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乱世の確率事象改変

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縋るモノに麗しさは無く

 求めた者では無かろうと、彼の者は私が求めた黒き大徳と相違無い。

 演じてみせろ、あの男を。

 矛盾の理を説いて徳を為す異質な存在を。

 そうすればお前を認めてやらぬ事は無い。

 愛しい敵対者では無くとも

 お前だけは……私の隣に並ぶ事を許してもいい。



 少しだけ、雛里の事が羨ましいと思った。

 切り捨てたはずの弱さは、あの子とお前を見る度に、胸を苛む羨望の痛みを齎してしまう。

 きっと、雛里は幸せになれるでしょう。

 戻った時にお前自身が消えてしまうとしても……。

 救われないお前個人の幸せを切り捨てたし、

 こうなってくれる事を私も願っていた。

 それでもお前は幸せだと言う。

 私みたいに、お前の胸は痛んだりしたのかしら?

 個人の幸せを捨てても他者の幸福を願うお前は……私と同じように……



 断じて面白くないけれど、お前との時間は悪くない。

 それならお前も、私の元で幸せになるべき。

 だから……そんな顔をするんじゃないわよ、徐公明。

 まだそんな、心の底から幸せそうな顔は、するな。

 私はね……手に入れたモノを手放す気など無いの。



 今はいい。覇王と黒麒麟のマガイモノが作る舞台を始めよう。

 同じ世界を思い描く、既存世界に抗う反逆者二人の舞台を始めよう。




 †




 現代の歴史上から見ても、公開処刑は古くから行われてきた。
 例として挙げられるモノには魔女狩りなどがあるが、民衆に悪の行いだと晒して風評を操作するには大きな意味を持つ方法であろう。
 そも、尊重されるべきと認識されている皇帝に弓を引いたモノを、大陸の平和を乱した悪逆の徒を、内密に処理して“はいそうですか”と終わらせるのは余りに拙い。
 晒し頸にして街頭に置いておいたり、遺体を幾日も街に曝け出させたりと多種多様なやり方で罪を見せつける事も大切な政治的手段の一つであった。
 当主たる麗羽個人の問題だけには収まるはずも無く、軍として戦った以上は猪々子も斗詩も、刑罰の対象として考えられる。
 帝の威光を貶めるとは、それ相応の責を以って贖われなければならない。
 ただ、戦場であったこの場所で罪状を確認し、処罰を行うというのは余りに異端。本来なら帝の御前に引き摺って行き、正式な詮議の場を開いて罪の大きさを表した上で刑の執行を行うはずである。
 街の一角を使ってでもいい。城の近隣を使ってでもいい……しかし華琳が選んだのはこの場所。人の命を対価として支払い勝利を手にした、地獄が作り出されたこの戦場跡であった。
 軍師達は止めず、華琳の言に従った。それぞれで考えるのが曹操軍の遣り方だ。利を判断し、判別し、己が献策を行ったなら尋ねてもいい……が、華琳自らが出した結論を読み解こうとしないのなら、曹操軍の軍師としては足り得ない。
 桂花は事前に聞いていた。朔夜は秋斗と煮詰めていた。雛里は先日に秋斗から聞いた。よってこの三人は動じる事は無かった。
 思い描くモノを読み取って凍りついたのは三人。稟と風と詠。
 軍事的観点から見ても、政治的観点から見ても、人心的な観点から見ても……戦が終わって直ぐのこの場所で行う事にこそ意味があると、皆がそれぞれ読み取ったが故に。

 今は夜。篝火が幾多も焚かれてもほの暗い闇が落ちている。
 昼間にでもすればよいのだが、華琳も秋斗も、選んだのは夜だった。
 人の感情が揺れるのは夜が多い。哀しみに暮れるのも、正常な判断が鈍るのも……闇が世界を覆うこの時間。

 華琳の言を以って静まり返ったその場で動く者は誰も居ない。一人を除いては。
 二の句を待つのは、居並ぶ将達にしても軍師達にしても兵にしても、敵対していた袁家の兵であっても変わりない。
 顔を俯けたままの麗羽の隣に立つ黒の男だけが動き、どっかと腰を下ろして華琳に正対するように座り込んだ。
 おかしな行動に疑問が浮かぶも、少し首を上げて彼の背中を見つめるだけで麗羽は何も言わない。復讐者である彼に対しての恐れは無く、その瞳には、己が命に対する諦観だけがあった。

「袁本初、連合にて漢の平穏への多大なる貢献……私と共に陛下をお救いしたにも関わらず、公孫賛が穏やかに治めし幽州の大地へと侵攻し戦火を広げ、徐州に攻勢を仕掛けていた袁術と与して徐州牧に任ぜられた劉備を追い詰めた」

 政治のあれこれを分からぬ兵士達では、目の前にある平穏こそが大事である。
 連合は正義と証明した以上、あの戦きりで乱世など終わるはずなのだ、と誰もが思う。今を生きるモノ達にとっては、あの時の戦はそれほど大きな意味を持っていた。
 故に、袁紹は……袁家は悪。平穏を乱した徒が悪でないはずがない。証人はここに居る白馬の義に従ったモノ達全てである。
 言葉にすれば短く綴られるだけの己が家たる大地の絶望に、白の兵士達はギシリと歯を噛みならし、血が滴るほど拳を握り込んで麗羽を睨んだ。
 お前のせいで、お前が欲を押し通したから……怨嗟の矛先は、内部事情の如何に関わらず、当主たるモノに向けられて当然であった。

「さらには、陛下のおわす我が任地に攻め入るという所業。先の連合は自身がこの大陸を支配する為に起こしたモノという何よりの証明であろう。欲に溺れ、他の地の民を蔑ろにし、大陸に乱世を広げ、尊き天たる皇帝陛下に弓を引くその行い……万死に値するっ!」

 鎌を一振り、勢いよく抜き放った。
 突き付ける先には麗羽、そして……楽しげに笑う黒の道化師。
 よく言う、と秋斗は苦笑していた。腹の中に隠し持っている刃は自分の方が鋭く、お前さんは他の地の民であろうと切り捨てるだろうに、と。

――なんて……どうせそんな事を考えているんでしょう? 徐晃……いえ、秋斗。

 帰って来たら呼んでいいと約束した真名を心の内だけで呼んでみた。互いにこの時の準備で忙しかった為にまだ面と向かい合って呼んではいない。
 少しだけ弾む胸は自分に並び立とうとするモノへの期待から、そしてあくまでこちらが上だと示す為の自信から。

「その上で聞こうか……洛陽を救った英雄、“黒麒麟”よ! 友との平穏を引き裂かれし、白馬義従と同じ想いを宿すモノよ! 汝は何を望む!」

 凛……と、鈴の音が鳴るような声が良く響いた。
 堂々たる姿、遠くとも叩きつけられるその覇気に、彼は僅かに圧され……それでも笑みを崩さない。

――俺からさせろって言ったのにお前さんが先に言うのか。上手く返してみせろってか?

