼び方ではないが、書類に書くのは役職+姓名。「南陽太守袁術」

 史書には『名』のみを記していることが多く、字どころか姓の記述も少ない。
 黄巾の乱を示した資料では、張角は初出で「張角」、以後は「角」と記される。
 皇甫嵩は初出で「皇甫嵩」、中郎将就任の際に「左中郎將皇甫嵩」、以後は「嵩」。

 美周郎は美しい、周さんとこの、若様という意味。
 孫策も孫さんとこの若様という意味で孫郎などと呼ばれた。

 北海国相の孔融は孔北海と呼ばれた。
 以下は推測となるが、同じく北海郡王の劉興は劉北海と呼ばれたものと思われ、地名がかぶった場合(済南郡王の劉康と済南太守の劉詡など)には劉済南太守などと呼ばれたものと思われる。

 基本的には一番位の高い役職名で呼ぶ。
 演義の孔明は最終的に多数の役職を兼務した爵位持ちだったりするので、使持節、大将軍、丞相、録尚書事、司隷校尉、益州牧を兼任し、武郷侯の爵位を持っていた。諸葛使持節とか諸葛大将軍などと呼ばれていたと思われる。
 使持節の方が役職としては重要だと思われるものの、大将軍は一品官ではないかと思われるので、どちらが上かは不明。
 爵位(魏晋時代のもの)は上から王、公、侯、伯、子、男、県侯、卿侯、亭侯、関内侯。

 恋姫では視聴者やユーザーのわかりやすさのために「劉備」であるとか「曹操」などと呼んでいるが、これは最早斬りかかってくれと言わんばかりの失礼さである。
 この他にも国内の創作物では「諸葛亮孔明」などと諱を呼んでしまっている物が多いが敵ならば「諸葛亮」、知己ならば「諸葛孔明」あたりが正しい。





 2.書くときに困る 単位

 お金の単位は銭。五銖銭と呼ばれる銅銭が用いられた。最初は五銖の重さのあるためにそう呼ばれていたが、後には形や大きさを変えても五銖銭と呼ばれ続けた。
 董卓の時代までに、初めて五銖銭の発行された前漢時代から数えて、14回ほど新しい五銖銭が発行されている。三国志時代の始まりとされる霊帝の崩御から、魏の五銖銭が発行されるまでにも4回。
 一般には出回っていなかっただろうが、黄金一斤222.7グラムは五銖銭で1万銭相当の金銭として扱われた。

 重さは以下の通り。諸説あり。五銖は約3グラム。
 1銖=0.58g
 1両=24銖=13.92g
 1斤=16両=222.7g
 1鈞=30斤=6681g
 1石=4鈞=26.73㎏

 容量は以下。正確には諸説あるようだが、恋姫時空なので正確じゃなくていいや。
 1撮=2ml
 1龠=5撮=10ml
 1合=2龠=20ml
 1升=10合=200ml
 1斗=10升=2リットル
 1石=1斛=10斗=20リットル
 穀類と塩の一石は26.7㎏ではなく20リットルだったよ説があるが、真偽は不明。
 ただし、この説は強く推されている場合が多いため、ここでは20リットルと扱う。
 白米1石=20リットルは約16.7㎏、玄米は約17㎏、籾(※)は約12.3㎏。
 ※籾米(もみごめ)は脱穀前の、稲穂から落としただけの籾殻に覆われた米粒。
 塩1石=20リットルは約24㎏となる。

 距離。諸説あり。身長は尺と寸、織物は丈と匹、畑は引、道は里で表す。
 1分=2.304㎜
 1寸=10分=2.304㎝
 1尺=10寸=23.04㎝
 1歩=5尺=115.2㎝
 1丈=10尺=2.304m
 1匹(引)=10丈=23.04m
 1里=360歩=414.7m
 例。わたしの身長は53万尺です。53万尺=約122㎞。意味:化け物。
 例2。赤兎馬は一日千里を走った。千里=414.7㎞。意味:化け物。

 面積。畑の大きさ。税金の単位では主に頃が使われた。あれ?引はドコ行った?
 1頃=100畝
 1畝=240平方歩(約318平方メートル。18メートル四方よりやや小さい)
 前漢の領土は1億4513万頃、開墾が可能とされた土地の面積は3229万頃。内、開墾地面積は827万頃。
 1畝当たりの収穫量は3から4石と言われている。おそらく脱穀前の籾の収穫量。一戸あたりの面積は67.6畝(2.15ヘクタール)ほど。67.6畝に収穫量の3石をかければ約203石、4石をかければ約270石。
 ちなみに、約600年後、西暦800年頃の日本では米の収穫量は1ヘクタールあたり玄米1トン。脱穀前の籾に換算して2トン。

 玄米は1石17㎏。203石で3.45トン。270石なら約4.6トン。1ヘクタールに換算すれば1.6トンから2.14トン。これでは多すぎると思われる。
 籾米1石は12.3㎏。203石で約2.5トン。270石なら3.32トン。1ヘクタールで採れる玄米に換算すれば580㎏から775㎏。
 以上から、1畝当たりの収穫量はおそらく籾3石から4石。農家一戸あたりの収穫は籾米203石から270石。玄米換算で73.5石から97石くらいだと思われる。

 時間。日本では三つ時とか言ってたけど多分この時代は言ってなかったはず。
 1刻=14.4分(14分24秒)
 1時=8刻余り(8.33……分)=2時間
 1日=12時=100刻=24時間
 子の時が23時から始まる。23時から24時が子の初、24時から1時が子の正。丑虎卯辰巳と続き、11時から馬=午の初、12時から午の正。午前、正午、午後のアレ。未申酉犬亥と続く。ちなみに中国語で書くと字が違う。古い時代だとさらに字が違うどころかメンバーさえ入れ替わる時あり。
 一日の始まりである子の時が23時から始まる。23時から24時が子の初、24時から1時が子の正。丑虎卯辰巳と続き、11時から馬=午の初、12時から午の正。午前、正午、午後の由来。未申酉犬亥と続く。
 ちなみに中国語の十二支は字が違う。古い時代だと字が違うどころかメンバーさえ入れ替わった時期もあった。





 3.資料が足りない 農業

 この項目では古い時代の資料が足りず、現代の作物の栽培状況を多く参考にしている。
 歴史書などには「一粒が80粒にもなった」などと書かれていることもあるようだが、正確に記述するなら「畑の中で一番よく育った一粒が80粒にもなった」とするべきで、畑にまいた種のうち何粒が出穂して、何粒が採れたのかが読み取れる資料は少ない。
 現代では『収穫率』40倍程度の畑で最もよく育った小麦1粒が120粒くらいになるようだ。ではこれを参考にして良いのかと言えば、「80粒になる」小麦が収穫率16倍だったり、3粒になるとか5粒になると言われた時期に収穫率が3倍程とされていたり、収穫率40倍の時代からさらに生産量が5倍増したと言われているのに収穫率25倍程度に落ち着いていたりと、不正確にしか見えない記述が多く当てにならない。
 面積が求まらないので収穫量が不明であったり、束単位で示してあるために実際の粒の量が不明であったり、他の作物での換算比率が示されているだけで実際の収穫量や面積がわからないことなどもあり、片手落ちの資料は軒並み参照を断念せざるを得なかった。
 資料集全体ではもっとも時代が近い記述から相互に換算しているが、この項目においてそれが適用できない作物は近代から現代の資料をベースにしている。


 さて、中国の農業を語る上で外せないのが華北と華南という呼び方。これは北の黄河と南の長江のちょうど間くらいにある秦嶺(山脈)・淮河線と呼ばれる東西に伸びる境界線で分けられる地域のこと。この境界線より北を華北、南を華南と呼ぶ。
 淮河は淮水とも呼ばれ、荊州南陽郡南東部の平氏県から流れ出し、豫州汝南郡南部、揚州九江郡北部、徐州広陵郡淮南を通って長江の北側で海に流れ出す大きな川。
 雨量や気候の違いから作られ消費される穀類に差異があり、食文化などの違いを生む。
 華北では麦作が盛んで麺食中心、馬を扱う文化が育まれた。
 華南では稲作が盛んで米食中心、船を扱う文化が育まれた。
 北麦南稲、南船北馬とも。

 川は数あるものの平坦な土地ばかりであるため、水利用に難がある地域が多かった。
 水利用に関する法もあったが、その年の収穫であるとか土地を監督する役人次第で厳しく取り締まられたりざる法になったりとブレが大きく、上手く機能してはいなかったようだ。ちなみにこの法は、個人の水利用を制限した現代日本の法律にまで名残をとどめる。
 大河の上流域では逆に峡谷などとなってしまって水が利用できず畑(特に段々畑)がよく見られた。およそこの農作文化の境から西を姜族が治め、羌や西羌と呼ばれた。ここでは連作障害が酷く、上流へ上流へと開拓を進めつつ移住していったようだ。

 雨の多い地域では畑は酸性土壌に傾きがち。鶏は雑草の芽を食べ糞が栄養にもなるが、糞が畑をアルカリ性土壌に傾ける。連作障害によっても土壌の酸度は変化する。
 アルカリ性の土壌は黍の仲間やテンサイを栽培することで酸性へ傾き、酸性の土壌は石灰を撒いたり芋類の栽培でアルカリ性へ傾く。また、多くの作物は弱酸性を好む。

 牛馬は荘園を持つ豪族や領主などがまとめて飼うものであり、これを利用する農作業はほぼ荘園内でしか見られないもの。一方で牛馬と専用の農機具を用いれば畑を深く耕せるということは知られていたようなので、ある程度は普及していたのだろう。
 農具は木製や青銅製、鉄製があった。黄河の流域には鉄の産地が多く、長江中流域には銅製品の一大産地である江夏郡が存在したため、分布も似通っていたものと推測される。

 当時ははげ山が多かった。現在のチベットや北朝鮮の山というものを想像すれば理解に近づけるだろう。これは植林の概念が非常に希薄であったことに加えて伐採などで失われる森林が圧倒的に多かったため。様々な文明で同様に起きた事例であり、中世日本も例外ではない。一方で人の手が入らない森林にも低木や草花の育成環境としては若干の問題があったため、日本では植林と同時に間伐などの手を加える里山の概念が広まった。
 特に用途がはっきりしている材木に関しては保護らしきものもあったようだが、植林のような活動が伴ったという話はなく、産物としての価値を落とさないように制限をかけただけだと考えられる。
 山から採れるのは少ない養分で育つキノコなど。
 松の仲間は比較的若い木でも燃やせば火力が強く、落ち葉や枝も燃料として好まれており、しっかりと年を重ねれば硬い材木となり、松ヤニからは薬や香料が採取でき、根にはマツタケなどのキノコが共生する事もあり、何より比較的に栄養の乏しい場所でも育つため比較的によく見られたようだ。マツタケに北朝鮮産が多いのはこんな理由から。

 堆肥、いわゆる有機肥料の作成は基本的にかなりの時間をかけて行われるもの。有害な雑菌や寄生虫を死滅させるために高温発酵や乾燥のプロセスを挟むことも多い。
 牛糞、豚糞、鶏糞に穀物の藁や籾殻を混ぜ込み、頑張って何ヶ月か混ぜ返していれば堆肥が出来る。発酵が完全に終わり、発熱がなくなれば完成。人糞を堆肥に加工する場合は肥だめに人糞とこれらの材料と腐葉土を加え数年かけて発酵させる。
 ただし、尿を含んだ堆肥は雑草が好む養分も比較的に多く含むため扱いが難しい。
 牛糞や豚糞や鶏糞はそのままでも肥料となるが、臭いが強かったり、病原菌や寄生虫を残していたり、養分が偏っていたり、土の中で発酵して根を痛めたり、土の中で発酵して他の肥料を変質させて駄目にしたりもする。例えば果物の根元で鶏を飼うと、実が熟さず青々と大きくなったまま落ちることもあるようだ。
 腐葉土は肥料としては比較的に長く弱く効き続けるため土壌改良に向く。
 針葉樹の腐葉土は酸性に傾きがちであり腐植化も遅い。桜のように葉が広く薄いものが腐りやすくて良いとされる。やはり数ヶ月以上の時間をかけて作られるか、自然のうちに作られたものを採取する。

