ああっ女神さまっ ~明日への翼~
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明日への翼
05 PROMENADE
他力本願寺の母屋の玄関先。
ウルドが電話を取っていた。
相手は天上界のベルダンディーのようだ。
『愛鈴はどうしてますか』
「──えっ、ああ、あの娘なら今お風呂に入ってるわよ」
『そうですか……では、くれぐれも夜更かしをさせないようにしてくださいね』
「大丈夫よぉ、あなた、母親になって心配性になったんじゃない?」
『わかりました。では、今夜はこれで』
受話器を静かに置いた。
同居している恵が後ろから声を掛けた。
腕時計を見ながら、困惑顔だ。
「ねぇ、もう九時よ。あの娘まだ帰って来ないわよ」
「んー……少し遅いかな、まあ、大丈夫よ」
「そりゃ、普通の子供じゃないし、心配はないと思うけど。連絡もなしに夜遅くなるのはどうかと思うわ」
愛鈴のことらしい。
してみるとウルドが「お風呂に入っている」といったのは嘘だったのか。
余計な心配を掛けたくないと配慮だろうけれど、それにしても。
「それもそうね。戻ってきたら私からきちんと言っておくから」
交通事故で死んだ螢一は解脱して、天上界に昇り、神となった。ベルダンディーとの間に一児を儲け、今では天上界でユグドラシルのハード管理神という要職の身にある。
ウルドは愛鈴を連れて「地上界の勉強」だと、他力本願寺に降りてきたのだ。
であるなら、ウルドは愛鈴の保護者ってことになるし、もう少し厳しくてもいいのではないかと思うのだが。
夜の街。
遥か上空を飛ぶ人影があった。
愛鈴だ。
艶やかな黒髪を細く赤いリボンでツインテールに纏めている。半袖チェックのカッターシャツと濃紺のスラックス。
男の子みたいな格好だが快活な彼女にはよく似合っていた。
「遅くなっちゃった」
地上界は二度目だが、見るもの聞くもの総てが珍しく、あれこれと見て回っているうちに時間を忘れてしまっていたのだ。
今日は北九州まで足を伸ばした。
転移術で直接跳ぶことも考えたのだがやめておいた。地上界ではあまり大きな力を使わないようにと両親から言われていたからだ。
それにこうして夜の街を見るのも悪くは無かった。夜景が凄く綺麗だ。地上に光の砂を撒いたような景色は見ていて飽きなかった。
むしろそっちかもしれない。
上空から降下して電柱の頂上を軽く蹴る。現在の同じ年頃の子供からすると少し小柄な身体が夜の闇の中を舞う。ステルス状態にあるので誰にも見られる心配は無いが、それにしても大胆だ。
そう──それにしても、だ。
愛鈴にはひとつだけ悩みがあった。
川西家の二階のスクルドの部屋。
布団から身体を起こしたスクルドは大きく伸びをした。
以前の腰まであった長い黒髪はうなじの辺りでばっさりと切ってショートカットにしていた。手も足も伸びてすっかり大人の女性の体型だ。年相応に膨らんだ胸は、可愛らしいピンクの水玉のパジャマを内側から押し上げていた。
室内には小さな本棚と箪笥、勉強机の座卓。机の上には可愛らしいスタンド。
立ち上がって南側の大きな窓に向かう。
快晴の空が広がっていた。昇ってきたばかりの朝日が猫実の街を照らしている。
七月終盤になって梅雨前線は遠ざかり夏は本番といったところか。
早朝だから風はまださわやかだが日差しは強い。
「今日もいい天気になりそうね」
──あれから六年、またこうして猫実の街を眺めることが出来た。
ベルダンディーと螢一は天上界で今頃どうしているだろうか。
階下へ降りて洗面所で洗顔をして台所に入った。