 考えていた科白も、華琳が主導権を握る事で台無しにされた。
 そちらの思惑だけになどさせてやるか、この場は自分のモノだ、操られてなどやらない……そう主張する彼女にため息を一つ。
 皆の視線が集まる中、彼はゆっくりと立ち上がった。斧を肩に担いで、ゆっくりと。

 それは良く馴染む斧だった。まるで自分が前から振っていたかのような。
 此れで袁家の重鎮全ての頸を落とせば、きっと歓喜が胸に来るだろう。じくじくと苛む憎しみの感情は確かにあるのだから、自分の中に溶け込まされている少女の想いがきっと満たされるに違いない。
 そうは思っても秋斗は抑え込む。

――所詮は他人の想いだ。誰かを憎んでようが憎んでなかろうが俺には関係ない。

 雛里と再会してより強固になった心の壁が、他者の想いに防壁を作って塞き止めていた。
 自分のやりたい事はただ一つ。もう、今の秋斗は……自分が誰かと迷う事も悩む事も無く、今の自分としての願いだけに意識を持って行ける。

 演じるのはあの子が愛した黒き大徳。乱世に対して冷たく残酷に、先の平穏の為に善悪の別なく理と矛盾を貫く異端者。

 にやりと笑ってぐるりと見回せば、白馬義従の表情には昏い期待が浮かんでいる。袁紹軍の兵士には、緊張と恐れが滲んでいる。
 次に真下を見下ろした。
 見つめてくる視線が、三つ。
 真っ直ぐ純粋な瞳で睨みつけてくる猪々子と、友達が殺される事に恐怖し涙している斗詩。そして……二人が喚かないように抑え付け楽しそうに嗤う明。

 は……と不敵な吐息を零して、彼は振り向き、流し目で麗羽を見やった。
 合わさる視線には僅かな怯えと諦観。覚悟を決めていたと言ってもやはり彼女も一人の人間。死ぬ事を恐ろしく感じ始めたようだった。

「命が果てるこの時に望む願いはあるか、袁紹?」

 誰にも聞こえないように小さな声で尋ねかけた。感情が含まれず、重く冷たい刃となって彼女の心に突き刺さった。
 ぐ、と唇を噛んで、麗羽は渦巻く闇色の瞳を覗き上げる。

「……あの二人の命を、助けてくださいまし」
「お前がそれを言うのか。“俺”から友を奪ったお前が」

 麗羽は知らない。彼が記憶を失っている事を知らない。故に、その弾劾の言葉は真っ直ぐに彼女の胸を穿り抜く。
 自分本位な願いだとは分かっていた。だがどうしても、麗羽は彼女達二人の命を救いたい。
 いつも以上に頭を回す。目の前に立つ男の情報を思い出し、せめて何か糸口はないかと考えた。

「此れからの乱世を越えて行くにあたって、あの二人をそちらの軍の将とすればあなたや華琳さんの作りたいモノの為になるのではなくて?」
「……お前を殺した軍に従うとは思えないが?」
「あの二人も夕さん……田豊の死に思う所がありますから、説得すればきっと聞くと思いますわ」

 一時の感情よりも乱世を優先するモノが黒麒麟。彼が白蓮の救援に向かわなかった事実があるから、そう考えてせめてもの交渉を行った。
 自分の為に死んでくれるのは嬉しくもあるが、こんな自分の為に命を散らす事は哀しい。麗羽の心に浮かぶのはそんな想い。
 すっと細まる彼の目は只々冷たく、昏かった。

「……そうか、お前は……聞いてた話と違ってバカじゃねぇんだな」

 今置かれている立場が分かっていないのか、とは彼も言わない。そんなつまらない事を話すつもりなどなかった。
 納得したと同時に引き裂かれる口。麗羽はゾクリと肌が粟立った。

――な、なんですのこの男……。

 もう用は無い、というように彼は背を向ける。麗羽の願いを聞き届ける事もなく、拒否するわけでもなく、只々傍若無人に。
 小さく声を掛けようとした。答えを教えて欲しくて、二人を助けてくれるのか知りたくて。
 しかして彼が……

「あの……ひっ!」

 斧を一振り、床に勢いよく叩きつけた事によって途切れる。
 目の前に刺さった凶器の鋭さに、彼女の全身から冷や汗がにじみ出る。煌く刃から目を放せずに、麗羽はその場で硬直した。
 そんな後ろは気にせず、彼は大仰に手を開いて……嗤う。

「クク……我が“盟友”曹孟徳殿、少しばかり語る時間を頂きたいのだが……如何か?」

 しんと静まり返る場で、その声はしっかりと全員の耳に届いた。

「構わない。好きにするがいい」

 不敵な笑みを消して、華琳は不思議そうな表情を装い、語りかける。内心では、やはりそう来るかと笑みを深めていたが。
 秋斗は目を瞑り、細やかにそよぐ風を受けて心地よさ気に黒髪を揺らす。
 松明に照らされるその表情は穏やかで、憎しみに染まった感情など一つとして感じられず、白馬義従達は疑問に眉を寄せた。

「我が友……いんや、堅苦しい言葉なんざいらないな。“俺の友達”が願ったモノは何か……答えてみろ、白の兵士達」

 薄く開いた目から、冷たい視線が彼らに注がれる。
 侮蔑と呆れを込めた眼差しを向けられて浮かぶのは……疑念。
 しかして彼らは振り払い。思考を回す時間は少なく、誰ともなしに一人が口を開いた。

「我らが家、白馬の王が愛した幽州の大地に平穏をっ」

 ざわめきは無く、皆が頷いて同意を広げていた。誰一人として異を挟むモノは居なかった。
 じっと見やって、彼は鼻を鳴らす。嘲りの感情をふんだんに込めているとは誰も気付かない。