 税率の項目で取り上げるが、大人一人当たりの穀類の消費量は年間300㎏程度。
 農民一戸の平均的な人数は5.13人で、一戸で平均67.6畝(2.15ヘクタール)程度の農地を持っていた。
 1畝は240平方歩(約318平方メートル=18メートル四方よりやや小さい)。

 以下は主な作物。当然だが、これ以外を育てなかったというわけではないので注意。


 米。コメ。畑でも水田でも栽培が可能。
 春に種まき、晩春から初夏に田植え、田植えからおよそ4ヶ月後の秋に収穫する。
 陸稲は病害や害虫に強いが、収穫率や味は水稲に劣り、連作障害が起こりうる。水稲では連作障害は滅多に起こらない。どちらも干ばつに弱い。
 水稲は他の穀類に比べ収穫率が高い。稲わらは他の穀類と比較して飼料に向く。近代に入り正条植えの概念が定着するまでは種籾をばらまくだけの平蒔きから始まり乱雑な植え方によって収穫量を落としていた。明治に入って正条植えが日本国内に普及した際には、適切な間隔を開くだけで「収穫量がおよそ倍増した」と褒め称えられた。
 長江以南の地方ではうるち米を黄酒の原材料として扱った。黍で作る黄酒とは、細かな材料や製法から味や香りも異なったが、黄色からオレンジ色のお酒が出来るという点では同じなので黄酒。
 餅、飴、味噌や醤油、酢などに加工される。
 収穫量は玄米換算で1ヘクタール580から775㎏、1畝18.5から24.4㎏。
 平安時代に1ヘクタール280㎏、1畝10㎏未満の玄米しか収穫できない田があったという研究もあるため、甘い予測である可能性も否定できない。

 麦。ムギ。畑で育てる。主に小麦、大麦があった。
 晩秋に種をまき、およそ7ヶ月後の晩春から初夏に収穫する。6月頃には麦畑が黄金色に色づくことから、麦秋と言えば初夏のこと。
 小麦と大麦は名前から抱く印象と違い、背丈はあまり変わらず1メートル強。名が表しているのは成長途中の葉の大きさ。品種改良によって背の低い小麦が出現したのは近代。
 小麦と大麦の違いは、主に食べ方。大麦は脱穀後の粒が大きく、製粉の必要もなく食べられたため特に好まれた。また、乾燥藁だけでなく実を含めてやや高級な飼料用の作物とされることがあった。小麦の藁はあまり飼料に向かず主に堆肥として用いられる。
 土を深く(20から30㎝)耕すこと、カリウムやリンなどの肥料やそれらを生む土壌改善作物(クローバーなど)の栽培、適切な水やりで収穫量が増す。「稲は地力で、麦は肥料で」収穫するものとされ、生育途中の追い肥などを適切に行うことで収穫量が増し、品質も大変に向上すると言われる。種籾で線を描くようなすじ蒔きと、文字通りのばら蒔きが主流。すじ蒔きは水田の裏作に、ばら蒔きは大豆などの畑作の輪作に向く。
 唐代に華北で流行した二年三毛作では、粟と組み合わせた輪作も行われたとされる。
 大麦はそのまま火を通して食べたり、味噌や水飴などに加工されるがあまり美味しくはないようだ。小麦は粉にされた後に蒸しパンのようなものや餅や麺に加工された。
 収穫量は1ヘクタール1トンとも2トンとも、その後5倍以上に増えたと言われることもあるが、税収から逆算すれば最良の環境の数字でも1トンには届かない。小麦粉換算で1ヘクタール0.6トン未満、1畝20㎏未満。
 なお、20世紀前半頃まで1ヘクタールの収穫量が1トンを超えるような地域や品種は極めて限られていた。1ヘクタールにつき100㎏程度の種籾を撒くのが適当であるようなので、収穫率で10倍を超えるといった記述の真偽は慎重に判断するべきである。

 粟。アワ。畑で育てる。
 春に種をまき、およそ4ヶ月後の夏に収穫する。または夏に種をまき、およそ4ヶ月後の晩秋に収穫する。
 比較的に背が高く、品種にもよるが150㎝ほどになる。
 かなり古い時代から栽培されていた作物であり、主食となっていた時代が長かったが、漢代には一年二毛作、輪作に向かず後に主食の座から転落したと言われる。しかし、後の唐代には華北にて粟と小麦または粟と大豆を組み合わせた二年三毛作が普及して発展に寄与しており、凋落は限定的な見方だろう。華北の二年三毛作は後漢代から成立していたとの研究もある。
 長期保存に向いており、よく備蓄された。病害虫にも強いが鳥害には比較的に弱い。
 近年では1ヘクタール3トン近い収穫量だが、古い時代にも比較的に収穫の多い作物とされた。19世紀の記録では精白後換算で1ヘクタール1トン程度、1畝31.7㎏。
 余談ではあるが、20世紀にはアメリカの雑穀生産の9割を占めたこともあった。
 味は淡泊で、そのまま炊いて食べるか、蒸したり、その後に餅にしたりもした。

 稗。ヒエ。畑でも水田でも栽培が可能。
 春に種をまき、およそ4ヶ月半後の初秋に収穫。または春に種をまき、晩春に田植え、田植えからおよそ4ヶ月後の秋に収穫する。
 やや背が高く、品種にも寄るが130㎝ほどになる。また、粒が小さく外皮が硬いため脱穀や精白に大変な難がある。機械による脱穀もかなり近代のものが必要とされる。
 米よりもさらに牛馬の飼料に向く籾殻や藁が採れる。冷害、湿害、干ばつ、塩害、病害などに強く、長期保存も利き、栄養価も高い優れた穀類。
 一方でいくつかの害虫が付きやすく、発生時には大きな被害を受けることが多い。
 味噌や醤油などの加工品が存在する。やや味の癖が強く、食感もぱさつく。
 19世紀の記録によれば収穫量は籾の状態で1ヘクタール3トン程度だが、精白後には1ヘクタールで1トン程度、1畝31.7㎏相当に減る。

 黍。キビ。畑で作る。
 暖かい土地では早春に種をまき、およそ4ヶ月後の夏に収穫する。涼しい土地で初夏に種をまき、およそ4ヶ月後の初秋から晩秋に収穫。
 当時の中国では酒と言えば黄酒。黍は薫り高く癖の強い黄酒の原材料。黄酒は古くから個人で作るものであり、人々は黄酒を先祖の霊にお供えしたのだとか。うるち米が黄酒の原材料として扱われるのは主に田舎とされていた長江よりも南の地方。
 乾燥にとても強く生育期間が短く収穫も容易だが、鳥害に弱い。
 しっかり水を含ませてから炊き、温かいうちにすり鉢などで潰しながらこねれば餅状の物体になる。いわゆるきびだんご。
 後の唐代には高貴な身分の人間のみが常食する、おめでたい穀類となっていた。
 19世紀の記録では精白後換算で1ヘクタールで500㎏程度、1畝16㎏弱の収穫。

 大豆。ダイズ。畑で育てる。
 暖かい土地では春から初夏に種をまき、およそ3ヶ月後半の晩夏から秋に収穫。涼しい土地では初夏に種をまき、およそ4ヶ月後の秋から晩秋に収穫する。
 痩せた土地でも育てやすく、栽培に必要な水も少ない。発芽したばかりの種は鳥害に遭いやすく、連作や畑の密度を上げることなどで病害が発生しやすくなるが、一方で輪作によって病害の発生を多く軽減できるのも特徴。
 唐代に華北で流行した二年三毛作では、粟と組み合わせた輪作も行われたとされる。
 豆腐、味噌や醤油、納豆などの加工品が存在する。
 19世紀の記録では1ヘクタール510㎏、1畝16㎏程度の収穫量。

 芋。里芋。サトイモ。畑で育てるが、他の作物より場所を選ばない。
 春に種芋を植え、およそ4ヶ月後の晩夏から初秋にかけて収穫する早生種と、早生種に半月ほど遅れて種芋を植え、およそ5ヶ月半後の晩秋に収穫する晩生種がある。
 南方の作物。栽培は容易で日陰でも育ち収穫量も多いが、寒さや乾燥に弱く高温多湿を好み、栽培には多量の水が必要で連作にも向かない。
 タロイモの仲間。概ね加熱処理してそのまま食べる。
 19世紀の記録では1ヘクタール約6トン、1畝200㎏程度の収穫量。

 大根。ダイコン。畑で育てる。
 春蒔き大根は春に種をまき、およそ2ヶ月後の初夏に収穫する。秋蒔き大根は晩夏に種をまき、およそ2ヶ月後の晩秋から初冬に収穫する。寒冷地では種蒔きが1ヶ月ほど遅くなり、温暖な土地では種蒔きが半月ほど早まる。晩生種の場合は収穫まで3ヶ月ほど。
 大きいものでは2㎏にもなり、これを音速の3倍程で射出した場合の運動エネルギーはおよそ1メガジュール。大型狙撃銃におけるマズルエネルギーが20キロジュール程度であることを考えれば、その危険度は想像に難くない。
 土を深くまで細かく砕いて耕さねばならず、涼しい時期に育つが寒すぎても根が大きくならない。収穫が早く葉まで余すことなく食される。干して保存した。
 いくつかの害虫は付きやすいが病害には比較的に強い。
 生で食べれば身体を冷やし、火を通して食べれば身体を温める薬効もある。
 20世紀後半の記録では春だいこんは1ヘクタール33.5トン、夏だいこんは1ヘクタール27.2トン、秋冬だいこんは1ヘクタール36.7トンの収穫があった。1畝で1トンを超える計算。

 瓜。ウリ。畑で育てる。
 春に種をまき、およそ3ヶ月半後の夏に収穫する。寒冷地では種蒔きと収穫が半月ほど遅くなる。種類にもよるが花をつけてから収穫まで早くて10日、長いもので1ヶ月半。
 種類によって乾燥に強いものもあるが、基本的には乾燥に弱め。日当たりが良い場所を好む。他の作物に比して少ない手入れで収穫できるが、連作には向かず病害にも弱い。
 種類によって栄養価の低いものから高めのものまで幅広く、加熱処理が不要な物から必要な物、腐りやすいものから日持ちするものまで千差万別。ただ、淡泊な味の物が多い。
 近年では1ヘクタール30から50トンの収穫量がある。1畝で1トンを超える計算。


 華北の二年三毛作は、春に早蒔きの大豆、秋から麦、翌年初夏から遅蒔きの大豆とするか、同じく春に早蒔きの粟、秋から麦、翌年初夏から遅蒔きの粟、またはそれらを組み合わせたものと言われる。





 4.みんな気にする 物価

 この項は主に箇条書きで行きます。

 金一斤=1万銭

 1畝は約318平方メートル。18メートル四方よりやや小さい。
 豊かな土地=5000~6000銭/畝
 普通の土地=500~2000銭/畝
 痩せた土地=100~300銭/畝
 豪邸=100万銭以上/一軒
 良い家=4~17万銭/一軒
 普通の家=1~3万銭/一軒
 安物の家=3000~5000銭/一軒

 白米1石=玄米1石2斗=籾2石=稲穂20束くらい。日本で稲作について書かれた初期の文献では白米5斗=玄米6斗=籾米1石2斗=稲穂12束+手間賃1束とされた。
 白米=400銭/石
 玄米=300銭/石(最も安い時期で70銭とも)
 大麦はお粥、粟はお粥や麺にして食べる。粟はこの時代の知識人の主食。
 大麦=220銭/石
 粟=220銭/石
 大豆=500銭/石

