あわわの辻
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4部分:第四章
第四章
「とうの昔に忘れておるわ。中大兄への、中臣への怨み」
その怨みが今彼をここに存在させている。それが全てなのだ。
「何があろうとも。忘れはせぬ」
「では。私が忘れさせてやる」
清明はそれしか言わない。言えはしなかった。
「ここでな」
「では。倒してみせよ」
入鹿はそう告げて口を開いた。そこから黒い光を放って清明を貫こうとする。
清明に当たる瞬間だった。彼は姿を消した。
「むっ!?」
「その黒い光」
清明の声だけがする。
「そなたの怨みか。それだけの怨みを長きに渡って抱いてきたのだな」
「何処だ、何処にいるのだ」
「だがそれも終わりだ。これで」
答えはしない。清明は己の言葉を告げるだけであった。
「何もかもな」
「何処にいると聞いておるのだ」
「ここだ」
ようやく入鹿の言葉に応えた。そうして姿を現わしたのは。
入鹿の目の前であった。そこに剣を構えて宙に浮かんでいるのであった。
「そこであったか」
「消えるがいい」
清明はそう入鹿に告げると剣を横に払った。入鹿が何かをする時間もなかった。
入鹿の首と胴が裂かれたように見えた。それを最後として彼も黒い霧として姿を消してしまった。彼を最後に怨霊達は姿を消してしまったのであった。
「お師匠様」
「ご無事ですか?」
清明がふわりと地に降り立つとそこに弟子達がやって来た。見れば彼等は無事であった。
「私は何ともない。しかし」
「しかし?」
「この件はかなり深刻な話だ」
彼は暗く思う顔でそう述べた。
「今日はこのまま帰るが明日すぐに関白様のところへ参るぞ」
「道長様のところにですね」
「そうだ。そしてありのままお伝えする」
そう弟子達に告げた。
「それでよいな」
「はい、それでは」
「明日また」
「そうだ。それでは一旦屋敷に戻るぞ」
こうしてこの日は一旦屋敷に戻って休んだ。次の日彼は朝早くに道長の屋敷に入った。そうして昨夜のことをありのまま道長に述べたのである。
「怨霊達がか」
「はい」
清明は道長に対して全て話したうえで応えてきた。
「その通りです」
「正直その者達のことは聞きたくはなかった」
道長は項垂れた顔で言うのだった。傲岸不遜とさえ言われこの世でできぬことはないと和歌で歌った彼にしては珍しい顔であった。
「全て我が家に怨みを持つ者ばかりじゃ」
「御存知でしたか」
「知らぬわけがない」
道長は言った。藤原氏は権力の座につく為に多くの政敵を排除してきた。とりわけ弥生時代や奈良時代前期にはそれにより命を落とした者も多い。そして藤原氏が縁組によりこの当時完全に取り込んでいた皇室もまた。皇室同士の争いにより多くの血が流れているのである。道長はこれも知っているのである。
「そして帝にもか」
「左様です」
「怨霊達は一応は消えたのだな」
「とりあえずは消えました」
清明は道長の問いにこう答えた。
「ですがこのままでは。怨霊というものは」
「怨みを完全に消さぬ限りまた蘇ってくるものだな」
「その通りです、彼等の魂は不滅です」
肉体はそうではないが魂というものはそうなのである。だから一度消されても時が経てばまた蘇る。とりわけ怨霊という存在はそうであるのだ。
「では。鎮めるしかあるまい」
それを聞いた道長の決断はこれであった。
「寺に社を建ててな。それで彼等を鎮めるのがよかろう」
「是非共そうされるべきです」
清明もそれに賛成するのであった。
「悪しき霊は怨みを容易には消しはしません。しかし」
「その心を鎮めていけば少しずつだな」
「はい。それしかありません」
「わかった。しかし」
道長は言うのだった。あらためて何かを思ったかのように。
「人の怨み程厄介なものはないな。わしはそれを買う立場であるしそういうことをしてきただけにそれがわかるわ」
「ですか」
「うむ。わしとて神経がないわけではない」
彼も人である。それならば感じるところがある。この度の怨霊についてはとりわけそうであった。そうして彼が至った結論とは。
「わしも。いずれは彼等の菩提を弔おうぞ」
そのせいかわからないが道長は後年出家する。平安時代においては老年に達すると出家するのが普通であった。だがそこにこの辻の話があったかどうかは彼以外は知ることがない。清明もまたそれについて何も話すことがなかったからである。今は昔の話である。
あわわの辻 完
2007・12・9
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