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乱世の確率事象改変

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曖昧な心地よさに満たされて




 詠の泣き声が少し静かになるまで、華琳は雛里を腕に抱きながらご機嫌であった。

「朔夜の時みたいに嫉妬しないのはどうして?」

 ただ待ってるのもなんだからと、耳元で暇つぶしに他愛ないことを尋ねてみる程に。

「あわわ……しょれは……」
「知らない子にあの場所を取られるのが嫌だった?」
「ぅ、うぅ……」
「どうせだから話しておくけど、朔夜はしょっちゅう秋斗にくっついてたわよ?」
「っ!」
「風が言うには初対面の時点であの場所を自分のモノにしたんですって。膝に座ってるのなんか五日に一度は見るくらい、なんて耳に挟んでもいる」
「そ、そんな……」
「ふふ、これからはちゃんと自分の場所を自分で守りなさいな。わがままだって言っていい、バカにつける薬は本来無いモノだけど、あの大バカ者には丁度いい薬になるのだから……ね?」

 小さな声で朔夜に聞こえないように行われる内緒の話。
 雛里が無駄なことをしてきたとは華琳も言わない。其処にあった想いは確かに誰かの為だったのだから、咎めることなどするつもりはなかった。

――盗み聞きするつもりはねぇんだが……これからは周りの目とか考えないとなぁ。

 強化されている身体能力のおかげで耳が良くなっている秋斗は、聞こえていても聞こえない振り。
 月と二人で街の散策をしたり、詠と口げんかをしたり、朔夜を膝に乗せて知識の幅を広げたりと……思い返せば噂が立ってもおかしくない状況である。
 記憶を失っているから雛里と二人きりでどうなるわけにも行かなくて、正直な所、彼女達に対してどう対応していいか困っていた。
 関わらないわけにもいかないし、かといって深い関係になるつもりもない。秋斗が誰かに惚れたなどという事はまだないが、彼女達の心理状況を思えば黒麒麟の記憶がネック過ぎた。

――えーりん、ゆえゆえ、ひなりん……夕もそうだったらしいし、黒麒麟ってのは明の言う通り女たらしなわけだ。俺はまぁ、これから女の子にあんまり近づかなかったら大丈夫だろ。

 黒麒麟に想いを寄せているのは知っている……が、“今の自分”が想いを寄せられる可能性など考えない。其処に苛立たれている事に気付いていない彼は、やはり何処かしら鈍感であった。
 そんな何処か的外れな思考を行っている秋斗の腕の中、詠はどうにか涙を落ち着かせていった。
 ただ、ぐしぐしと袖で涙を拭うも、恥ずかしすぎてどうしたらいいか分からないらしく俯いたまま。

――どうしよ。なんて言ったらいいんだろう……でも、離れたくないし……。

 安心はしている。暖かくて心が歓喜に染まっても居る。認めてしまった自分の心は、秋斗の膝の上から退く事を拒否していた。
 雛里と朔夜に叱ったのに、と自分を詰りたくもなる。度し難い欲だとうんざりしてしまうのも詮無きかな。
 悩んだ末に降りようと決めて、秋斗と目を合わせずに口を開く。

「もう、大丈夫だから」
「却下。そのままでいなさい、詠」
「な、なななんでよ?」
「そんなの秋斗の困る顔が面白いからに決まってるじゃない」

 華琳にそう言われて少しだけ、秋斗の顔を見やった。
 意識が向けば目が合うのは当然。秋斗は無自覚の上目使いをされて……目が泳ぐ。
 ズレた眼鏡からの上目使いは破壊力抜群の攻撃であろう。それも泣いた後である。潤んだ瞳も赤くなった瞼も、男を落とすには十分の力を秘めている。ただでさえツンデレに定評のある詠の不意打ちな仕草に、鈍感な彼であれど普通の男と同じく鼓動が跳ねないはずがない。
 ぐ、と言葉に詰まった彼はなんとも言えない表情をしてから視線を逸らした。

「……ちょっとごめんよ」
「ひゃん!?」

 すぐさま抱きかかえてくるりと反転させる。

――狙ってやがったな、華琳め。

 跳ねる心臓をそのまま、憎らしげに華琳を睨みつける秋斗。得意げな表情で口を動かす彼女は、へたれ、と声に出さずに秋斗を詰る。
 一応、まだ詠が落ち着いていない事も考慮して膝の上からは降ろさなかった。まあ、降ろそうとしても華琳が何かを行って来るのが目に見えていたからでもあったが。
 対面に向かい合っている事で詠の視線が雛里と絡む。羨ましげに見つめるその視線に、また恥ずかしくて真っ赤に顔を染めて俯いてしまった。

「とにかくだ……えーりん、名前は荀攸でいいか?」
「ぅぇあっ!? い、いいわよ!」
「そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
「いきなりこんな近くで話し掛けるからじゃないっ」
「お、おう。すまん」

 恥ずかしいなら降りればいいのに、と思うも言えない。腰に回した腕の袖を掴んでいるのは詠本人で、放される気配はなかった。
 朔夜がむくれているが、しかし詠に譲るつもりであるらしく咎めることはなかった。

「じゃあ、次の話に移ろうか」

 両者が膝の上に軍師を乗せるおかしな場ではあっても、せめてと真剣な声音を装った。

「あなたばかり話すのはつまらないわ。私に当てさせなさい」

 そんな彼に、不敵な笑みを浮かべた華琳が言って退ける。
 ため息が一つ。相変わらずやりにくい覇王様だ、と口の中でだけ呟いた。

「……分かった」
「ふふ、あなたが考えてる事は……そうね……」

 雛里を抱き締めながら、宙に視線を彷徨わせて思考に潜ること幾瞬。ぺろりと唇を一舐めしてから彼女は予想を語り始めた。

「詠と一緒に、劉備の所に向かうつもりじゃないかしら? それも帰還してすぐ。劉備が蜀の地を掌握する前に内情を真正面から判別し、記憶を失った事による心情攪乱を打ちつつ、出来るなら劉璋に対して餌を与えて劉家を対立させ……そして公孫賛の敵対強化を為す。公孫賛については白馬義従の支持を得られた以上、手に入れば儲けものね」

