竜門珠希は『普通』になれない
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プロローグ:4人兄弟姉妹、☆空レストランへ行く
もう(声優に夢見る意味)ないじゃん……
前書き
(あまかわ ――)
天河みすず
プロフィール
天河みすず(あまかわ ― )は日本の原画家、イラストレーターである。
――春。
それは別れの季節。
――春。
それは始まりの季節。
少しばかりの不安と期待を胸に、僕は君と初めて“再会”をする――。
………………
…………
……
「……ってなオープニングはもうウンザリだっつーのッ!」
土曜日の昼下がり、A4数十枚に及ぶプリントにすべて目を通し、お願いしてアウトプットしてもらったシナリオサンプルの先頭数行に目を通したあたしは、反射的に企画書をダイニングテーブルに叩きつけてしまった。
「何これ? もうちょっと捻れないの? ク○チャン下地にSN○W要素混ぜてけよ○なぶちこんで鬼畜王して○望の緑髪エンド逝っちゃうような展開じゃん!?」
ずばんっ、と音がリビングダイニングに響くと、その勢いも借りてあたしは目の前にいない企画発案者への愚痴を吐き捨てる。いろいろと略称混ぜ込んでるけど、どれもこれも、中にはCS化もしたくらい名の知れた――加えて、あたしもフルコン&3周したくらいの――作品ばかりだ。
あと、個人的要望であれだけど、ホチキスで止めるのは書類の右上じゃなく左上にしてほしかった、とも思う。
「ったく、そんなに桜舞い散らせたいんなら最初っから舞台、初○島でいいじゃん」
「おーっと? それ言っちゃこの世は全部テンプレじゃんかー」
「まあ、『春、桜、出会いの季節』ってのは理解できるんだけどね」
「そゆこと。少なくとも序盤に安定感ないと体験版で回れ右しちゃう奴もいるんだしさー」
最近お気に入りのフレーバーティーを飲み干し、空のペットボトルもテーブルに叩きつけたあたしに、テーブルを挟んだ向かいから一人の男性がカップに入ったコーヒーを片手に企画書を見ながら間延びした台詞でフォローを入れてくる。
――でも。
それでも、あたしとしては物語への導入が楽だからという理由だけでテンプレをなぞるのが好きじゃないんだよね。
「でもさ、桜前線って関西あたりを卒業式あたりで通過しちゃってるわけですよ? 出会う以前の問題ですよ?」
「けどまあ、それはすべてのテンプレが一枚岩じゃないっていうことのいい例だよねー。第一、北東北や北海道だって4月の20日くらいじゃないと桜咲かないしねー」
「ぅぐ……」
普段は間延びした声と同じくらいのんびりした性格してるくせに、こういうところは鋭い眼前の男性の意見に、あたしは小さく呻いた。
「てか、喩えが具体的すぎて、その企画書の方向性全然わからないシナリオの方向性が想像できちゃうんだけど?」
「そう。それくらいこのシナリオがテンプレの塊だってこと」
「けれどさー、もう何度も言ってきたけどテンプレは定番であり、定番ってのは安定感なんだよ。実妹も義妹も幼なじみも学園のアイドルも委員長も。いいヤツだけどモテない悪友とかセクハラ教師とかも」
「いやいや、あたしの周りにそんなテンプレないし」
……あれ?
そもそも今挙げられたテンプレの事例、少し学園モノに偏向してない?
あとごめん。テンプレあった。あたしの小学生時代の担任、2年前に異動先で――(以下、よくある不祥事ゆえに自主削除)――してたわ。さすがに執行猶予付き1年3ヶ月くらいだったからもう出所してるはずだけど。
それに、この場にはいないけどあたしには弟と妹がいるし、学校の友達数人には再婚の連れ子とかで血の繋がらない兄弟姉妹がいたり、年齢の近い義両親とかいたりするんだけど、それはそれ。あたしはあたしだ。
「でもさー、血の繋がってる兄弟姉妹でもヤることヤってるergあるじゃん?」
「まあ、一般向けにもあったりするけどね」
……ん?
