水と油と菊の花
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水と油と菊の花
はじめましてこんにちは。みなさんお元気ですか。俺、ギルベルトは今、人生最大のショックを受けたところです…。
――3分前:エレベーターホール――
「あ、こんばんは」
不意に声を掛けられて、仕事疲れで垂れた頭を持ち上げる。
「よ、よう菊」
菊だ。俺の目の前に菊がいる、だと…?
今まで重くのしかかっていた疲れなんて吹き飛ばされて、代りに上ずる声が意識に絡みつく。
「今日は早いんだな」
急いで(かなり頑張って)低い声を付け足す。そんなギルベルトに菊は柔らかい笑みを漏らした。天使かっ!
だがその隣にいる眼鏡はいけすかない。
彼の顔が視界に入るなり、自分のゆるみきった表情が見る見るうちにしかめられていくのがわかった。
「うわ、お前かy…」
「それはこっちの台詞です。なんですかあのだらしのない顔は」
無意識に飛び出た嫌悪感たっぷりの声が、ローデリヒの声にかき消される。ギルベルトは“だらしのない”という言葉が耳に入った途端、隣の菊にも聞こえるほどにプツンと音を立てた。
「は、はぁ!? だらしないって何のことだ!?」
「自覚がないんですか? お馬鹿さんですね」
「だだだっ、だ誰が?」
そんな他愛もない少々乱暴なやり取りを横に、菊は苦笑ついでに口を開いた。
「2人とも…とりあえずボタン。押しません?」
――1分前:同じく――
俺がローデリヒとずっと(2分間)いがみ合っていたからか、きくは1人ボタンの前で固まっている。その右手がずっと『下』のボタンを連打しているのはきっと気のせいだろう。
眼鏡から視線を逸らし、いつまでたっても点灯しないエレベーターの到着を知らせるランプを見上げる。
「……それにしてもエレベーター、おっそいな」
今の言葉で少しは空気も和んだだろうか。そこまではいかなくとも、重い雰囲気でなくなったならそれでいい。
「菊さん、今何階ですか?」
あ、坊ちゃんも気を遣ったのか。
「え、あ、はい。ここなら11階ですけど…?」
まぁそうだよな。急に声かけられたら何のことかわからんよな。
「そうじゃなくて、エレベーターが今何階かってことじゃねぇの、菊?」
「ああ、すみません! 13階ですっ!!」
“菊に勘違いさせるようなこと言うようじゃ、まだまだだぜ”とでもいいそうな勝ち誇った顔でローデリヒに胸を張るギルベルト。そんな幼稚なギルベルト可哀想で、ローデリヒは何も言わずに目を逸らした。
「来ましたよ、エレベーター」
まだ真っ赤な顔を懸命にこちらに向けながら口をパクパク(声はちゃんと聞こえたぜ)させる菊。
そんなにさっきのが恥ずかしかったのだろうか。
なら目を合わせようとしなければいいのに、まったく。可愛いからいいけど。
扉が開いたエレベーターに真っ先に菊が駆け込んで、次にローデリヒ、最後ににやけが止まらなくて出遅れたギルベルトがドアに挟まれながら乗り込んだ。
その“ガション”と「ふぎっ」の混じった何とも言えない嫌な音と言ったら。
その時だった。いや、正確にはギルベルトをプレスした扉が無慈悲な音とともに閉まり切った時だ。
ウィンとかすかな機械音がしたかと思いきや、お次は視界が真っ暗になったのだ。しかもエレベーターの安全ブレーキが外れるというオマケつきで。
菊が言った通り、現在標高はビル11階。そこから急降下するエレベーターの中で1番絶叫していたのはギr…お察し願いたい。
とにかく3人は雄叫びとも断末魔ともつかない声をあげている。それで救助が駈けつけるのでは、というほどである。
が、神様もそこまで優しくないようでこの鉄の箱は(安定と信頼の)日本製。そう、メイド・イン・ジャパーンなのだ。
エレベータが1階のさらに下、油圧ダンパーがあるところに到着し、腰が抜けた3人がまずしたことといったら日本の技術をのろうこと以外に何があろう。
「すごいな。大声出して響くとか。どんだけおと逃がさねぇんだよ」
すみっこの芋虫……もといギルベルトが捨てるように呟く。
「ギルベルトさん、震えていますね」
「武者震いだ」
「何に対してですか。お馬鹿さんが」
「んだと?!」
「でもまさか、我が国をこんなにも恨む日が来ようとは…」
「……思い出した! 俺が挟まれたとき坊ちゃん俺のこと笑ってただろ!」
