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Holly Night

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第1章・一年前
  ―2―

お帰りなさい、とリビングから聞こえた。即座パタパタとスリッパの音がし、玄関に立つ拓也からコートを受け取った。
「早かったわね。」
「そう?八時でしょう?」
「だから早いって云ってんのよ、何時も日付変わって、飲んで帰って来る癖に。」
云って女は拓也のジャケットに鼻を寄せ、飲んでない、等々ドクターストップ来た?、と検問した。
「わぁ、何其の嫌味。」
「如何しよう、夕飯無いわよ?毎度の事乍ら。」
「と思って食べて来ましたから、大丈夫ですよ、お姉様。」
拓也の後を女は嬉しそうに付いて行き、寝室に入った。
お姉様、とは女が拓也より年上だから拓也が愛称(英語で云うダーリン、ハニー、ベイビー、スウィートに位置する)で呼んでいるだけで、不実な関係では無い。
「なんで又今日は早いのよ。今からDVD見ようと思ってたのに。」
女はコートをハンガーに掛け、又ジャケットも掛けた。拓也の脱いで行くものを次々と受け取り、仕舞い、着替えを渡した。
「見れば良いじゃん、俺仕事するし。」
「えー、一緒見ようよぉ。」
ねえんねえんと拓也の頭に後頭部をぐりぐり押し付け、後ろから回した腕でベルトを外した。
「あー、誘うな。マジで仕事すんだから。ね?お姉様。」
「ぶー、バツよぉ、ジェニファーズボディ見るのよぉ。」
「…よし、誘われます。」
拓也が一番好きなハリウッド女優が主演を務める映画を見ると女が云ったもんだから、拓也は児童福祉課の書類を机に置き、寝室から出た。
「又なんか問題?」
「何が?」
酒盛り一式を硝子のテーブルに置いた女は拓也の横に座り、腕を持つと自分の肩に掛け、其の儘両腕で抱えた。片手でグラスに氷と焼酎を入れた拓也は、一先ず喉を潤し、女に一口やった。
「児童福祉課の封筒持ってて良く云うわね。」
「目敏いのね、お姉様。」
「良いのよ、私違うの見るから。」
「良いよ、明日するから。」
云って拓也は胸にある女の頭に頬を乗せ、グラスを傾けた。
映画の内容は頭に入って来ない。封筒の中身が気になるからではなく、主演女優の美しさに見惚れただけの話だ。
「拓也って本当、こういう女好きよね。黒髪のネコ科猛獣みたいな顔した女。昔から。ミーガンの前はアンジーだった。」
「ミーガンフォックスってシャム猫に似てると思わない?」
「嗚呼、似てるわね。」
「俺も味見されてぇな。」
女優に鼻の下伸ばして居るとするりと腕から暖かさがなくなり、女は無言でトイレに立った。
え?此れ、殺されるの?
不安はあるが酒の肴には最高の映像(内容では無い)で、五杯目を作っていると目の前に女が立った。
「見えないんですけど。」
女は後ろ向きでテレビを消し、拓也の腿に跨った。拓也を覆うようにソファの背凭れを持ち、ゆっくりと顔と身体を近付け、キスされる寸前で顔を離した。
「お休み、明日も仕事なの。」
彼女は高校の英語教諭で、拓也と知り合ったのは実は女の教育実習の時である。十五歳だった拓也を二十二歳の女が誑かしたのだ。
誑かした、と言ったらかなり聞こえ悪いが、先にちょっかい掛けたのは拓也である。

先生ってアンジェリーナジョリーに似てるよね。十七歳のカルテに出てるブロンド。薬中のぶっ飛んだ奴。

其の時は、何とも思わなかった。女自体が先ずにアンジェリーナジョリーを知らず、職員室でちょこっと調べた。
私って、こんな顔…?
少しショックだった。
確かに日本人離れした顔ではあるが、此処迄は流石にないだろう。然も拓也が例に出した映画が大概悪かった。
あの映画で惚れる拓也も如何かと思うが、真意が判らない女は本気で貶されたと思った。
抑に此の女優、素行がかなり悪い。其れもショックだった。
もっとこう、キャメロンディアスとかメグライアン…詰まりラブコメが似合いそうな女優辺りが良かったが、残念乍ら此の系統の顔では無い。
ファニーやキュートというよりは、悪役顔、ディズニー的に云えばヴィランズ寄りなのだ。
舐めるでない、学芸会で何時も毎回籤引もさせて貰えず満場一致で、悪役をしていた訳では無い。…何の自慢にもならないが。