 農耕用の馬=8000~2万銭/匹
 軍馬=1万~10万銭/匹
 良馬=20万銭以上/匹
 牛=4000~8000銭/頭
 猪=600~1800銭/頭
 羊=300~500銭/頭
 闘犬=1~30万銭/匹
 軍用犬=1200~2000銭/匹
 普通の犬=200~240銭/匹

 1匹は2反=10丈=約23メートル。
 低質シルク=700~1000銭/匹
 普通のシルク=1200~1400銭/匹
 白いシルク=1400~1600銭/匹
 高質シルク=2000~2800銭/匹

 布きれに穴を開けたモノ=200~500銭/着
 シャツ=350~700銭/着
 短い服=450銭/着
 腰下くらいまでの服=380~400銭/着
 シルク製の服=1800~2500銭/着
 ズボン=500~1100銭/着
 麻の靴=30~40銭/一足
 麻の靴下=15~25銭/一足
 防寒着=2000~6000銭/着

 牛車、馬車=2600~4000銭/両
 二輪馬車(軍用)=1~2万銭/台

 名刀=9000~15000銭/本
 良刀=7000~10000銭/本
 軍用剣=700~900銭/本
 軍用ナイフ=660~800銭/本
 弓=500~600銭/丁
 弩=2000銭/丁
 弓矢=10銭/本
 弩矢=9銭/本
 鎧=6800~8200銭/一式
 軍用馬具=7100~8600銭/一式

 銅器=33銭/斤
 鉄器=8銭/斤
 職人用ナイフ=200~300銭/本
 ナタ、包丁=40~100銭/本
 むしろ=150銭/枚
 麻=10銭/斤
 素焼きの碗=70~100銭/一客

 棺桶=1500~3000銭

 1斗は2リットル。
 度数の高い良いお酒=50銭/斗
 お米の酒=30銭/斗
 そこらの酒=10銭/斗
 クラッカー(の仲間)=30~50銭/袋(というか1セット)
 1斤は222.7g。
 牛肉=40銭/斤
 猪肉、羊肉=20銭/斤
 塩(専売制)=800~1000銭/石
 酒屋の軽食代=30銭

 使用人(住み込み)=200~400銭/月
 使用人(通い)=400~800銭/月
 政府役人給与=2000銭/月
 美人奴隷、逞しい奴隷=2~3万銭/人
 普通の奴隷=1~2万銭/人

 占いの費用=100銭前後/回
 結婚資金(皇室)=2万斤=2億銭
 結婚資金(皇族外縁)=数百~数千斤=数百万~数千万千
 結婚資金(有力商家)=100~200万銭の現金と馬などの現物
 結婚資金(地主や役人)=10万銭程度
 結婚資金(一般人?)=2000~数万銭(5000銭くらいが一般的とのこと)

 最も物価の安い時期には上記の半分程度であったとされている。
 なお、黄巾の乱後には物価は10倍以上へと跳ね上がる。董卓銭が出回る頃には貨幣経済は形骸と化していた。





 5.どれだけいるの 人口

 この項も主に箇条書きで行きます。

 国、郡、県、都市人口と州人口とは時代が異なる。よって、足し算しても合わない。明らかにおかしい物は「※」をつけたが、他が全て正確というわけではないので注意。

 前漢末期 初始元年(西暦8年)
  総人口 5959万人
  総戸数 1223万戸
  官吏(役人) 12万人
  帝室(中央) 10万人


 後漢後期 永和5年(140年)
  総人口 5242万人 (ベトナムや北朝鮮などを除いた場合は4789万人)
  総戸数 1042万戸 (上記と同じく933万戸)

 州(括弧は天下三分直後の領土)並びに主要郡(括弧は主要都市名)の人口

 司隸(魏) 310万人 61万6千戸
  河南尹(洛陽含む) 101万人 20万8千戸
   洛陽 50万人 ※当時の漢字は雒陽
  河内 80万人 16万戸
  河東 57万人 9万3千戸
  弘農 20万人 4万7千戸
  京兆尹(長安含む) 24万人 5万戸
   長安 12万人
  馮翊 14万人 3万7千戸
  扶風 9万人 1万7千戸


 幽州(魏) 204万人 39万6千戸
  涿郡 63万人 10万2千戸
  広陽(薊含む) 28万人 4万4千戸
   薊 4万人
  代郡 13万人 2万戸
  上谷 5万人 1万戸
  漁陽 43万人 6万8千戸
  右北平 5万人 9千戸
  遼西 8万人 1万4千戸
  遼東 8万人 1万4千戸
  玄菟 4万人 8千戸
  楽浪 26万人 6万1千戸


 冀州(魏) 593万人 90万8千戸
  魏郡(鄴含む) 69万人 12万9千戸
   鄴 12万人
  鉅鹿 60万人 10万9千戸
  常山国 63万人 9万7千戸
  中山国 66万人 9万7千戸
  安平国 65万人 9万1千戸
  河間国 63万人 9万3千戸
  清河国 76万人 13万戸
  趙国 19万人 3万2千戸
  渤海 110万人 13万2千戸 ※おそらく不正確


 并州(魏) 69万人 11万5千戸
  上党 12万人 2万6千戸
  太原(晋陽含む) 20万人 3万戸 ※おそらく不正確
   晋陽 4万人
  上郡 3万人 5千戸
  西河 2万人 5千戸
  五原 2万人 4千戸
  雲中 2万人 5千戸
  定襄 1万人 3千戸
  雁門(平城含む) 25万人 3万1千戸 ※おそらく不正確
   平城 4万人


 青州(魏) 371万人 63万5千戸
  済南国 45万人 7万8千戸
  平原国 100万人 15万戸 ※おそらく不正確
  楽安国 42万人 7万4千戸
  北海国 85万人 15万8千戸
  東萊 48万人 10万4千戸
  斉国(臨菑含む) 49万人 6万4千戸 ※おそらく不正確
   臨菑 10万人


 兗州(魏) 405万人 72万7千戸
  陳留 87万人 28万8千戸
  東郡 60万人 13万6千戸
  東平国 45万人 7万9千戸
  任城国 19万人 3万6千戸
  泰山 44万人 8万9千戸
  済北国 23万人 4万5千戸
  山陽 60万人 11万戸
  済陰 65万人 13万3千戸


 徐州(魏) 279万人 47万6千戸
  東海 70万人 14万9千戸
  琅邪国 57万人 12万1千戸
  彭城国 49万人 8万6千戸
  広陵 41万人 8万4千戸
  下邳国 61万人 13万6千戸


 豫州(魏) 618万人 114万2千戸
  潁川 143万人 26万3千戸
  汝南 210万人 40万4千戸
  梁国 43万人 8万3千戸
  沛国 125万人 20万戸
  陳国 155万人 11万2千戸 ※おそらく不正確
  魯国 41万人 7万8千戸


 揚州(呉) 434万人 102万1千戸
  九江 43万人 8万9千戸
  丹楊(建業含む) 63万人 13万6千戸
   建業 9万人 ※元は秣陵という名
  廬江 42万人 10万1千戸
  会稽 48万人 12万3千戸
  呉郡(呉を含む) 70万人 16万4千戸
   呉(都市) 10万人
  予章 167万人 40万6千戸


 荊州(蜀呉) 626万人 139万9千戸
  南陽 244万人 52万8千戸
  南郡 74万人 16万2千戸
  江夏 25万人 5万8千戸
  零陵 100万人 21万2千戸
  桂陽 50万人 13万5千戸
  武陵 25万人 4万6千戸
  長沙 106万人 25万6千戸


 益州(蜀) 724万人 152万5千戸
  漢中 26万人 5万7千戸
  広漢 51万人 14万戸
  蜀郡(成都含む) 135万人 30万戸
   成都 7万人
  犍為 41万人 13万7千戸
  牂牁 26万人 3万1千戸 ※おそらく不正確
  越巂 62万人 13万戸
  益州郡 11万人 2万9千戸
  永昌 190万人 23万2千戸 ※おそらく不正確
  広漢属国 20万人 3万7千戸
  蜀郡属国 47万人 11万1千戸
  犍為属国 4万人 8千戸


 涼州(魏) 42万人 10万2千戸
  隴西 3万人 5千戸
  漢陽 13万人 2万7千戸
  武都 8万人 2万戸
  金城 2万人 4千戸
  安定 3万人 6千戸
  北地 1万人 3千戸
  武威 3万人 1万戸 ※おそらく不正確
  張掖 3万人 6千戸
  敦煌 3万人 1千戸 ※おそらく不正確
  張掖属国 1万人 5千戸 ※おそらく不正確


 交州(呉) 111万人 27万戸
  南海 25万人 7万1千戸
  蒼梧 46万人 11万1千戸
  合浦 9万人 2万3千戸
  九真 21万人 4万6千戸
  日南 10万人 1万8千戸





 6.後漢の地域情報 略歴

 陳寿の『三国志』を編纂した『資治通鑑』を元に記述。史実とは異なる場合がある。


 司隸(しれい) 310万人 61万6千戸 後に魏の支配下に。

 洛陽や長安を含む州。司隸と言うが、司州(ししゅう)とも言われた。
 洛陽は正しくは雒陽と書いた。漢は火徳であったため漢の時代のみ洛陽を雒陽としたが、魏の時代になると洛(さんずい)に戻された。
 州の長は刺史または牧だが、司隸に関しては「司隸校尉」が置かれた。
 司隸校尉には有名人が多く就任している。袁紹、曹嵩、張飛、諸葛亮など。

 洛陽を含む郡を河南尹(かなんいん)と呼んだ。郡の長は太守ではなく同名の役職。
 河南尹には何進、袁術、夏侯惇などが就任している。
 洛陽の県令には周瑜の父親である周異などが就任している。

 長安を含む郡を京兆尹(けいちょういん)と呼んだ。郡の長は同名の役職。
 京兆尹には司馬八達(魏で大活躍した司馬懿など)の父親である司馬防などが就いた。
 長安県令には目立った人物はいないが、東隣の霸陵県令には名将皇甫嵩がいる。

 真ん中より西側の京兆尹、馮翊(ひょうよく)郡、扶風(ふふう)郡は三郡まとめて「三輔の地」と呼ばれ、豊かな土地として長い間西で起きた反乱の前線となった。
 京兆尹藍田(らんでん)県では、県内を流れる川から玉、銅、鉄、石が取れる。扶風郡雍(よう)県は鉄の産地。美陽(びよう)県には山上では白金、山下では鉄が取れるという岐山がある。
 後に「三輔の地」は司隸から切り離され、西側の涼州の土地の一部と共に雍(よう)州に組み込まれた。
 後年の蜀の諸葛亮による北伐はこの雍州が標的。



 幽州(ゆうしゅう) 204万人 39万6千戸 公孫賛、袁紹を経て魏の支配下に

 最北端の土地。西は現在の北京付近から、東は朝鮮半島の西側半ばまで含む。
 北西に南匈奴(みなみきょうど)、北側に烏桓(うがん)や鮮卑(せんぴ)、北東に高句麗(こうくり)や夫余(ふよ)、東に三韓(さんかん)という異民族に囲まれた土地。烏桓は烏丸とも書く。
 異民族との融和政策として、烏桓を呼び込んで漢民族との混血を進めており、中央から派遣される漢民族役人との間にもめ事が絶えなかった。

 土地は広いが寒くて農業に向かず、異民族関連で問題が絶えず、そもそも異民族からの侵攻に晒され続けているという非常に難しい立地。交通の便も悪く、人や物資の移動は困難だったため、州全体で見れば赤字となることもあり、初平元年(190年)には青州と冀州から2億銭の援助を受けたという記録が残る。