「笑ってなどいません。無様なあなたを見てニヤリなどしていません」
「おい」
暗がりの中、(1部場に合わないが)声だけが飛び交う。
しばらくたって、誰かが動く気配がした。もし“誰か”じゃなくて“何か”だったらどうしようか。んな、馬鹿か俺は。
方向的にローデリヒが動いたのだろう。そう結論付けたはよかったが。
「ひょあっ!?」
何か(人であることを祈る)が倒れてきたような重みが上半身にかかった。そこまで重くはない。が、痛い。わき腹にあごらしきものが当たったからだ。
「すみませんギルベルトさん、大丈夫ですか?」
「…菊、なのか?」
「ええ、はい。すみませんっ、立ち上がったら…足に力入らなくて」
むくりとあごを上げる菊。その髪が頬に触れた気がした。
「別に……っ? いいんだけど、さ//////」
暗がりのせいで距離感がつかめず菊とどのくらい離れているかなんて知る由もない。そのためギルベルトはヘタに動けないでいた。
“目と鼻の先だったらいいけど”などというどうでもいい事の方に頭が持っていかれていたからかもしれない。いずれにせよ、両方とも動かない。
ローデリヒは、どの方向に2人がいるのかもわからず、また外れた眼鏡も探してあちらもあちらで忙しい様だった。
「菊さん? 大丈夫ですか、あとどこにいるか教えてください」
「ここです!」
「どこですか!」
2人のやり取りにフフッと笑いながらもギルベルトはもう少しこのままで…なんてことを考えていた。
「てか、おい坊ちゃん。俺はどうでもいいのかよ」
「あなたはお黙りなさ……いたっ」
鈍い音がした。当たった本人より、当てられた壁の方が可哀想な音だ。
これだから方向オンチは。もう知らん、放っておこう。
「そういえば菊。何かしようとしたのか? 立ち上がっただろ」
少し目が慣れてきた。目の前の菊はなおも壁に当たり続けるローデリヒからギルベルトに視線を移し、「そうでした」と手を伸ばして自分の鞄を引き寄せた。
あ゛あ゛あ゛俺は馬鹿か!(←うん知ってた) 菊が俺から離れてしまったではないか!
「パソコンで明かりと取ろうと思ったんです」
そう言ってノートパソコンの起動音のつづいて自動スリープ機能を解除しようとキーボードをたたく菊。
明かりなんていいからさっきの位置に、俺の近くに戻ってきてください。お願いします。
「…っと、よし。これでローデリヒさんももうぶつからなくてすみますね」
そんなヤツのことはどうだっていいんだよ!
「ありがとうどざいます」
ローデリヒはパソコンを隅に置いて再び立ち上がろうとする菊の腕を引っ張ると、ワルツのような手取りで菊を自分の元へ引き寄せる。
その速さと慣れた手つきに、菊は何をされているのかがわからないといった様子だった。
ちょこんとローデリヒの膝に収まって、ようやく状況が理解できたのか菊が発したのは「ひょあっ!」という間の抜けた奇声だった。
菊の驚きの声に内心こみ上げる笑いを噛み殺しながら、ローデリヒを睨み続けるギルベルト。
その目つきは骨を横取りされた犬、おもちゃを取り上げられた赤ん坊そのものだった。
――30分後――
パソコンの画面のLEDがいくらか落ち、辺りは数分前より薄暗い。
マウスパッドに触れればまた画面が明るくなることくらいわかっている。わかってはいるのだが菊の私物にやすやすと触るのが恐れ多いというか。
そんなことでためらっている間に、また一段と暗くなる。
そのことに気がつかない菊でもないだろうに。
菊横取り事件以降ずっと(一方的に)睨み続けている、光を反射して気持ち悪い眼鏡から少し下に視線を移す。
「っ、……え?」
ローデリヒの膝の上で、うとうととしている菊がいた。……ように見えたがけかもしれない。
あぐらの体勢のまま菊のノートパソコンに近づき、マウスパットに指を置く。
ハッキリとした視界で、ほぼ対角線上の菊をもう一度見た。あの眼鏡の膝の上で船をこぐ菊がいた。
「嘘だろ」
認められん。ありえない。きっと何かの悪夢だ。
今までずっとローデリヒを見て(睨みつけて)いたというのに気付けなかったとは。いや、それよりも菊がローデリヒの腕の仲で寝るとは。
ギルベルトが頭を抱えて見ていないことをいいことに、ローデリヒは菊に何かささやき、うながす。
そして悶えながらも菊の夢うつつな表情を見ようとギルベルトが顔をあげたときには、菊のためのローデリヒによるひざ枕の完成、っと。
……え、ひざ枕? ホワッツ?
