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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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歌劇――あるいは破滅への神話
  ―3―


 3.

 その場所にたどり着いた時、他に人はいなかった。にもかかわらず、暗く遠い天井、あるいは上階で渦巻く廊下のどこかから、風もないのに吹き抜けの底へと紙が落ちてきた。
 屈んで拾い上げた。紙は、三つの辺がちぎり取られたようにギザギザになっており、覚えのある文面が流麗な文字で記されていた。

『いつか全ての光と闇が和合する場所で、月が落ちてくるのを見よう』

 どこでその一節を覚えたか、思い出す努力をした。その甲斐あってウラルタは、水相での旅にまつわる不快な記憶と共に合点した。
 初めて訪れる町の、死んだ老婆の家。そこにウラルタ宛の手紙としてこの文章があった。
 これに。ウラルタは紙面を凝視する。何か意味があるの? 何の意味があるの?
 歌劇に関連した文面であると思われた。ならば誰かの台詞か。ウラルタは紙を畳み、握りしめると、たどり着いた暗いホールをゆっくりと歩いた。
 ホールの正面には、吹き抜けの二階に上がる幅広の階段があり、その両脇の太い円柱に、額入りのポスターが掲示されていた。
 右側の柱のポスターに顔を近付けた。神殿を襲う戦車(チャリオット)の絵だと、暗がりの中でも見て取れた。戦車を曳く五頭の馬は皆、いずれかの脚が欠損していたり、裂けた横腹から腸を垂らしたりし、眼は瞬幕で覆われている。戦車に乗る男達も腐敗して体が膨らみ、壊れた鎧も突き刺さる矢もそのままに、真っ黒い眼で長槍を振りかざしている。ウラルタは嫌な気分になった。
 左の柱に行った。こちら側のポスターは廃墟を描いていた。めくれあがった絨毯や左右の円柱から、建物の中だとわかる。死者達が襲った神殿の中だろうか。鎧を纏う指揮官が、大槌で石像を破壊している。
 不意に明かりが点り、その像が深い青色の石でできている事がわかった。荒れ果てた神殿の廊下の絵に、自分の影が覆いかぶさる。
 振り向いた。
 二階、三階、四階の廊下の手すりから、吹き抜けの底に向かって死体が吊されていた。
「なんと惨い」
 先ほどウラルタが通った扉の前に青年が立っている。高い所から、青年に向けて照明が投げかけられていた。息をのむほど神秘的で、佇まいのよい青年だった。彼は明瞭な声で言った。
何故(なにゆえ)これほどまでの仕打ちを……」
「全てはあなた様の所行でございます」
 青年が身を引いた。彼の後ろに、亡霊のように、老いた女が立っていた。
「息子はこうして死にました。あなた様がなさった事の結果です。御子(みこ)様、あなたが息子を殺したのです――」
 青年も老女も、ふっと消えた。闇が戻り、ウラルタは何度も目をこすって、もう一度暗さに目を慣らそうとした。見えない。死体も、照明も。
 ウラルタはもう一度幻影を探した。意味なき出来事とは思えなかった。
「誰なの?」
 ウラルタは幅広の階段の上、誰もいない空間に呼びかけた。
「誰なのよ!」
 階段を駆け上がる。二階の廊下を半周し、三階へと至る階段に足をかける。
「ねえ、あなたは役者なの? あなたはいるの?」
 三階へ。
「教えてくれたっていいじゃない!」
 ウラルタは癇癪を起こした。
「いつだってあなたは確かな事は何も教えてくれない!」
 でも、『あなた』、それは誰なのだろう。
 かつてウラルタの名で手紙を寄越し、ネメスへと自分を導いた誰か。影達の世界に、実体ある者として自分を落とした誰か。
 その誰か、または何かからは、悪意さえも感じる事はできない。ウラルタはしゃがみこみ、いつもの癖で髪を掴んで引っ張った。どうすればいいかわからなかった。
 何かを求めているのなら教えてほしかった。
 ゆっくりと顔を上げた。すぐ横に重厚な扉があった。三階席への入り口だろうと思われた。
 何故劇場に呼ばれたかわからない。ただ、その役目が観客なら客席を見つけなければならず、役者なら、舞台を見つけなければならない。
 何の手がかりもなく出来るだろうか、そのような事が?
「運命を教えて」
 ウラルタは祈りをこめて扉を押す。