それとなく流したけど、今あたし、心の中読まれた?
「一般向けは恋愛の綺麗な面だけじゃん。まあ、現実での恋人・夫婦間の情と性行為の乖離に関して批判するつもりはないけどさー」
「あ、うん。うーん……」
適当な相槌でその場を濁しつつ、あたしは思う。どうしてこの男性は近親相姦ゲーとかセックスレスとかいった話題をさらっと、しかも家の中とはいえ、お日様の高いうちから持ち出せるんだろう?
少なくとも、幼少期からジ○ニーズ入りをクラスメートの女子から懇願され、中・高時代は毎年のように2月14日に大量のチョコをもらい、どこぞの劇団で二枚目俳優を務められるくらいイケメンと称されていい外見を持っているのだから、それに見合った中身であってほしいのに。
心中であたしが溜め息をついていると、一人暮らしの中、久々に我が家へ帰還したはいいけれど、家にいたのはあたしだけという――ね、誰も出迎えてくれなかった悲劇の男性(身内贔屓含む)はついに爆弾を投下した。
「ま、俺はどちらかといえば実妹派だけどねー」
「は? それを実妹の目の前で言う?」
「いやいや。あくまでゲーム内での話だっての。ゲーム内での」
うん。わかってた。
大事なことだから二度言いたいのもわかる。
さすがに日常会話や行動がダラけて間延びしているとはいえ、理性までダラけてはいない。一応これでも相手は社会人だ。仕事の中身まで今は問わないでおくけど。
「だったらなんでそこでシ○セミアを出すかなぁ。この兄は」
「そっちこそ、なんで○スガ以外を挙げるかなー。この妹は」
――何とも形容しがたい沈黙が、妹とお兄ちゃんの間に訪れた。
「お兄ちゃん。自分と同じ顔した相手とヤるのは嫌じゃない?」
「ちょ。トゥルー解放前に妹孕ませといてその質問はないわー」
「……ごめん。あたし委員長派だわ」
「俺も銀子さん推しだけど?」
――沈黙回避策、あえなく失敗。
「……ねえお兄ちゃん。ここはもう何も言わず痛み分けにしない?」
何となく話題がインセストに及んでいることはあえてスルーして、あたしは先んじてひとつ提案を持ちかけた。
このままだと間違いなくあたしとお兄ちゃんは言い合いをする。
作品のクオリティとか、OPとEDの出来とか、シナリオ・演出の腕とかに始まり、ブランドの過去作やメディアミックスとか現在の業界内部でのスタンスや力関係とかで必ず言い合いが起こる。
しかもあたしは基本的にシナリオと演出が良ければどんなジャンルもプレイするし、お兄ちゃんはキャラと原画家と主題歌でプレイ対象を決めるという、まさに水と油。しかもお互い熱くなると危険という――。
もうね、何というかアレですよ。界面活性剤がないと決して混ざり合わないレベルの話。
……ま、あたしもお兄ちゃんも両作品を続編やFDまですべてプレイ&フルコンしたうえで言ってるんですけど。
「……そうだな」
お兄ちゃんもあたしと同じことを想像してくれたのか、あたしの提案にすんなり乗ってくれた。
いや、さくやも穹もどっちも可愛いから問題ないんだけどね、さすがにジャコスと町おこしは同列に扱えない、かな。
「ん。それならこの企画はお断りということで」
そう言ってあたしは席を立ち、空のペットボトルを片付けにキッチンに向かった。
てか、あたしは今、この企画書以外の仕事を4本くらい抱えているんですけどね? そのうち3つは3日以上前から完全に編集・担当の人たちに首を痛めるくらい頭を下げまくってるってのに。
一方のお兄ちゃんはダイニングで音響機器を特集したコアな雑誌を広げ、残ったコーヒーを飲んでいて、久々の休暇を満喫しているようだった。
「それじゃお兄ちゃん。あたし、部屋で仕事してるから。4時になったら教えて」