「おはよう、スクルド」
「おはようございます、お母様」
「じゃあ、いつものようにお願いね」
「はい」
仙太郎の母親である静子を手伝って朝食の準備とお弁当の用意。学校で仙太郎と二人のものと、この家の主人川西孝雄が職場で食べるものだ。
基本的に朝食は静子がお弁当はスクルドが作っている。
料理の腕は姉仕込みだ。実によどみなくてきぱきとこなしていた。昔の機械ばかりに頼っていたスクルドとは見違えるようだ。
朝寝坊の仙太郎を起こしに行ったついでに自分も登校の準備を済ませてしまう。
そうしているうちに父親の孝雄も起きて来て四人で朝食を囲んだ。
ひと月ほど前から続いている川西家の朝の風景だった。
「やっぱり、家の中に女の子がいると華やぐよなぁ」
孝雄のやに下がった言葉に静子がちょっときつい眼で睨む。
スクルドは少し照れくさそうに首を竦めている。
棘のある静子の台詞。
「若くなくて悪うございましたねぇ」
「あ、あれ?僕何か言ったかな?」
夫婦喧嘩は何とやら。いつものことなのでスクルドも仙太郎も仲裁にすら入らない。
登校の時間が来て二人は仲良く出かけていく。
二人とも既に夏服であった。仙太郎は白の半袖のオープンシャツの下にTシャツ、スクルドは女性用の白のワイシャツに細いリボン。どちらも冬物とデザインは同じだがずっと生地の薄い夏物のズボンとスカート。
学生鞄を手に学校まで歩いて十五分。
他力本願寺とは仙太郎の家を挟んで正反対の方向にある県立猫実南高校。二人は二年生で同じクラスなのだ。
並んで歩く仙太郎の溜息。
「どうしたの?」
「いや……三時限目の英文法、テストだろ」
「なんだ、仙太郎、それで朝からブルー入ってたのね」
クスクスと笑い出す。
「だってさ」
「このままの成績だと夏休みに補習ってことも」
「怖いこと言わないでくれよ」
しかし、事実だった。
仙太郎は理数系は得意だが文系はいただけない。特に英語は壊滅的だ。
「スクルドはいいよな、苦手な教科がなくて」
「ぼやかないの、今日はありのまま頑張って、今夜からでもあたしが特訓してあげるわ」
「はぁ……」
「あたしだって仙太郎と夏休みを自由に過ごしたいもの」
「お手柔らかにお願いします」
スクルドに拝んでみせる。
「だーめ、ビシビシいくからねっ」
快活で小生意気な態度。
一級神になってもこんなところは相変わらずだ。もっとも、相手が仙太郎であるからこそだろう。
なんともはや。仲のよろしいことで。
教室でもこんな調子だ。。
男子生徒と女子生徒が別れる体育の授業以外はほとんど一緒にいる。席だって隣同士。
最早全校公認のカップル──であることは間違いがない。
背後から仙太郎の背中を鞄でどやしつけた者がいる。
「いよっ、川西」
「九十九」
中学時代からの親友の九十九三蔵だった。
仙太郎と同じスポーツ刈りの日焼けした顔に意志の強そうな瞳が光っていた。背の高さは仙太郎と同じぐらいだが、体格はずっと九十九の方ががっしりしていて、腕も足も太く胸の厚さや体重もあるようだ。
「おはよう。九十九君」
「おはよう。スクルド」
ニカッ、と白い歯を剥き出す。
「スクルドは部活どうするの?」
「うーん、いろいろお誘いは来てるんだけど……」
ちらりと仙太郎に視線を送っていた。
「帰宅部の仙太郎に付き合うことないのに」
「ううん、それは出来ないわ。今のあたしには仙太郎と一緒にいることが一番大事だもの」
ここまではっきり言われると聞いているほうが照れてしまう。
さりとて、二人の間からはとくにべたべたしているって感じが受けない。むしろ邪魔をしないでそっとしておいてあげたい。そんな雰囲気の二人だった。