 茫然。
 雛里と詠と朔夜は驚愕に呑み込まれた。彼でさえ、思わず息を呑む。
 違った? と楽しそうな目だけで訴える華琳に、秋斗はため息で答える。

「敵わねぇな、ホントに。大正解、その通りだ。新しく名前を決めたえーりんと一緒に、昔のご主人様に対して“ご挨拶”に伺うつもりだった」

 詠と一緒に、という所で朔夜が少し不機嫌になった。

――私を、選んでくれない。劉備勢力を、より大きく掻き乱す為と分かって、いますが……

 記憶を失った事を一手とするなら雛里か詠を連れて行く方がいい。
 敢えて雛里ではなく詠を連れて行くのは、荀攸という新しい名前を見せつけ、存在を公に定着させる意味合いが大きい。有用性を分かっているから、朔夜も口を挟む事はなく。

――やっぱりこの人はほとんど秋斗さんと変わらない。多分、戻れる可能性も考えてるんだ。

 せっかく出会えてもすぐ離れる事になってしまうが、雛里も利点を把握して何も言わず。少しだけ寂しげな目を向けるも、申し訳なさそうな彼の表情を見て、気にしないでと小さく首を振った。

「私達の欲しいモノは手に入ったもの。広がる波紋の中で、もっと大きく影響を及ぼす為にあなた個人が打つ最善の一手くらい読めるわ」
「ああ、俺達が欲しかった……“乱世に於いて有力であった敗北者に対する扱い”は、ほぼ確立されたからな。付属効果もあるし、これで全ての勢力に対して一斉に手を打てる。俺の効果を利用するなら劉備に会いに行くって一手が最善だ」

 彼と華琳の言葉は楽しげに紡がれる。
 朔夜と雛里は直接聞いた時の事を思い出して、詠は今聞いた事を頭に取り込んで、身の芯まで凍りついた。

 華琳達が求めたのは敗者がどうなるかという結果。その為に麗羽の生存は欠かせないモノでもあった。
 敗者でも有能なモノを失わせるのは惜しい。
 覇王と黒の道化師、そして夜天に輝く真名を持つ王……この三人が悠久の平穏を作る為に求めているのは、乱世が終わってからこの大陸を良くしていく為の人材。
 乱世の果てにより多くを残せる可能性を作り上げる為に、死と同等以上の厳罰を麗羽に科したのであった。

 法、というのは初めての処罰があって成り立つモノでもあるのだ。例となる過去の事象があるというのはそれだけで認めるに足るモノになろう。
 此処を分岐点として今回の事が基準線として広まっていく。つまり、真名を捧げる厳罰があれば、世界をより良く導く為の人材を残せる道が出来上がり、それでいて民の心にも一手多く打てる事になる。

 罰を科せられたモノが破れば、真名は大切という価値観がある以上、そのモノは問答無用で悪となる。そうなれば誰も付き従わず、反抗の芽は二度と華開かない。
 自分の存在証明全てを捨てても復讐をしたいような個人単一だけの狂気では、国という大きな力をカタチ作る群体――人の心は動かない。
 よしんばそれが為せるとしても、真名という概念の崩壊につながり、世界の理への反逆となる。空想の物語、勇者が魔王を討伐するかの如く、人々は団結し合ってその権力者や従う者を敵として排除するようになるだろう。

 さらには、真名に対する罰則を受け入れられないモノは華琳への敵対を示す事に繋がり、今後の乱世で覇道を示す為のよりよい環境が出来上がった。
 そんな幾重にも波状効果の広がる恐ろしい楔を世界に打ちこんだのだ、彼らは。

 人材は宝である。呑み込み、受け入れ、背負う三人の王が軍師達と隔絶されている視点は、その一点のみを見極めて答えを出した事だけ。
 長き世を想うからこそ、人の持ち寄る才を愛し、“国”をカタチ作るモノを間違えてはならない。その上で冷たい覇道を行く三人は、人材を得る為の理と効率を……汚名悪名を被せられる事を対価に奪い取ったのだ。

「蜀の地を手に入れる漢の希望である大徳に、覇道に従う私の為の大徳が先の先で行われる戦に対しての宣戦布告を為す……そして公孫賛の反発を“わざと受けて”幽州の者達の怨嗟を捻じ曲げ黒き大徳への信仰を強固にし、尚且つ公孫賛が帰還する為の土台を造り上げる……黒麒麟であってもソレを願ったでしょう。離反する計画を練った上で」
「……遠大な計画だと後の歴史家なんかはいうかもしんないな。獅子身中の虫として生きた忠義の徒、とかなんとか。大徳って呼び名が広まっちまったせいでさ。
 ま、ひなりんの話を聞く限りでは万が一戻っても有り得んよ。ひなりん、ゆえゆえ、えーりんが劉備を見限った時点で黒麒麟の計画は潰れてる……それを知ってるのが俺らだけってのが一番いい一手なわけだけど」

 にやり、と口を引き裂いた。
 黒麒麟の裏切り計画には雛里達の存在が大前提であり、桃香の思想改変が行われていなければそれは為せない。
 覇の道を歩めない王の元では生きられないと、今の秋斗は誰よりも理解していた。

――不安があるとすれば……黒麒麟が“俺”を忘れて単独で何かしら動いちまうことか。そればっかりは元譲達に頼んどくしかないよなぁ。

 当然、今の秋斗が黒麒麟の記憶が無いように、その時の自分がどう動くかなど予想も出来ない。
 春蘭や秋蘭、霞に明。副官として側に置くつもりの猪々子等と事前に話して止めて貰う……それくらいの手しかまだ考えついていなかった。
 そんな一人思考に潜り始めた秋斗とは別に、華琳は呆れたようにため息を一つ。