――ねえ、私ってこんな顔なの!?なんか邪悪だよ!?
――似てない?目と口、でっかい、美人。目力がスゲぇ美人。猫みたいな。
――…褒めてるの…?
――え?うん、一応。あ、御免、気に障った?俺、大好きだから。

あ、そうなんだ、と女は納得し、職員室に戻ると横に居る教諭に、私ってアンジーに似てますか?と聞いた、したら腹を抱えて笑われた。
研修期間は一ヶ月だったが、拓也と女は切れなかった。
何故か。
実習二週間目の夜に偶然拓也を見てしまった。
公園から若い男の笑い声がし、やだ怖い、と怯え乍ら女は公園に向いた。なんだか見た事ある様な背格好で、笑い声も拓也に似ていた。井上君かも、と思い安心したが、当然拓也は一人では無かった。此れで一人だったらかなり怖い、一人で笑っている事になるのだから。
拓也は公園のブランコに乗り、横には長身痩躯の男が居た。
暗闇で光る赤い炎。其れは互いの手にあった。足元には何か良く判らないが円錐状の物が転がっている。
気付いた女は動けなくなった。
未成年で飲酒喫煙をし、何が驚いたか、拓也が未だ十五歳だという事だ。一年前迄は中学生なのだ、其れがさも当たり前のように、中年親父みたく煙草蒸しビール瓶を傾け、ゲラゲラ笑っていた。
目が、合った気がした。
唯暗かったので、拓也と確信持てず、偶々こっちを向いたのがそう見えただけだろうと思っていたが翌日、あんたなんか昨日見た?と人気の無い所で聞かれた。

――え、あ、うん…
――誰かに云った?
――ううん…、私目悪いから、暗かったし、違ったら井上君に迷惑掛かると思って…
――うおお…まじか…、あんた女神だな…
――やっぱり…
――何でも云う事聞くから、マジで黙っててくんねぇかな…
――だったら始めからしなきゃ良いでしょう!

女の張り声に拓也は慌てて口を塞いだ。

――御尤も、反省してるから、静かにして…
――悪い子!井上君悪い子!
――判った、判ったから、ね?お姉様、しーしー。
――なんでも云う事聞くの?
――ええもう、全裸で土下座せえと仰るのでしたら致します。
――じゃ、飲み行くの付き合ってよ。
――は…?いやいやあんた、仮にも教育者になろうとしてんだろ…、何生徒誘ってんだよ…
――今更何よ、飲んでる癖に。私に説教すんの!?
――嗚呼、うん、そうね、俺が云える立場じゃねぇな、うん。だからお願い、静かにして…

流石に教育実習中は不味いと云うので、本気で誘う気か、女は夏休みが良いね、と訳判らぬ事を云った。
此奴教師にしたら駄目じゃね…?
拓也はそう思った。拓也で無くとも思うだろう。今からでも教育委員会か大学に通報して於こうか。
思ったが、何と言うか、悪事の共有で従った。
女の実習終了は七月だった。其処から大学で色々纏めるから落ち着いたら連絡するね、と連絡先も交換せず彼女は大学に戻った。
如何やって連絡する気なんだろう。
思って居ると夏休みが始まり、忘れた頃に女と会った。

ハイ坊や、暇ならお姉さんと遊ばない?

女は運転席からヒラヒラと暢気に手を振り、無視して歩いて居ると、今更バラしてもイインダヨ…?、と脅迫された。
やっぱり通報しとくか。
仕方無し助手席に座り、かなり遠い所迄連れ出された。
其れも其の筈、横浜中華街迄連れ出された。何故こんな場所迄来たのか聞いたら、都外の方が良いでしょう、誰も居ないし、補導されても県が違うから補導員も警察も動かないよ、彼奴等、管轄内でしか仕事しないから、精々十分の説教かな、でも大丈夫、私が居るから……胸張って云う事なのか?此の不良教師(の卵)と、車から降りた女の後を付いて行った。

――一寸待て、あんた車だろう?
――うん、そうだよ。徒歩では来ないよね。
――酒…
――昼間から飲む訳ないじゃん、ばーか。

ケラケラと女は笑い、たっぷり中華を堪能し、彼方此方振り回された後、夜の十時過ぎに何処かも判らない高台に車は停まった。
夏なのに風は冷たく、車から降りた女は全身で風と戯れていた。

――私、此処好き。
――ふぅん。
――気持ち良い…

そう目を閉じた女はボンネットに身体を乗せ、其の横に拓也は座った。

――星、綺麗。
――あ、本当だ。

一瞬女と目が合ったが、女はするんと運転席に乗り込み、シートを倒した。

――あんた、さっきから誘ってんの?