「もったいない……」
「えっ?」
「いや、仙太郎が帰宅部なのがさ」
「なのよね~。足だって充分速いし、どうして陸上部とか入らないの?」
問われて仙太郎は曖昧に笑っている。
「自転車を、B M X(フラットトリック)をやりたいんだよ」
自転車競技には、トラック競技場(競輪場を含む)で行うトラック・レース、一般の公道を使用して行うロード・レース、オフロードを使用するマウンテンバイク(MTB)やシクロクロス、BMX、室内で行われるサイクル・サッカーやサイクル・フィギアなどがあるが、高体連(全国高等学校体育連盟自転車競技専門部)ではトラック・レースとロード・レースだけを行っている。
つまり、仙太郎のやりたい競技は高体連では扱っていないということだ。
ちなみに仙太郎達が通う高校には自転車競技部はない。どちらにしろないのだから仙太郎の学力に合わせた進学をしたのだった。
仮に別の部活に入ってしまえば当然ながら時間が絞られてしまう。
だとしたら、帰宅部でやりたいBMXをやっていたい。レースや競技は個人でも参加できるのだし。
「トラックレースやロードレースじゃだめなの?」
「考えたことはあるけど……今の奴を買い換えないといけないし、親に負担を掛けられないしね」
仙太郎の性格だと、ファッションで乗るコンフォート系ロードバイクでは気がすまないし、であるなら相当なお金が掛かるのは必至だ。小学校の時に乗っていたBMXは既に身体に合わなくなっていて、今乗っているのは中学時代に買った二台目になる。以前のものは倉庫に大切にしまってあるのだが。
「今更って気もするんだよね、どうせやるならこのままBMXを続けたい」
スクルドの含み笑い。
「ん?」
「仙太郎ってさ、そんなところ螢一に似てるよね」
「螢一?スクルドのお姉さんの恋人だった人?」
「自分のやるべきこと、やりたいこと、妥協しないで諦めないで何処までもまっすぐに追いかけてく……そっくりだよ」
「かなぁ」
「──素敵だと思うわ」
隣で九十九がむず痒そうな顔をしていた。
「こぉら!九十九!」
怒鳴りつける声に三人が振り向くとクラス委員長の古手梨花が立っていた。
小柄で黒髪を日本人形のようにおかっぱに切り揃えて楚々とした見た目だが性格は真逆だった。言うべきことは目上の者に対しても遠慮会釈なく言ってのけるし、それがまた正論だから反論も出来ない。先生達も一目置く存在だ。いろんな意味で。
つかつかと九十九に歩み寄って胸を掴む。九十九より身長が五センチも低いのであまり絵にならないが。
「君には自殺願望があるのか?」
「なにをいきなり」
「若い身空で馬に蹴られて死にたいと見える」
「話が飛躍しすぎてるぞ、俺はただ朝の挨拶と世間話をだな……」
「少なくとも私には違って見えた」
「裁判長!」
九十九は仙太郎に向けて手を上げた。
「証人としてスクルドさんの証言を求めたいのですが」
仙太郎は苦笑に失笑を混ぜてスクルドに発言を促した。
「梨花、手を離してあげて。みんなで仲良く学校に行けばいいじゃない」
何だが小学校の低学年に対する台詞みたいだ。仙太郎がフォローを入れる。
「まあ……変に気を使われても、こっちとしても肩が凝るし……」
「君達がそういうのならここは下がっておくが」
ともかくここで立っていても学校が来てくれるわけじゃない。
学生の本分を果たすべく通学路を学校へと辿っていった。
校舎が近づくに連れて学生達の姿も増えてきた。
おはようの挨拶が交わされる中、九十九が話を切り出してきた。