「どうせ自分の記憶が残らなかったら、とか考えているんでしょう? 会話の本筋を相手に思考させておいて別の事を考えるクセ、雛里から聞いてるわよ」

 ピタリと言い当てられて一寸止まる。
 唇を尖らせた雛里は、哀しい瞳で秋斗をジト目で見つめた。

「あー……マジか」
「言っても簡単に治らないのは分かってるけれど……まあいいわ。話を戻しましょう」

 咎めてやろうか、と思ったが止めた。此処でなくともまだまだ時間はある為に。

「あなたが街に迎えに来た時に話した通り、私は馬騰、孫策、劉備に同時進行で使者を送る。その内の一手をあなたと詠に任せて欲しい、ということでいいかしら?」
「ああ、それと同時に……表には出さないが名前だけ先に出しておくゆえゆえの下に袁麗羽と張勲を取り込んで河北の掌握を進めたい。内部反抗と外部からの襲撃に対する抑止武力は旧袁家の将。袁麗羽の裏切りは無いと見ていいし、現在の袁家に臣従してる輩は利と安全を求めて服従を示す。その間に華琳が馬の一族を臣従させられるだろ」

 次々と並べ立てられる事柄。どれもが二人の思い描いていたモノで間違いなかった。
 だがまだ足りない。二人共がこの話での不足分を理解している。

「劉孫同盟の締結……わざわざ悪名を被る一番の狙いはソレだしな」
「そうね。旧き龍が動いたおかげで私達には時間が出来た。アレは私との敵対を明確にする事を一番念頭に置いていたけれど、次点で孫呉を劉の名に従えさせる事を大前提として動いていた。不足分の兵数を補う為の同盟を組むにあたっての交渉対価では……孫呉側は劉備勢力に一歩譲らざるを得ない」
「助けを求めるか否か、求められて応えるか否か。お人よしで対価無し、なんてくだらねぇことするなら劉備は為政者として死ぬが……噂に聞く諸葛亮が居ればそれも起こらねぇし大丈夫かね」
「まあ……その時は先に劉備を潰しましょう。育つ兵力がどれだけになるかは分からないけれど、私の予想ではこちらも二面作戦を取って構わないし……」
「……?」

 其処まで聞いて、秋斗は疑問が浮かんだ。

「華琳っぽくねぇな。大軍でどっちか一つを圧倒して無理矢理同盟を組ませると思ったんだが?」

 眉を寄せての発言は華琳の目を細めさせた。

「私らしい戦い……ね。その思考に落ち着くのなら、前提として私の事を侮ってるわよ、秋斗」

 発される凍りつくような覇気に、誰もが息を呑み込んだ。
 ただし、華琳の腕の中にいる少女だけが俯いて拳を握る。固く、力強く……瞳には昏い暗い怨嗟を宿して。

「劉備が為政者として最低限の強かさを持てないのなら私が戦うに値しない……そんなくだらない相手なら、言葉を交わす価値も生き残らせる価値もない。
 そもそも、甘い幻想を叶える機会を一度ならず二度も与えてやるなんて……私の矜持に反するわ。その時に利を見極めるであろう諸葛亮をそんなモノの為に使い潰すのも許されない。
 何より……」

 華琳は知っている。腕の中の少女が、どれだけ一人を憎んでいるか。

「仲良しこよしの甘ったるい理を貫く時は……劉備が再び矛盾を行うということ。それなら私ではなく、黒の主に、と願っている月が……雛里を連れて叩き潰さなければならないのよ。そうでしょう、雛里?」

 問いかける声は愛しい我が子を愛でるように紡がれた。
 対して雛里は、翡翠の瞳に極寒の冬の如き冷たさを宿した。

「はい。同盟を組ませる暇さえ与えずに、甘い幻想など叶わない現実を突き付けて滅ぼすのがよいかと。自分の力だけで戦えないから手を組む、誰かが侵略されそうだから手を貸す……ある意味で当然の事ですが、それが出来ない場合をあの人は一度経験しているんですから、また繰り返す時は成長が無いという事です」

 幼くとも冷気を漂わせる声音に、僅かだけ悲哀が混じった。

「いえ……違いますね。あの交渉の時よりも酷くなります。あの時のあの人は自分の治める国と利益を考えてました。
 でも孫呉と無条件同盟を結ぶ場合は、他の国にも同盟での終焉を望むのですから、“国益”という意識を持てない人が治める国に未来は無いです。あの人が良くても、対価を支払うのは……必死で生きている人達と、先の世に生きる子供達。そんな国を、王を……許せるわけないです」

 そんな可能性もある、という話。
 普通の王なら有り得ないことも、桃香は選ぶことがある、と。

「黒麒麟と私が求めた平穏の世は、彼女の幻想の先には有り得ません。だから私が引導を渡します。例えあなたが……その時にまだ戻っていなくても」

 雛里はもう桃香を信じていないから、つらつらと語った。秋斗を見つめる眼差しは深淵の底のように昏かった。
 彼の代わりというわけではなく、黒麒麟と並び立っていた鳳凰だけが持つ戦う理由。彼女が信じる理想の世界は、桃香が描く未来には……無い。

――あの人の理想は幻想になった。例え私が抗わなくても、長い時間を置けば現在の漢のように内部から腐敗して多くの人が先の世界で死んでいく。そうしてまた大きな乱世が起こって世界は繰り返すだけになる。あの人と私と月ちゃんと詠さんと徐晃隊が戦ってきた想いは、そんな世界を作らない為。故に、偽りの大徳である劉玄徳が幻想を説き続けるその時は……私の羽根で薙ぎ払おう。

 ゆっくりと蒼髪を撫でつけて、華琳は優しく微笑んだ。

「……と、いうことよ。分かった? 秋斗」
「ああ……すまん。ひなりんも、ごめんな」
「あわわ……か、構いません」

 雛里が何を言いたいのかを明確に感じ取った彼は目を伏せて謝罪を一つ。
 思わず帽子を下げようとしたが外されている事に気付き、恥ずかしくてまた俯く。

「ふふっ、まあ、公孫賛が居るから確率的にはほぼゼロ。公孫賛は甘さもあるけれど現実感覚が結構鋭い。絶望を越えた彼女は徳を語る先達の王としては申し分ないし、きっと劉備をより良く成長させていることでしょう」