「だからお前らが袁家を滅ぼしに来た。だからお前らはこいつを殺しに来た……それでいいのか?」
『応っ』

 乱れの無い返答は夜天に広がり上った。お前もそうだろう……そう問いかけるように。
 彼らは信じていた。その侮辱の向いている先が袁家に対してだろうと信じてやまない。
 袁家の兵士達は白馬義従から溢れる殺気に怯えた。これから何が始まるのか……もしかしたらこのまま自分達も殺されるのではないか、と。
 張り詰めた空気は弓弦の如く。
 出来る事なら憎悪の対象をその手で滅したい兵士達は、彼の言葉を黙して待った。
 夜風がざわめき、篝火が大きく燃え上がる。照らされた秋斗の表情は……つまらないモノを見下すモノに変わる。冷たい視線だけが、白馬義従へと注がれた。

「……じゃあ俺はお前らとは違う。俺はこの女を“殺さない”。例え曹孟徳殿に命じられようと、この女を殺してなんかやらん」

 静かに、彼の声が重たく響く。
 その場に居るモノの中で、耳を疑ったのは彼と華琳の狙いを理解しているモノ以外の全てであった。
 思考が止まる白馬義従と袁紹軍。
 麗羽はその言を信じられるはずもなく、彼の背を凝視して……思い至る。
 自分は殺さないと言っただけ。それなら……目の前の兵士達にありとあらゆる痛苦を与えられた上で殺されるのだと恐怖し、震え始めた。
 同じ結論に辿り着いた斗詩は――

「声出すな、指先一つ動かすな、そのまま……なぁんにもしちゃダメー♪」

 声を発するよりも先に、明によって口を塞がれ地に伏せさせられる。それを見た猪々子が睨むも、明は涼しい顔で流すだけであった。

 秋斗には華琳が笑う顔が良く見えた。
 それで? と問いかける楽しげな視線は、この舞台を特等席で楽しんでいる観客のように見える。

――あの男はなんと言った?

 ふいと浮かぶ思考の発露。空白の中に自問が放たれるも、白馬義従の兵士達は彼の発した言葉の意味を呑み込めない。
 困惑に支配されている場を見回して、秋斗はため息を吐いた。

――じゃあ自分達が殺そうとかそういう事を言って欲しかったんだが……どんだけ黒麒麟に殺させたいんだよ、お前ら。

 ほぼ組み立てた道筋に持ち直せたのだが、白馬義従から黒麒麟に向ける期待の大きさを見誤っていたと改める。
 それだけ兵士達は彼の憎しみを信じていて、自分達と同じだと思っていたという事。

 誰も言葉を発さないから仕方なく、彼はまた、ため息を一つ落としてから話を続けて行った。

「別にこいつが死のうが生きようがどっちでもいいんだよ。俺は幽州を平穏な大地に戻したいだけで……」

 口から出る嘘は、自分が知らない思い出を曖昧にぼかして勘違いさせる為のモノ。
 区切って次の言葉を待たせる彼は、斧を引き抜いて肩に担いだ。

「白馬の片腕の敵討ちなんざするつもりは……無い」

 言い切られて直ぐ、ギシリ、と幾重も音が鳴った。
 固く握られた拳は何を思ってか、白馬義従の幾人か……それも牡丹の隊で生き残っていたモノ達が憎らしげに彼を見上げていた。

「じゃああんたはっ……関靖様が殺されたってのに袁家が憎くないってのか!?」
「あんなに楽しそうに口喧嘩してたじゃねぇか!」
「あの人はもう戻って来ないんだぞ!?」
「俺らの王が守ってきた平穏はそいつに壊されちまったんだ! なのに……なんでだ!」

 黙っていられずに、口々に怒りの声が飛ぶ。
 もう戻って来ない平穏な時間を見てきた彼らに触発されて、白馬義従全てが彼を睨みつけた。

「公孫賛様はなぁ! どんだけ追い詰められても膝を付かずに家の為に戦ってたんだ!」

 怒りを抑えられないモノが居た。

「どれだけ誇り高く戦ったか……どれだけっ……辛い戦いだったと思ってやがる!」

 男泣きに暮れるものが居た。

「裏切られて、騙されて、貶められて、拒絶されて、追い詰められて……最後の最後まで戦おうとしてた所を、関靖様の命使って生き延びるなんて……!」

 彼女の絶望に想いを馳せるモノが居た。

「それでも耐えてたあの方の想いを……あんたなら分かってくれるだろ!?」

 彼を信じているモノが居た。

「城中に響く慟哭を受け止めたのはあんたじゃねぇのか!」

 自分では支えられないと知るモノが居た。

「おい、答えろよ! 泣いてたんだろ!? 関靖様の死を聞いても泣かなかったあの方がっ!」

 張り上がる声は悔しさから、不甲斐無さから、大切なモノを失った喪失感から、そして……敵に対する憎しみから。
 涙を浮かべるモノが居た。歯を噛みしめて耐えるモノが居た。胸をぎゅうと抑えて、心が痛むのに耐えている者達が居た。

「それなのに……あの方が絶望に落とされたってのにっ……お前はっ……そいつを殺したいと思わねぇのかよぉっ! 徐公明ぇぇぇっ!」

 最後に、一つの叫びが、彼に向けられた。
 突き刺さる瞳の群れは昏い光を宿して怨嗟を伝える。
 大きな大きな感情の渦だけが、その場を支配していた。
 彼はじっと彼らを見つめ、どれだけ白蓮への想いが大きいのかを読み取って行く。
 そして……やはり不敵な笑みを浮かべて、なんのことは無いと首を振ってから口を開いた。

「分かってねぇなぁ……お前ら、全然分かってない」

 質問の答えは紡がれなかった。いつも通りに、秋斗は問われた答えとは別の事を話に上げる。
 何の事だと問いかけが飛ぶ事は無かった。
 静かに紡がれた声に反発することなく、白馬義従達は続きを待った。
 幾分の沈黙の後に、彼は白馬義従ではなく……袁紹軍の兵士達に顔を向けて声を放つ。

「お前らの理屈で言うと、こいつの頸を落とす俺は袁紹軍の兵士達とか顔良や文醜に殺されなきゃならんのだが?」
「な……」
「曹操殿が来るまで官渡は俺が預かってたし、罠を張るように指示したのも俺だ。間接的か直接的か決めるのは袁紹軍が勝手にすればいいが、追い詰めた一端には俺の策もある。顔良を捕えるように張コウを向かわせたのも、文醜を捕えたのも俺なんだからよ。徐州で袁家の被害が増えたのは俺の大事なバカ共のせいでもあるだろ? ほら、袁紹の絶望の原因は俺にもある、なら……俺は死ななきゃなんねぇよなぁ?」

