竜のもうひとつの瞳
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第十四話
倒れてから十日ほど経ったというのに、未だに調子が上向きにならない。
一進一退を繰り返しているのだが、昨日から起き上がれないほどの高熱が出ていて、
過労ではなく別の重い病なのではないかと疑いもしている。
しかし、侍医から過労も立派な病だと叱られて、やはり俺は何も言えなくなってしまった。
無茶をし過ぎだ、そう侍医から何度も同じ事を繰り返し言われてしまうが、それは俺も分かっている。
分かっているが無茶をしなければならない状況であったのは……いや、過労で倒れるほどに無理をする必要は無かった。
ただ、姉上がいないという現実から逃げたかったのだと思う。
割り切れない心を見ないふりをして、必死に忘れようとした――――ただそれだけなのだろう。
その結果が今の状態だと思うと、なんだか情けなくも思えてならない。
そんな俺を嫌な顔一つせず甲斐甲斐しく看病してくれているのが夕殿で、
昨晩は特に熱が酷くて目を離せない状態だったからと一睡もせずに付きっ切りで側にいてくれた。
そちらが参ってしまうから休んでくれ、とは言ったものの、いつものように優しく笑って大丈夫だと答えるばかりで、
つい俺もそれに安心して甘えてしまっている。
……どうにもこの人には情けないところばかりを見られているような気がする。いや、確実に見られている。
だが、それを咎めることもなく側にいてくれるものだから、そうであることを許されているような気がしてしまう。
こんなところを大姉上に見られたら鉄拳制裁もいいところだが。いや、多分命がねぇな。
どうして、それほど話したことも無いこの人にこれほど気を許しているのだろうか。
姉上に似ているわけでもないし、失恋して気が滅入っているからというわけでもないと思う。
だが、側にいると安心するし、声を聞いていると気持ちが落ち着く。
側にいて欲しい、などと考えている自分がいて、それに気付くとお前は何を考えているのだと叱咤する。
いなければ寂しくなって、来ることを心待ちにする自分がいて――――そんなことをずっと繰り返している。
きっと、病気のせいだ。具合が悪いから心細くなっているんだ。
そうに……決まっている。
そうでなければ……一体何だというんだ。
うとうととまどろんでいると、何処からか歌声が聞こえた。
何の歌かと耳を澄ませばそれは子守唄で、聞き覚えが無いはずなのに酷く懐かしくなった。
何処かで聞いたことがあるような気がする、などと思ってしまうのは何故だろう。
うっすらを目を開いて歌声の主を探せば、夕殿が静かに歌を歌っていることに気がついた。
綺麗な声だ。
纏まらない頭でそんなことをぼんやりと考える。
そういえば、昔誰かにこうやって歌ってもらったことがあるような気がする。
もう随分と昔、それは俺が物心つく前の話だとどういうわけか思う。
一体それは誰だったか……少なくとも大姉上でないことは確かだ。
大姉上は歌は苦手だからと一度も歌ったところを聞いたことが無い。
ならば姉上? いや、俺と同い年なのだから歌ってもらったとすれば記憶に残るだろう。
いくらなんでも俺が物心つく前に歌えるようになっていたとは考え難い。
はた、と歌が途切れる。俺が起きていたことに気がついたようで、ばつが悪そうな顔をして笑っていた。
「申し訳ありません、起こしてしまいましたか」
「いや……」
心地の良い歌声が途切れて、何となく寂しいような気がした。
もっと聞いていたい、そんな気持ちにさせる。
「……子守唄、だよな」
「ええ……つい癖で、口ずさんでしまうんです。小さい頃、母がよく歌ってくれて」
母、か。幼い頃に病で死んだ父と、その後を追った母のことは実はよく覚えていない。
一体どんな人だったのかと大姉上に聞いた時、酷く悲しそうな顔をされたのでそれ以来一度も聞いていない。
せめて何か一つでも覚えていれば、と子供の頃は随分と寂しい思いもしたが。
そんなことを思うと不意にその寂しさが蘇ってくる。
三十近くにもなって、どうして今更と思うが、きっと熱のせいで心が弱くなっているのだろう。
母親の温もりが欲しい、なんて俺らしくもねぇ。
「……続き、歌ってくれないか」
「え?」
「子守唄……」
くす、と小さく笑われたような気がしたが、すぐにまた、歌が聞こえてきた。
優しい歌声に、心の奥底にしまいこんでいた記憶が蘇る。
そうだ、小さい頃は母がこうやって俺に歌ってくれてたじゃねぇか。
ぐずって眠れねぇと必ず歌ってくれてた……何だ、覚えてるじゃねぇか。
ずっと親の記憶がねぇと寂しかったが、俺にもきちんと思い出があるじゃないか。母との思い出が。
「……ガキの頃」
「え?」
ぽつりと俺が言葉を発すると、夕殿は少しばかり驚いた顔をして歌を止める。
「ぐずって眠れねぇ時、必ず母上がそうやって歌を歌ってくれた……俺が眠るまで、傍らで子守唄を」
それに安心して眠っていたことを思い出した。優しく笑っている、大姉上に似た女性が頭に浮かんで、
その人の笑みが夕殿によく似ていることに気付く。
綺麗な笑みだ、記憶の中にあるその人の笑顔と夕殿の笑顔が重なり合っている。
「笑った顔が……夕殿によく似ていた」
優しくて、温かくて……俺を安心させる笑顔だ。春の陽だまりのような、柔らかい暖かさで俺を包んでくれる。
幼い頃、こんな笑顔を見せてくれる人のところで心穏やかに過ごしてきた記憶が少しずつ蘇ってくる。
そんな笑顔が心から愛しいと思う。戦続きで荒んでいた俺の心を、静かに凪いでくれるようで、胸が温かくなる。
「そうやって笑ってくれる夕殿が……俺は好きだ」
夕殿は一瞬固まった後、顔を真っ赤にしていた。
何かおかしいことを言っただろうかと考えていたが、どうにも上手く考えることが出来ない。
「……片倉様、後で土下座して詫びるのはなしですからね」
一体何を言っているのだろうかと思っていたが、夕殿はいいえ、と一言言うと軽く首を傾げる俺に眠るようにと促した。
「歌を……」
綺麗な歌声が聞こえ始めたところで、揺らいでいた意識が段々と酷くなっていく。
消えていく意識に抗えずにいると、誰かが俺の額に触れていることに気付く。
それを確かめるだけの力もなく、ただそれに安堵している自分を感じながらゆっくりと眠りに落ちていった。
ページ上へ戻る