ソードアート・オンライン 穹色の風
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アインクラッド 後編
圏内事件 3
「なあ、そんなに緊張しなくても……」
「誰のせいだと思ってるのよ! っていうか、何でキミはそんないつも通りでいられるのよ……」
やや乱暴にブラウンの髪を払ったアスナが、気疲れしたような溜息をキリトに向けた。その間にも、いつもの紅白の騎士衣装に着替えた彼女はせわしなくキリトと青白く光るゲートとの間で視線を行き来させている。二人の後方ではエミが苦笑を浮かべているが、緊張ゆえか、それもどこかぎこちない。
ヨルコと別れた後、マサキたちは次に起こすアクションとして、「カインズ殺害の詳細な手口を検討する」という案を採択した。そしてこの時、「もっとこの世界に関する知識を持った人物の協力が欲しい」との理由でとある人物の助力を仰いだため、現在彼らはその人物を出迎えるべく第五十層主街区《アルゲード》の転移門前で待機していたのである。ちなみに、アスナとエミが緊張している原因も、その呼び出した人物にある。
「……来たな」
腕を組み、近くの柱にもたれかかりながらゲートを見ていたマサキが呟いた瞬間、青白く光るゲートから出てきた人物の姿に広場中がざわめいた。暗い紅のローブをまとい、ホワイトブロンドの長髪を首元で束ねた男――《聖騎士》ヒースクリフは真鍮色の瞳でマサキたちを捉えると、音もなく歩み寄った。すると、石のように硬直していたアスナが急に動き出し、たかと思うと、かかとを鳴らして敬礼した。
「突然のお呼び立て、申し訳ありません団長! このバ……いえ、この者がどうしてもと言ってきかないものですから……」
「何、ちょうど昼食にしようと思っていたところだ。かの《黒の剣士》キリト君に《穹色の風》マサキ君、《モノクロームの天使》エミ君の三人と共に食事できる機会など、そうそうあろうとも思えないしな。夕方からは装備部との打ち合わせが入っているが、それまでなら付き合える」
息せき切って弁解するアスナに、ヒースクリフは滑らかなテノールで伝えてマサキたちを見回した。キリトが肩をすくめ、先のフロアボス攻略戦の礼も兼ねて今日は俺のオゴリだ、と宣言しつつ黒いコートをなびかせて体を翻す。
まるで迷宮のような細い路地を右へ左へ、果ては潜って登って回り込んだ果てに辿り着いたのは、一軒の寂れたNPCレストランだった。赤い暖簾に、よく中華料理の皿で見かける四角い渦巻き模様が白で染め抜かれている。
一目見て“胡散臭い”との印象を受けたマサキが若干顔をしかめながらキリトに続いて暖簾をくぐると、案の定店内には一人の客もいなかった。一番奥の安っぽい四人がけテーブルにアスナとキリト、ヒースクリフが、そこから通路を挟んで向かい側のカウンターにマサキとエミが腰掛け、厨房で客の到来を心底煩わしく思っていそうな顔をしたNPCにキリトが人数分の《アルゲードそば》なるメニューをオーダー。卓上にひっくり返されて積み上げられた曇りガラスのコップに、これまた安っぽい水差しから氷水をガラガラ注ぐ。
「なんだか……残念会みたくなってきたんだけど……」
「気のせい気のせい。それより、忙しい団長どののためにさっそく本題に入ろうぜ」
これ以上なく微妙そうに唇をへの字に曲げたアスナだったが、キリトに促されると、一度コホンと咳払いをして表情を整えてから事件のあらましを語った。どことなく緊張感を持った店内に、アスナの凛とした声だけが響く。その全てを聞き終えてから、ヒースクリフは一度コップを傾けて、ふむ、と呟いた。
「では、まずは君たちの推測から聞こうじゃないか。キリト君。君は今回の《圏内殺人》の手口をどう考えているのかな?」
「……まあ、大まかには三通りだよな。まず一つ目は、正当な圏内デュエルによるもの。二つ目は、既知の手段の組み合わせによるシステム上の抜け道。そして三つ目は……アンチクリミナルコードを無効化する未知のスキル、あるいはアイテム」
「三つ目はあり得ない」
キリトの仮説を、マサキが即座に否定した。と、ヒースクリフは「ほう」と呟いて興味深そうな視線を、その他の三人は驚いた顔をマサキに向けてきた。言外に理由を尋ねられていると察したマサキは、氷水で口を湿らせて二の句を継ぐ。
「――SAOのルールは、原則全員に平等で、公正だ。そしてそれは、プレイヤー間の格差を埋めることによって『モチベーション次第でどこまででも強くなれる』という状況を作り出し、プレイヤーたちの競争心と強さへの執着を煽ることでハイレベルプレイヤーを育成、『アインクラッドを攻略する』という、ゲームの目的を果たさせるためにどうしても必要な要素だった。にもかかわらず、その大原則を正面から破り捨てる愚を茅場晶彦がするとは思えないんだよ。……もっとも、《聖騎士》殿を見る限り、どうやら例外はあるようだが」