「さっきの話だけどさ、やっぱり、スクルドが何処の部活にも入らないで帰宅部ってのはもったいないと思うんだよな」
梨花が同調する。
「私もそう思う。スクルドは成績が良いのだし人当たりもだ。体育会系以外なら何処に行っても良い結果をだせると思うのだが。本当にやりたいことはないのか?」
「先のことは判らないけど今のところはね」
口の中で「仙太郎がどうしてもって言うんなら……」と呟いている。
学校の正門をくぐった。昇降口から二階の二年の自分達のクラスに。九十九は別なのでここでお別れだ。もっとも、隣同士のクラスなので仙太郎は体育の授業で一緒になるのだが。
朝のHRから通常の授業へ。
カリキュラムは滞りなく進んで四時限目が終了した。
お昼休み、お弁当の時間。
「この金平ごぼう美味しいね」
「でしょう。お姉さまに教わったのよ」
「あー……今頃どうしてるかな」
仙太郎はベルダンディーの美貌を思い浮かべているらしい。
「きっと幸せ色に染まってるわよ──なあに?会いたいの?」
このあたしがいるのに。
と、睨まれて、仙太郎は慌てて顔の前で手を振っていた。
「いや、ちが……どうしてるかなって、思っただけだよ」
慌てぶりが可笑しかったのかスクルドも頬を緩めている。
「冗談よ。あたしもお姉さまに会いたいなぁ」
「ウルド姉さんならお寺に行けば会えるじゃないか」
「違うわよっ、ウルドなんかどうでもいいの……もぉ」
ぷくっと頬が膨らんだ。
地上界に降りてきたスクルドの後を追うようにウルドと愛鈴も降臨した。昔のように他力本願寺に居を構えている。ただしそこにはベルダンディーや螢一の姿はない。螢一は天上界でユグドラシルのハード管理神という要職にあるのだし、ベルダンディーももう「仕事」として降りてくることはあってもそれ以上はない。
現在の他力本願寺の住人は、螢一の妹の森里恵とウルド、愛鈴、ばんぺい君、シーグル、三人と二体だった。姿を見せないが、ニンジャマスターたちも健在だろう。ヴェルスパーはどこかに行ってしまって行方がわからない。いずれひょっこり戻ってくるかもしれない。
愛鈴は地上界に降りてすぐに「光の蝶(メッセンジャー)」をスクルドに送ってきた。
誘いに応じて他力本願寺に向かった二人。
仙太郎は愛鈴と対面した。
「あ……君は」
「二級神一種限定アイリンです」
にっこりと笑って優雅に頭を下げる。
梅雨の雨が降り続くあの日、灰色の雑踏の中で仙太郎に声を掛けてきた少女だった。
「ところでさ、愛鈴ちゃん、可愛いよね」
「でっしょー!」
スクルドの表情がめぐるましく変わる。まさに百面相だ。
「普段は礼儀正しくて物静かなんだけど、あの娘、いざとなった時の行動力は凄いのよ──さすがあたしの妹」
えっへんと自慢げに胸を張っていた。
「妹じゃないだろ」 とはあえて突っ込まない仙太郎だった。
お昼休みも終わりに近づいて、仙太郎は五時限目の「物理」の授業の準備をしようと、机の中に手を入れたのだが。
「あれぇ?」
「どうしたの?」
「ノートがない、しまった、昨夜課題やって机の上に置きっ放しだ」
「もぉ、しっかりしなさいよっ」
そんな大事なものをしかも今更気がついててどうするのっ。
「参ったなー。せっかく課題済ませてあるのに」
「しょうがないわねぇ、取ってきてあげるわよ」
──取ってくるって。
とげのある言い方だが、何処となく嬉しそうに見えるのはなぜだろう。
がたん、と椅子を引いて立ち上がる。
教室を出て行くスクルドの後姿にクラスメイトの一人が首を傾げている。
次の授業開始まで後十分もないのだ。間に合うわけがない。