 州西部には、州都のある広陽(こうよう)郡、その北西に南匈奴との交易拠点である上谷(じょうこく)郡、その南に州内最大の人口を持つ涿(たく)郡、広陽郡の東に塩鉄の生産地である漁陽(ぎょよう)郡といった主要都市が集中していた。
 州東部は、最も東の外れにあった楽浪(らくろう)郡に26万近い人々が住んでいたとされたが、それ以外の土地では10万を超える郡は一つも無かった。楽浪郡は朝鮮(ちょうせん)県(現在の平壌付近)を含む。最果ての地に異様に人口が多いのは、この地に住んでいた原住民を数えていたからではないだろうか。なお、後漢が滅びた後の話になるが、邪馬台国の使者が魏に接触したのはこの楽浪郡。

 官渡の戦い(建安5年)の7年後に曹操に平定(建安12年)されている。



 冀州(きしゅう) 593万人 90万8千戸 袁紹を経て魏の支配下

 古来より様々な歴史書で豊かな土地として扱われる。農業的にも人口的にも。
 長く戦乱で乱れたときにも、東と南と南西の州が人口を減らしたのに対し、冀州は何故か人口を増やしていた。

 冀州北東側には州下最大の人口を誇る渤海(ぼっかい)郡。袁紹は中平6年(189年)12月に渤海太守に任じられ、初平2年(191年)秋に冀州を奪って魏郡に本拠を移し、初平2年(191年)冬に公孫賛の従弟に渤海太守の印綬を譲渡している。
 冀州の最も南に州都鄴(ぎょう)を有する魏郡。その北側の鉅鹿(きょろく)郡は黄巾の乱の本拠地となった。州の北西には趙雲の出身地である常山国があり、黄巾の残党が山賊化した『黒山賊』というかなり大規模な賊の根城となった。

 191年頃に30万の黄巾残党が青州から渤海に侵入。袁紹と争っていた公孫賛がたまたま居合わせ散々に打ち破る。2万の手勢で3万を斬って追い払い、黄河を渡り始めたところで追撃して数万を斬って黄河を赤く染め、7万を生け捕りにしたのだとか。

 官渡の戦い(建安5年)から5年をかけて曹操に平定(建安10年)されている。



 并州(へいしゅう) 69万人 11万5千戸 袁紹を経て魏の支配下

 并州は後漢では涼州に次いで人口の少ない土地。
 州都は州中央から南東方向にある太原(たいげん)郡晋陽(しんよう)県。
 同じく北方にある幽州と似た状況で、騎馬民族である南匈奴、北匈奴、鮮卑、烏桓の侵攻に晒され続けていたため、騎兵の運用に長けている者が多かった。
 異民族との外交は融和などを主軸に置いていたようで、血が混じっている者が多く、後の魏による威力外交には州で反乱を起こすなどして抵抗したようだ。

 并州北部の五原(ごげん)郡九原(きゅうげん)県の出身者にあの呂布が、州北東部の雁門(がんもん)郡馬邑(ばゆう)県からは張遼が生まれている。
 并州刺史の丁原は、前述の2人に加えて高順を登用している。北限の并州刺史なのに何故か後世の創作では中央より南部の荊州刺史にされてしまっていることが多い。



 青州(せいしゅう) 371万人 63万5千戸 袁紹を経て魏の支配下

 州都は州中央よりやや西側にある斉(せい)国臨菑(りんし)県。
 青州下の郡は平均的にそこそこ人口が多い。

 反董卓連合の後に公孫賛の勢力が台頭。30万の黄巾残党が青州平原国から公孫賛のいた冀州渤海郡へ侵入すると、公孫賛はこれを散々に破って青州での勢力を伸ばした。その手で勝手に派遣されたのが平原(へいげん)国相の劉備。劉備は公孫賛が袁紹に大敗すると徐州へ逃亡した。

 その後も小競り合いと土地の奪い合いに終始しているのに統一される時にはあっという間だったり、ここから他州に向けて黄巾賊が無限沸きしたりと、州そのものが話題になることは少ない。

 公孫賛の勢力とその残党が残る青州に、袁紹が長男袁譚を派遣し、後に青州を統一。
 官渡の戦いに当たり、曹操は袁譚の治める青州に対し、徐州から臧覇を派遣。
 袁紹の死後、袁譚は家督争いで不利になり、青州は曹操に併合される。



 兗州(えんしゅう) 405万人 72万7千戸 後に魏の支配下に

 州都は州"北西部"の東(とう)郡濮陽(ぼくよう)県。
 州南西部の陳留(ちんりゅう)郡は太守に夏侯惇や夏候淵が就任した。なお曹操は兗州刺史・牧となったことはあるが、陳留太守の座に就いたことはない。

 司隸の東、黄河の南に位置している。
 曹操はまず北西側、初平2年(191年)に黄河をまたいで冀州から侵入した黒山賊を初平3年(192年)には討伐。初平3年に北東側の青州から黄巾党が侵入して来たことで州刺史に出世し、黄巾討伐、自軍に編入。
 続いて西の司隸と南の豫州から袁術が、北の冀州から黒山賊が、呼応した公孫賛傘下からは東の徐州から劉備や陶謙が攻め込んで初平4年(193年)春に匤亭の戦いとなる。袁紹と協力してこれを破り、秋には曹一族を殺害した徐州牧の陶謙を逆に攻め立てる。
 興平元年(194年)夏、徐州を攻めてる最中に身内の反逆と呂布陣営との呼応によって兗州を奪われ攻勢を中断。その年は自然災害のために穀物の値段が暴騰。明けて翌興平2年(195年)春、兗州奪還のために済陰(せいいん)郡定陶(ていとう)県を攻める。この攻勢と、それに続く夏の呂布との再戦、秋の再戦で勝利し、兗州を奪還。

 これらの戦乱で荒れに荒れた兗州では、極めて厳しい屯田制を敷いて生産力を無理矢理に向上させて補給問題を解消した。曹操が有利になったと書かれる創作が多いが、曹操の不利が解消されたと読むべき。



 徐州(じょしゅう) 279万人 47万6千戸 公孫賛を経て後に魏の支配下

 州都は州牧が陶謙時代には東海(とうかい)郡郯(たん)県、州牧が劉備の時代からは下邳(かひ)国下邳県。呂布の頃も変わらず下邳。郯の城は守りづらい城と言われる一方で、下邳の城は沂水と泗水に挟まれた天然の要害だった。
 下邳国の太守には関羽が就いた。

 州北部に琅邪(ろうや)国。西部から南西、南部にかけてそれぞれ彭城(ほうじょう)国、下邳国、広陵(こうりょう)郡があった。
 北部の琅邪国は臧覇という人物が抑えており、袁紹について青州を攻めたり、曹操について青州を攻めたりと活躍している。黄巾の乱の頃に活躍した人物で、その後ずっと影響力を持っていた。

 下邳国には陳珪や陳登を輩出した名門陳家があり、徐州南部に大きな影響力を持っていたと言われている。
 呉の重鎮には徐州出身者が多い。琅邪国陽都(ようと)県からは諸葛謹や諸葛靚(せい)などの諸葛一族、同じく琅邪国莒(きょ)県から徐盛、下邳国東成《とうせい》県から魯粛、広陵郡広陵(こうりょう)県から張絋など。呉は徐州南部を執拗に狙っており、その際に戦場となったのは広陵郡。袁術が徐州に攻め込んだときも同じく広陵郡だった。



 豫州(よしゅう) 618万人 114万2千戸 袁術を経て魏の支配下

 州下の郡の平均人口なら後漢最大と思われる土地。司隸の南東側に位置する。
 州都は曹一族や夏侯一族の出身地、沛(はい)国の譙(しょう)県。許緒もここの出身。後に曹操が献帝を迎え入れると、建安元年(196年)9月に遷都、頴川(えいせん)郡許(きょ)県に移った。なお、許が許昌(きょしょう)と改名されるのは黄初元年(220年)11月の魏建国後、黄初2年(221年)正月のこと。

 豫州は古くから袁家の影響下にあり、袁一族は汝南(じょなん)郡汝陽(じょよう)県の出身。潁川郡にも強い影響があった。
 袁紹は河北で勢力を伸ばす前、豫州によって勢力を伸ばそうとするが、先んじて冀州渤海郡太守に任じられたため北へ。遅れて豫州入りした袁術がこの地をまとめ、後に曹操の治める兗州を攻撃、大敗して逆に攻められるようになる。
 袁術、曹操、呂布、劉備らによる奪い合いで荒廃、その後曹操が統一するも、官渡の戦いの際には袁家の影響が大きい汝南郡で反乱が起きたりと、落ち着かない。



 揚州(ようしゅう) 434万人 102万1千戸 後に呉の支配下

 州都は九江(きゅうこう)郡寿春(じゅしゅん)県。呉の首都とされたのは呉(ご)郡呉(ご)県、建安16年(211年)に丹楊(たんよう)郡秣陵(まつりょう)県に遷都、翌年から石頭(せきとう)城という要塞を築城し建業(けんぎょう)に改名。

 州は長江の北側、北端の九江郡とその南の盧江(ろこう)郡が都市部。長江の南側、中央に丹陽郡と東に呉郡、南東に会稽(かいけい)郡、南西に豫章(よしょう)郡は田舎な地域。

 九江郡寿春県は交易の中心地で、豫州を追われた袁術が揚州に逃げ込んだ時の本拠地。
 盧江郡は周瑜を輩出した名門、周家の影響が強い。ちなみに盧江郡の北西は州境を挟んで豫州汝南郡。汝南の名門、袁家とは関係が深かった。
 長江の南では呉郡の四姓と呼ばれる豪族四勢力が力を持っており、呉の重鎮として顧雍を輩出した顧家、陸遜の陸家、朱桓の朱家、張温の張家がそれにあたる。
 孫家は『その他の豪族』に含まれる呉郡富春(ふしゅん)県の地方豪族。
 これらからわかるように、呉は共和制に近い政治体制。

 また長江の南には山越と呼ばれる異民族がいた。山越は賊の名称ではない。



 荊州(けいしゅう) 626万人 139万9千戸 後に魏呉蜀によって分割

 州都は武陵(ぶりょう)郡漢寿(かんじゅ)県。劉表が荊州入りしてからは南(なん)郡の襄陽(じょうよう)県。さらに、魏の支配下に入ってからは南陽(なんよう)郡宛(えん)県に移った。
 最北部に南陽郡、その南西に南郡、南東に江夏(こうか)郡。州中央付近に西から東に向かって長江が流れる。長江の南には四郡が存在した。西に武陵(ぶりょう)郡、東に長沙(ちょうさ)郡、南部中央に零陵(れいりょう)郡、南東部に桂陽(けいよう)郡。

 南陽郡は後漢で最も人口の多い郡であり、一州に匹敵すると言われた。実際、幽州、并州、涼州、交州を上回り、徐州とほぼ並び、司隸にやや及ばない程度の人口を有する。
 歴代の支配者は王叡、張咨、袁術、張繍、曹操。曹操の後は魏の支配下で安定した。
 鋳鉄で有名。歴代支配者による水利事業や農業政策で大いに発展したと言われる。

 南郡襄陽県は中国史でも有数の要衝の地。中国北部の勢力がこの地を抑えれば南部をも抑えられる。劉表は南部で暴れる孫堅を討つため、南方の州都ではなくこの地に入って豪族勢力と結んだ。

 南郡江陵(こうりょう)県は荊州中央付近にあり、長江の船による交通と、前漢時代から南北に続く陸の街道がぶつかる要衝だった。
 劉備陣営は蜀を建国する益州に逃げ込む直前、この江陵を奪おうと画策する。結局は曹操の侵攻の方が早く、江陵に到着する前に本隊が追いつかれているため、大軍の通れない西側の細道から益州へ逃げ込んだ。

 江夏郡西陵(せいりょう)県は荊州中東部にあり、南陽や襄陽側から流れる襄江と、江陵側から流れる長江が結ぶ地。
 江夏郡の中央には東西に長江が流れ、その南側には中国最大の銅山『銅緑山』があるため、採掘や加工に関する技術、加工品などの産業が発達していた。