 正しく、絶句した。
 袁紹軍の兵士も、白馬義従も彼の言に思考を奪われる。
 憎しみで駆けた彼らが怨嗟の対象の不幸を願うなら、同じように主を奪われる兵士達に彼は殺されなければならない。
 連鎖していく憎しみの鎖はそうして途切れる事が無い。最初に誰がやったか等では無く、奪われた側は奪った側を憎まずにいられない。
 なんでもない事のように正論の屁理屈を並べて、彼は怨嗟に染まった兵士達を嘲った。

「……つまり俺に死ねと、お前らは言ってるわけだ」
「ち、違ぇ! そうじゃねぇ!」

 誰かが声を上げた。暴論だと思ったのかもしれない。屁理屈だと思ったのかもしれない。
 この場で彼に反発する事など、意味を為さないというのに。

「何が違う? お前らだけが憎しみを抱いてるわけじゃねぇだろうに」

 昏くて重い声は彼らの心を乱していく。
 普通なら聞き流すような言葉も、彼らの主が認めた友だから……頭にねじ込まれていくしかなかった。

「お前らは殺した。俺も殺した。奴等も殺した。こいつも殺した……誰も彼もが殺し合いをして来た。こうやってコロシアイを繰り返して繰り返して……誰も笑えない世界が出来上がる。やったらやり返されるんだ、当然だろ? お前らも誰かに憎まれてるし、お前らの愛する白馬長史でさえ、誰かから怨まれてんだよバカ野郎共」

 は……と彼は一息ついた。

――綺麗事の正論は吐きたくないが、此処でこういう言い分も出しておかないと後々困る。もう戦う事を辞めよう、なんざ口が裂けても言ったりしないがな。

 内心で一人ごちる。
 覇王の遣り方を真っ向から否定するような言い分と誤解させる為に発した言葉。本心では違う。しかしてここで感情に動かされずに理を説いておかなければ、黒麒麟は大徳に成り得ない。
 憎しみの連鎖は簡単に断ち切ることなど出来はしない。力で抑え付けて諦観させるか、信仰する対象が言葉で諦観させるか、時間と共に薄めさせるかくらいしか……個人の澱みは抑えられない。否、抑えたつもりになるしかない。分かってはいるが、彼は此処で正論を伝える事にした。

 並べ立てられた言葉の数々に、白馬義従達の拳が震えていた。
 涙に濡れる頬はやり場のない怒りと憎しみの感情を表す。抑え切れない想いがあるから彼らは戦ったのだ。彼の言葉程度では、到底諦観させるには……足りえない。

「……知るかよ」

 誰かが呟いた。最前列の男だったのかもしれないし、最後方の男だったのかもしれない。
 誰でも良かった。想いの堰を切るのは、白馬義従という個の中の誰でも良かった。

「あんたの考えなんざ知らねぇっ」

 今度は大きく、誰かが口に出した。
 どうでもいい、と。彼の口にする正論も屁理屈もどうでもいい。綺麗事で抑え込めるなら駆けてはいない、と。
 膨れ上がった怨嗟はもう抑え切れない所まで来ていた。故に彼らは……何が彼女の為なのかが頭から抜け落ちる。大群を止められる個人など、もう彼らの中には居ないのだ。

「お前が殺さないなら……俺達にそいつを殺させろっ!」

 誰かがやろうと言い出せば、他の誰かがそれに乗っかる。群集心理は矛先を向けるモノを見つけたならそれに従い、それに向かう。
 そうだ、俺達が殺せばいい。徐公明が殺さないなら、俺達に殺させろ。そうすれば……彼女の為になるのだから……。
 怒号も、罵声も、軽蔑も、侮辱も口に出されていた。止めるのなら彼でさえ敵。袁紹は悪として裁かれなければならない。この場がどういったモノかも知ったものか。裁くのは……自分達こそ相応しい。彼らの頭の中は一色に染まって行った。
 怨嗟が燃え、その場は昏い感情が爆発する醜悪な様相を為した。

 裏切りだ、と誰かが叫ぶ。期待していたモノが圧倒的多数。あの男は我らが主の事も、我らの事もなんとも思っていないのだ……と。
 お願いします、と懇願も少ないが張り上がっていた。主の友であるあなたにこそ、殺して欲しいから……と。
 殺してやる、と殺意が……漸く上がった。駆けだす男が一人いた。彼が殺さないなら自分が殺してやる……そんな……

――思い上がりの甚だしい優しいバカ野郎……お前のような奴を、待っていた……。

 誰もが秋斗に目を向けていたから、その動作を見逃すモノなど居なかった。
 肩に担いだ斧を緩慢な動作で掲げ上げ……在らんばかりの力を込めて、彼は駆け出した一人に投げつけた。
 大切な武器が、憎しみに染まった白馬義従に、敵意を以って投げられた。

「……っ!」

 兵士の脚が止まる。一人の男の足元に突き刺さった白馬の片腕の武器に目が行く者と、彼を見つめる者に分かれた。そうして、先程まで喚いていたとは思えない程の静寂が場に広がった。

「まだ俺の話は終わってねぇんだよ。勝手に動くな。次は……殺すぞ?」

 冷たく重く、彼の声はその場に響き渡った。彼らのよく知る斧が作り出した静寂に、黒き大徳の命令が絶対者の如く圧しかかった。
 すらりと剣を抜き放った彼は、剣を肩に担いで兵士達を一巡見回した。それを合図にしてか、処刑台の後背に槍と剣を構えた曹操軍の兵士達が居並んで行く。
 剣と槍の二つの武器を扱う部隊はこの大陸で一つだけ。故に、白馬義従は黙り込むしかなかった。勝手な行動を取るのなら徐晃隊が一人残らず殺してやろう、彼はそう言っているのだから。

「誰がこいつをこのまま生かしてやるなんて言った? 俺は殺さない。お前らも殺してはならない。殺された白馬の片腕の代わりなんざ誰もしちゃダメなんだよ。こいつを殺していいのは……二人だけだ」