認めたくない。ありえなくていい。目を覚ませ、俺。
――5分後――
静かだ。ギルベルトが黙るだけでこんなにも静かになるのかと、ローデリヒは心底感心していた。
当の本人は発狂したいのを必死でこらえているため喋ることもままならない、という状態なのだが。
しかし限界(たったの5分)に達し、小さく、あくまで小さく床を叩くと「…ぐ」と声を漏らした。
「きくもすこしはてーこーしろよ」
精神力をすべて使いつくしたギルベルトの言葉は、もう何の感情もこもっていない。
声があまりにも小さいからそう聞こえただけだろうか。だって菊が寝ているんだもの。天敵貴族メガーネのひざ枕で。
ギルベルトがうなる理由も、それなのに小声な理由もそれだった。
「だったら俺だってやったのに、ひざ枕。…俺より坊ちゃんかよ」
今更どうにもならないことだが、言わずにはいられない。その延長線のように、ギルベルトはまたぼやく。
「だいたい、あいつの何がいいのか…」
また周りが一層暗くなる。だが暗がりの中でローデリヒの眼鏡が異様なほど光った気がした。
「そうですか」
ローデリヒはあえてギルベルトにまで届くボリュームで言い捨てると、すぐ傍らに横たわる菊の髪を撫で始めたのだった。
まぁ頭くらいだったら、と思ったのも束の間、ローデリヒは菊の頬を指でつつく始末。
ギルベルトはローデリヒに殴りかかる衝動に駆られた。が、そうしたら菊が起きてしまう。その天使のような寝顔を守るべく、ギルベルトは握りしめた右手を筆舌しがたい気持ちでほどいた。
仕方ない、下手に出よう。
「なぁ、坊ちゃん。俺にも菊触らせろ」
「何ですかその口のきき方は」
「スミマセンがローデリヒ様。菊さんを触らせてください」
「はい?」
「少しでいいですから」
「良いでしょう」
こいつめ、いつかぶっ飛ばしてやる。やっぱりこんなやつに断る前に触っとくべきだったか。でもま、これで思う存分勝手ができるならいいか。そう1人で頷いて、ギルベルトは震える人差し指をゆっくり、慎重に菊の頬へと持って行く。
つん、ふにっ。
……柔らかい。え、これ人だよな。本当にそう思った。少しでも力を加えれば、すぅっと指が通ってしまいそうで怖くなった。とにかく柔らかい。
ローデリヒが何度も菊をっつつくから、ギルベルトもムキになってつつく。そこでふと思った。なぜこの眼鏡は菊にひざ枕なんかしたのだろう。普通、頼まれない限り自分からはしないのではないか。しかも菊だって、頼んだわけではない。それならまさか…
「なぁローデリヒ」
いったん手を止め、ローデリヒを呼ぶ。が、ローデリヒは指をひっこめる気配も見せず、「何です?」とぶっきらぼうに答えた。
「何だよ。人と話す時くらい作業止めろっていつも言ってんの、おまえだろ」
こちらも指ツンツンを再開する。“負けてられっか”なんて断じて思っていない。
「それで、要件を早く言いなさい。今私は忙しいんです」
「坊ちゃん、菊のこと好きか?」
内容が内容だから、躊躇してはいけないと少し早口になってしまった。が、ほれ見ろ。ローデリヒの手が、あの何があっても止まりそうにない指が、今はピクリとも動いていない。少し残念な気持ちになった。
「え、図星? ズボシーなのか?」
「………………………………………………………………………………………………………」
何か言ってくれ。ボディーラングエージで訴えられても困るんだ。なんとなくはわかるけどさ。
手をパタパタさせて、握って上下に振って、頭振っての眼鏡飛ばし。
どうせ、「急になんてこと言うんですかそんなわけないでしょうこのお馬鹿さんが…!」とでもいったところだろう。
「じ、じゃあさ、菊同盟結ぼうぜ」
自分の鞄をたぐり寄せて、1枚の紙と万年筆をわしづかみにするギルベルト。口に万年筆のキャップをくわえ、鞄を机代わりに何かを書く。
「何ですかその“菊同盟”って」
「これ」
言葉より少し遅れてローデリヒに差し出されたのは、普段のギルベルトからは想像できないほど丁寧な字の並ぶ同意書だった。
「えっとな、菊に俺たち以外に手を出そうとするやつがいたら協力してたたくってもので。ああ、でもお前となれ合う気は全くといってないからな」