 言い聞かせるように紡がれたのは、そんな未来は起こらないとの否定であった。
 華琳が白蓮に向ける信用は実績に基づいて判断されている。国の利益を考えるのは王として当然の思考であり、例え身一つになろうと国の為に殉ずる彼女が居れば、桃香を導くには十分に足りえる。

「で、よ。本題だけど」

 短く一言。予想はこれまで。話を先に進めるべき、と。

「この話をしに来たのは……明からの細作に対する警戒忠告があったから?」
「うん。細作じゃなくて隠密らしいがな。孫呉の褐色猫狂いとかいう奴の匂いがするって言いに来て、なんでかしらんが荀彧殿をお姫様だっこして走り回ってる」
「……わけがわからないわ」
「俺もだ。だが意味があるらしい。任せておけって言ってた。あいつも袁家討伐に行くから個人行動を予定してるなら今の内に話せってことだろな。
 ちなみに、張コウ隊と徐晃隊の何人かが巡回してるが……どっちも細作の警戒は慣れてるらしいし、その猫狂いとやらだけ明が対処すれば大丈夫だとよ」

 隠密、と聞いて軍師三人は緊張に身を引き締め、恐る恐るといった様子で天幕しか見えない周囲を見回した。

――お遊びにしか思えないのだけど……何をしているの、あの子は。

 思わず片手で額を抑え、華琳は眉を寄せる。
 明はそういった影の分野でも優秀な人材ではあるが、さすがに行動が異常過ぎたのだ。ただ、任せろというからには突っ込まない。

「春蘭や霞でも気付かない隠密がもう入り込んでるなんてね……」
「黒麒麟が連合戦終わりに行動を起こしたのが効いてるんだろ。それに袁麗羽に与えた罰が余計に警戒を与えたってのも一つかな。監視の目を立ててたにも関わらず入り込めたのは……多分アレだ。公開処罰の時が怪しい。まあ、それはいいか。入り込んでるもんはしゃあない」

 彼は短く息をついてお茶を一口。

「明が対処してる間に俺の動きを決めた上で、孫呉への対策も考えておきたくて此処にきたわけだ。劉備のとこに居座る期間と連れて行く部隊は孫呉の行動如何に左右されるし、俺のもんになった旧文醜隊の掌握も早い内にしておきたいんだ」

 ふむ……と華琳は顎に手を当てた。
 軍師達の瞳にも知性の光が灯った。

――陣の外で処罰をしたからその間に入り込んでたのか……狙いをこの時の一点に絞ってるあたり……軍のどれかの部隊に紛らせてる草から処罰の情報も聞いてる……呂布よりもこちら優先とは……孫策、いや、周瑜も中々……ふふ……孫権も居るから……

 思考に潜りながら徐々に緩んで行く口元。
 楽しい、と感じていた。一度目の失敗を次に生かせる孫呉の評価が少しあがる。それに情報通りなら、現在は陳宮と呂布率いる劉表軍の相手で忙しいはずなのだ。まだ安定していない孫呉なら戦力は少しでも欲しいはずで、しかしながら明が認めるほど優秀な隠密を寄越した。それがどういう事か分からぬ華琳ではない。

――通常の影のモノ程度なら問題は無かったのに……孫呉の警戒を一段階上げる必要が出てきた。麗羽達旧袁家のモノに留守を任せる以上は、秋斗の動きが読まれるのは危ういわね。

 己が手で打倒すべき敵と定めた雪蓮を誇り高き英雄とは認めていても、それに捉われ過ぎる思考停止はよろしくない。相応しい舞台で戦おう、などと約を交わしたわけではないし、貸し借りも既に無くなっている。
 呂布との戦闘の被害状況がどのようになるかは分からないが、雪蓮であれば、寡兵であっても華琳の居ない隙を突く事も有り得ると考えていた。
 卑賤ととるか狡猾と取るか、それは人それぞれ。しかしながら戦とは本来そういうモノ。
 “華琳の目指す覇王”が主の出払っている場所を襲撃すれば卑賤となるが、過去の英傑達からすれば当然の狡猾さ、というだけ。
 指標として確立される王は一つではない。千差万別の違いがあり、そうであれと一般的に願われる固定概念に縛られて高説を述べる人間が居たなら、今の華琳はその人物を足りないと断じて興味を失うだろう。
 人がそれぞれ違うように、王にもそれぞれカタチがある。だからこそ、彼女達は存在証明を在り方として体現しているのだ。
 過去から学ぶのは確かに良いことではあるが、そのまま真似をするだけで自分が生きていると言えようか。世界に生れ落ちた自分自身が試行錯誤した上で道を開いて歩く事を望む……華琳の誇りは其処にあり、他者に求める誇りも同質。
 誰かの真似事の人生に価値は感じない。人は自分にしかなれないのだから、と。
 その点で言えば秋斗だけが華琳にとっての例外ではある。演じていると理解した上で他者の為に踊る道化師だけは、その心の在り方に重きを置いて真正面から否定せず、黒麒麟と混ぜ合わせて救ってやろうと考えていた。

――出来る限り馬騰との戦は先に終わらせたい。旧き漢の臣は総じて退場するか従わせてこそ意味がある……それに月のこともあるから西涼を抑えておけば涼州の安定化も迅速に行える。早期的な医術の発展の為に身元が割れた神医も手に入れたい。孫呉は……また交渉させるか、それとも……

 着々と積み上げられる思考。その最中、雛里がもぞもぞと動く。

「どうしたの?」
「しょ、しょの……」

 何か言いたげではあるが煮え切らない。
 そこで華琳は、ああそうか、と気付いた。

――軍師としての発言を私にするから降ろした方がいいのでは、って聞きたいのね。

 ゆっくりと腕を離せば、雛里は一寸驚いた後にぴょんと飛び降りた。
 ハッとした詠は、自分も同じように秋斗の膝から降りる。

「では雛里、言ってみなさい」

 ゆったりと脚を組み、机に両肘を着いた華琳。楽しげな笑みはいつも通り……でありながら、本来の軍議と同じ彼女になり替わる。
 すーはーと深呼吸をした雛里は、帽子を頭に乗せて……軍師としての彼女に切り替わる。