 南部の四郡は山に囲まれた行き止まりの地(中央から見て)だったので、前漢時代には未開発の土地だったが、後漢後期には人口が激増している。
 荊州北中部の発達に伴った人の流入が起こったものと見られ、200年ほどの間に人口が4倍増、戸数も5倍ほどに増えている。全国の人口が減少傾向にあった中で。



 益州(えきしゅう) 724万人 152万5千戸 後に蜀の支配下

 州都は広漢(こうかん)郡雒(らく)県。興平元年(194年)12月に劉焉が蜀(しょく)郡成都(せいと)県に移した。
 2000メートル級の山々に囲まれた土地で、攻めるに攻められない天然の要害。
 州南西から州東部中央に向かって長江が流れており、州東部長江の北側に巴(は)郡。州北西側に蜀郡。
 最北部に蜀の桟道で有名な漢中(かんちゅう)郡。

 桟道とは、壁(崖)に杭などを打ち込んでその上を渡るアトラクションのこと。
 場所によっては登山の技術がなければ進むことも戻ることもできなくなる。
 馬はかろうじて通れるものの荷車が通れない、という場所も多い。そのため、蜀独自の規格で幅の狭い荷車(木牛流馬)が作られた。

 益州から北部に抜ける桟道には子午道、駱谷道、褒斜道、故道、関山道があった。
 子午道は漢中と司隸京兆尹長安県を結ぶ道で、駱谷道はその西に並行する道。
 褒斜道(斜谷道)は漢中から褒水に沿って北に進み司隸扶風(ふふう)郡郿(び)県へと至る道。南口を褒斜、北口を斜谷と呼ぶ。褒斜道が司隸に入った場所に五丈原がある。
 故道は、益州と涼州と司隸の州境西側から散関を経て、州境北側にある司隸扶風郡陳倉(ちんそう)県へ通じる。
 関山道はさらに西方の涼州漢陽(かんよう)郡にぬける比較的平坦な道。

 荊州と益州の陸路は、三峡の険と呼ばれる150㎞にも及ぶ険しい峡谷によって半ば断絶していた。益州に近い方から瞿塘峡、巫峡、西陵峡であり、荊州に近いものの方が長く険しい。
 ただし、長江の流れに乗って東に向かえば、流れが穏やかで川幅も大きい場所が多いため、簡単に荊州へと入れる。三峡付近では流速が早い。三峡よりも益州側にある白帝城から江陵まで船で僅か1日だったということを謳った詩歌が残る。



 涼州(りょうしゅう) 42万人 10万2千戸 後に魏の支配下

 州都は漢陽(かんよう)郡隴(ろう)県。後に(おそらく南部が雍州に組み込まれた際)、武威(ぶい)郡姑臧(こそう)県に移っている。
 戎や羌族などの異民族が多数暮らしており、遊牧民も多かったようだ。
 数々の歴史書で畜産、牧畜が極めて盛んであったと記される。

 後漢末期最大の反乱者の一人、韓遂が居座り、黄巾の乱の直後から25年以上に渡って延々と反乱を起こし続けた。最終的に曹操が攻めたことで韓遂は部下に殺されるが、その部下も後になって反乱を起こした。
 有名なところでは馬騰がこの反乱に参加したり敵対したりと忙しい人生を送っている。



 交州(こうしゅう) 111万人 27万戸 後に呉の支配下

 州都は南海(なんかい)郡番禺(はんぐ)県。
 南海貿易によって珍品の手に入る土地として、劉焉や劉備が望んだことで知られる。どちらの人物も部下の進言によって益州に目的地を変更して大いに成り上がるのだが。
 現在のベトナムの大半を含む地域で、現地異民族の反乱が頻発していた。
 秦の始皇帝時代に初めて中国の版図に組み込まれ、以来、支配力が弱まったりして何度か中央から圧力を受けるもののずっと支配下。

 現地で有力だったのは士家という豪族。士家の士燮は劉表からの圧力に反発して曹操と結んでみたり、赤壁後には孫権と結んでみたりしつつ交州を実効支配。
 後に孫権によって派遣された呂岱が士燮の死を機に征服し、呉の支配下になった。





 7.みんな知りたい 税率

 まずは史実の後漢における税率を見る。
 後漢時代の税は大きく分けて、土地に掛かる税、人頭税、労役(兵役含む)の3種類。

 土地にかかる税は農家一戸あたり、収入の30分の1、およそ200銭(後に60銭)が掛けられた。兵役を課した平民などへの現物支給のために、ほぼ全額が物納であったと思われる。この税を田祖と呼ぶ。
 税収から逆算して農家一戸の収入は現物で6000銭程度。
 この税金は前漢時代から続いてきたもので、後漢時代の後期には徐々に率が下がっていき、一戸あたり200銭の税収があったと記された司馬遷時代の30分の1から、末期には100分の1まで下がったようだ(※)。不作や戦後の混乱で途絶える時期もあった。
 ※魏では収穫の大部分を税として取り上げる屯田兵が制度化されていた。おそらく物納には余裕があったのだと思われる。
 前漢末期、10分の1がかけられていた時代に総額70億銭が集められたという記録がある。逆算すれば一戸あたり572銭であり、一戸あたりの収入が5720銭程度であったことがわかる。

 後述の軍事にもあるが、この時代、大人1人あたり1年間に18石を食べると言われていた。おそらく玄米での数字である。玄米で18石は306㎏。1日約840グラム。
 ローマ人は1日に穀類1キログラムを食べていたと言われる。また、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』では質素な生活の例として「一日ニ玄米四合」(約620グラム)と少しの野菜を食べると書かれた。これらを根拠として1日840グラムという量が概ね正しい数字と仮定すれば、子供2から3人を含めた5人家族が食べる量は1年で80から85石ほどと推定できる。
 前述の『単位』にあるように、農家一戸で玄米1.25トン=73.5石から1.65トン=97石程度の収穫があったとすれば、食べた後に残るのは少なく見積もって全くのゼロ。多くても15石程度だろう。

 15石の玄米が6000銭だと仮定すれば、1石あたり400銭。物価一覧から見ればかなり割高となる。しかし、これならば毎年僅かな数の服を買えるなど、多少の余裕があるだろう。1223万戸から611万石相当が田祖として納付される計算。
 97石の玄米が6000銭だと仮定すれば、1石あたり約60銭。原価として考えても物価一覧からは逸脱する上、後述の人頭税まで支払えば農家にはほぼ何も残らない。田祖として1223万戸から4000万石相当が納付される計算。


 次に人頭税。これは大変にわかりやすい。大人120銭、子供23銭。一律で現金納付である。大人の120銭を軍費、子供の20銭を天子の奉養費、子供の3銭を(武帝以降)車騎の馬を整える費用とした。不作の際は減額されることもあった。
 この税もまた前漢時代に始まったもので、総戸数1223万戸の人口5960万人から41億4252万銭を集めたとされる。ただし、この41億は財産税(咨算)を含んだ数字である。
 人頭税と咨算を合わせて『算賦』と呼ぶ。
 下記の通り、咨算は形骸化していた可能性が高いが、武帝の時代には歳入の多くを支えたとされる。基本的に増税をするときはまず咨算から行っていたようだ。
 算賦の総額を総戸数で割れば一戸あたり338.7銭。
 前漢末期の一戸あたりの平均口数は、後の魏の支配下となる北方で5.65人、呉と蜀のある南方で4.05人、漢全体では5.13人だったので一戸4人から5人で計算すれば、大人2人と子供2人の家庭で人頭税は286銭。大人3人と子供2人の家庭で同じく406銭。大人2人と子供3人の家庭では309銭。3例の平均は333銭。
 人頭税だけでこの額になるため、咨算を加える余地はないだろう。咨算は一般的な税ではなく、かなり限られた層に掛かる税だったのかもしれない。


 最後に労役。公共事業などにかり出された。軍人の補佐をする兵役も含むが、戦う兵士となる『徴兵』とは意味も仕事も別。300銭(更賦)を納めれば免除された。
 開墾や灌漑のための労働、兵役でも給与は支払われなかった。しかし、装備や食料は支給されていたとされ、食料は毎月粟3石3斗3升(米で2石相当)、装備品は3400銭が毎年更新分とされる。
 支給品の衣服は私物としてよく、上下を合わせた価格は1000から1500銭。
 おそらく私物化が認められていなかった支給品は、弩の2000銭、矢が一本で9銭、防具の7000から9000銭。後述の軍事でもう一度書こう。武器防具は4年更新?
 兵役は23から56歳の男子が1年間を1期として計2期課せられた。仕事は「戦争」ではなく、警邏、斥候、伝令、輸送や警護、雑役が主だった。戦闘訓練はほとんど行っておらず、戦闘となった場合も弩を扱うことだけに特化するなどしていたらしい。
 軍侯(現代で言う少佐から大佐)の下に200から300人という数で直接仕えた。

 三国志の登場人物のうち、生没年の判明している29人の平均年齢53.72歳と、後漢時代の碑文に刻まれた75例の平均年齢55.29歳から、平均は54.85歳。
 なお、後漢書などの史書に掲載されている人物は、どの程度大げさに書かれているのかが不明だったので除外。曰く最高齢160歳。意味:化け物。
 23歳以降の人口を全体の40%(※)として、兵役の義務を負う人数は約60万人。後述の軍事を元に、毎年の出費は食料の支給が1320万石と現金9億銭。装備更新は合計約60億銭を何年かにわけて行う。なお、ここまでは非戦闘員。
 ※現代日本では23歳以降の割合は78.8%、明治21年の調査では52.6%
 戦闘を行う職業軍人は『騎士』と呼ばれ、給与も支給された。毎年8000銭。毎年の出費は兵士10万人あたり、食料支給220万石と現金9.5億銭。装備更新は年をまたいで10億銭だが、非戦闘員よりも消耗が激しいと思われるため、より大きく見積もった方が良いかもしれない。

 なお、当時の貨幣発行額は280億銭。これは後漢末期に董卓銭が出回るまでは厳密に管理され、増減は大きくなかった。
 対して、貨幣による徴税は総額92億6千万銭。92万6千斤。
 以上のように、発行貨幣の33%が毎年徴税されることから、当時の貨幣は流通などには余り用いられず、もっぱら徴税手段として用いられた。時代は物々交換。
 現代日本の通貨発行額はおよそ700兆円、先進国の中でもかなり率が高いと言われる流通高は80兆円、租税が40兆円と少々。
 以上を念頭に置いて曹操の父親曹嵩(そうすう)が官位を買うため霊帝に1億銭を献上したという話を思い出せば、その異常な経済の偏りの片鱗が見える。

 ちなみに税ではないが塩や鉄は専売制であり、その収益は年間38億銭に上っていた。





 8.気になる諸費用 軍事

 まずは組織、役職を見ていく。

 太尉→大司馬→太尉 名前が何度か変わった軍事の最高位……なのだが、政治色が強くなり文官に。戦績の報告、軍関連の賞罰/人事/祭祀など行政を担当した。

 大将軍 最高司令官。非常設の職。後漢では権力闘争のための称号。よく死ぬ。

 驍騎将軍 反乱鎮圧軍司令。幕府を開ける。現代で言えば元帥。
 車騎将軍 反乱鎮圧軍司令に加え、平時には政治色を持つ。幕府を開ける。元帥相当。
 衛将軍 衛将軍は北軍(禁軍=近衛軍)の総司令官。幕府を開ける。元帥相当。