 すっと剣を麗羽の頸に突き付けて、彼は皆に聞こえるように大きな声で言い放つ。
 そのまま、華琳の瞳を真っ直ぐに射抜いた。

「……我が盟友、覇王曹孟徳! 袁本初を裁いていい者は……皇帝陛下に命を賜った貴女と、袁家に全てを簒奪されし白馬長史、ただ二人だけであろう! しかれども、我が望みを叶えて下さると言うのなら、一つだけ叶えて頂きたい!」

 兵士達はその言に衝撃を受けた。
 そうだ、と納得するモノは多い。殺していいのは彼では無い。自分達でも無い。全てを奪われた彼女が麗羽を殺す事こそ、彼らにとって至高の結果に他ならないのだから。誰よりも絶望し、誰よりも悲しんだのは白蓮に他ならないのだから。

 華琳は高らかな宣言に笑みを深めた。ゾクゾクと背に上る快感があった。彼が此れから何をしようと考えているかを予測して、何を壊したいかを読み取って。

――それでいい。お前が辿り着いた答えは私がしたい事と一致する。此処に居る者だけでなく、この大陸全ての者の固定概念を打ち壊そうか。

 ゆったりと椅子に座った華琳は、優雅に膝を汲んで手を重ねた。瑞々しい唇が方頬だけ吊り上り、凛と張りのある声が流される。

「汝が望みとは何ぞや?」

 彼はまだ笑わない。感情を一切挟まない無表情のまま、麗羽を一瞥した後に華琳をもう一度見据えた。

「大陸を乱した罪は袁本初だけの罪に非ず! 劉玄徳が治めし徐州を簒奪せんとした袁術がいい例であろう! 袁の血筋を残せば第二第三の袁本初が出現するやもしれん! よって……」

 言葉を区切って皆の意識を引き付ける彼は、残酷に、冷酷に口を引き裂き……

「こいつの、袁家の当主である袁本初の手によって……既存の袁家の血筋全てを年齢や性別の区別なく……全てを殺させろ。その後、白馬長史本人にこいつを殺させて貰おうか。そうすれば幽州の民達の願いも叶う……そうだろ?」

 此れからの乱世と先に作られる平穏の為に、楔を打ち放った。




 †




 儒教が根深く染み渡っているこの時代の大陸に於いて親殺しは禁忌の行いに等しい。親が子を道具のように扱う事はあろうと、子が親を裏切る事は責められてばかり。
 血族の深いつながりによって安定を図ってきたこの大陸の在り方を否定するその望みは、誰の心にも恐怖の楔を打ち込んだ。

 厳格な裁決の元による罰というのは本人に降りかかり、血族にも責が及ぶとしても他者が執行するだけである。
 それを当事者本人に贖わせるとは、歴史上見ても類を見ない。己が手で栄達を極めてきた家柄に終止符を打たせるとは、大陸で積み上げられてきた家の在り方そのモノへの反逆であろう。

 異質な提案を受け入れられるはずが無い理由はもう一つ。
 禁忌の行いをした後で、そのモノには死しか残されていないのだ。それほどの事をしても命が救われるわけでは無いのだ。
 殺させると言っても、途中で逃げ出すかもしれない。拒むやもしれない。そんな重い罪過を行わずに、自分一人の罪として抱え込んだ方がどれほど楽か。

 頭が悪くないから、そして血筋を大切にしてきたから、麗羽は彼の望みに心底から恐怖していた。

――そんなこと……出来るわけありませんわ……わたくしが袁家を根絶するなど……それならわたくし一人で死んだ方が……。

 何の罪も無い赤子も、袁に名を連ねているだけで上層部と関わりの無かったモノ達も……全てを殺す。そんな事、出来るわけが無い、と。
 彼の言には一つのイトが絡んでいる。
 家の責は頭目が背負い贖ってもいい。しかし止められなかった全てが贖う事も必要だ。それは……今は亡き劉表が帝の前で示した事。個人に罪があろうと無かろうと、家が行った罪は家で払うべきだと彼女は示していたのだ。それがあるから帝が結果報告を聞いたとしても、秋斗が提案した事に納得するだろう。
 華琳は悪龍を思い出して少しの寂寥が吹き抜ける。

――劉表……あなたとの邂逅は無駄では無かった。帝との不和はあなたのおかげで起こらない。乱そうと思っていたのに乱せなかったと知れば、あなたはどう思うかしら?

 おぼろげに思い描いていた道筋は、彼女のおかげで確定された。
 他者が罰を与えるでなく、当事者に罰として行わせる……違いはそれだけだが、華琳が欲しい結果の一つを得られる最上の方法に導けた。

――これで“儒教の固定概念”に楔を打ち込める。私と徐晃の名は歴史的に見れば悪名として上がるかもしれないが、積み上げられた概念は壊してしまう方が迅速に先に進める事が多い。大陸に甘い毒を齎し、実利としての尊い命を失わせているモノの一つは……儒の思想への偏りでしょう。私が世界を変える邪魔になるのなら儒の思想さえ……敵でしかない。

 どのような思想にしろ、良い所もあれば悪い所もある。儒家と法家がどうこうなど論ずる事こそ無駄……華琳はそう考える。全否定するつもりは無いが全肯定もしない。聡明な頭脳で良い部分も悪い部分も判断した上で、彼女は大陸に秩序を作り上げたいのだ。
 だからこそ、袁家の処遇を帝に一任されるように画策し、この結果を大陸全土に知らしめる事で、偏り凝り固まった思想を打ち壊す事を選んだのだ。
 秋斗が言わなければ自分が命じようと思っていたのだが、この流れは彼女にとって読み筋。

――けど、秋斗……まさかあなたがその程度で終わるはず無いわよね?