 眼前を女が横切った。占星符の巫女だ。背中が遠ざかる。行く先に光が差した。
 光が聖堂を照らした。ポスターに描かれていた聖堂と同じ場所だった。廊下の両側の円柱。遙か高いアーチ型の天井へと立ちのぼる苦痛の呻き。赤い絨毯は流れ出た血によって濃淡がつけられている。
 傷ついた兵士達が壁や柱に凭れて座りこみ、床には生死すら定かではない格好で横たわっている。巫女は廊下の奥に向かう。ウラルタも幻の中に入りこみ、ついて行った。
 廊下の先の十字路で、あの青年が、兵士を腕に抱いて傷をさすっていた。その横顔は悲痛と憂いに満ち、白い衣は血と肉片と抜け落ちた髪で汚れていた。
「何用か」
 青年は顔を上げて巫女に問うた。
女人(にょにん)、何故斯様な場所へと来られたか」
「翼神トゥロスの懐へ至る道を探しております」星占は澄んだ声で答えた。「死せる者のさだめ。私は探し出さねばなりません」
「おお、我らは我らの神ルフマンに至る道さえ見失った」
 横たわる兵士が答えた。青年が彼に目を向ける。兵士は床に手をつき、傷ついた体を起こした。
「我らが慈悲深きルフマン、恵みの神よ、何故汝は我らからお隠れになられた――」
「まだ動いてはならぬ」
「尊きルフマンの御子よ、死者の国への入り口では、自らの神への道がおのずと耀(かがよ)うて見えるという。我らはその全き道を踏み外し、死者の国においても果てなき苦痛と戦とあてどなき彷徨を定めづけられた」
「それは我らの落ち度ではない」
 慰めるように御子は言った。
「死者の国の入り口へと立ち返ることが叶えば、道を見出せるやも知れぬ。即ち、我らがどのような死を迎えたかを思い出せば。我らは余りに素早く死者の国の混沌へと落ちてしまった」
 御子の隣で鎧が崩れ、音を立てる。巫女はたじろいだ。鎧の中に、その持ち主の肉体はなかった。
「新しい子宮へと落ちていったのだ」
 と、ルフマンの御子。
「己が神の懐にたどり着けぬまま死者の国での死を迎えた者は、もう一度生を繰り返すようさだめづけられている」
「御子様、これは我々が、我が神の為に死ぬる事の叶わなかった故でございましょう」
「我が神は信徒の死を望んでなどおらぬ」
 御子の語気が僅かに荒くなった。傷ついた兵は制止を押しとどめ、立ち上がった。
「他の傷ついた兵達は後送するがようございましょう。私は前線に戻ります」
「ならぬ。その傷では死にに行くようなものではないか」
「もう一度死に直しましょう。我が神への道を見出す為に」
「待たれよ」
 御子は腕の中の兵士を床に横たえ、立ち上がった。
「私はそのような事の為に、そなたの痛みを除いたのではない!」
「御子様」
 見たところさほど傷ついていない兵士が、入れ違いに駆け寄ってきて跪いた。
「後送の支度が整いました。指揮をお執りください」
 全ての幻覚が消える。
 ウラルタはずきずき痛む額に意識を集中し、幻の続きを探した。星占、あるいは神ルフマンの御子の姿を。
「私は彼らを死地へと駆り立てる為の偶像でしかないのか」
 物静かな、しかし怒りをこめた青年の声が遠く聞こえた。
「おお、父よ、この為だと仰るか。私を老いと自然な死から遠ざけ給うたのは!」
 その次の、絞り出すような声は耳許で聞こえた。
「私は何をしているのだ? 彼らの苦しみは、一体いつまで続くのだ? 何の為に……」
 間近に横顔が見えた。御子は驚愕に打たれて目を瞠る。
 苦痛が吹き荒れた。恐怖と苦痛があたかも質量を得たように、御子の周囲で渦を巻いた。苦痛は御子がいる部屋の窓を破り、窓枠を吹き飛ばした。苦痛は壁に吊された御子の衣服を巻き上げた。タペストリーをさらい、遙か生と死と無意識の深淵へ落ちてゆく者達の悲鳴へと織り直した。苦痛は水差しも寝台も、炉も壁も床も混淆して、恐怖を湛え凍りついた無数の目を織りこんだ。
 おぞましい織物は御子の瞬きによって失せ、空間に開いた深淵の口も傷跡が閉じるように消えた。御子の周囲がはっきりと見えた。彼の居室は整然としており、荒れたところはない。暖炉も壁のタペストリーも。
 御子は急ぎ足で居室を出た。蝋燭の影が不安げに揺らめく階段を下り、折りよく通りかかった従卒に、馬を連れてくるよう命じた。馬としての本能に背き、夜間の走破に耐えられる、痛ましいほど従順な馬を。
「前線の施術所に戻る」
