蜃気楼
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1部分:第一章
第一章
蜃気楼
中国唐代の話である。長江の川岸に一軒の飯屋があった。ここは親父の料理が上手いのでかなり評判の店であった。それで長江の行き帰りに立ち寄る者が実に多かった。
そのおかげで店は非常に繁盛していた。とりわけこの店で有名な料理が一つあった。
「やっぱりこれだよな」
「そうだよな」
人気の品は燕料理であった。この店は燕を出すころでかなり知られているのであった。
「それにしても親父」
「はい」
恰幅のいい顔の親父に客達が声をかけるのであった。
「またどうして燕なんだい?」
「それは烏衣港が近いので」
親父はここでふと歴史を出すのであった。
「烏衣港が!?」
「そうです」
そこは六朝時代南朝の貴族達が遊んで風光明媚なところである。確かにこの店はその烏衣港に近い。なおこの名前の由来は当時の貴族の子弟達が皆黒い衣を着ていたことに由来する。
「それで燕なんです」
「そうか、成程な」
「それを聞くと風流だな」
客達はそれを聞いてさらに喜ぶのであった。味に加えて風流が入ればもうそれで充分であった。人々はその燕を楽しみ朱雀橋を渡って楽しんでいた。ところがここでその朱雀橋に奇妙な噂が立つようになったのであった。
「また出たというのか」
「左様」
人々は剣呑な顔で噂話をするのであった。
「朱雀橋に立っているとな。見えたそうだ」
「ううむ、面妖な」
皆それを聞いて顔を顰めさせる。どういうわけか橋を渡っていると豪勢な楼閣の風景が川の上に見えるというのだ。それは確かにかなり面妖な風景である。
「見た者もかなりになっているぞ」
「かなりか」
「これは一体何事であろう」
人々はそれを噂し合うのであった。
「妖かしの類か?」
「ならば朱雀橋を渡るのは危険だぞ」
話は自然とそちらに移るのであった。
「折角奇麗な橋だがな」
「しかしだ。妖かしがいるのならばだ」
それに好き好んで行く愚か者もそうはいない。そういうことであった。彼等としても命は惜しいのである、だからこれは当然であった。
「では止めておくか」
「そうじゃな」
こうして自然に朱雀橋を行き交う者はいなくなってしまった。何時しかこの立派な橋の周りはすっかり寂れてしまっていた。だがそこに偶然長い髭と青い目を持つ男がやって来たのであった。道士の服を着てその肩に酒をたっぷりと入れた瓢箪を持っていた。彼は朱雀橋を見て嘆くのであった。
「またこれはどうしたことじゃ」
折角の美しい橋を行き交う人もなくすっかり寂れてしまっているのを見てまずは嘆いたのである。
「この橋が大層美しくしかも周りが栄えていると聞いてやって来たというのに」
「仕方がありません」
偶然そこにいた近所の者が彼に対して言うのであった。
「近頃ここに妖かしの者が出るそうなので」
「妖かしがか」
「そうです」
彼はその青い目の男について述べる。
「橋の上に立つと豪奢な楼閣の風景が川の上に見えまして。それで」
「何っ、楼閣がか」
「そうです」
また青い目の男に対して答えた。
「それがあまりにも続くのでこうして。挙句には誰も行き来することがなくなったのです」
「ふむ、それならばだ」
青い目の男はそれを聞いて考える顔になった。その長い顎鬚をしごきながら言うのである。
「何とかなるかも知れぬな」
「何とかなるのですか?」
「うむ。しかしじゃ」
ここで青い目の男はまた言うのであった。
「一杯やりたくなった」
「一杯ですか」
「そしてじゃ」
彼はここで察しをつけてきたのであった。
「燕を食わせてくれる店があるな」
「御存知なのですか」
「ふむ、やはりあるか」
その者の驚いたような言葉を聞いて確信するのであった。
「そうだと思ったわ」
「何故それがわかったのですか?」
「それも後でわかるわ。さて」
今はそれについて詳しく言わずに話題を変えてきた。
「ではその燕料理を楽しみたいのじゃが」
青い目の男の関心はそこにあった。
「その店は一体何処にあるのじゃ?案内してくれぬか」
「その店でしたら」
男もそれに応える。そうして江のほとりの方を指差すのであった。
「あちらでございます」
「あちらか」
「はい。何しろ繁盛している店ですので」
青い目の男は繁盛という言葉を聞いてまた目を細めさせた。どうやら鋭くそこに彼にとって非常にいいものを見つけたようである。
「それはいいことじゃ」
「すぐにわかると思いますよ」
「わかった。それでは」
「あっ、待って下さい」
だがここで彼はまた青い目の男に対して声をかけてきた。
「まだ何かあるのかのう」
「今案内を頼まれましたね」
話はそこであった。
「ですから。案内させて頂きますよ」
「ほう、律儀じゃな」
「子供の頃から親に言われていますので」
男はにこりと笑って青い目の男に応えてきた。
「それでですが」
「随分とよい親御さんなのじゃな」
「有り難うございます。何しろ随分生真面目な両親でして」
彼も自分の親を褒められて機嫌をよくさせた。やはり親が褒められていい気持ちになるのは誰でも同じなのであった。
「そうしたことには五月蝿いのですよ」
「いやいや、そうした方は滅多におらん」
青い目の男はまた言って彼の両親を褒め称えた。
「今は太平の世でもな。結構世の中は荒んでおるからのう」
「荒んでいますかね」
「多少の差はあれど人の世の中は何時でもそうじゃぞ」
青い目の男の言葉が達観したものになった。その青い目に何かしらの寂しさも加わるのであった。彼はそれに気付いてこの男が只者ではないのを察した。
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