 まだ足りない。華琳が壊したいモノは、それだけでは無かった。彼が自分と同じ高みに立とうとしているのなら、もう一つ追加するはずだと予測している。
 何も言わず、華琳は彼の言葉を待った。麗羽も斗詩も猪々子も、話す事も抗う事も出来ずに、他の誰も喋ろうとしないその場には静寂だけが痛く居座っていた。
 普段通り砕けた口調に戻ったのは、堅苦しい物言いをするよりも、より不敵であった方が人の心を乱せるその一点。

「まあ……殺させると言っても様々な方法がある。曹操軍が攻め入り、捕まえて断罪するのもアリだろうけど……袁家の罪を贖うのは袁家であるべきだ。だからこの戦いで俺達に歯向かった袁紹軍の全てに……袁家の征伐をさせるというのはどうかな、曹操殿?」

 視線は袁紹軍の兵士達に注がれていた。自分達が暮らしていた場所を攻めろと彼は言っている。受け入れられるはずも無く、バカな事をと頭を振るモノだらけであった。
 何より、そんな事を麗羽が行うとは思えなかった。当主が家を裏切るなど、誰もするとは思えなかった。家を守るのが当主の務めだ、古くから受け継がれてきたモノで、力ある者が伸し上がってきた証明そのモノ。

「いいでしょう……袁家の罪を当主である袁本初とその臣下達に贖わせる事を罰の一つとする。しかし……袁本初がソレを行えるとは思えない。罪を贖っても白馬長史に断罪されるその女が、私の命令に従うとは、ね」

 脚をゆったりと組み替えて、華琳が麗羽を遠くから一瞥して声を流した。
 同意、と首を縦に振る白馬義従達は、麗羽が従うなどとは欠片も考えていなかった。

「さらに、よしんば従ったとしても、公孫賛がその女を裁くかと言われても不安がある。袁本初と公孫賛は旧くに学友として机を並べていたと聞くし、真名も交換している……そうであろう、袁本初?」

 急に話を振られて困惑に目を泳がせた麗羽ではあったが、此処で嘘偽りを行っても仕方なく、

「……そう、ですわ。わたくしは、白蓮さんと真名を交換しています」

 正直に話すしかない。
 衝撃を受けたのは白馬義従達であった。
 友を大事にする白蓮が、真名を交換した友に攻められた。一番初めに友を裏切ったのは麗羽、その事実が、彼らの怨嗟をより一層深めて堕とす。やはりこの女を生かしておくべきでは無い、と。
 お前がその名を呼ぶな、と叫びそうになった。彼が目を光らせている為に強くは出なかったが、それでも麗羽を睨みつける視線は鋭さを増す。

「友との絆よりも家の繁栄を取った袁紹には、自らの手で家を終わらせる事が大きな罰となるだろう。だが逃げられては元も子も無い……それなら、こいつが逃げなきゃいいんだろ?」
「ええ、袁本初が絶対に逃げないのならその刑罰は執行するに足りる。拒む事なく、自害する事なく、心より悔いて遣り切るのなら、ね。それが出来ないのなら、今すぐ此処で私が袁紹の頸を刎ねよう」

 飄々と言葉を並べる彼は楽しげで、それを受け止める華琳も同じく。
 そんなモノは不可能だ。誰もがそう思っていた。麗羽が逃げずにそれを選ぶなど、二人の遣りたい事を正確に理解しているモノ達以外、誰も思っていない。
 麗羽が袁家を滅ぼさないのなら生温い刑罰でしかない。万が一逃げられたのなら罰にもならない。此処で殺しておいた方が、遥かにマシなのだ。
 彼は少し俯き、麗羽に聞こえるようにだけ、小さな呟きを零した。

「……俺はお前を“生かしたい”」

 一寸、何を言っているのか分からずに麗羽の思考が止まる。
 殺すとその口で言ったのに、生かしたいとは矛盾でしかない。

「明から聞いてるぞ。もし、夕の事を自分の責だと感じているのなら、夕が望んだ世界を作る為に、お前は生に縋りつけ……例え今から“殺される”としても、“これから先の未来で殺される”としても」

 矛盾だらけの謎かけのような言葉の意味を、麗羽は理解出来ず。彼が欲しいモノを分かっていたのは、華琳しかいないのだから当然。
 兵士達はこれから何をするのかと息を呑む。華琳だけが、笑みを深めていた。

「まあ、いいでしょう。出来るか出来ないか……そのモノの行動で確かめようか」
「……どうやってだ?」

 聞き返す声に反して表情は人を試すようなモノ。今度は華琳が合わせて行く。

――やはり、次こそが秋斗の本当の狙いということか。だから次は私の役割。人を外れるのは私も同じで、お前だけにさせてなんかあげないわ。乱世の果てに私が望む世界を作るためには……此処で“麗羽を殺してはならない”。ならその為の対価は……一つだけ。

 目を細めた彼を見やり、少しだけ頬を吊り上げて返した。

「なに、簡単な事よ。“袁紹という存在を世界に捧げればいい”」
「……どういう事かな?」

 二人の浮かべる薄い笑みは悪辣に見えた。互いに何をするか理解した上で笑い合う。
 彼女は平穏の為の覇王で、“敵”に対して冷酷に成れる乱世の奸雄。覇王は、“この楽しい乱世”を哂った。
 演じる彼は平穏の為の大徳で、“敵”に対して残酷なだけの黒麒麟。しかし道化師は、“この世界”を嘲笑った。

「袁本初の真名を世に余すところ無く開示し、世に生きる人々全てに捧げよう。此れより後、そこらにいる兵士も、民も、赤子も老人も、女も男も、賊徒も官僚も、王も将も軍師でさえも、誰もが袁本初の真名を呼んでいい事にしましょうか」

 瞬間、息を呑む音が幾重にも重なった。

 カラン……と乾いた金属音が幾つか鳴る。兵士の中には武器を取り落としてしまうモノ達さえ居たのだ。
 華琳と秋斗、どちらかがソレを言うと分かっていた朔夜と桂花、そして雛里でさえ、真っ青に顔の色を抜け落ちさせて膝から崩れ落ちそうになっていた。
 彼女達でさえソレなのだ。もっと酷いモノは幾人も居る。
 沙和と凪は、弾けるように飛び跳ねて恐怖に慄き、すぐさま華琳に何かを言おうとして春蘭に止められる。春蘭でさえ脂汗を浮かべて恐怖に震えていた。
 真桜はとんでもないモノを見るような目で華琳を見るも、唇をぎゅうと噛んでどうにか声を上げずに済んだ。
 霞は詠の手を握り、詠はその手を力強く握りしめる。どちらもじっとりと湿る掌は畏怖と後悔に塗れている。
 秋蘭は泣きだしそうな目で華琳を見やり、声を上げそうになった季衣と流琉を抑え込んでから秋斗を見つめて、悲壮に眉を顰めて首を左右に振った。
 稟は固い表情で頭を回そうとするも息が上がっていた。他人事であるのに過呼吸に陥る寸前であった。
 風は眉を顰めて、ぽろりと飴を地面に落としたが気付かなかった。秋斗を見据えて、彼の予想の通りだと読み取り、泣きそうな顔でじっと見つめた。