「ふ……マサキ君、それはお互い様と言うものではないかな?」
最後にチクリと付け足すと、ヒースクリフは片頬を持ち上げて返した。肩をすくめて返答するマサキ。ヒースクリフが続けて言う。
「私としても、彼の意見に賛成だ。このゲームを開発した人物が、そんなことをするとは思えない。……では、次はマサキ君に尋ねようか。君は、この事件の手口をどう推測する?」
氷水に口をつけていたマサキは、含んでいた水を飲み下してから答えた。
「一つ目、二つ目はキリトと同じだな。三つ目は今の理由で反対。あともう一つ挙げるとすれば……ゲームを構築しているシステム群に、何かエラーやバグの類が発生した、ということくらいか」
コップを片手にマサキが告げた途端、キリトの顔に衝撃が走った。珍しくヒースクリフが眉を持ち上げ、ほう、と声を漏らす。と、横合いからいまいち話を理解できていない様子でエミが口を挟んできた。
「バグ……って、わたしあんまり詳しくないけど、何もしてないのにゲームがおかしくなっちゃうことだよね? でも、わたしそんなの今まで一度も聞いたことないよ?」
「ゲームデザイナーとカーディナルのエラー訂正機能が、それだけ良く出来ていたということだろうな。が、バグなんてものは、無くそうと思って無くせるものじゃない。露見していないものも含めて、どんなバグが幾つあるのかは知らないが……必ず、どこかには存在すると考えるべきだ。キリト、お前、今まで一つのバグや不具合も存在しないオンラインゲームなんてものを見たことがあるか?」
「……そりゃあ……」
ないけどさ、と呟き、キリトは口をつぐむ。全く考えていなかったという風な思案顔だ。
キリトがバグの可能性に思い至らなかったのも無理はない。そもそもこのゲームでは、先ほどエミが言ったとおりその類の報告が全くないからだ。それどころか、プレイヤー側の要求に対してサーバー側の処理が追いつかなくなるために生じる遅延――いわゆる《処理落ち》や《ラグ》さえ見かけた者はいない。それが一年以上も続いたため、プレイヤーたちは既に「そういうもの」なのだと認識して疑わなくなったのである。
「しかし、随分と断定的な口調だな。どこかでバグや不具合を見つけたことがあるのかい?」
ヒースクリフが問う。
「……いや。単に理論的可能性を指摘しただけだ」
目を瞑り、息を大きめに吐き出してから水を呷る。別に水が飲みたいわけではなく、表情が崩れそうなのを誤魔化すためのテクニックだ。
「……だとしても、今の時点でその可能性を検証するのはナンセンスだわ。仮に今回の件がバグによるものだったとして、確かめようがないもの」
とアスナ。
――いや。
マサキはカウンターに背中を預け、メニューが張り紙された壁の向こうを見た。
「……方法なら……」
マサキの口から、言葉が思考の検閲をすり抜けて漏れた。すぐ我に帰った思考回路が戻ってきて、続きをシャットアウト。中途半端に放り出された言の葉が、役割を遂げることなく仮想の空気に溶けていく。
馬鹿馬鹿しい。マサキは自分の思考を切り捨てた。そうしてバグを見つけたところで、一体どうなる? バグを直して終わりにするか?
……くだらない。それでは茅場を手助けするのと同じではないか。
それに、今更だ。
やる気があるのなら、とっくにやっていた。何度だって機会はあった。
この世界に来る前にも、来てからも。
昨日だって。
そして、今この瞬間だって。
その全てのチャンスを尽く手放してきたからこそ、今この瞬間もつつがなく世界は続き、人の命を喰らい続けている。
「マサキ君」
澄んだ声に呼び戻されるようにしてピントが戻る。目の前に、小さな手のひらが左から伸びてきて浮かんでいた。
「コップちょうだい。お水、注いであげるから」
「あ、ああ……」
一瞬だけ思考が止まった間に、マサキは言われるがまま、いつの間にか中身が尽きていたコップを差し出されたエミの手に握らせていた。エミは何が楽しいのか、にこにこと口元を緩ませながら水差しを傾ける。そんな仕草に、何となくマサキは毒気を抜かれてしまう。
小さく、肺から息を抜く。
「……まあ、そうだな。今すぐそれを確かめるのは難しい。となると……まず議論すべきは一つ目、正当なデュエルの結果である可能性か」
「よかろう。……しかし、料理が出てくるのが遅いな、この店は」
「俺の知る限り、あのマスターがアインクラッドで一番やる気ないNPCだね」
「……そう言えば、今まで気にしたこともなかったけど……」
微妙に脱線しかけた話の軌道を修正するように、アスナが口を開いた。
《醤油抜きの醤油ラーメン》と言う混沌極まるメニューを肴に行われた昼食会は、結局幾つかの可能性が不可能であると結論付けただけで終了した。選択肢を狭めるという意味で言えば有意義ではあったが、解決への道筋が見えたわけでもなく、事態はより迷宮に近づいたと言うのが正しい。故に、マサキたち四人の間に流れる空気も必然的に重苦しいものに――