「おう。任せとけー」
言葉尻が間延びするのは治らないとはいえ、実妹含む大抵の女性のお願いを、ほとんど嫌な顔ひとつしないで引き受けてくれる兄を背に、企画書を回収したあたしはキッチンを後にして二階にある自分の部屋に向かった。
階段を上り、あたしは自分の部屋の扉に架けられたネームプレートを裏返した。作業中に邪魔が入らないよう、「仕事中」の三文字が顔を見せる。
「さて、と。まずは返事か……」
部屋に入るなり、あたしは先程の企画者のアドレスにメールを返すべく、学習机の上のノートパソコンを立ち上げる。そして立ち上がるまでの間、学習机と同じ高さにある作業机の上のもう1台の、24型のモニタを搭載したデスクトップパソコンも立ち上げた。
スケジュールの多忙を理由に挙げ、そちらの企画には参加できないとの主旨の返事をメールで送ると、あたしはノートパソコンの電源を落とす。今日は土曜日。おそらく返事は来週になるはずだ。
そうしてあたしは向かう相手を学習机から作業机に変え、右手にマウスではなく液晶タブレット対応のペンを取った。
☆ ☆ ☆
「おーい、4時になるよー?」
ヘッドホンから流れる作業用BGMの隙間からドアをノックする音が聞こえ、お兄ちゃんの声が続いて聞こえた。
「わかったー。今準備するー」
右手に握りっぱなしだったペンを置き、あたしは保存作業を開始した。
今までの仕事がPCに保存されたことを確認すると、朝からあらかじめ用意していた外出用の服に着替え、部屋を出る。
「今日、作業のほう結構進んだんじゃない?」
戸締りとガスの元栓を閉め、出かける支度を整えたあたしが玄関先まで来ると、既に支度を整えていたお兄ちゃんが何気なくあたしの進捗状況を尋ねてきた。
「まあ、それなりに」
「その様子じゃ、デビューは大丈夫そうだな」
「ぅあぁぁ……。めっちゃ不安なんだけど」
「大丈夫だってばー。だって俺の妹じゃん?」
「それ、全然フォローになってない」
相変わらずのお兄ちゃんの、そのどこから湧いてくるのかわからない超楽観的な見解に、
特に取り柄もない小心者で不安症なあたしは反論する。
だってさ、デビューとか初舞台とか、規模の大小あれど誰だって通る道とはいえ緊張は少なからずあるもんでしょ? それに俺の妹だから大丈夫だという理論がイミワカンナイ。「俺の妹がこんなに小心者のはずがない」とか茶化して言ってくれたらまだマシだったのに。
「気にすんなって。現役女子高生でデビューとか前代未聞だから」
「いやいや、そういう問題じゃないし! てか、そこが一番の問題だし!」
確かにあたしは今年の春――といっても、ほんの数日前――に高校生になったばかりだ。
特に仲良くなれそうなクラスメートは数人いるものの、まだクラスメート全員の顔とフルネームが完全一致していないし、今はまだ同じ中学だった友人とクラスの枠を超えてお喋りしていたほうが楽だった。
「だって身バレしたらアウトだよ? 絶対捕まるってば」
「法的には問題ないんだけどなー」
「社会倫理的な問題なの」
お兄ちゃんの言うとおり、あたしのやっている・やろうとしている仕事は現行法に抵触するおそれはまずない。別に円とかサポとかするわけじゃないし、怪しいJKビジネスに手や足を染めているわけじゃない。
ただ、あたしのいろいろ精神的な問題はそれについて回る。
「ま、補導とか保護観察とかならありえるかもねー」
「あぅぅ……。もう、伯父さんとかにどう説明したらいいんだろ」
「別にいいんじゃね? そうなったらもう話聞いてくれないだろうし」
「それが一番最悪なんだってばぁ……」
最後に玄関の鍵を閉めたあたしは、軽い返事をするお兄ちゃんの後に続いてガレージに向かう。