 覇王が放った言葉の意味を、この世界に産まれたモノ全てが恐れないはずがないのだ。

 “真名は唯一絶対の不可侵にして、穢されてはならない神聖なモノ”

 他人が勝手に呼ぶだけで頸を飛ばされても仕方なし……それを他者に捧げるとはどういうモノか。
 真名を捧げるというのなら、存在を蹂躙されようと文句は言えない。誰かにモノのように扱われようと構わないという事。

 例えば華琳に対して、春蘭と秋蘭は真名を捧げていると言える。故に華琳は、彼女達の全てを決定してもいい。
 華琳が春蘭に向かって“誰々と結婚しろ”と言えば必ずそうしなければならない。
 華琳が秋蘭に向かって“誰々に真名を預けろ”と言えば必ずそうしなければならない。

 それほどなのだ。この世界に生きるモノ達にとっての真名と言うモノは。
 個人がどう扱ったかによって変わるにせよ、大きな考え方は変わらない。

――やっぱり……真名を捧げるってのはそれほどやばい事なんだな。

 そんな事を内心で一人ごちる事が出来るのは、この世界では彼だけ。
 秋斗は真名の大切さを、本当の意味では分からない。この世界の異物である彼には分からないが……自分にたった一つ残された本物の存在証明である為に、彼女達と同じく大切なモノではあった。だからこそ月も詠も真名では呼ばない事に決めたのだ。
 ただ、名についての考えが安くなってしまった現代人からすれば、この世界の真名という概念は、氏も名も奪われた彼からしてもさらに異質。誰でも好きに名を呼んでいい彼の生きていた世界とは、真名だけが全く違うのだ。

 故に、その違いを彼は策にしようとした。帝が絶対不可侵であるのなら、それ相応の対価を以ってしなければ麗羽を生かす事など出来ないだろう、と。
 彼が考え付けたのはただ別世界の人間だからと言うだけで、華琳のように厳正な判断を下したわけではない。

――このままじゃ……拙い。

 恐慌状態に陥りそうなその場を纏める為に、秋斗は剣を物見台に突き刺した。
 大きな音が鳴り、ギシギシと木が軋みを上げる。ハッと気付いて、皆の目が向く先は彼のみ。

「……真名とは他者がどうこうしていいモノではない。だが、絶対不可侵であるはずの帝を脅かそうとした罪は、真名を世界に捧げさせる程に重い……それもこいつに対する罰か、曹孟徳殿」

 鋭く突き刺すような声を向けた秋斗に対して、華琳は首を振って否を示した。

「いいえ、まだ足りない。袁本初が世界に真名を捧げた証明として……名と、字を奪いましょう。そうすれば公孫賛がそのモノを殺さなくとも、袁紹と言う人間は残らず、“袁家の麗羽”という人間が残るだけ」

 “袁紹”が世界から消える。別人として生きるでなく、姓を奪わない事で、世界に存在を捧げた“袁家の麗羽”というただ一人の人だけが残る。
 その足跡は帝への逆臣にして家を滅亡させた大悪人。真名が語り継がれるのだから、彼女の存在全てが泥と怨嗟と悪徳に塗れる事になるのだ。

 恐ろしい……と耐えきれずに膝を付いたのは、詠だった。
 名も字も奪われた彼女が、麗羽に対して一番の同情を抱いていた。憎しみはあったが、それでも、と。

――ボク達は少なくとも、秋斗のおかげで真名をあんまり呼ばれなかった。正体だってバレてない。でも袁紹は……存在そのものが……世界中の人々と、これから産まれ出でて生きていく人々に蹂躙され続ける。そんなのって……ボク達よりも酷いじゃない……

 別の呼び名を付けただけだとしても、秋斗は月と詠の真名を守った。誰かに勝手に呼ばれるのは辛いだろうと考えて徐晃隊に呼ばせていたのだ。
 対して麗羽を守るモノは誰も居ない。止めようとするはずの斗詩は明に抑え付けられたまま。激発するはずの猪々子は……項垂れたままで何も言わなかった。
 下の様子が分からない麗羽は絶望に堕ちる。
 存在が蹂躙されるような罰を言い渡された事は身が引き裂かれるような恐怖に落としたが、それよりも、二人が何も反論してくれない事が、彼女にとってはより大きな絶望だった。
 絶対に穢される事の無い筈の大切な存在証明を揺るがされて、彼女の思考は乱れて行く。

「あ……あぁ……わ、わたくし、は……」

 何も考えないまま見上げた。何も意味を為さない声を出した。
 目に映るのは黒き大徳。冷たい瞳は同情の欠片も無く、麗羽に対して興味を浮かべてすらいなかった。

「さあ、袁紹。夕が望んだ世界を作りたいのなら縋り付け。袁家の為に死んでいった命に報いたいのなら足掻け。お前に生きて欲しいと願っている奴もいるが……袁紹として死にたければ曹孟徳の手で殺されろ。“お前の友達”と“俺の友達”の甘さに賭けるのなら……縋り付いてでも生きてみせろ。お前の望みは、なんだ?」

 小さな声は彼女にだけ聞こえるようにと紡がれた。

 憎しみで殺された方が幸せなのかもしれない。舌を噛み切って自害した方が楽なのかもしれない。下で彼らに蹂躙されて殺される方が、まだマシなのかもしれない。
 普遍的な死を賜る程度の方が……悪人だとしても通常の人としての死を迎えられるのだから。
 しかし、彼の言葉によって、麗羽は気付いてしまった。

――白蓮さんがわたくしを殺さない可能性は……わたくしが存在を世界に捧げる事で、彼女への贖いとすることで成り立つ、そう言っているのですか、華琳さんとあなたは。
 そして世の平穏の為に汚名悪名を被り、わたくしの全てを捧げて……袁家の為の人形ではなく、世界の為の人形になれと。

 たった一つの命を手放さずに生きるとしても麗羽としての自由は無く、穢れるはずの無い真名さえ世の人々の怨嗟の対象として汚されて、その生に価値はあるか否か。
 麗羽は震える身体を抑え付けて思考を回した。自分に生きて欲しいと願っているモノは誰か。
 一人で投降したあの時の兵士達の表情が思い浮かべられた。斗詩と猪々子も、きっと何も言えないようにされているに違いない。
 そして自分のせいで殺されてしまった王佐は……何を願っていたか。

