ソードアートオンライン 無邪気な暗殺者──Innocent Assassin──
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OVA
~恋慕と慈愛の声楽曲~
Bittersweet Day
ぴたり、と。
静寂が空間を支配する。
作ったメレンゲを混ぜて滑らかな飴色になった生地を型に流し込む途中で、彫像のようにカグラの動きが静止した。
彼女にしては極めて珍しいことに、きょとんという言葉がそのまま表されたかのような表情が張り付いている。いつも生真面目な表情をデフォルトにしているため、これだけで何か言ったかいがあったような気がするほどのレアさである。
しかし、残念ながらそれをゆっくりと眺める余裕はアスナにはなかった。
あ、と。
マズいことを。決して言ってはいけないことを言ってしまったかのような、そんな後悔が《閃光》と呼ばれた少女を襲っていた。
言ってはいけないこと。
禁句を。
「………………………………」
カグラは一度、生地をすべて型に流し込んでから、手を前掛けできっちり拭いてからこちらに向き直った。
後ろめたさも手伝っていつもなら気にもならない、女性アバターにしては長身な身体から威圧的なオーラが漏れ出ているような気すらする。
「……アスナ」
「はっ、ひゃい!?」
ヒクつき気味のノドから変な声が出るが、それを意に返した様子もなく紅の巫女は口を開く。
「アスナ、『好き』と『愛』の違いとは何ですか?」
カグラと呼ばれる人工高適応型知的自立存在にとって、『愛』という言葉ほど信用にかけるものはない。
アスナには主従愛、という言葉を使ったけれど、思わず言ってしまったのだけれど、しかしそれすらも正直なところ自分はその意味を本当の意味で理解してはいないのだろう。流行の言葉をあんまり解っていないまま使用しているような、そんな感じだ。
あの城、あの鋼鉄の魔城にて、カグラはマイという少女のいわば事後処理係として誕生した。あの少女にあてがわれた哀れな一般プレイヤーから彼女を引き剥がす役目である。
殺す必要はなかった。
だが例外なく、殺すしかなかった。……いや、そういえば一人だけいたか。心が限界まですり潰され、恋人のようだった男がポリゴンの破片となって砕けた空間をいつまでも掻いていた女が。
その者達は全員、今度こそ一切の例外なく普通のプレイヤーだった。作り物の自分などとは違い、仲間と狩りの成功の祝杯を叩きつけ合って笑い、なかなか攻略できないダンジョンの反省会をしたり、目的のアイテムが出なかったことに悔しがる。正真正銘の《人》なのだ。
そう、《人形》である自分から見れば目が潰れるほどに眩い《感情》を、彼らは持っていた。
それは当時の――――いや今でも心の底から尊いものであり、あんな、ボロクズのように打ち捨てられていいものでは断じてなかったはずだ。
そんな普通の《人》は、《魔女》に出会った。否、出会わされた。
あの世界の神に。
あの世界の影に。
出会わされた。
それは決して偶然などではなく、すべて計算づくの必然の出会い。
《魔女》は《人》を惑わし、心を魅せる。
マイが持つ《自衛機能》は接触した者の心を弄くり、自身に都合のいいように書き換える。具体的に言えば、重大な庇護心を植えつけるのである、
手を切り飛ばされれば蹴り殺す。
脚を切り飛ばされれば噛み殺す。
頭を切り飛ばされれば呪い殺す。
そうまでして、守る。
守って、護って、まもり尽くす。
それほどの庇護心が植えつけられるのだ。
それは魔法なんてお上品なものではない。
それは《毒》。
致死性ではなく、時間とともに荒縄で首を締め付けられるような中毒性を帯びた凶悪な毒。
その毒を一片でも吸った者は、マイに尽くし、マイの身を守ることに身を捧げないといられなくなる。彼女と同じ存在であるカグラ自身から見ても、心の奥底からおぞましいと断言できる。
もうそれは自衛などという範囲にはとどまらない、圧倒的な何か。
心意システムを使っての現象でも、《精神感応》は最上級の難易度を誇る。そもそも、意思が生み出す力が他者の心に干渉するという時点で何か色々ブッ飛んでいる気がする。
たった一人の少女に出会っただけで、心が変わる。
歪む。
捻じ曲がっていく。
だから、カグラは『愛』を信じない。
それがどれだけ薄っぺらいものかということを知っているから。
それがどれだけ信じるに値しないということを知っているから。