勘違いされたら困る、とどこかで思っていたのかもしれない。ギルベルトの同意書を持った腕は本人の意思に関係なく上下に振れていた。
「見せる気ないでしょう」
ローデリヒがため息混じりにいう。そしてひったくるようにギルベルトから紙切れを取る。あ、固まった。書面を見るや、ローデリヒが凍ったように動かない。目線が動く気配もない。
「……あれ?」
「ギルベルト…あなた、言ってることには同意しますよ。ですが、なんですかこの赤い文字の列は! 呪う気ですか!」
「え」
赤で書いたか、俺。
ローデリヒの振りまわされる両腕に数回ヒットしながら、“呪い”と言われたそれをかすめる。
ホントだ。真っ赤だ。せっかく書いたのに。
「かか、書き直さないと、署名しませんからね、このお馬鹿さんが!」
――5時間後――
「…えーっと、とまったエレベーターってここだっけ? おーい、ルート?」
「ああそうだが…」
背後で何度も同じことを訊いてくる連れに、ルートヴィッヒは答えた。だがドアをこじ開けるバーを持った腕は止まらない。
「ねぇ、ルートーっ」
グギギギ……
「俺つまんなーい」
ギギギギ…ガンッ
「え、今すごい音しなかった?」
「頼むから静かにしていてくれないか」
ギギギ…ギ
「そう言えばさっき防犯カメラ見てきたんだけどさ。このエレベーターに乗ってんの、ギルだけじゃなかったよ」
「ローデリヒもだろう」
先ほどから相手にしてくれないルートヴィッヒの耳に、フェリシアーノは声をいくらか低くしてささやいた。
「菊もだってー」
ギギギ……ベコンッ
「嘘?! ドアがへこんだ!」
「早く菊を兄貴から解放せねば…!」
ルートヴィッヒはわずかにできた隙間に腕を突っ込み、左右に力を加える。
10秒かからずして全開になったドア。だがその先にあるはずの箱はなく、はるか下方になにやら光が見えた。
「風が気持ちいいー」
「フェリシアーノ、縄ばしごって持っているか?」
しゃがみこんで暗闇に乗り出すフェリシアーノにルートヴィッヒが尋ねると、「うん!」という声とともにロープが差し出された。
「縄ばしごとは…」
期待していたものとは少々異なるが下へ降りるには十分長さがある。それを手にルートヴィッヒはエレベーターの向かいの壁、オフィスのガラス戸にロープをくくりつけた。
「降りるぞ」
「了解!」
「えーっと?」
こちらもやはりルートヴィっヒがこじ開けた救出口(エレベーターかご内に設けられている非常救出用のハッチのことをいう。かご内からは開けられない構造とし、開けられたことを検出するスイッチを設けて開いている場合にはエレベーターが動かないようにすることが法律で義務付けられている。【横浜エレベータ株式会社|エレベーター用語集より】)をフェリシアーノがのぞき込む。
「みんな寝ちゃってるね」
その言葉が信じられなくて己も小さなハッチに頭を突っ込むが、やはり連れは嘘をついてはいなかった。
中の3人はすやすやと状況に合わない寝息を立てている。
ギルベルトはともかく、ローデリヒと菊は(例の)膝枕という何とも当時の様子がうかがいにくいポジションだ。兄の悶えぶりがひしひしと伝わってくるようでルートヴィッヒは頭を抱える。
「それにしても何をしようとしていたのかなぁ…」
フェリシアーノはルートヴィッヒの胸中など察さずにまたエレベーターの中に目をやる。
確かにそれもそうだ。
ギルベルトは素っ晴らしくきれいに書かれた赤い字の裏紙(日本の世界遺産のプリント)と、ミミズのような文字の這った白紙(オーストリア産)の2枚を片手に持っているのだ。
そのうちミミズには最後の段に“ローデリヒ・エーデルシュタイン”とサインされている。
「菊…同盟…?」
「またバカなことを…。菊に手を出すと兄貴たちにやられるらしいぞ」
「え~っ!!」
フェリシアーノがふてくされたように唇を尖らせる。
「でもいっか!」
つい先ほどまでとは異なり、太陽のような笑顔を向けられて、ルートヴィッヒも笑い返す。
「さて、早くここから出してあげるとするか」
「了解であります!」
end
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