 ※幕府 それぞれの名前+府。独自の幕僚を多数持てる。
 軍師 将軍の副官。幕僚を統括する。
 長史 将軍の副官。事務担当。秘書長、参謀長。
 司馬 将軍の副官。兵担当。軍監察官。
 従事中郎 上級参謀。1将軍に2人(大将軍であれば4人)付いた。
 西閣祭酒/東閣祭酒 祭祀を司る。司馬の下?
 主簿 事務担当。命令書や帳簿の作成を仕切る。
 参軍 参謀。1将軍に6人付いた。各部隊への命令伝達なども担当。
 記室督 上奏、報告、記録を担当。
 西曹掾 幕府内(軍)の人事担当。
 東曹掾 幕府下(領)の人事担当。
 掾 書記官。掾は長官を指す。
 督 実務官。督は取り締まり、監督、担当の意味。
 属/令史/御属 所属を指す。主に書記官?
 ※ここまで幕府。

 撫軍大将軍/中軍大将軍/上軍大将軍/鎮軍大将軍/輔国大将軍 名誉ある非常設の職。現代で言えば大将から上級大将。

 征東/征南/征西/征北将軍 特定の地域に置かれた方面(攻撃)軍司令官。大将相当。
 ※四征将軍は幕府を開けるらしい。

 鎮東/鎮南/鎮西/鎮北将軍 特定の地域に置かれた方面(防衛)軍司令官。大将相当。
 安東/安南/安西/安北将軍 異民族対策に置かれた方面軍司令官。中将よりも上。
 平東/平南/平西/平北将軍 異民族対策に置かれた方面軍司令官。中将よりも上。
 ※○東将軍は寿春、○西は長安、○南は新野、○北は薊を本拠とするのが原則。

 前/後/左/右将軍 中央軍の司令官。平時は中将よりも上。戦時は中将相当。
 三品官雑号将軍 目的に応じて設置された将軍位。名前もそれに沿う。中将相当。

 中領軍 宮中近衛軍の司令官。功績を積めば「中領将軍」と称されることも。
 中護軍 中領軍の副司令官兼参謀長。部隊の人事担当。

 四品官雑号将軍 目的に応じて設置された将軍位。名称もそれに沿う。少将相当。
 牙門将軍 元々は大将軍旗下で砦の入り口(牙門)を守護した。准将相当。
 偏将軍 部隊指揮官。他の将軍の副将的なもの。准将相当。州牧がよく部下を任じた。
 裨将軍 他の将軍の副将的なもの。准将相当。州牧がよく部下を任じた。
 五品官雑号将軍 目的に応じて設置された将軍位。名称もそれに沿う。准将相当。

 中郎将 後漢末期には遠征軍指揮官として東西南北の四中郎将が設置。五品官。

 校尉 部(旅団規模)の指揮官。現代で言えば大佐から少将の地位。西園八校尉など。
 司馬 部の祭祀や人事等の行政担当。軍司馬や別府司馬と呼ばれ、文官の司馬とは別。
 都尉 各種専門の指揮官。名称もそれに沿う。文官の都尉とは別。六品官。
 軍候 曲(大隊から連隊規模)の指揮官。少佐から大佐。兵役従事者も指揮した。
 屯長 屯(部隊の最小単位)の指揮官。小隊から中隊規模。尉官から少佐。

 以下、閭長、属長、隊率、什長、伍長などと続くが、実質は指揮官というより点呼のための班長みたいなものだったらしく。
 ちなみに校尉以下は前線に出るのでよく死ぬ。



 軍創設のための費用を求める。
 装備品一式で、服、防具、ナイフ、弩、矢100本を用意したとすると、その費用は約12000銭。一人で。こちらは兵役用。
 装備品一式で、服、防具、剣、ナイフ、弓、弓矢100本を用意したとすると、その費用も12000銭。一人で。こちらは「騎士」用。
 軍馬とその馬具を用意すれば18000銭以上、良馬ならば20万銭以上。一匹で。
 軍用二輪馬車は1~2万銭。荷車などに使う馬車は2600~4000銭。一台で。
 軍事施設の費用は不明。

 非戦闘員の兵士1万人分の装備を新規に用意する場合、必要経費は1億2千万銭。
 戦闘員たる騎士1万人分でも同様。軍馬を加えれば合計3億銭程度。
 軍馬1万頭の用意のみならば1億8千万銭。



 次に、軍の規模を考える。
 前述の税率から、軍事費に回すお金は、田祖の現物接収1石400銭の611万石か1石60銭の4000万石に加えて、人頭税の現金約34億銭。
 兵士に支給される糧食は年22石440リットル352㎏相当。ローマの成人男性1人当たりの穀物消費量が1日1㎏程度と言われていたので、大体計算通りと言える。
 軍馬は毎年の装備更新で2000銭と餌で毎年40石1.07トン、8000銭相当を消費していた。

 兵役によって集められる非戦闘員は、23歳から56歳までの男性。人口5000万人の5割が男性とし、2500万人の40%を該当する年齢と仮定すると、1年を1期として2期の兵役義務を負う人口は約60万人となる。
 60万人の非戦闘員に支給される食料の総量は1320万石。私物化して良いらしい衣服の支給額は毎年9億銭。何年かにまたいで更新するだろう装備品が約60億銭分。3年で更新ならば毎年20億銭、4年なら15億銭、5年なら12億銭、6年なら10億銭、10年なら6億銭、12年なら5億銭。物価について書かれた記述を信じるならば4年更新だが、毎年3400銭を信じるならば60万人で20.4億銭、5から6年での装備更新と毎年の服の支給で大体釣り合うと思われる。

 職業軍人たる騎士は、装備の方向性が異なるものの、ほぼ同額程度の装備と食料、兵役では貰えなかった給与を年間8000銭受け取っていた。ただし軍の規模は不明。
 1万人あたりの維持費は食料22万石、衣服1500万銭、給与8000万銭。年をまたぐ装備更新費が1億銭。ただし、戦闘員は訓練からして非戦闘員とは区別されたので、装備の更新はかなり早かったと思われる。2年更新なら毎年5000万銭、4年更新なら2500万銭。5年なら2000万銭。
 10万人あたりで同じく食料220万石、衣服1.5億銭、給与8億銭。年をまたいで10億銭。2年なら5億銭、4年なら2.5億銭、5年なら2億銭。

 軍馬を全く考慮しなければ以下の通り。
 非戦闘員60万人に装備5年更新で毎年9億+12億銭=21億銭。加えて食料の支給が1320万石。
 騎士10万人に装備2年更新で9.5億+5億銭=13.5億銭。同じく食料の支給が220万石。

 軍馬を含めると費用は1.5倍以上に跳ね上がる。
 上記の税収から、おおよそ60万人+10万人で軍事費を使い切る計算になる。平時にこの規模を大きく上回ることはなかったのではないだろうか。

 ちなみに葬儀費用は一人あたり3400銭。
 将軍の給金は一人当たり毎年10万~60万銭。兵士100人分にも満たない。

 なお、史実では後漢安帝時代の対外戦争費が10年で240億銭とのこと。主な相手は羌(西)、匈奴(北北西)、鮮卑(北北東)、高句麗(東)、穢貊(東)。
 これは5方面の合計が、年平均で15万人規模の騎士の維持を必要としたとすれば妥当な数字だと思われる。もちろん平時の軍費に上乗せした額だろう。



 船について。
 当時の船はジャンク船の原型となった物と言われる。
 西洋の船とは違い船体中央を支える竜骨がなく船底が平らだった。このため浅い水辺を移動するのに向いており、大河や湖で発展したものと考えられる。
 また、後の時代では水密区画と呼ばれる浸水に対応するための構造を持ち、船の後方に取り付けられた舵は取り外すことも出来た。前述の浅い水辺に対応する構造である。
 帆は初期には竹や草を編んだ筵が使われており、強度を補うために多数の骨組みで支えていた。骨は竹や木を使って作られた。この骨組みは帆の強度を増すだけでなく形を維持するのに大きな利となっており、微風から強風まで高効率を維持できた。ただし重い。

 ジャンク船はかなり進んだ構造の船であり、蒸気船の登場まで世界最速級の船だったと思われる。後年の記録になるが、風速9メートルの横風に対して秒速約4メートル、およそ7.5ノットの速度が出せたと言われる。中世ガレオン船の倍近い効率である。風速に対して6割以上の速度を出せると謳う研究もあった。
 6割以上という馬鹿げた数値は、しかし、後述の通りかなり真実に近い可能性がある。

 紀元前の秦勃興の時代、紀元前316年~309年のいずれかの時期に、秦の張儀が公の場で水軍について語ったところによると、秦の船は一隻で50人と3ヶ月分の食料を載せて1日300里(約130㎞)進むことが出来、(後漢の)益州成都付近から荊州江陵付近まで10日で軍を展開出来るのだとか。地理的には長江を下ることを指している。
 当時の水軍の一般的な速さは不明だが、後述の行軍速度あるように1日130㎞の行軍速度というのは異常に優れていると言える。
 なお、蜀の時代に白帝城から江陵まで50人乗りの船に乗って僅か1日で景色が変わってしまったと詩を綴った人物もいる。白帝城から江陵は約450㎞。

 450㎞を1日で移動する速度を求める。
 夜中の運行は不可能だと仮定して、朝4時半に出て夜7時半に到着できると考える。
 15時間で450㎞を移動するには、時速30㎞が必要。秒速約8.3メートル。益州巴郡付近の長江の流れは秒速3.8メートル程度。荊州巫峡付近の流れは秒速7メートル以下。不足分は秒速1.5メートルから4.5メートル。この分を風から生み出していたと思われる。平均3メートルくらいか。
 秒速4.5メートルは、風速10メートルの45%、9メートルの50%、7.5メートルの60%、7メートルの64%に相当。
 秒速3メートルは、風速6メートルの50%、5メートルの60%に相当する。

 長江上流の益州巴郡江州県での流速は毎秒3.8メートル(7.4ノット)。
 荊州と益州の境にある難所、巫峡での流速は毎秒7メートル(13.6ノット)以下。
 黄河は司隸京兆尹長安県付近での流速が毎秒3.1メートル(6ノット)。
 江陵の少し下流にある荊州江夏での風速は年平均6.6メートル。

 幽州遼東郡を支配した公孫度が、遼東半島から対岸の山東半島にある青州東萊郡を水軍で襲撃したという記録がある。また、同じく山東半島の青州東萊郡は、山東半島の北岸から北(遼東半島方面)に伸びる廟島諸島を拠点にした海賊被害に長らく悩まされた。

 長期の水上生活で問題となる栄養素の不足については、船上、船内に小さな畑を持ち、もやしなどの植物、アヒルなどの動物を育てて補ったとされる。

 数百年ほど後世の話になるが、船は一人の商家では持てなかったため、共同出資で所持する例が多かったようだ。



 最後に、当時の軍勢の行軍速度。
 恋姫のゲーム内では50里(謎の単位)を1週間程度、1日あたり7里くらいが常識的な行軍速度であるようだ。ゲーム内での地名を現実の地図に当てはめれば1日30㎞程。恋姫の里は日本史の里なのだろう。
 同時代の古代ローマ帝国やマケドニアでは1日25㎞の行軍が基準とされ、輜重隊を置き去りにした特別編成では1日60から80㎞ほどの行軍が可能だったとされる。

 強行軍、追撃戦で知られる行軍例では、紀元前331年のガウガメラの戦いで8割が歩兵で構成されたマケドニア軍5万が、敵対するペルシア軍歩兵20万と騎兵約5万を打ち破った後、朝まで90㎞に渡って追い立てている。鬼畜。
 共和政ローマとカルタゴの間で起きた第二次ポエニ戦争の中期、紀元前207年、ヒスパニアを巡るメタウルス川の戦いでは、ガイウス・クラウディウス・ネロに率いられた精兵ローマ軍歩兵6千と騎兵1千がプーリアからアリミヌムの南まで約800㎞の道のりを1日100㎞以上で進軍。ただしこの時は、整備した街道を、壮健な兵士を選抜し敵の目を盗み夜間に出発、極限の軽装で糧食さえ持たず通過する街で補給、寝る間も惜しんで行軍している。史上稀に見る強行軍であったし、同時に、歩兵の行軍速度として歴史上でも三指に入る速さだろう。ほぼ限界の速度と見て良い。
 そして冒頭でも挙げた、司馬懿の千二百里を8日、1日65㎞の強行軍。サバを読んでいた分を除外しても1日50㎞以上は神速といって良い用兵ではある。
 恋姫の登場人物でもある夏侯淵は迅速な行軍での電撃戦を得意とし、『魏略』において「三日で五百里、六日で千里」と称えられている。具体的にどこでどう使ったという実例はわからないけれども、事実ならば1日70㎞ほど。