 思い出すのはあの時の事。連合で彼女の本心を初めて聞いた時の事。

――あの時、夕さんは……臆病なわたくしに真名を捧げてくれた。捧げて願った事は……たった一つ。

 麗羽以外の誰も知らない事。自分よりも先に真名を捧げるという異端を行ったモノが一人居た。彼女が願った事を思い出して、人から外れた二人に恐怖を覚えて慄き震えながらも、麗羽はきゅっと唇を引き結び、望みを口に出した。

「わ、わたくしに……腐敗せし袁家を滅ぼした最後の袁家として、生を全うさせてくださいまし……わたくしに生きてと願った、全ての者の為に、これまで殺めた命の為に……」

 彼にだけ聞こえるように零された望みは、誰の耳にも届かなかった。
 瞳に宿るのは絶望の昏さと、希望の輝き。ただの人形では無い、袁紹でも無い、麗羽個人の想いが、其処にあった。

 どうせ死ぬのだろう、という侮蔑の視線が幾多も光る。覇王の提案の恐怖に震えながらも、存在を世界に捧げるなど出来る訳がないと誰しもが思っていた。

「……いいだろう。その為の舞台を用意してやる。泥濘を足掻き、血と臓物の道を這ってでも進んで、世界を変えろ……“袁麗羽”」

 彼女が捧げた真名を呼び、口を引き裂いた彼は……すらりと伸ばした長剣を掲げて華琳を真っ直ぐに見据える。

「覇王曹孟徳、そして此処にいる全ての者に提案する! 例え名と字を奪い、世界に真名を開示するという厳罰を受けたとて、このモノが外道に堕ちずに抗わぬとは言い切れん! 故に、此れからこのモノの脚の腱を切断し、あなたの元まで這わせよう! 世界に存在を捧げた者としての姿をこのモノに見せて貰おう! 辿り着いたその時は……“袁麗羽”に罰を受ける意思ありと、この場に居る全ての者が見なすべし!」

 彼が麗羽の真名を呼んだ事で空気が変わる。
 怒りも屈辱も向けぬ麗羽の表情を見て、麗羽が死を選択しなかったと気付き、驚愕と困惑が広がった。

「我、曹孟徳が受諾する! “袁麗羽”よ! 我が眼前まで辿り着けぬ時は……その頸を“袁紹”のモノとして刎ねてやろう! 辿り着けた時は……世の平穏の為に、己が家の罪過を贖い、公孫賛に断罪されるその時まで、王としての責務を全うする機会を与えてやろう!」

 覇気と威圧を孕んだ言葉は彼の耳にはっきりと届く。誰かが声を発する前に、長剣を振り下ろした。
 直ぐに紅い血しぶきが、二つ。

「ぎっ……くぅ……ぅ……」

 両足の腱を斬られても、麗羽は絶叫を上げなかった。

「……見事だ」

 呟いた彼は、息を付かせる暇さえ与えずに彼女の背を蹴り飛ばした。
 手首を縛られたまま、脚の腱を斬られてしまっては着地など出来るはずも無く。
 彼女は物見台の頂上から、大地に鈍い音を鳴らして激突した。

「白馬義従! 憎しみに染まった白の兵士達よ! 貴様らが“袁紹”の死を望むなら、“袁麗羽”が覇王の元に辿り着くまでに呪い殺してみせよ! 貴様らの想いだけでそいつの心を叩き折れ! 手を出す事を禁ずる! 武器を投げる事も禁ずる! 近付く事も禁ずる! 憎いのなら貴様らの怨嗟でそいつを殺すがいい! 殺せなかったその時は……白馬長史の帰還を待て!
 袁紹軍の兵士達! “袁麗羽”に助力する事を禁ずる! 貴様らが誇りと忠義を持っていたというのなら、主の想いを穢してはならん!」

 困惑の場に響いた声は覇王が落とした恐怖を取り払い、彼らの心に火を灯す着火剤となった。
 場には昏い熱気が溢れた。殺したくて殺したくて仕方ないそのモノを目の前にして、彼らが想いを抑える事など出来ようか。
 落下の痛みから未だ動けずにいる麗羽に向けて、突き刺さるのは幾多の弾劾。
 恨みつらみを並べ立て、大切な平穏を思い出して零れる涙と、誇りを奪われた屈辱の吐息。

 直接叩き込まれる怨嗟の声に心を痛めながら、それでもゆっくり、ゆっくりと麗羽は動き始めた。
 ずり……ずり……と少しずつ身体をくねらせて進んで行く彼女は泥と血に塗れ、優雅さの欠片も見当たらない。
 泣きそうな顔で袁紹軍の兵士達は見るも、彼女の誇りを穢してしまうと手は貸せなかった。彼らの王である麗羽は……誰かの救いなど求めていない。

 隣に立ち、鎌を担いでにやけて進むのは……赤い髪を靡かせた揚羽蝶。

「邪魔が入ったらダメだから一応守ってあげるね、本初♪ どうせ辿り着くなんて無理だと思うけど、さ」

 死神のようなその女の言葉に、

「……感謝しますわ」

 ぽつりと一言だけ零して、麗羽は痛みに引き攣る顔を上げて前を見据えた。

 遠く、高い場所で覇王が笑う。

 屈辱は感じなかった。
 怨む心も無かった。
 
 しかし突き立つ怨嗟の言葉の刃が痛くて、袁紹としての過去が不甲斐無くて……彼女の視界はぼやけ、頬を熱い雫が伝っていた。

 今の彼女に誇りは無かった。
 彼女が縋り付いてでも叶えたいモノは、後悔と懺悔の想いだけだった。



 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。
申し訳ありません、分けました。

補足を。
真名を捧げるについては、華琳様の命令に逆らわない春蘭や秋蘭を元に独自解釈しております。
原作の華琳様が部下に真名を預けるように命じたりしている事から、存在全てを華琳様に捧げているからこその行い、と考えています。
なのでこの物語では真名の扱いはこんな感じになります。

主人公は氏も名も奪われているので秋斗という名前だけが自分の存在証明でして、その事から真名を大切に考えています。
黒麒麟の時も同じく、たった一つ残されている自分が確かに生きていた証を大切にしていたから、この世界の価値観を理解して読み解きせめて、と月ちゃんと詠ちゃんの事を考えて他人に真名を呼ばせないようにしていたわけです。


次は結果と、華琳様と主人公の話、です。

ではまた 
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