「彼女、ノートを取って来るって、言ってたよな」
「聞き間違えじゃないのか?」
問われて慌ててごまかす仙太郎だった。
学校には転移術に必要な水場は多くあるけれど、一番人に目撃される確立の少ない所と言えば何処か。
スクルドは女子トイレの個室の中で苦笑していた。
さすがに水洗トイレの水で転移するのは抵抗があるようだ。──では、と、個室から出て辺りを見回している。
掃除用具を入れたロッカーを開いてバケツを持ち出しすと半分ほど水を入れた。
蓋を閉めた便器の上に静かに乗せた。
戻ってきたスクルドは、手の中に小さくした仙太郎のノートを持っていた。
物理の担当が教室に入ってきて、開始の挨拶。
起立、礼、着席。
一連の動作のわずかな隙に仙太郎の机の中に押し込んでいた。ノートは机の中で瞬時に元の大きさに戻った。
「仙太郎、もう一回机の中探してみれば?」
軽くウィンク。
「え……ああ、あるよ。持って来てたんだ。探し方が悪かったのかな、よかった」
「そうね、よかったわ」
仙太郎の役に立てて。
にっこりと快心の微笑だった。
さて、本日最後の授業は「音楽」だ。
特別教室に移動した。
クラス対抗の合唱コンクールがあるので、本日はその下準備にと生徒達のパート分けをすることになっていた。担当の女教師が一人一人歌わせてそれぞれパートに分けていくのだ。
前の席から順番に歌わせていく。
初めて聴くわね。仙太郎の歌。
仙太郎の順番になった。立ち上がって歌う。
安定感があって伸びのあるボーイソプラノ。
へぇ、うまいじゃない。今度カラオケでデュエットもいいかな。
歌い終わって椅子に腰を下ろす。
しばらくしてスクルドの順番が回ってきた。
「では、スクルド・ノルンさん」
「はい」
立ち上がって姿勢を正して課題の歌を歌いだした。
音楽室に流れるスクルドの歌声。
天上界でも一、二を争う歌姫、歌の技量の持ち主、ベルダンディーが先生だ。
もちろん、スクルド自身の努力と才能もあったのだけれど、今では姉に負けないぐらいの歌上手になっていた。
女神の歌声。
女教師も生徒達もまるで時間が止まってしまったかのようにスクルドの歌に聞き入っていた。
スクルドはスクルドで歌うことが楽しくて気持ちいいらしく、一度歌い終わっても、また初めから繰り返し歌っていた。
「先生、あの、授業終わってしまったんですけど」
スクルド本人に指摘されてようやく女教師は我に返った。
授業終了のチャイムが鳴ってしまったのにも気がつかないでスクルドの歌に聞き入っていたらしい。他の生徒たちも同様だった。
「えっ、ええ、そうね。続きはこの次ってことで」
仙太郎の苦笑。
やれやれ、こんなことになるのではと思っていたが。
放課後の教室。
既に部活に出ている者や帰ってしまった者がいるので教室の中は閑散としていた。
スクルドと仙太郎はクラス委員長の古手梨花を手伝って、クラスのアンケートの取り纏めをしていたので、少し遅くなってしまったのだった。
二人が鞄に教科書やノートなど詰めていると、女生徒が一人、声を掛けてきた。
上級生らしい。
スクルドにとっては初対面だった。
「スクルド・ノルンさんね」
落ち着いた眼差しと物腰。良家のお嬢様って感じだ。
だけど、どこかであったような気がするのはなぜだろうか。
「はじめまして、私、合唱部の部長をしています、松原利奈といいます」
「はじめまして」
礼儀正しい態度にスクルドも礼で返す。
「以前は妹の梨沙がお世話になりました」
「梨沙がおせわに……って?」
「六年前はよく遊んでいただいたそうで」
梨沙ちゃん?