 御子は、言いつけを拒むべく口を開きかけた従卒に、言わせじと言葉を重ねた。
「戻らねばならぬのだ」
 素晴らしい夜の闇が、遠い稜線に続いていた。白く満ちる月が、闇を更に深めた。御子と従卒は、影絵のように一筋の道を急いだ。稜線が迫るにつれ、月は弧を描いて動き、闇は一旦一際深く彼らを閉ざした後、白く和らぎ始めた。空は稜線と触れあう場所から紫色に変じ、やがて明けの桃に染まると、次に金の光を世界の果てまで投げ放った。朝露が光を閉じこめて、黒い土に垂らす。疲弊しきった馬達は、ついぞ御子と従卒を夜明けの神殿に届けた。
 御子は馬を下りて、長時間の乗馬で硬直した体に無理を強い、神殿に急いだ。その西の扉を開け放つと、入り口で凍り付いた。
 重い灰色の石造りの床。そこは垂れ落ちた血のしみによって汚されていた。高く遠い天井を見上げた御子は、吹き抜けの手すりから吊された兵士達の姿を見出した。
「なんと惨い」
 御子は呻く。
「何故これほどまでの仕打ちを……」
「全てはあなた様の所行でございます」
 場違いな女の声に、御子は振り向き、二歩、三歩と身を引いた。戸口に立つ女の亡霊は、どこも見ておらず、光なき目を御子がいる方に向けて続けた。
「息子はこうして死にました。あなた様がなさった事の結果です。御子様、あなたが息子を殺したのです――」
 従卒の足音が近付いてくる。老女の霊は消えた。従卒は御子と同じ惨状を目の当たりにし、呆然と立ち尽くした。
「リデルの民は我が首が欲しいのだろう」
 従卒は慌てて顔を御子に向け、言葉の意を汲み、首を振った。
「なりませぬ、御子様」
「彼らはルフマンの為に死するを欲した。この死者の国で本懐を果たせば、此度こそ正しき道を見出すが叶うと」
「その通りでございます、御子様。あなた様は神ルフマンに最も近しきお方ゆえ、失われるわけにはゆきませぬ」
「ならばこそ彼らは死ぬべきではなかったのだ。ルフマンの為戦い死するが本望ならばそうするがよかろう。だが彼らは私を追うリデルの民に殺された。私の為に死んだところで何になるというのか」
 御子は従卒に歩み寄る。
「後方へ戻るがよい」
「しかしながら――」
「戻るのだ! この不毛な争いには私が決着をつけねばならぬ。それがルフマンに最も近しき者の役目。私は役を見出したのだ。そなたらの正しい道を、我が天命によって示そうぞ」
 従卒はじっとして動かない。
 だがやがて、覚悟を決めて敬礼した。
「仰せのままに」
 神殿を出ていく。遠ざかる蹄の音を御子は聞き届けた。
 御子は吹き抜けの底を横切り、あの十字路がある廊下に出た。残してきた重傷の兵も、死せる兵も、もはや消え失せていた。
 十字路で、触れあう鎧と一斉に鞘から抜かれる剣の音を聞いた。御子がここに入るのを、あるいは従卒が遠ざかっていくのを、どこかから見ていたのだろう。
 御子は懐から短剣を抜いた。足音がこの長い廊下に迫ってくる。壮麗な円柱をたどり、まだ夜が消え残っているかのように暗い天井を振り仰ぐ。己の胸に突き立てるべく、短剣を振り上げた。迫りくる者たちの足音が、遠くの扉の前で止まり、何者かが扉を開け放ったが、御子は見なかった。
「人よ、我が本性を見届けよ!」
 恐怖と混乱の叫びが、神殿の外まで溢れてきた。後続の兵士らが朝に濡れる小道でたたらを踏む。
 それでも彼らはそうするしかなく、神殿に踏みこんだ。彼らは扉の奥、長い廊下の手前で、もう一度足を止めた。
 廊下は青かった。
 床も壁も青い石に変わっていた。円柱を伝い、天井にまで達する石。先の兵士らを飲みこみ顕現した、深い青、雲が如く白い筋と、渦巻く星々を閉じこめた高貴な石。

 ウラルタは目をこすった。三階席にいた。舞台は真っ暗で、劇も役者も見えなかった。
 ここもまだ舞台ではない。
 ウラルタは客席を辞した。
 更なる上層へ至る道を求め彷徨いながら、ウラルタはルフマンの御子に思いを馳せた。
 彼は死んだ。死者の国に於いても死んだ。
 老いも自然な死も与えられなかった彼が生の苦悩を断ち切るには、殺されるか、自殺をするしかなかったのだ。
「ああ……」
 暗闇に身を浸して、ウラルタは運命を嘆いた。
「私も、そうなんだ……」


 
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