 9.役人と政府と地方制度

 官吏の最低賃金は月額600銭。年額で7200銭である。
 資料に残る例では、北方の軍事施設で長官から順に
 長官月額6000銭
 副官2000銭
 上級の役10人が1200銭(計1万2千銭)
 中級の役10人で600から900銭(計6千から9千銭程度)
 下級役人80人がそれぞれ600銭(計4万8千銭)
 とされており、102人合計7万5千銭程度、月給の平均は750銭だったようだ。
 これを官吏の総数12万人に当てはめると年間10億8千万銭。年間10万銭を超えるほどの給金を貰う役人が上記の割合未満で存在していたと仮定して、500人に1人なら12万人に240人、2400万銭。総額11億銭と少々、240人の内いくらかが更に高給取りであったとしても12億銭には届くまい。
 公式には官吏最高位の三公でも月に350石(1万銭くらい?)しか貰っていない。

 中央の組織。○品官というのはおおよその偉さを指す。課長クラスとか部長クラスの様な意味。九品官くらいまでいる。

 以下、一品官。
 相国/丞相 非常設の職。摂政とか関白のようなもの。
 太保/太博 非常設の名誉職。

 大司馬=太尉 三公の一つ。国防相。太常/光禄勲/衛尉府の親玉。大司馬府の長。
 司空 三公の一つ。国交相。司空府の長。
 司徒 三公の一つ。総務厚労相。司徒府の長。
 ※三公はそれぞれの名を持つ府を開ける。各府には軍師、長史、護軍都尉、司馬、従事中郎、参軍、主簿の他、府の役割に応じていくつかの幕僚が存在した。

 以下、二品官。
 録尚書事 事実上の総理大臣。
 尚書令 尚書台の長。政調会長。
 侍中 皇帝の側近。侍中府に属する4人のエリート。
 中書監 中書省の長。影の実力者。

 以下、九卿と呼ばれる閣僚クラス、三品官の文官。
 太常卿 儀典担当大臣。
 光禄勲卿 近衛部隊長という名のフリーター。仕事がないので使者になったりする。
 衛尉卿 宮中警察長官。宮殿外を担当。
 典客/大行令/大鴻臚(卿) 外務担当の大臣。
 宗正卿 皇族の皇族による皇族のための司法機関。皇族の記録なども担当。
 大司農卿 農水財務相。屯田・農業の管理、専売・貨幣の管理、租税・国庫の管理等。
 少府卿 内務大臣にして宮内庁長官。
 太僕卿 総務省と国交省と防衛省の仕事の一部を担当していたが、後に弱体化。
 廷尉卿 大理とも呼ぶ。法務大臣。

 以下も三品官。
 執金吾=中尉 名前からして偉い。憲兵隊司令で、九卿に匹敵する権力者。
 大長秋 宦官最高位。皇后府の長。曹騰(曹操の祖父)はここまで上り詰めた。
 太子太博 名誉職。
 散騎常侍 名誉職。
 将作大匠 造園担当。侮るなかれ、国が傾く程の大事業に繋がったこともある。

 以下、台官と呼ばれる四品官。
 御史中丞 御史台の長。公安・検察庁長官。
 都水使者 都水台の長。治水の内、保守を担当する。
 符節令 符節台の長。徴兵の命令書などを担当?

 四品官?
 蘭台令史 上奏、公文書作成を担当?


 行政の単位は大きい方から州、郡、県。州は元々複数の郡を監視するための単位。
 州の長は刺史。前漢時代に監視官として制定された役職だったが、時代が進んで何故か行政権を得ていった。名称が時代によって「牧」と「刺史」とでころころと入れ替わったのも特徴。後漢末期には刺史(四品官)に軍事権を持たせた牧(三品官)も登場した。
 郡の長は太守(四品官以下)。以下、次官が丞(八品官)、軍事担当が都尉(五品官)。皇帝の親族が太守になると王(四品官以下)や公(四品官以下)と呼ばれた。王や公は洛陽に残ることが多く、王を補佐する王国相、公を補佐する公国相が実質的な太守だった。
 県の長は県長(六品官以下)。以下、次官が丞(八品官)、軍事担当が県尉(九品官)。この辺りは汚職の巣。なお、県の人口が1万を超す場合や辺境で異民族の侵攻が激しい場所などに限り、長は令=県令(六品官以下)と呼ばれた。皇帝の親族が県長や県令になると侯(六品官)と呼ばれた。侯の補佐は侯国相。
 ここまでは品官公職。以下は品外の官。

 県の下には一つから複数の『郷』や『亭』が集まり、その下には複数の『里』が集まっていた。里は100戸程度の農家が集まった集団。
 有秩、嗇夫は郷の長。郷佐は徴税を担当。大きい郷は有秩、小さいものは嗇夫が置かれた。ただし、実質的なまとめ役は三老。里魁、里正は里の長。
 亭長とその補佐の亭吏は、やくざ者がなった。

 郷や亭の中心には『市』があり、交易や商売はここで行われた。『市』は自然発生したものではなく行政により管理されていた。そのため、罪人の処刑も市で行われた。
 漢以前の戦国時代では、集落は基本的に城塞都市であり、これを邑と呼んだ。邑の中は里ごとに堀や塀で区分けされていた。住民は朝になると城門を出て畑仕事をし、日が暮れるとまた門の中に戻るという生活をしていた。城門の通行はもちろん、里と里の行き来ですら夜間は禁止である。
 戦国時代までは平民は邑の中でしか暮らしていなかったが、漢の時代には貧しい者は城壁の外に家を構え、より遠くに田畑を持った。
 邑は元々は氏族が一纏まりになって生活していたため異姓の者は排除された。しかし、漢の頃には徐々に異姓の者も受け入れられるようになっていたようだ。





 10.ゲームシナリオと演義

 地名・人名が異なる、(郡)太守であるべきところが(州)牧など、史実と異なる表記は""で囲った。ゲームに準じている、つもり。史実と異なる出世具合などは無視した。

 原作蜀ルートの流れ
 一章.幽州"啄"郡、五台山に一刀が出現。桃園の誓い。
 二章.太守、公孫"賛"のところへ。趙雲と出会う。賊退治。
 三章.黄巾の乱勃発。諸葛孔明、"鳳"統と出会う。曹操らと出会う。
 四章.黄巾の乱終結。劉備、平原"相"に。六章開始時までに平原"牧"になる。
 五章.霊帝死す。反董卓連合。諸侯と出会う。連合終結、董卓、賈"駆"を保護。
 六章.劉備、徐州牧に。赴任一ヶ月、公孫賛を保護。袁術、呂布連盟との戦。
 七章.北方の袁紹滅亡。曹操の電撃侵攻から大逃亡、徐州鼓城から益州"諷"陵へ。
 八章.益州攻略。黄忠、厳顔、魏延と出会う。"蜀"州都成都まで制圧。
 九章.益州制圧。五胡・南蛮に不穏な動き→五胡との戦。
 十章.五胡戦から二ヶ月後、南蛮制圧を目論み攻め込む→南蛮制圧
 十一章.曹操が動くが傍観。
 十二章.魏軍100万と呉軍40万の戦いに介入、天下三分の計へ。魏軍を奇襲。
 十三章.赤壁の戦い。勝利。
 十四章.赤壁後一週間。魏と蜀呉の兵力が拮抗→戦の直前に五胡襲来→勝利後同盟。

 原作魏ルートの流れ
 一章.一刀が趙雲、程立、戯志才と出会う。陳留"刺史"曹操に保護される。
 二章.荀彧の参入、許緒と出会う。山向こうの盗賊討伐。曹操が陳留"州牧"に。
 三章.旅芸人3人組、三羽烏と出会う。占い師「乱世の肝雄」。旅芸人、妖術入手。
 四章.黄巾の乱勃発、朝廷より討伐令。義勇軍で三羽烏が加入。北郷隊発足。
 五章.夏侯惇が孫策に借りを作る。黄巾党の乱、本隊を討伐。曹操が西園八校尉に。
 六章.曹操は典軍校尉。何進死す。反董卓連合。夏侯惇が左目を失う。張遼加入。
 七章.袁紹大将軍が河北四州(青州・并州・幽州・冀州)を制圧。程昱、郭嘉加入。
 八章.袁紹、袁術が徐州を攻める。劉備は曹操領地を通り益州へ逃亡。官渡の戦いへ。
 九章.劉備、呂布が攻めてくる。野戦で劣勢になるも一刀が活をいれて曹操復活。
 十章.夏侯惇は漢の将軍。涼州馬家と戦→勝利。馬騰は服毒自殺。馬超らは蜀へ。
 十一章.劉備が益州周辺を平定。定軍山の戦い、夏候淵救出。劉備が南蛮を平定。
 十二章.ほあー!呉を攻めるぞー!華琳は胸が小さい。呉にちらつく蜀の影。
 十三章.黄蓋現る。苦肉の計。赤壁の大勝。呉の将は蜀へ逃亡。揚州、荊州を制圧。
 十四章.里帰り。曹操が「橋玄さま」の墓参り。占い師の名前(許子将)判明→荊州へ。
 十五章.魏軍50万が蜀へ侵攻。蜀呉の連合軍に勝利。三国同盟成立後、一刀消える。
 十六章.平和な三国同盟。「また会いましょう、一刀!」

 原作呉ルートの流れ
 一章.春。管輅はエセ占い師。荊州南陽の孫策が一刀を保護。荊州"太守"袁術の下。
 二章.黄巾の乱勃発。討伐作戦にて一刀が作戦立案、初陣。
 三章.曹操の本拠は許"昌"。冀州にて黄巾党本隊と決戦の命令。諸侯と連携して勝利。
 四章.一月後、霊帝崩御。反董卓連合。孫呉の(元)本拠地は"建業"。金印を入手。
 五章.二ヶ月後、曹操は洛陽、袁紹は領土拡大、劉備は徐州へ。呂蒙加入。袁術撃破。
 六章.揚州全土を制圧。曹操による電撃侵攻、孫策が毒矢に倒れる。孫権、立つ。
 七章.一ヶ月後。揚州各所で内乱勃発、劉備による一方的な同盟撤回。内乱鎮圧。
 八章.本拠地を建業に移す。官渡にて曹操が勝利。荊州には劉表。南征→呂布戦。
 九章.呂布は劉備により保護。20日後に徐州の劉備に仕掛ける予定で準備を開始。
 十章.戦前に孫家の墓参り。劉備との戦→勝利。曹操による両陣営への電撃侵攻。
 十一章.曹操との決戦。赤壁で連環の計→勝利。曹操は外史へ。周瑜死亡。天下二分。

 三国志演義の流れ
 184年 黄巾の乱
 184年? 桃園の誓い
 190年 反董卓連合
 192年 孫堅の死
 192年以降 曹操の躍進
 194年以降 孫策の躍進
 198年 呂布の死
 200年 官渡の戦い
 200年 孫策の死
 208年 劉備逃亡、長坂の戦い
 208年 赤壁の戦い、呉の追撃
 212年 劉備、蜀を立てる。天下三分の計
 215年 合肥の戦い、魏vs呉
 219年 荊州争奪戦、魏呉が結ぶ
 219年 関羽の死
 220年 曹操の死
 221年 蜀による呉侵攻、張飛の死
 223年 劉備の死
 225年 南蛮制圧