あの《魔女》は、出会ったもの全てを狂わす。
自分が剣を捧げている現在の主は、その魔性に当てられていながら正気を保っている稀有な例である。いや、わずか二ヶ月と少し前は確実に正気ではなかったか。しかし、それにしてもマイに会った瞬間にただの少年に戻ったのだから解らない。
だがそれこそ、その事実こそ、カグラは心底から怖い。
勝手かもしれないが、狂気に堕ちている者に比べてまだ正気を保っているということは、まだ堕ちる余白が残っているということだ。残っているのは白なのではなくて、これ以上ない真っ黒なのだけれど。
己が剣の主の手前、確かにカグラはマイの世話をしている。破天荒な主のストッパー役も担うことも多いため、不本意ながら周囲から保護者と冗談混じりに呼ばれることもあるが、その呼び名はカグラは身震いするほどに気持ちが悪くなる。
おそらく自分は、この小さな真っ白な《魔女》の所業を、この世で最も多く、最も近くで目撃してきた者なのだから。
者ではなく、物なのだから。
そんなカグラに、だからアスナの言葉は深い思考を否が応にも促した。
レンを――――己が主を好いているか。
好きには『Like』と『Love』の二つの意味があるのだけれど、だがカグラとてこと『Love』の暗い部分にだけはあの世界でたっぷり一年半も触れ続けていたのだ。目の前の少女が口にした好きという単語が指し示すのがどちらかなくらい、さすがに予想ができるというものだ。
好き。
好意。
カグラが最初に思ったのは、その疑問の返答についてではなく、その根本的なことについてだった。
すなわち、『好き』とは『愛』とどう違うのだろう、と。
もし『好意』が『愛』と同義なのだとしたら、前述の通り自分はソレを信じたいとも抱きたいとも思えない。いや、抱きたくないというほうが正しいか。
そもそも、両単語の間に明確な違いはあるのだろうか。英語にすればどちらも同じなのだから、やはり同一のものなのだろうか。
しかし一概に英訳すればいいというものでもない。英語圏では日本とは違い年功序列の概念が薄いため、兄弟姉妹がそれぞれブラザーシスターで統合されてしまっている節がある。
そのため日本語との微妙な意味の違いなど、英語では一括りにする事例が多いのではあるが。
この場合は、どっちだろう。
ここで留意してもらいたいのだが、カグラは人ではない。おしべとめしべ的なものから生まれてもいなければ、自然物としての最低限の肉体すら所持してはいない人工の魂である。今この姿は、ただ与えられたマネキン人形と言っても差し支えない。しかも、その見た目さえも彼女の精神とリンクしていない。平たく言えばこの身体は成長しないのである。
生まれた時から、この姿。
その理路整然とした言語、立ち振る舞いから忘れがちではあるが、彼女の実年齢はたった二歳とそこらである。しかもユイのような、知能が錯覚させられるまでに己の研鑽を積むトップダウン型ではない、純然たる人工知能である身としては、本来成長過程で教えるべき事柄すべてがまったくの白紙状態なのだ。
もっとも、御年二歳の彼女がここまでの言動を身につけているのは、何か知能を超えたものを感じるが。
そこまで思考した時、カグラは脳裏にズキリとした痛みのようなノイズが走ったのを感じた。まるで――――まるで、これ以上触れてはいけないことに触れてしまったように。
とにもかくにも、好きと愛の違いは何でしょう、という哲学者のような問いにぽんぽん答えられてたまるか。
だからカグラはこう発言する。
『好き』と『愛』の違いとは何ですか?と。
型に入れた生地が備え付けの特大のオーブンでゆっくりじっくり焼きあがっていく光景を耐熱ガラス越しに見ながら、《閃光》アスナは自らのおとがいに人差し指を当てた。
そうですね、という言葉の間も思考。
やがて、一言一言確かめるように唇を開く。
「わたしも、カグラさんが本当に欲しいような答えは出て来ませんが」
「それでもいいです。……お願いします」
ふむ、ともう一度アスナは考え込んだ。
いかなる事情があるかは知らないが、眼前の女性は真剣そのものだ。これにふざけた言葉を返す勇気は、さすがに今の自分にはない。
「どっちがどう違う、とは言えません。好意も愛情も、根っこのトコじゃ相手を思いやる気持ちってことですからね」
そこまで言ったら、スッと巫女の表情に影が落ちる。
でも、とアスナはあえてその上に重ねた。
「でも、あえて違いを見つけ出すんなら、好意のほうが《単純》ってことでしょうか」