何にしたって本気で身バレだけは避けないと――。そう心に誓ったあたしは、お兄ちゃんの運転する車に乗って、妹と弟を迎えるついでに買い物をしようと家を後にした。
「――で、最初はどこ?」
「まずは東京だね。結月を迎えに行こう」
「ん? 東京? 今日何かあったっけ?」
お兄ちゃんは首を傾げながらもすぐ近くの交差点を曲がり、国道に出ると進行方向を北に向けた(注:ちなみにあたしたちの実家は東京都のすぐ南にある県にあります。中華街やみなとみらいがある土地柄って言えば誰でもわかるはず)。
「池袋でイベントあるんだって。聞いてなかった?」
「聞いてない」
これは内心ショック受けてるんだろうなー、と運転するお兄ちゃんの横顔を見ながらあたしは思う。結月はあたしの2歳下の妹で、一人だけ歳の離れているお兄ちゃんからすると8歳も下になる。お兄ちゃんからすると兄妹より親子感覚で可愛がってきたから気にかけるのも無理はない話。
しかも「大きなおともだち」な方々から絶賛好評中の現役女子中学生だ。そのうえ身内の贔屓目を抜きにしても年齢相応にスタイルが良くて可愛い。友人と一緒にショッピングに出かけては芸能事務所や読モのスカウトの名刺をもらってくるくらいだし、手先も器用で要領がよく、初対面の人からも愛されるオーラを放っている。学校の成績的にはちょっと残念なところがあるけど、それもまた魅力にすら変えてしまう娘だ。
ただ、学力以上に残念なのは、末っ子ゆえに甘やかされて育ってしまったことと――。
「結月めー、俺に内緒とかありえんし」
「だろうねえ。腐向けとか言ってたし」
結月は一言で表すならガチのオタクだ。しかも手遅れレベルの。何が手遅れかって言えば、普段はゲームと音楽鑑賞とか偽っている趣味の蓋を開ければゲーム(とアニメ関連のコスプレ)と(ネット上でゲーソン・アニソンと呼ばれる)音楽って時点で既に臭うハズ。
――というか、イベント会場が池袋って時点で何かを疑おうよ、お兄ちゃん。
あの娘、昨日の夜に鼻歌歌いながら新撰組とアイドルっぽい衣装詰め込んでたんだよ? あれきっと『薄桜○』と『うた○リ』のだよ?
「そんなの、出演声優の前じゃ関係ないだろー」
「……ああ、うん。あなたってそういう人でしたねすみません」
そうだった。すっかり失念してた。
この声優オタにアニメやゲームといったメディアの違い、さらには一般向け、萌え豚向け、腐向けといった視聴対象年齢・性別の違いは何の障壁にもならないことを。
好きな声優が出ていれば腐っていようが女性向けergだろうと手を出す最悪の人種だった。そのくせにお兄ちゃんは自分で同年代の10人中8人はイケメンと感じるイケメンなのだから厄介だ。
……前述の数か所、ルビが間違っている気がするけど、気にしない。
部分的に間違ってるだけだし。偏見ってのは意外とそういうものだし。
しかもあたしは結月の部屋を掃除したことがあるからわかるけど、結月の部屋はパッと見た感じオタ臭もなく綺麗にまとまっているように見えて、パッと見えない箇所のオタ臭がヤバい。
そもそも携帯型音楽プレーヤーのメモリの95%が古今東西のアニソン(注:残り4%が腐女子向けゲームの初回限定盤特典などで入手したドラマCD、そして残り1%は一般人向け、らしい)で埋め尽くされている。なお本人の談話より。
最近も一緒にカラオケに行ったけど、当たり前のようにゲッ○ーロボやサ○ーちゃんとか、お兄ちゃんだって生まれてない世代のアニソンを原キーで歌ってのけた。しかも『紅○の弓矢』や『さく○んぼキッス~爆は(ry』、西川アニキからデンカレまで歌詞見ないで歌うとか――この娘は何者よ? それでいて普通な友人とはちゃっかりAKBやらE-girlsを歌ってくるとか言うし。