「孫呉の行動制限を強いるには、張勲さんを使うのがいいのではないでしょうか?」

 この場に居るのは優秀な軍師と、切片さえ与えれば理解出来る程度頭が回る秋斗である。故に彼女は無駄な説明を省き、策だけを提案した。

「……使える?」
「孫呉を知り尽くしているあの人なら、西涼侵攻の時間を多く稼ぐ事が出来ます。一つ目は、孫策さんを首輪付きにする為に打った一手は内部に毒として残っているらしいので、張勲さんが使者として赴くだけで大きな意味を持たせられます。それにもしかしたら末妹をこちらに引き込めるかもしれません」

 ほう、と息を付いた華琳が目を細めた。

「……首輪として機能していた末の妹の身柄を手に入れる、か。私に袁家と同じ事をしろと?」

 策としては有用だと認めている。だが、華琳としては人質を使う事はしたくない。
 あからさまに過ぎる外交結果では、せっかく袁家を悪と断じて滅ぼしたのに線引きまで越えてしまう。

「あちらから望ませるようにすれば問題ないかと。生存を望んでも敵を殺そうとした孫策さんと、怖ろしい処罰を与えたにしろ敵を殺さなかった華琳様を比べると、甘い幻想を胸に抱いている末娘の心情はこちら側に傾きます。ただ、末妹を引き込むのはあくまで付属効果に過ぎません」
「ふむ……人質というよりただの臣従、それならまだマシだわ。つまり毒として残っている孫家の末妹が居るから交渉の手札が増やせるわけね」
「はい。こちらは時間稼ぎだけでいいので、張勲さんを使いに送って示すモノは……孫権さんの処遇です」

 雪蓮ではなく蓮華。雛里が打とうとしている一手は次世代の王に対してであった。
 軍師三人はなるほどと頷いたが、秋斗は訝しげに口を開いた。

「なんで孫権なんだ?」
「私と劉表の謁見に於いて孫家の反骨心はうやむやにされてる。勝ち逃げをした旧き龍は孫策の罪を問い家の罪も問うたのだけど、孫権は忠心を持っていると僅かに示したのよ。だからその事と孫策軍の袁家撃退報酬を合わせて、孫権に何かを与えてもいい……劉備が徐州牧の任についた時のように、荊州を任せてみるというのもありかもしれない」

 華琳の答えに、ああそうか、と一つ零して手をぽんと合わせた。

「主戦力の分散と揚州の内政遅延、か。わざわざ荒れてて反発満載の荊州を孫策ではなく孫権個人に宛がえば、それの支援の為に本拠地の人員も自然と減るってことか。そうなると孫呉は動くにも時間が掛かるから動けないし、防衛人員に当てるつもりの文醜を連れてっても問題ないかもしれんな」
「雛ねえさまの狙いは、張勲を使い孫家の心理攪乱と内部不振。私もその案を推します、華琳様」
「……うん、ボクもおおまかには賛成。でも雛里……隠してる袁術はどうするの? それに張勲は明確な功績を上げてないから、華琳の部下に迎えるとしても弊害が大きいわよ? 孫呉が健在の状況で裏切る可能性は低いけど」

 憐みと同情を少し浮かべた瞳で、詠が少し首を傾げて雛里を見つめる。
 麗羽に袁の虐殺を命じたという事は、美羽は殺されなければならない。名を捨てて生きているからなどと甘い論理は通用しない。
 隠している事が孫呉にバレては意味が無いのだ。如何に店長の店といえど、七乃が素直に従っている事を読み取れば孫呉側は美羽が生きていることなど容易に気付くであろう。
 さらに、七乃が裏切ったといっても官渡の間に攻めてこなかっただけで功績が薄く、華琳直属の部下ならいざ知らず、月の下に付けるには何か大きな理由が欲しかった。

 しかしながら詠は少し読み誤った。鳳凰が何の手も打たずに帰ってくるわけがないのだ。

「問題ありません。華琳様は旧袁紹軍に血筋の根絶やしを命じましたが、南皮の本拠地には既に張勲さん従える旧袁術軍が向かっています」
「……へ?」

 一寸理解出来ずに詠は口を開けた。しかし直ぐに驚愕に目を見開き、苦々しげに歯を噛みしめる。
 ふ……と笑ったのは華琳。戦術面が強かった雛里の、戦略面での成長を見て取って。
 朔夜はむぅっと口を尖らせた。打ちたい手と考えていたが、行動に移せたのは雛里。わざわざ口に出す事はしなかったが。

「袁家征伐の手を既に打ってたとはな……ゆえゆえとえーりんみたいな事を袁術でするつもりなのか?」

 今度は彼も答えが読めた。
 明から聞いた異端者の話。たった一人の命が救われるならなんでもする同類。自分と明に近しい思考のその女なら、間違いなく取る手があった。

「その通りです。あの人が娘娘の給仕として働いている袁術さんの命を救う手立ては、孫呉に見つかる前に袁術が身罷った事実を上げること。現状では行方不明扱いですが、張勲さんの与り知らない所で勝手に一人で逃げ出し袁家に潜んでいた……など、どうとでも理由は付けられます」
「身代わりは……袁の血族の幼子だな?」

 大量に死ぬ袁家の内の一人が生贄となるだろう。
 年齢の別なくと自分が命じたのだ。それについては何も言えない。

「はい。なので華琳様には……歌姫の三姉妹の時と同じく世界に嘘を付いて頂く事になります」

 微笑みを浮かべて華琳を見据えるも、幼い見た目に反して、口から語られるのは狡猾な一手であった。

――ズルい言い方ね、雛里。

 心の中で苦笑した。
 前例がある以上は、才が華琳にとって利するなら受け入れざるを得ない。
 華琳は世界に嘘を付いている。乱世の引き金となった黄巾党の主格を、名を隠す事によって自分のモノとしたのだ。
 乱世を越えて行く力を得る為の判断であって同情で助けたわけではない。罪には罰をと裁く華琳としても異例中の異例であるが、利と効率を重視して天秤を三人の才に傾けた。