「たん…じゅん、ですか」
「はい、ここからは心理学に触れることになるんですけど、好意っていうのは好きか嫌いかの二択になるらしいんです」
好きか嫌いか。
この巫女が何に葛藤しているかは分からないが、それくらいなら誰でも答えを出せるだろう。きっと。
「……では、愛はどうなのですか?愛情は?」
「………………………………愛憎です」
「あいぞう?」
アスナは手のひらに愛と憎の字を、人差し指の軌跡で表して見せた。
それを見たカグラは、なんとも複雑そうな表情を浮かべる。そりゃあ確かに、アスナ自身もそんな感じなのだけれど。
「相手を思う心に、憎しみがあってはいけないと思うのですが」
それはもっともだ。実際、アスナだってそう思う。
心理学者ロバート・スターンバーグによると、愛は情熱・親密さ・意気込みで構成されているらしい。
各構成要素の特長は、情熱は恋愛感情や肉体的な魅力、性的な欲望。親密さは温かみや相手との近さ、繋がり、絆といった感情。意気込みは誰かを愛する決意、愛を維持しようとする意志。
そのどこにも、憎しみの文字は入っていない。
だが現在の人間心理学では、愛情とは正負一体であるという考えが提言されている。
「愛情とは、正負一体でなければならない。表裏一体でなければならない。……愛憎一体でなければならない」
「……私には、分かりません」
困惑するようにかぶりを振るカグラに微笑みかけ、アスナはオーブンの取っ手に手をかけた。
扉を開けると、ココアパウダーとチョコレートのミックスしたほろ苦い香りがふわっと漂ってきた。苦さの中に甘さの混じる不可思議な匂いが鼻孔をくすぐっていく。
「わたしだって分かりません。今のはあくまで、文字で表せるような世界での話です」
感情論が、人の心の機微がすべて文字で言い表せるとはとても思えない。
たとえば、愛の方程式なんかがあったとしよう。
α+β=愛
こんな方程式が実際にあった場合、そこに出現するのは甘ったるい幻想ではない。出てくるのは、どこまでも寒々しい現実だ。
だから――――
「心理学者の論文めいた文章でも、ハムレットのセリフでも、ホントのところ愛情って言い表せてないと思うんですよ。他者の心なんて、本当の意味で分かるはずがないんですから」
ふっくらと仕上がったガトーショコラを慎重に切り分けながら、《閃光》と呼ばれた少女は言う。
「だから、カグラさん。今わたしが言ったことを踏まえて、もう一度考えてください」
一旦そこで、言葉を切る。
「あなたは、レン君のことが好きですか?」
「私は――――」
頼りなさげに揺れる心を投影するように泳ぐ炎のような光彩を眺めながら、アスナは味見と言いながらフォークで差したケーキの断片をえいやっとカグラの半開きになっていた口に放り込んだ。
むぐ、と半強制的に言葉を切られた女性は、砂でも噛んでいるかのような微妙な表情でしばらく口を動かしていたが、ほわりと花がほころびるように表情を変化させた。
「…………美味しい、です」
「でしょ?」
にひひ、と笑いながら少女は自身の分も切り取って口に含む。
「味みたいなんですよ、恋って」
甘い時も。
苦い時も。
酸っぱい時も。
色々な時があって、その時々で味が変わる。
愛とは、好意とは、恋とは、複雑であって案外簡単で単純なものかもしれない。
「ごめんなさい。いくらなんでもイタズラが過ぎました。今の質問は忘れてください」
「は、はぁ」
カグラのうちの、レンに対するものが何かはまだ分からない。
それはただの好意かもしれないし、恋かもしれないし、愛かもしれない。
だがそれは、自分で答えを出さなければならないことであって、他人から訊かれて急いで出すようなものでもない。焦るようなものでもない。
じっくりゆっくり。
マイペースに。
空気を切り替えるようにパン!と手を打ち鳴らしたアスナは、くるりとケーキナイフを手の中で回した。
「さて、あとは粉砂糖を振りかけたらおしまい!贈り物なんだから、包装にも気を配らないといけませんよね?」
さ~てどういう感じに飾ったらいいかしら、と切り分けに戻る少女だが、しかし期待していたような返事がまったくといっていいほど聞こえてこない。
訝しげに振り返ると、カグラはいましがた切り分けたケーキの一ピースをじっと見つめていた。
「ど、どうしたんですか?」
まさかマズかったんじゃいやしかし彼女はさっき美味しいと言ってたようないやひょっとしたら惜しいと聞き間違えたのかも、と顔面の色をころころ変えるアスナに介さず、紅の巫女はゆっくりと伏せ気味にしていた頭を上げた。