 表記の指摘。

 蜀ルート 一章
 幽州"啄"郡
 タクの字が異なる。史実では涿郡。

 蜀ルート 二章
 太守、公孫"賛"のところへ。
 太守とは涿郡(恋姫では啄郡)太守だろうか? サンの字が異なる。史実では公孫瓚。

 蜀ルート 三章
 "鳳"統と出会う。
 ホウの字が異なる。史実では龐統。鳳は道号の鳳雛からだろう。

 蜀ルート 四章
 平原"相"に。六章開始時までに平原"牧"になる。
 平原県令から平原国相になっていたようだ。ただ、平原は平原国と平原県しかないので牧は置かれないと思うのだが。

 蜀ルート 五章
 董卓、賈"駆"を保護。
 クの字が異なる。史実では賈詡。

 蜀ルート 七章
 徐州鼓城から益州"諷"陵へ。
 諷陵でフウリョウと読む。史実では該当地域には涪陵という地名が存在する。涪陵はフリョウと読む。

 蜀ルート 八章
 "蜀"州都成都まで制圧。
 まだ蜀は出来ていない上に、蜀は州ではない。

 魏ルート 一章
 陳留"刺史"曹操に保護される。
 陳留は郡なので太守ではないだろうか。ただ、陳留の存在する兗州(エン州)は後々まで陳留としか書かれていないので、陳留州という扱いになっているのかもしれない。

 魏ルート 二章
 曹操が陳留"州牧"に。
 やはり陳留州という扱いになっているかもしれない。この時点で三品官だと思われる。

 魏ルート 五章
 曹操が西園八校尉に。
 西園八校尉は五品官。文官で三品官の牧になっているが、校尉は武官の地位。この場合は、名前を呼ぶときは基本的に牧の方で呼ぶのが正解。曹陳留牧。曹陳留州牧?

 魏ルート 六章
 曹操は典軍校尉。
 同じ「校尉」の中でも比較的高級武官。ただし率いる兵数は少なく、2500人程度。

 呉ルート 一章
 荊州"太守"袁術の下。
 荊州は州なので、そこの長は刺史か牧である。太守は郡の長。呉ルート八章では、荊州は劉表が治めていると発言があった。袁術は演義において南陽太守。

 呉ルート 三章
 曹操の本拠は許"昌"。
 本来の名は「許」であり、魏王朝の建国後に「許昌」と改名した。

 呉ルート 四章
 孫呉の(元)本拠地は"建業"
 本来の名は「秣陵」であり、孫権が本拠地を移した後に「建業」と改名した。


 史実や演義と恋姫とで名前・漢字が異なっている人。五十音順。
 賈駆 か・く "く"の字が異なる。史実では賈詡。
 許緒 きょ・ちょ "ちょ"の字が異なる。史実では許褚。
 公孫賛 こうそん・さん "さん"の字が異なる。史実では公孫瓚。
 鳳統 ほう・とう "ほう"の字が異なる。史実では龐統。
 意外と少ないが、以上だと思われる。



 記述、発言の指摘。

 魏ルート 五章
 地和「姉さんが悪いんでしょっ! 『わたし、大陸のみんなに愛されたいのー!』とか何とか……」
 天和「えー。それだったら、ちーちゃんも『大陸、獲るわよっ!』とか言ってたじゃない!」
 地和「そ、それは、歌で獲るわよって意味で……!」

 魏ルート四章で一刀が地の文で推測していた台詞は「わたし、大陸が欲しいのー!」




 魏ルート 二章
 秋蘭「南皮は袁紹の本拠地だ。袁紹というのは、華琳さまとは昔からの腐れ縁でな……」

 荀彧が登場し、曹操の前で自らを売り込んだ際のやり取り。
 南皮は冀州渤海郡下の県。袁紹は公孫賛との戦争に陥るまで約3年間、渤海郡太守。冀州は豊かな土地として有名であり、渤海郡は特に人口が多い。




 魏ルート 十二章
 地和「みんなーーっ! ありがとーーーーー! 大好きだよーーーーっ!」
 観客「ふぉおおお(中略)おおおっ!」
 観客「中! 黄! 太! 乙! 中! 黄! 太! 乙! 中! 黄! 太! 乙!」
 観客「ほぁぁぁー! ほっ、ほぁ、ほぁぁぁぁ!」

 ネットで見る「ほ、ほーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!!」ではないので注意。
 中黄太乙は神様の名前。スローガンとして使われていた「蒼天已死、黄天当立、歳有甲子、天下大吉(蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし、歳は甲子にあり、天下大吉)」とは全くの別物。




 呉ルート 三章
 (地の文)許昌に本拠地を置く曹操。

 許昌は豫州潁川郡の県で、当時の名前は許。
 兗州陳留郡の南、荊州南陽郡の北東。曹操は陳留刺史と言われているのに豫州まで支配下に置いていたのだろうか?
 ゲーム内の時期的にも黄巾党討伐直前であり、この時期に豫州を曹操が抑えていたりしたら、蜀ルートで徐州から逃げ出す劉備陣営の逃げ道が存在しないことになる。
 反董卓連合終結後までに豫州を捨てたか、平定を後回しにしたのだろうか。




 呉ルート 四章
 一刀「建業って?」
 雪蓮「私たちの本拠地だったとこよ」

 建業は揚州丹陽郡の県で、当時の名前は秣陵。
 本来の本拠地は揚州呉郡の呉県。呉郡は顧家、陸家、朱家、張家の影響が強く、孫家は弱小豪族の一つでしかなかった。
 孫策の没後11年ほどしてから、孫権が呉から秣陵に本拠地を移す。翌年に石頭城という要塞を築城して建業と改名した。
 なお、これより700年ほど前の春秋時代に呉の本拠地だった事がある。もちろん孫呉ではないが。




 呉ルート 十章
「五十里ならばおよそ一週間ほどか……!」

 上記は孫呉が揚州から劉備治める徐州に攻め入った際に、北方より曹操が介入してきたシーンで甘寧が放った台詞である。蜀ルート七章と同じく徐州の彭城付近での出来事。
 曹操軍が兗州の泰山から徐州彭城に向かっていたとすると、実際の地図に当てはめればその距離は220㎞程度。日本の単位なら大体55里ほどであるが、後漢の単位ならば530里を超すはずなのだが。
 史実によれば、劉備が民を引き連れて荊州から山間部の益州へ逃亡した際の行軍速度が1日10里余りだった。もちろん後漢の単位で。なお、後漢の里で10里は4㎞程度。
 後漢の単位で50里ならば20.7㎞。21㎞に1週間かかったのなら1日3㎞も進軍していないということになる。よって、この50里は約200㎞を指した物であり、逆算して曹操軍の『常識的な』行軍速度は1日30㎞程度であることがわかる。
 さらに、直後には主戦場を赤壁へ……860㎞、後漢の単位で2000里以上も離れた場所へ移している。甘寧の言った単位ならば215里か。4週間分? 恋姫時空である。




 蜀ルート 七章
「なら、逃げちゃおう」

 呉ルート十章とほぼ同じ位置関係で劉備陣営のみが攻められた際の劉備の台詞。
 報告に来た兵士の話をまとめれば、国境を越えるまで察知出来ず、砦を囲まれるまで肉眼で確認しており、それから確認した当人が朝議の場まで知らせを携えてきたようだ。
 当時の馬では、国境からの220㎞を進むにはどんなに早くても丸一日はかかる。攻められた時間が早朝でないとすれば、一日半掛かったと見るのが妥当である。
 その後、孔明曰く「破竹の勢い」で進軍を続ける曹操軍を尻目に逃亡を図る劉備陣営であるが、民を引き連れていたため、その行軍速度は思ったように上がらないと言う。
 ルートの選定次第ではあるが、長坂の戦いが起こっていることから少なく見積もっても800㎞は逃亡に成功し、その後の諷陵(涪陵)までの山間部隘路桟道600㎞と合わせて1400㎞は逃げ続けている。後漢の単位で3500里ほどである。
 なお、史実の劉備は樊城から襄陽を経由して江陵方面に逃亡し、1日10里余りを逃げた(5㎞前後?)が、約200㎞で補足された。

 曹操軍が1日30㎞で劉備軍とほぼ同じルートを行軍していたと仮定すると、泰山から当陽の長坂までは34日。
 魏ルートでは曹操陣営が袁紹に突如攻められた際、兵2万を集めるのに掛かる時間は最短で1日と見積もられていた。仮に劉備陣営が斥候に1日半と、兵士5万の出立まで最短1日半で行えたとしても合わせて3日。曹操軍を基準にして長坂まで31日。
 曹操軍は1日30㎞で3日進んでいるので、二者の距離は残り130㎞だ。
 民を連れた劉備陣営は130㎞に迫った曹操軍から31日間逃げ続けたことになる。単純に言えば1日あたり4.2㎞しか追いつかれていない。最後尾の移動速度が1日あたり25.8㎞だ。
 ほとんどの民を連れた先頭集団の劉備らは、諷陵に入るまで(600㎞手前の)長坂で曹操軍に追いつかれ、撃退した事は知らなかった。つまり、そのままのペースで逃げ続けていた事になる。
 先頭集団が最後尾よりも速い1日25.8㎞以上進んでいたとすれば、史実の5倍を超える速さである。しかも移動距離は7倍。民は何倍強いのか。
 魏ルート十二章では「南方には風土病が多い」ため医薬品を多量に用意したとある。ここで知っておいて貰いたいのだが、徐州は北方の州であり、荊州は南方の州であること。
 さらに、劉備たちが通った長坂から諷陵への道は、三峡の険と言われる中国有数の難所である。児童公園などにある丸太で出来た橋を渡る遊具を思い浮かべて、そこから一つ飛ばしに丸太を取って、片側を崖にして、足下を崖にして、手すりを取ったものがおおよそ桟道と呼ばれるものであり、この道が150㎞以上に渡って続くのが三峡の険なのだ。荷車など当然通れないし、馬を通すのは至難だろう。

 つまり、徐州の一般人達は、突然の通達から僅か1日余りで家財道具をまとめて、それらを持ったまま曹操軍騎兵の影に怯えながらも彼らの約9割の速さを保って逃亡を続け、平定間もない揚州(敵国)の北、曹操の影響が強い豫州(謎の空白地帯)を通り、風土病や湿地の多い荊州(仮想敵国)を駆け抜け、馬車や荷車が通れないほど狭い山道すらも休みなく歩き、日本で言う本州北端青森から本州西端山口までと同等の約1400㎞を引っ越したのだ。意味:化け物。




 魏ルート 十五章
「だから華琳。君に会えてよかった」「……逝かないで」
 
 

 
後書き
資料 恋姫時代の後漢

 出典

□史書(※中国語)
 華陽国志
 魏志
 魏略
 荊楚歳時記
 後漢書
 後漢書集解
 呉志
 三国志演義
 三国志集解
 史記
 資治通鑑
 襄陽耆旧記
 蜀志
 晋書
 続漢書
 水経注疏
 隷釈隷続

□書籍
 貨幣の中国古代史
 関于漢代塩価的歴史考察(※中国語)
 漢帝国と辺境社会
 秦漢財政収入の研究
 水経注校釈(※中国語)
 中国人口通史(4) 東漢巻 中国人口通史叢書(※中国語)
 中国地方行政制度史(※中国語)
 東洋的古代(※中国語)
 東洋史研究(※中国語)

□Webサイト
 いつか書きたい『三国志』
 漢籍完訳プロジェクトIMAGINE
 幻想山狂仙洞
 古代世界の午後
 三国見聞録
 中国大百科
 農林水産省大臣官房統計部 作物統計
 bchuan的博客(※中国語)

□ゲーム
 真・恋姫†無双

■書いた人
 所長


 わたしは 美羽が すきです 
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