――ねぇ、黒麒麟。私も大嘘つきなのよ? 作り出したい平穏な世の為には、大嘘の一つくらいつかないとダメだもの。

 目を瞑り、内心でまだ戻ってこない嘗ての敵に言ってみる。
 ある意味で、彼女は秋斗と同等の自責を背負っているのだ。大陸で一番の悪は自分以外にいない、と。
 怨嗟を宿した人々に責められるのも覚悟の上。真実を知れば誰もが華琳を嘘つきと責めるだろう。黄巾の乱で奪われた命と、その悲しみに震えモノは星の数程に居るのだから。
 それでも作りたい世界があった。其処もほとんど同じ。だから美羽の事は本来直ぐにでも頷ける……が、今回の事で一つ問題があるとすれば……美羽を七乃に対する人質として扱う事を是と出来るかどうか。

「あ……華琳様」

 黙っている華琳に、ハッと気づいた朔夜が声を掛けた。
 目線が絡む。藍色の瞳に知性が渦巻いていた。

「袁術が、娘娘の給仕になったのなら人質扱いは有り得ません」
「どういうこと?」
「てんちょーは、今回の事で怒ってると思いますから……袁術は性根から、叩きなおされていくでしょう。“我らが主人は食事を楽しむ全てのお方。料理は愛情、皆に笑顔を”……です」
「……さすがにそれだけでは分からないわ」

 続けて説明されても、やはりわけが分からず首を捻った。

「図らずとも、華琳様と秋兄様が袁麗羽に強いたモノと似たような事をしている、ということです。それに白馬義従並かそれ以上、幽州を大切にもしていましたし、利益を計算する時のてんちょーの頭脳はそこらの文官よりも上で、人の心の機微にも聡い。華琳様の矜持を、計算に居れてもいるでしょう。てんちょーを、信頼して頂くしかありませんが……袁術は娘娘に自分から望んで仕える事になります。袁術が居る限り、張勲は華琳様の元を離れる事は有り得ないので、問題はないかと」

 華琳としても、店長の人となりも矜持も信頼してはいる。
 分野は違えど大陸制覇を目指す同志で、利害関係が一致している同盟相手でもある。
 そこで思い出したのは、一つ。

――給仕に手を出したら約定違反……袁術が給仕である限り私も手は出せない。公で死んだとされて、そこからさらに政治の道具にするなら……頑固者の店長が私の元から離れるのは間違いない。さすがに店長を失うのは民の反感が大きすぎる。商業分野にしろ豪族の支援にしろ、娘娘の支持は欠かせない要因になってるのだから。

 持ちつ持たれつの関係を続けてきた店長と華琳の関係が崩れるとなると、少しばかり害が多すぎた。

――袁術個人に興味は無いけれど、張勲と店長の二人を対価にしなければならないなんて……度し難い。店長をこんな政治絡みに巻き込むのは気が退ける……けど張勲との事は任せるしかないか。

 麗羽のように仮面を被っていたならまだ良かったが、美羽はそのまま自分のしたいようにしていた事に気付いているから、華琳の中で美羽の評価は低い。

「……袁術ねぇ」

 大きな部分を見ている華琳とは別に彼は自分なりの思考を繰り返していた。
 無意識に漏れた言葉に、皆の視線が集まった。

「ああ、すまん。どんな奴かって気になってな。とりあえず張勲は欲しいし、店長との不仲もよろしくない。袁術を生かすのは確定だろ? 孫呉のことがあるから手元に置いておいたらいつか使えるかもしれないし、店長に任せてやればいいさ」

 慌てて言いつくろった彼はどうにか誤魔化す。
 また何処かズレた思考をしていたんだろうと思うも、話を進める為に問い詰める事は誰もしなかった。

「……そうね。とりあえずこれで軍師三人の意見は賛同は得た。桂花には雛里が、稟には詠が、風には朔夜が説明して、二人一組で気付かれないように煮詰めて帰るまでに個別報告をして貰いましょうか。帰還後、私が吟味した上で判断を下す」

 御意、と頷く三人に対して、秋斗は軽く目礼を返す。
 今日は此れで終わり、と誰もが感じ取った。

「早い段階で実のある話が出来て良かったわ。判断を下したのはあなただけど、明にもご苦労と伝えておいて頂戴、秋斗」
「ん、了解。こんな遅くまですまんな」
「いいのよ。機を見て敏なりは基本。機を逃してしまえばそれだけ人の命も時間も奪われる事になる。それに……」

 ふ、と満足気な笑みが零れた。視線は三人の少女に向けられて、其処には優しく暖かい光が宿っていた。

「詠の照れた姿、朔夜と雛里の嫉妬……愛しい子達の可愛い所をたっぷりと見れたのだから、少し張っていた心の休息にもなった」

 三人が三人とも顔を俯けて目線を逸らす。
 失礼ね、と華琳は苦笑を落とした。

「さ、そろそろお開きとしましょう。もう夜も遅い」

 そう言われて天幕の入り口まで歩いて行く軍師達。
 お茶の片付けだけでも、と秋斗は湯飲みを盆に乗せて行く。
 温くなったお茶を飲み干し、椅子にゆったりと背をもたれさせた華琳が宙に大きな吐息を吐き出した。

「ただ、秋斗だけ少し残ること。質問疑問は受け付けない。少し二人で話したいことがあるわ」

 何を……と言う間もなく言われては何も言えない。
 皆は訝しげに見つめるも、華琳に従った。

「……おやすみなさい」
「おやすみ、なさい……です」
「おやすみ、二人とも」
「ん、おやすみ」
「おやすみ。よい夢を」

 静かに幕が引かれて、後に残ったのは二人だけ。向かい合って椅子に座る彼と彼女であったが、視線が絡むことは無かった。
 お茶をまた入れようか、とも思ったが秋斗は辞める。

「……秋斗」

 幾重の沈黙の後、今夜から呼び始めた彼の真名がぽつりと小さく消え入るように紡がれる。
 やっと合わされた視線は探りを入れる時の彼女のモノ。

「あなたは……あの時どうして泣いていたの?」

 何時とは直ぐに分かった。
 白馬義従に懇願したあの時、義に従ってくれと願ったあの時、彼が泣いているのを見たのはその時だけ。
 思いやりも含まれた質問。黒麒麟に戻って嘘を付いている可能性も考慮しているが、華琳は信じたくなくて自ら確かめようとしていた。