「……アスナ」
「は、はい」
「バレンタインとは、己の大切な者にチョコレートを渡す日ですよね?」
「は、はい」
正しくは、それは製菓会社の陰謀でホントのところは別にチョコ限定の話じゃないよ、と言おうとしたのだが、今のカグラにはどことなくそんなツッコミを跳ね返してきそうな迫力があった。それも力いっぱい。
ならば、と。
カグラはアスナの手からケーキナイフを取り、自分でふんわり生地に入刀する。
静謐な間隙の後、取り出されたピースは小皿に収まり、そして――――
アスナに差し出された。
「ぇ……?」
「私にとって大切な者は、レンだけではありません。マイも、キリトも、ユイも、そして……アスナ。あなたもそのうちの一人です」
凛とした表情でこちらに一片を差し出す巫女の表情は真剣そのものだ。
だから言えない。突っ込めない。
バレンタインっつーのは女から男なのが通例なんだよ、ということを。
言えない。
とりあえずどこから突っ込んだものだろう、とアスナが頭を悩ませていると、事態はさらに悪い方向へ転がっている。
ばったん
「ただいま、アスナ。そこでレンとマイに会ってさ、寄ってくっつって聞かなかったんだ」
「パパ、いつもレンさんの家にママと行っている身としてその発言は適切じゃないと思うのですが」
「そーそー、たまにはこっちから行ってもバチは当たらないでしょーが」
「何でもいいからおなか空いたんだよーアスナ~。なんか欲しいかもってんん?チョコの匂いがする!このまろやかでそこはかとないほろ苦さはガトーショコラだガトーショコラ!ガトーショコラ食~べ~た~い~ッ!!」
「お、ホントだ。ケーキ作ってたのか、俺も一つ食べ…た……い…………な」
扉からわいわい入ってきた集団のうちの一人、恋人である影妖精の剣士キリトの言葉尻がフェードアウトしていった理由を、アスナは如実に感じ取っていた。
今現在の状況を整理してみよう。
まず日付だ。
2月14日。イグシティでもそこかしこからチョコレート色が漏れ出し、それに沿ったイベントも結構確認されている。入ってきた全員が、いやALOにいるプレイヤー全員が今日がバレンタインデーということは知っていると思う。
では次に本題。
状況である。
大窓から余計に入ってくる陽射しのせいで何となく明かりは灯していない。キッチンだけは別だが、それでも全体的には薄暗いに分類されるだろう。
そんな、薄暗い部屋の中で、スポットライトみたいに唯一点灯しているキッチンで、そこで何かを差し出すカグラと、それを受け取ろうと中途半端なところで手が泳いでいるアスナ。
この体勢は、パッと見別の解釈ができないだろうか。
そう、真横から見た時、ちょうど抱き合う数秒前みたいな感じに見えるのである。
そしてキリトらが入ってきたドアは、まさしくその真横であり、つまるところ――――
「………………………………」
ギギギ、と錆びきったロボットのような、油の切れた機械のような、そんな動きでアスナは首をめぐらせた。
そこには
空飛ぶ白いカラスでも見たかのように、目をまん丸にしてパクパク口を開閉させるピュアな少年少女達。
そして、衝撃の映像から一足早く脱して爆発的に膨らみかけている笑いを全力で抑えている恋人の姿があった。
後書き
なべさん「はい、始まりましたそーどあーとがき☆おんらいん!」
マイ「うわーここって久しぶりかも」
なべさん「あれ~、マイちゃん?なぜキミがここに?レンくんは?」
マイ「うん、レンはね『自分が主人公じゃない話なんてこれ以上見たくない』って」
なべさん「人間ちっちゃいなぁあの主人公!背丈もだけどさ!」
マイ「……上手いこと言ったつもりなの?」
なべさん「ぐっ、純粋に首を傾げられるとダメージが全部こっちに……!何という強敵なんだ!」
マイ「あの~わなわな震えてるトコ悪いんだけど、マイってこの話見てていいの?メインヒロインだったらこの図は色々マズいんじゃ……」
なべさん「(あっ、しっかり自分のことはヒロインって言うんだ)いやいや、それを言ったらレンくんだってヤバいもの見てきたけどね。まぁそこはそれ、あとがきスペースは本編とは切り離されているのだよ」
マイ「メタいなぁ」
なべさん「はい、自作キャラ、感想を送ってきてください!」
――To be continued――
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