部屋にあるゲームのハードはゲーム○ーイやプレ○テに始まり、3D○LLやX箱○60°、P○4に至るまで完全に隙がなく、どこから手に入れたのか、PCエ○ジンやらメガ○ライブもあり、あの娘の部屋にあるハードでできないゲームがまずないんじゃない? と思えるレベルだ。
ソフトもRPG、SLG、ACG、STGやPZLやRCGまで幅広く揃え、PCでGT○オンラインを遊び尽くしつつ、毎年GWになるとエ○シュリー、○リスソフト作品の攻略に熱を上げている。だからどうしてCEROのZ指定やソフ倫やらメディ倫やらのプリズムシールが貼ってあるゲームを現役中2女子ができるのかという点は追及しないでほしい。親名義で海外から取り寄せてしまえばそれでお手上げなのだから。
「けどさ、腐ってようが可愛い娘はいるだろー?」
「結月を超えるかなってレベルは有名レイヤーさんくらいだよ」
「へー。その中に注目株は?」
「いるけど、お兄ちゃんが手出したら淫行条例発動しちゃうよ?」
とある都合上、あたしはそういうイベントに参加する売り子さんやらCGのレベルやら素性やらを知っている。もちろん、裏の容貌や本音も。
一方で、みんな仲良しの素振りをしながらその裏で互いに格付けしあう女子(ちな年齢不問。何度も言うけど年齢不問)の恐ろしさを理解しきれていないお兄ちゃんは、まだレイヤーさんやらCGに幻想を抱いていて、恐ろしくて面倒臭い一面を把握できていないようだけど、それはそれで知ったら壊滅的なまでに現実の女性に幻滅する一因になりかねない気がする。
まあ、顔含む外見がいい兄のこと、いざ自分から動き出せば三次元のカノジョには事欠かなかった。そのくせに元カノに恨まれたり刺されたりストーカーされたりという噂すら残さず、綺麗に別れて新しいカノジョを作るテクニックは本当に凄いと思う。あたしの弟たちには見習ってほしくないけど。
「なんでお前はそう兄のことを信用してないかなー」
「心配の裏返しだと思ってくれたら妹としては嬉しいんだけどなぁ」
妹としてこの兄の何が心配かっていえば、それはもう言わずもがな。
「大丈夫だって。俺が本当に愛しているのは――」
「そこで女性声優出したら殴るよ?」
「…………」
妹の一言に、兄、唐突に無言。
――そう。あのいろいろ手遅れなオタクの妹・結月を育てたといっても過言ではないのが、今あたしの右隣でハンドルを握る自他ともに認める声優オタの兄・暁斗だからだ。
「はぁ……。どんだけ声優に夢見てんだか」
「何だよー。いいだろ、夢見るくらいは」
夢を見るのはあたしだって否定しない。
否定はしないけど、夢を現実まで引きずるのは問題だ。
しかも夢を引きずった人間のなれの果てがこれとは、神様もなかなか気紛れで酷いことをなさる。悪い意味で。ほんと悪い意味だけで。
「まあ、レコーディングスタジオのエンジニアにまでなっちゃう努力は認めるけどね」
「当たり前だよー。想像以上に実力主義の世界なんだぞー」
これだけ真面目な会話でも間延びする兄の言い方のせいで緊張感や迫力は全くないが、そちらの世界は年功序列や血統などがまったく通用しない。一に実力、二に実力――ぶっちゃけると、コネと事務所のプッシュもあれば最強だってことはあたしも理解している……つもり。
そもそもあたしもそういう方面にツテやらコネやらを持ってるし。
「ま、収録現場も結構苛酷だもんね」
「そうだよー……って、現場見たことあんの?」
「あるよ。てか、あたしの立場をなんだと思ってんの?」
「……マジで?」
「マジで」
驚くばかりの兄に、あたしは短く返す。
