最後のストライク
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6部分:第六章
第六章
「生き様を見て欲しいんだ。見て欲しいのは死にに行く姿じゃない」
「生きている姿ですか」
「そうさ、俺もあいつもこうして生きていた。それを書いて欲しいんだ」
「わかりました」
「頼んだよ。そして・・・・・・また会おうぜ」
「靖国に、ですね」
「そう、靖国にだ。そこにいるから」
「わかりました」
山岡は涙が止まらなかった。だが目は石丸を、そして本田を見ていた。その二人の生き様を見る為に。ただ彼等を見ていたのであった。
また一球投げる。
「ストライク!」
抜群のコントロールだった。このボールはプロでもおいそれとは打てないだろうと思われた。
また一球、そしてまた一球。一球ずつ丹念に投げていく。そして十球目だった。
「ストライク!」
二人はまた同時に叫んだ。石丸はその言葉を聞いて会心の笑みを浮かべた。
「よし」
「これでもういいのか?」
「ああ、これでもう思い残すことはない。ただな」
「ただな。何だ?」
「正直に言うともう一度後楽園で投げたかったがな。それは贅沢だな」
「それは靖国に行ってからにしとけ」
本田はその言葉には笑ってこう言った。
「今度は俺だけじゃない。皆いるからな」
「皆いるのか」
「ああ、だから楽しみに待っとけ。後楽園で投げる時を」
「わかった。それじゃあ行って来る」
「ああ」
「出撃する者は集まれ!」
ここで司令である宇垣から声が届いた。
「出撃の時間だ!用意はいいか!」
「よし来た」
石丸はその声に振り向いた。そして頷いた。
「じゃあな」
「ああ」
「また靖国で」
本田と山岡は最後の別れを告げた。石丸は鉢巻を締め、そしてグローブとボールを持って零戦に乗った。
エンジンの音が空港に響く。そして石丸の機は大空に飛び立った。もう戻ることはない。
特攻隊の零戦は戦友達への今の生の別れにとまずは基地の上を旋回していた。その中には当然石丸の機もある。
「あっ」
「あれは」
その石丸の機は遠目にはどれかわからない。だがその中の一機から何かが落ちてきた。基地に残っていた者はそこに駆け寄る。
「これは・・・・・・」
それは二つあった。グローブと、そして鉢巻に包まれた丸いものであった。皆その鉢巻を開けてみた。
鉢巻は中央に日の丸の鉢巻だった。そこにはこう書かれていた。
『我、二十四歳にして尽きる。忠孝の二字』
それだけだった。その文字が石丸の最後の言葉になった。
そして鉢巻の中にはボールがあった。あの最後に投げた白いボールだった。
「何でこれを」
「多分形見にと思ったんだろうな」
ボールを手に取った山岡に対して本田が答えた。
「形見ですか」
「ああ。最後に投げた証にな」
「最後に」
「心配するな、俺もすぐ行く」
本田はそのボールを見ながら呟いた。
「すぐにな。そして靖国に行ってから」
「後楽園ですね」
「ああ」
石丸の機も、全ての機がもう見えなくなっていた。昭和二十年五月十一日。もう鹿屋は暑い日々だった。今一人の野球人が最後の、そして最高のピッチングを終え旅立っていった。石丸進一享年二十二歳、数え年にして二十四歳の若さであった。何処までも澄んだ青い空の下での話であった。
その二日後本田も言った。彼もすぐに石丸のところへ行った。笑みを浮かべて空へ旅立った。
戦争は八月十五日に終わった。特攻隊を作った大西は終戦と同時に腹を切り、自らを裁いた。
『特攻隊の英霊に申す。陳謝す。よく戦いたり』
遺書にはこう書かれていた。誰よりも特攻隊というものを知り、そして己を責め苛んできた彼は終戦と共に自らを決したのであった。彼を知る者は皆その死を泣いた。最も苦しんでいたのが彼であると知っていたから。
そして鹿屋の司令官であった。宇垣も。彼は終戦の詔と同時に最後の特攻に向かった。
『英霊達だけを行かせるわけにはいかない』
彼は決して口には出さなかったがこう考えていた。そして彼もまた散華したのであった。こうして戦争は終わった。多くの者がその中にそれぞれの思いを抱き、散華しながら。そして終わったのであった。
あれから長い時間が経った。戦争が終わり六十年経った。石丸が最後に投げたいと言った後楽園球場はもうなく、そしてそこには東京ドームがある。もう後楽園ですら遠い記憶の彼方になっていた。
石丸の最後を見届けた山岡ももういない。全ては本当に遠い昔になろうとしている。
だがこれは本当にあった話だったのだ。野球を何処までも愛し、そして国難の前に散った一人の野球人がいたというのは。これは事実である。
その魂は今靖国に静かに眠っている。野球を、そして日本のことを思いながら。そこにいる。靖国に行けば彼に会うことができるのだ。特攻隊として散華した一人の野球人に。
最後のストライク 完
2006・5・27
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