「梨沙ちゃんのお姉さん!」
他力本願寺の近所に住んでいた少女だった。姉のベルダンディーを「ベルママ」言って慕って遊びに来ていた当時四歳の女の子。今は十歳になっているはずだ。
スクルドの脳裏にもみじのような手と太陽のような笑顔の女の子が浮かんでいた。
利奈本人とも面識はあるのだが。まさかこんなところで再会するとは思ってもみなかった。
「はいっ」
にっこりと笑っている。
梨沙の笑顔と重なって見えた。
「突然引っ越してしまわれて、梨沙、ひどく寂しがってましたわ」
「ごめんなさい……」
消え入りだけに頭を下げる。
「あなた達にも事情があったのでしょう。今日はあなたにお話がありますの」
「話って……」
「あなた、合唱部に入らない?」
突然の申し出ではあるが、こんなことは初めてではない。先日も美術部からオファーがあったばかりだし。
「せっかくのお誘いですけれどあたしは何処の部にも入るつもりはありません」
「はっきり言うのね。気に入りましたわ」
やれやれ、逆効果のようだ。
「今日はこれで。また日を改めてお願いに伺います」
背中を向ける利奈だった。肯定の答えを聞くまで何回でも誘いにきそうだ。
家路をたどる二人。
季節柄まだ太陽は沈まない。
「さっきの話だけれどさ、スクルド」
「ん?なーに?」
「部活のことだよ」
「ああ……あたしは別に」
興味ないしと視線をそらした。
「俺のことなら気にしなくていいんだぜ。スクルドの才能をくすぶらせておくのはもったいないと思うんだけどな」
「──もう、その話はなし」
スクルドは自分の唇に人差し指をあてている。
「何回も言ってるけど、あたしにとって一番大切なのは仙太郎のそばにいることなんだから」
何か言いかけようとした仙太郎の唇をその指で縦に塞いだ。
間接キッスじゃないか。
仙太郎の頬が染まった。
「──ね」
一級神の微笑だった。
「スクルド姉様」
背後から掛かってきた声。
艶のある黒髪を細くて長いリボンでツインテールに纏めている。ベルダンディーの天衣を模したワンピースを身に纏っていた。六歳にしては小柄な彼女には、可愛らしくてとてもよく似合っている。
「愛鈴」
「ごめんなさい、いい雰囲気のところで。なかなか会いに来てくださらないから、私のほうから来ちゃった」
確かに他力本願寺には一度行ったきりで、その後は訪ねて行ってはいなかった。
「今から家にいらっしゃいませんか」
「いまから?」
別段ウルドになど会いたくはないが、ばんぺい君やシーグルもいるし、いやいや、問題はそんなことではなくて。
「でも、夕ご飯の用意とかあるし」
「電話を入れておけば大丈夫ですよ」
スクルドの腕を両手にとって揺さぶる。甘えた声は愛鈴としては非常に珍しい。
「ねぇ、いいでしょう……お姉さまぁ」
──ふう
スクルドの溜息。
まったく、おねだり上手なのは相変わらずだ。
「いいわよ、でもね、いちど家に戻って鞄を置いてくるわ。それからでいいでしょう?」
いずれにしろ他力本願寺には川西家の前を通って行くことになるのだから。
川西家に戻って静子に報告。
「食事はどうするの?」
「たぶん向こうで頂くことになると思います」
「……あまり遅くならないうちに戻ってらっしゃいね」
「判りました。行ってきます」
他力本願時の母屋。
満面の笑みで愛鈴が出迎えた。後ろにはシーグルの姿も見えた。
「いらっしゃい、スクルド姉さま、仙太郎さん」
結局こういうことなのね。
スクルドは、台所でエプロンをして夕ご飯の支度をしながら溜息をついた。
ウルドの家事は壊滅的だ。料理のほうもやれば出来る程度で得意ではない。
恵だって一人暮らしが長いので自炊ぐらいは出来る。しかし、出来るのと美味しいかどうかはまったく別の話なわけで。最近では自分で作るよりも安上がりな惣菜だってスーパーで売られているわけだし。仕事もあるのでやはり利便性のほうを追求してしまう。やらなければ出来るようになるわけがない。