助手席に乗り込んだ拓也は聞いた。

――何でそう思うの?
――いや…
――女は気儘なの、其処に考えは無いの。よぉく覚えておき、坊や。
――帰りてぇんだけど。
――帰さないって云ったら如何すんの?

え?
果たして声に出たか、拓也と女の口は重なっていた。
細い拓也の腕をしっかりと女は掴み、拓也がシートにきちんと乗ったのを感じるとシートを後ろに流し、垂れ下がる拓也の髪を掬い上げた。

――気持ち良い、井上君の身体、冷たくて気持ち良い…
――マジで勘弁して、俺十五。考えて。あんたマジで刹那的だな。
――良いじゃん、其れで。十五でも男じゃん。セックスは出来るよ。私十三歳だったもん、相手は十五歳だったよ。
――じゃなくて、未成年に手ぇ出すなって云ってんじゃなくて…

女は絡み付かせた腕を解き、シートに倒れた。

――あ、そう云う事か。
――そう云う事です、お姉様。悦ばす事も出来ない子供で済みませんね。

女はシートを起こすと拓也をきちんと助手席に座らせ、車を出した。
漸く帰れる、此の女マジでヤベェんじゃねぇの…
成人女性に誘拐されてますと警察に電話しようかと、車の中で何度も考えた。
矢張り、通報しておくべきだった。
停まった車から降りたくなかった。此の場合、幾ら管轄外の職務怠慢お巡りでも流石に動いてくれるだろう、未成年者を誘拐しホテルに連れ込み強姦しようとしているのだから。
此れが成人男性と女子高生ならニュースにでもなろうが、成人女性と男子高校、拓也が婦女暴行で調べられるかも知れない。

――何処が良い?
――もう、何処でも良いです…

女は丁度空いていた一番高い部屋を押し、薄暗いエレベーターに乗り込んだ。

――よぉし、飲むぞぉ!ほらほらあんたも飲む。

鞄をベッドに投げ捨てた女は冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、プルトップを開けると水の如く一気に飲んだ。そして、テーブルにあるメニューを開くと焼酎と缶ビールを五本追加注文した。

――あ、お腹空いてる?三時位に食べたっ切りだけど。

恐怖に食欲が湧かない。

――要らない…
――おいおい成長期、食べろよ。でかくならんぞ。チンコ小せぇ侭で良いのかよ。
――良い…、怖い…
――何で怯えてるんだよ。
――今から強姦されんの判ってんのに、怯えない奴なんて居るかよ!

リンゴーン、と部屋に響き渡るベル、女の注文した品が届き、今此処で“助けて下さい”と叫べばフロントから通報して貰えるだろうか。
考えていると酒を持った女が目の前に立ったので諦めた。

――強姦?人聞きの悪い。此れは同意だよ。
――俺が何時、貴方と肉体関係を結ぶ事に同意しました!?
――何でも、云う事、聞くんだろうが、え?良いよ、学校に云っても、だけどあんた、慶応行きたいんでしょうが。其れとも、イギリスに居るパパんトコが良いか?
――何で、知ってんの…?
――問題起こしたら即父親んトコに行くんだろ。大嫌いなパパの所にね。
――何で…!
――イギリスね、良いよ、あの国は。とことん悪くなれる。

良くも此処迄邪悪に笑えるものだなと拓也は諦め、女の飲み干すビールの音を何処かで聞いた。

お好きにどうぞ、お姉様。

鼻に抜けた女の匂いに拓也は矢鱈濁った目を散らし、目の前で笑う女の顔をきちんと見た。
「初めてホテル連れてかれた時の事思い出した。」
其の日を境に拓也は女の奴隷として徹底した。十年も昔の事なのにはっきりと思い出せる。
ワンピースの色、靴の色、鞄の色、車の色…何より鮮やかに残るのは女の(いろ)
「私を捨てたら駄目よ、拓也。」
「ええ、判ってます、お姉様。」
一体俺を呪縛するものは何なのだろうか、其れが愛だと云うのだろうか。
拓也は未だに判らない。 
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