「あ! ねぇねぇアスナ、これも可愛い!」
「わ、ホントだ。うーん、買っちゃおうかなぁ?」
「いいと思うよ? アスナ、似合いそうだし」
――ならなかった。アインクラッド随一と言えるほどの表通りの喧騒すら届かないアルゲードの裏路地は、およそ似つかわしくない黄色い声に染め上げられていた。
一足先に帰ったヒースクリフを見送り、次の行動に移るべく、転移門広場を目指して歩き出したマサキたちだったが、その歩みは予想外に遅かった。女子二人が裏通りの怪しげな露店や暗渠に見入ってしまったためである。
「……なあ、これ、いつ終わるんだ……?」
困り果てたように尋ねてくるキリト。
「知らん。向こうに聞け」
マサキはぶっきらぼうに返すと、キリトの顔に「それができたら苦労はしないんだって……」とでも言いたげな渋面が浮かび上がった。それを横目でスルーしつつ、マサキはアクセサリーを手にはしゃぐエミとアスナを見やる。
エミについては、まだ分かる。以前夕飯の買い物という名目で強制的に連れ回された時も、胡散臭い屋台やうらぶれた店に直撃しては、興味深そうに商品を眺めていたものだ。恐らく、彼女は元来そういう性格なのだろう。
予想外だったのはアスナだ。一日でも攻略をサボろうものなら烈火の如く激怒し、攻略ペースを最前線で引っ張る攻略の鬼。つい先日も攻略の方法を巡ってキリトと激論を繰り広げた《閃光》と、楽しそうに露店を冷やかす彼女が同一人物だと、一体誰が信じられよう?
などと考えていると、ぽつんと取り残された男二人の視線に気付いたのか、二人はこちらに振り返り、キュートに笑いながら首をかしげた。
あからさまにうろたえるキリトを尻目に、右手をヒラヒラと振って「何でもない」と告げる。
しかし――黒ずんだ石壁にもたれながらマサキは思う。アスナが血盟騎士団に入って以来、キリトと二人のところを見かけることはぱったりとなくなった。特に副団長に就任してからは、大ギルドの幹部とソロプレイヤーという立場の違いもあり、どちらかと言えば対立することの方が多かったほどだ。それが、この変わりようだ。一体この二人に何があったというのだろう。もっとも、何があろうとなかろうと、マサキには関係のないことなのだが――。
――『……俺、ギルドを一つ、潰したんだ』
マサキの脳裏を掠める、キリトの声。
――『俺……実は、ビーターなんだ』
かつての親友の声が、すぐ後に続く。それら二つが同じ響きを持っていたことに、マサキは今になって気付いた。
マサキは横目でキリトを見やる。柔弱そうな瞳の奥に滲む、黒目より暗いフィルター。
通る色を全て黒で塗りつぶし、光を極端に恐れ、遠ざける。
それも、当時の彼と同じものだった。
もしかしたら、今のマサキ自身とも。
確か……あの時は、中学生の書いたポエムみたいな言葉で彼を丸め込んだのだったか。
「キリト君、これ、黄色と水色だったら、どっちがいいと思う?」
髪飾りを物色していたアスナが、振り返ってキリトに尋ねた。
「え? と……黄色、かな」
「なに? それ。もう、こっち来て、もっとよく見て選んでよ。……って、あ、先に言っておきますけどね、キミの好みに合わせようとか、そういう意味じゃないですからね! ……ほら、ぼさっとしてないでさっさと来る!」
ツンと膨れていたアスナは一気に顔を真っ赤にしてまくし立てると、ただ戸惑うことしか出来ずにいたキリトを引き摺って行ってしまった。
その一幕を端から見ていたマサキが、思わず苦笑を漏らす。何だかんだ、あのコンビの相性は良好のままのようだ。キリトのことは、彼女ならそのうち気付くだろう。その時……彼女は、果たしてどうするだろうか。
それは、マサキが介入することではない。
否、マサキでは介入できない。
以前のように丸め込む言葉は、今のマサキが使うには滑稽すぎるから。
大人になった中学生が、昔と同じポエムなんて書けないのと同じこと。
「マサキ君! あそこ、何か食べ物屋さんみたい! 見に行こ!」
「な、ん……っ!?」
唐突に腕を真横に引っ張られ、マサキは右向きに傾いた。何とか足を出して転ぶのを回避するが、たたらを踏んでいる間にも手は引かれていく。そして、雀の涙ほどの筋力値しか持たないマサキでは、手を振りほどくことさえ叶わない。
「わ、美味しそう。マサキ君は、何味にする?」
マサキは走りながら溜息をつく。
「何だっていい……」
目の前には、楽しそうに跳ねるポニーテール。
手首から伝わる力と温かさが、こんな風に強制的に連れ回される道草も以前は日常茶飯事だったことをマサキに思い出させて。
昨日今日と、よく昔を思い出すな、とマサキは思った。
彼――トウマの死から、もうすぐ一年になる。
後書き
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