仕事場である収録現場は部外者が入り込めない聖域であるかのように思っていたであろう兄にとってはショックだったかもしれないけど、ショックのあまりハンドル操作が疎かになられては困る。
けど、最近深夜アニメに進出し始めている、クール系ヒロインの演技に突出したかの女性声優とか、デビューCDがオリコンデイリーの1位獲得した妹系アイドル声優とかが、ガラス向こうのブースの中で台本読みながらマイクに向かって喘ぎ声漏らしているのを見てみると、何というか――。
……実際、そんな興奮しない(粉蜜柑)
それはあたしが女性だからというわけではなく、男性スタッフ的にも、やはり仕事として携わっている分には何とも思っていないようで、むしろ容赦なく音響や監督さんがダメ出しを怒号に乗せて飛ばしていた。いちいち下半身から先に反応されても困るしね。
それなのに有名になれる割合一桁のためにバイトしながら夢見る男女が毎年のように集い、競い合う声優業界恐いと思った、まる。
「なあ、もしかしてとは思うけど、お前、【北見杏樹】と出会ってたりとかした?」
「【北見杏樹】?」
――【北見杏樹】
あたしが知る限り、去年の夏あたりから名前が売れ始めてきた女性声優の一人だ。何かとお兄ちゃんと結月がこぞって演技が上手いと褒めていたような――。
もちろん、去年は高校受験を控えていた当のあたしはアニメやゲームに割く時間はそんなにありませんでしたよ? 漫画も見るのを控えてたくらいですよ?
だから【北見杏樹】に関して知っていることは限りなく少ないんだけど――。
「……ああ、【柏木光葉】さんのこと?」
「ちょい待ち! なんでそこで裏名義出しちゃうかなあ?」
爆弾を投下したあたしへ反射的に視線を向け、会話内容の訂正とやり直しを求めるお兄ちゃん。
おいコラ運転者。前を見ろ。事故るだろうが。
「いや、あたしが出会ったことあるのは【柏木光葉】さんのほうだし」
「いやいやいや……。それだけは、そこだけは言っちゃ駄目だろー?」
「別にいいじゃん。裏名義を非難してるわけじゃないんだし」
この世には一部、頑なに認めようとしない連中がいるのはわかるけど、声優の仕事がアニメやコンシューマゲームやナレーションだけだと思うなよ? erg声優も彼らの選んだ道で、通過点であり到達点のひとつだ。全員が全員通る道ではないし、目指す場所でもないけれど。
てかこの声優オタ、まだネット上でも確定していない裏名義までばっちり把握してんじゃないですかやだー。
「それはそうだけどさー」
「じゃあ表も裏も同じ名義で頑張ってる声優さんたちに謝れ」
「え? 何でそういう流れ?」
「【北見杏樹】にバラすよ? あの人のLI○Eアドレス知ってるし」
このあたしですら少なくとも即座に5人は挙がるんだ。
きっと声優オタのこの兄のこと、10人以上は軽く言えるはずだ。
――とはいえ。
「うぅ……。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」
まさか本当に謝るとは思ってなかった。
しかも間近で見ている身からすると、その正体を知らない人たちからイケメン扱いされている兄とはいえ恐かった。さすがに口に出しては言えなかったけど。
後書き
――数日後。
帰宅したお兄ちゃんが、リビングで妹がダンスの振り付け練習のために流していたライブBlu-rayを見て突然謝りだした。
突然の事態に困惑する妹が見ていたのは『アイド――中略――レラガールズ』。
納得した。
けれど、この出演声優さんたちって、名義――以下略。
どちらにしろ、やっぱこのとき言っといたほうがよかった、と後悔した。
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