「……アレは俺の涙じゃないよ」

 彼の唇から零れる声は力無く、弱々しい。
 大きなため息が一つ。額に手を当てて、胸を手で掴んで、彼は俯いた。
 もう出て来ないあの感覚は、思い出そうとしてももやが掛かったように曖昧だった。
 自己乖離のハザマで自分を呑み込もうとする絶望の記憶。彼をも壊してしまう、自責の渦。
 一番怖いのは……彼女をまた泣かせてしまう事だ。

「そういう風には見えなかったけど? あの時の声も、あの時の様子も」
「違うよ……違うんだ。俺が哀しかったわけじゃない。俺が苦しかったわけじゃ……ない」

 消え入りそうな声だった。
 切り替わりの激しい男ではあるが、こんなに弱っている秋斗を見たのは華琳にとっても初めてのこと。

「友達を救いたくて救いたくて……それでも大嘘をついて切り捨てちまった黒麒麟の……後悔の想いが溢れたんだ」

 掠れた声に、震える手。
 それでも……と、彼は無理やり両手を外して、真っ直ぐに華琳を見る瞳には強い光が宿っていた。

「でも、やっぱり俺は俺で、黒麒麟は黒麒麟だ」

 微笑みは儚げで渇いていた。まだ、秋斗の想いは満たされていない。

「……そう。他人の想いが溢れるという感覚は私には分からないから聞くけれど……どんな感じ?」

 自分でも何故か分からないが、華琳は聞いてみたくなった。
 もやもやと浮かぶ不快な感情は……不安なのかもしれない。

「上手く説明できないな。だけど黒麒麟は……救いたいとは思ってたけど、死にたいとは思ってなかったんじゃないかな」

 どちらともなく短い吐息を吐き出した。

「……何が其処まで追い詰めさせたのかしらね?」
「そればっかりは本人に聞いてくれ」
「いいえ、黒麒麟には聞かないわ」

 きつい否定。じとり、と睨みつける視線は鋭く、次の言葉を予想した秋斗は苦笑を一つ。

「あなたが話すのよ秋斗。戻って、黒麒麟の記憶を手に入れて、私のモノになるあなたが話しなさい」

 有無を言わさぬ覇気が浮かぶアイスブルーの瞳が、黒瞳を逸らさせる事を許さない。

――そればっかりは話してやれねぇな、華琳。世界を騙す嘘つきは、嘘をついたままでいなきゃならん。

 誰かに頼ることも、誰かに話す事も彼にとっては間違いで、
 この世界を誰かの思惑が介入した茶番劇場などにはしたくない。華琳の為にも、皆の為にも、一人ひとり想いの華を咲かせた人達の為にも。

 だから彼は――――嘘をつく。

「……ん、了解」

 短い返答は瞳を逸らさずに。
 彼女の向けてくれる優しさと厳しさに感謝を込めているから、嘘の答えが誤魔化される。

「でもな、俺は誰かのもんにはならねぇよ。特にお前さんの所有物になんかなってやんねぇ」

 重ねて吐く言葉は本心であるが故に、話を逸らす手段と為る。

「俺は俺で、華琳は華琳だ。守り守られるなんざ御免だろ。支え合うのなんからしくない。勝手に支えて、勝手に使って、勝手に利用して、勝手に守って……そんな意地っ張りが俺らの関係には丁度いい。
 そんでさ……」

 目を細めて、秋斗は喉を鳴らした。

「クク、俺だけは宙ぶらりんのまんまお前さんの側に、自分勝手に立ってみたいのさ」

 声に出しては言う事だけはしてはならないから、続きだけは胸の内に。

――寂しがり屋の覇王様。欲張りな黒の道化師は、お前さんの、華琳としての笑顔だって欲しいんだ。だから、友達になれるよう頑張るよ。

 見つめ合う。心の内を読まれていないかと思いながらも、彼女の覇気を真っ直ぐに受け止めて。
 幾瞬、彼女は目を瞑り、大きくため息を吐き出した。

「……そういう所、本当にいらつく」

 後に浮かべた悪戯好きな笑みに合わせて、金髪の螺旋が楽しげに揺れ動いた。

「あなたの意地っ張り、叩き折ってあげるから覚悟なさい」
「怖ぇ怖ぇ。ほんっと、お前さんにだけは敵わねぇよ」
「ふふ、よく言う……だらだらと過ごすわけにも行かないわ。終わりにしましょう」
「ああ、いつもありがと、華琳」

 穏やかで意地だらけの二人は、互いに目を伏せて見ない振り。
 近すぎる関係ではなくて、遠すぎる関係でもない。
 曖昧な線引きを違いに引いている彼と彼女は、二人共が似たような苦笑を零して立ち上がる。普段ならしないが見送りをしよう、と華琳も天幕の入り口に歩いて行く。

「……一つの戦の終わりだ。道化師として、居ない黒の代わりに言っておくかね」
「片方だけじゃなくて両方を繋ぐ気になったから、でしょ?」
「そうとも言う」

 ゆっくりと天幕の入り口を開く。
 宵闇の深さに、煌く星が散りばめられていた。
 見上げたのは同時。微笑んだのも同時。繋がれる想いも、同質だった。

「この戦で散って行った想いの華を、先の世の為に捧げよう……」

 一歩一歩と進んで行く黒の背は前よりも大きく見えた。

「乱世に華を、世に平穏を」

――乱世に華を、世に平穏を。

 彼の言葉に合わせて華琳も心の中で紡いで、ひらひらと振り向かずに手を振る彼に背を向ける。

「おやすみ、秋斗」
「ああ、おやすみ、華琳」

 静けさが寂しい夜の帳。
 彼と彼女の心には寂寥も後悔も無く。
 向ける信頼からか、曖昧な暖かさが仄かに揺蕩っていた。















蛇足  ~猫耳軍師と紅揚羽~



「にゃははははーっ♪」
「いい加減降ろしなさいよ明っ! ふぁっ……こら! 頬をすり寄せんなバカぁ!」
「い、や! 桂花をもっふもふするのがあたしの仕事だもん♪」

 きゃいきゃいと喚く二人は陣幕の中。
 物陰に隠された端の端で、百合の華咲く逢い引き……のようなモノを繰り広げていた。

「いんだよ、出て来てもさぁ? 桂花をもっふもふしたくない? ちょっとくらいなら触らせてあげない事もないよー? あ、でも桂花に危害を加えたら地の果てまで追い詰めるからあしからずー♪」

 誰も居ないはずなのに声を掛ける明は、他から見たらかなり痛い子にしか見えない。

 だが……其処には一人の少女が隠れて、落ち込んでいた。

――な、なんでいっつもあの人にはバレるんですかぁ~! 今日こそはと思ってたのに!