「うふふ、スクルド姉さまのお料理、美味しいもの」
茶の間では愛鈴と仙太郎と恵がちゃぶ台を前に出来上がるのを待っていた。
『美味しいお料理を作るコツはね、食べてくれる人の笑顔を思い浮かべることよ』
ベルダンディーの言葉が心に浮かんでいた。
仙太郎は美味しいって言ってくれるかな。
んふふ。
自然に頬が綻んでしまう。
もちろん、毎日食べているお弁当だってスクルドが作っているのだし、「美味しい」って喜んで食べてくれているのだけれども。
ご飯は静子が炊いたものだ。おかずだって前日の残り物を使うことが多い。
お弁当ではなく夕食を全部一人で作るのは初めてだった。
六年前は姉のベルダンディーが料理を作っていた同じ場所で、今度は妹のスクルドが好きな人の為に料理を作る。
ウルドは料理を作るスクルドを背後から見ていた。空中に浮いてコップ酒だ。傍らに一升瓶が浮いている。
「運命……か」
スクルドに聞こえないよう口の中で呟いていた。
そんな抽象的で不確かな言葉など好きではないし使いたくもないが、今のスクルドを見ていると、やはりなにか運命的なことを感じてしまう。
在りし日のベルダンディーと今のスクルドの姿が重なって見えた。
努力が報われたわね。
一級神になるためにスクルドがどれだけのことをしてきたのか、ウルドはよく知っている。
でも、まだまだこれからよ。頑張んなさい。
口には出さないけれど瞳には優しい色があった。
スクルドは流行歌を口ずさみながら手を動かしている。
大切な人の為に食事を作る。
楽しくて、嬉しくて。
お姉さまもこんな気持ちだったのかな。
鮭の切り身を焼いたものと付け合せのキャベツの千切り、玉子焼き、大根とわかめのお味噌汁。肉じゃが。たくあんときゅうりの塩揉み。炊き立てほかほかのご飯。
「美味しいっ」
仙太郎の笑顔と言葉に胸がいっぱいになった。
頬が染まった。
作ってよかったと思う。また作りたいと思う。
お姉さまもきっと同じだったのね。
「うん、美味しいわ。腕を上げたわね」
「お母様仕込みだもの……でもほんとに美味しいです」
「当然!この一級神の天才スクルド様が作ったんですもの!」
腰に手をあてて得意そうに胸を張る。
天才スクルド様は料理でも完璧なのよっ!
後ろでウルドは苦笑していた。
言わなけりゃもっといいのに。
食事の後片付け。
愛鈴は後ろ頭を掻きながら太陽みたいな笑顔で笑う。
「──本当に今夜は助かりました」
恵やウルドの料理はとてもじゃないけど食べられないし、インスタントやレトルトの食事は初めは珍しかったのだが、すぐに飽きてしまった。
「うん、たまに来てくれると助かるわね」
ウルドの同意にスクルドの溜息。
「判ったわ──毎日は来られないけれど、週末、土曜日の夜だけなら来てあげる。ばんぺいやシーグルのメンテだってあるしね」
帰る間際。
愛鈴がスクルドの腕を引いて耳打ちした。
「仙太郎さんてお父様に似てませんか」
「そう?」
「はい、どこがってわけじゃありませんけど、なんとなく」
「そうね、愛鈴もそう思うんだ」
ばんぺい君が正面の山門の下で手を振っていた。
他力本願寺からの帰り道。
街の明かりが星の光を駆逐して夜空の下。
「いゃあ、ほんとにうまかったよ」
「んふふ、ありがとう。それよりも帰ったら「英文法」の特訓ですからね」
「お手柔らかに……あははっ」
「笑ってごまかしてもだーめ、次のテストでは絶対、九十点台を取ってもらうからねっ」
やれやれだ。
夜道を歩く二人。
女神と人間の新しい物語はまだ始まったばかり。
後書き
一応ここで終わっときます。
そのうち続きを新たに書くかも。
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