 自分の隠形が拙いのかと思い悩む。
 少女の名は明命。孫呉の隠密でも最優秀の者である。彼女を見つけられるモノなどそうそう居ない。
 しかしながら、常日頃から暗殺等に関わってきた明は、彼女の存在に気付ける程に感覚が鋭かった。

「……何もいないじゃない。ホントに居るの? 隠密なんて」
「んー♪ 疑ってる桂花もかぁいいなぁ♪」
「だ、か、ら! 頬刷りするのやめろ! 死ね! この淫乱百合女!」
「いいの? あたしが死んだら桂花は隠密に捕まって、らめぇ~~~って言わされるようなふしだらな拷問受けちゃうかもしんないよ?」
「はぁ!? 華琳様に操を立ててる私がそんな事言うわけないじゃない! みくびんな! どんなふしだらな拷問にだって耐えてみせるわよ!」

――そんなことしませんよ!?

 あまりな言い草に思わず心の中で突っ込む明命。
 激昂しながらも気配をそのまま抑えられる辺り、彼女の心の強さが伺える。
 だがしかし、抑えがたい欲求が湧き立っているのも事実。

――でも、荀彧さんをもふもふ……したいなぁ。

 明が名付けた褐色猫狂いとは言い得て妙、というかそのままなのだが、彼女は大の猫好きであったのだ……というかお猫様と呼んで崇拝すらしている。
 故に、桂花は彼女の天敵と言えた。
 揺れる猫耳フードが愛らしすぎた、似合いすぎているのが問題だった、彼女は猫耳を付ける為に生まれてきたのではないのかとさえ思えた、むしろ猫なのではないか……そんな葛藤を脳内で繰り広げている。

「えー? でも此処をこうしてぇ……」
「何をっふぁ……やめ、め、明……ちょ、んぅ!?」

 何処か暴走していく思考の明命を気にすることなく、淫らな水音が少し響き始めた。

――な、何が起こってるんです!?

 訳が分からず、それでも見る事は出来ない。明相手では少しでも動けば此処に居るとバラすようなモノであるが故に。

「うるさい子は黙ってましょうねー。ひひ、やっぱり耳弱いんだー♪」
「……んっ! ひゃめっ……っ!」
「次は何処がいい? かわいいからこのまま食べちゃいたいんだけど?」

――はぅわっ! た、食べる!? こんな場所で!?

 困惑極まるとはこのこと。そういった方面には疎い彼女であれど、艶やかな声を聞けば何をしているか思い浮かび、顔を真っ赤にして震えだした。
 逃げ出したいのに動けないというジレンマが彼女を縛る。

「……っ、っ……がぶ!」
「いったぁ!」
「調子に乗るんじゃないわよバカ明!」
「むぅ……いいじゃん、ちょっとくらいさぁ」
「良くない! 私を食べていいのは華琳様だけなの!」

 元気な桂花の声が聴こえて、明命はほっと胸を撫で下ろした。

「……ま、いっか! じゃあぎゅーってするのはいいよね!」
「ひゃん! 聞く前に抱きしめてるじゃない!」

 そんな明命を知ってか知らずか、明は桂花をぎゅうと抱きしめて、気配がする方へと目を向けた。

「とりあえずさ……猫狂いー、聞いてるのは分かってるかんねー? 血狂い虎に伝てよ。ひひっ、次は本気で殺し合おうね……って」

 妖艶な声に、明命の背筋に寒気が来る。

「……ホントに隠密が居るの?」
「出て来てくれないから桂花には分かんないよね。でも居るよー」
「……そう」
「んー♪ 怖がってる桂花もかぁいいなぁ♪」
「こ、恐がってなんかない! それより来るしいから離しなさい!」

 直ぐに先程までの緩い空気に戻った二人。
 明に気付かれた以上、もう此処にいるのは意味がないと思い、明命は立ち去ろうと心に決める……しかし、

「あ、言い忘れてた。秋兄……黒麒麟からの伝言」

 そう言われて、息が詰まった。

「“これで最悪の場合に陥れば家の存続は望めないな、孫呉。逃げ道は全部潰させて貰うぞ。あの時に協力出来ていれば、こうはならなかったんだがな”……だって。もう、元袁家のあたしにこんなこと言わせるなんて秋兄ひどいよねー」
「相変わらず意味分かんないわね、あの幼女趣味男」
「うわ! 桂花も狙われちゃうかも! 胸無いし!」
「誰がまな板ですって!?」
「あはっ、其処まで行ってないし――――」

 続きの会話にはもう乱されず、一度だけ相対した男を思い出す。
 残酷に効率を求めて命を賭けさせる黒は、何を伝えたいのか。
 思考を回すのは明命の本分では無い。

――帰ろう。私達の家に……。

 嫌な汗が背中を伝う。異常な戦の終端と、敗者に強いられた結末は彼女にとっても恐怖するモノ。
 幸い、動いても見逃すつもりなのか、明は桂花との会話を途切れさせるつもりは無いようだった。

 一つの戦が終わっても、次の戦の為に心が休まる時が無い……明命の心はこの時、いいようのない不安に包まれていた。


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

詠ちゃんの名前を先に決めた理由はこんな感じです。
記憶を失ったと知って一番ショックを受けるのは朱里ちゃんかもしれません。

明命ちゃんって桂花に出会ったらやばいと思うんです(主にお猫様的な意味で)


ではまた 
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