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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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ヴェルーリヤ――石相におけるジェナヴァ――
  ―4―


 4.

 次に目を覚ました時、ヴェルーリヤは冷たい闇の中にいた。ルフマンの祝福により通常の人間よりも丈夫に作られているとはいえ、体中が燃える様に痛く、歯を食いしばって呻いた。痛みに耐えながら、額に意識を集中して周囲と自分の体の様子を探った。
 内なる目によって、ヴェルーリヤはここが地下牢であると理解した。自分がどういう有り様かと言えば、施療院で暴行を受けたばかりか、街路を引きずり回されたせいで、衣は破れ、擦り傷だらけで、砂にまみれ、血が出ていた。
 ヴェルーリヤは荒い息をつきながら感覚を研ぎ澄ませ、大気の精の力を借りて、手足を縛る縄を切った。牢を外から施錠する掛け金を断ち切り、のろのろと立ち、壁に手をつきながら歩き出した。
 番人が立っていると、その者の気を空や壁や、あらぬ方向に向けさせて、背後を通り抜けた。ヴェルーリヤが立ち去ると、番人は何故急にそんな方向が気になったのかわからず、首を傾げながら仕事に戻った。
 そうやってジェナヴァの町を横切り、ようよう家に帰りついた時には、東の空から太陽が昇り始めていた。ヴェルーリヤは戸口に倒れこんだ。数歩先のベッドに向かう事さえできなかった。辛うじて小さな家の外側に結界を張り、力尽きた。
 床に横たわり、喘ぎながら、時折ひどい怒号で目を覚ました。「出てこい」、と声は言った。別の声は「出て行け」、と言った。体中の傷が炎症を起こしていた。汗をかきながら、人々が窓や戸を破ろうとする音を聞いた。その試みは結界に阻まれた。人々は毒づき、悔し紛れにヴェルーリヤを嘲り、中傷した。
 人々は彼に手を差し伸べようとはしなかった。彼がこれまで人々にしてきたようには。ヴェルーリヤは耳を塞ごうとしたが、重い腕はぴくりともしなかった。また気を失い、高熱によってひどくうなされた。
 日が暮れ、目覚めの時が来た。暗くなりゆく家の中で、腕をついて体を起こし、壁によりかかった。立ち上がるのも心許なく、何より人間が怖かった。
 夜がすっかり空を染めてしまうと、痛みを訴える人々の声なき声が耳に聞こえてきた。ヴェルーリヤは耳をふさぎ、震えながら、声を聞くまいとした。外に出て町を歩くなど、もはやできる筈もなかった。しかし、人々の声は悲痛で、時と共に数もいや増し、耳を塞げど容赦なく、頭の中に響いた。
 ヴェルーリヤは、震える体に力をこめ、覚悟を決めた。自分自身の怪我と苦痛と熱を無視して、人々のもとに行こうと決めた。そのように生まれてきた。その為に生まれてきた。
 戸を開けた。
 すると、熱い物が耳の横を掠めた。
 戸に、矢が突き刺さった。

 ※

 神殿で眠るヴェルーリヤは、恐ろしい夢で目覚めた。目を開けると同時に、全身を覆う痛みに歯を食いしばり、体を強張らせた。そして、ここは唯一心安らぐ聖域であり、人々も痛みも既に忌まわしき過去の記憶の中にしか存在しない事を思い出すと、安堵し力を抜いた。
 彼はテラスに出て、満ちつつある月に目を向けた。その目は鋭く、荒んでおり、かつてジェナヴァの町で人々を癒やし歩いていた頃の柔和さや優美さは失われていた。彼はその目を閉じ、額に隠された内なる目の視力を研ぎ澄ませた。閉ざされた海の端まで意識を飛ばすと、聖域と外界のあわいに揺らぐ炎の線が見えた。
 ヴェルーリヤの意識は、炎をくぐりその先へ進んだ。
 白い世界が広がっていた。ルフマンの神殿を包む時空を侵犯し、月の満ち欠けに干渉する、別の時空であった。ヴェルーリヤはなお額に意識を集め、慎重に白い世界の奥へとあらざる目を凝らした。
 そこは、ヴェルーリヤには縁薄い、昼の世界であった。
 女が見えた。
 赤黒い魔性の花に取り囲まれ、その蔦が絡む椅子に、巫女の白装束に身を包んで座り、背中を向けている。
 壁も床も見えなかった。窓だけあった。青空に繋がる矩形の窓が、女を左右から挟んで前後に連なり、その窓の一つに、ヴェルーリヤの影が映った。
 常人には感知せざるその影に、女は激烈な反応を示した。
 女が振り向く動作が見えた次の瞬間には、真っ赤な口と牙が、眼前に迫っていた。ヴェルーリヤは即座に、神殿のテラスに立つ、自分の肉体に意識を戻した。
 追いすがる巨大な手の存在を、遥か沖に感じた。ヴェルーリヤは強引に結界を閉ざした。
 彼は元通り、夜のテラスに立っていた。汗をかき、心臓は激しく脈打っていた。
「誰れか来たれ!」
 たちまち、屍の番兵と透き通る亡霊達が壁を通り抜けて来た。亡霊達に人であった頃の記憶はなく、人間の姿さえも失いかけている。ヴェルーリヤは亡霊達に、結界の綻びを探すよう命じた。
「我には門しか見えない」
 輪郭が崩れ、白い布切れのようになった目のない亡霊が後に残り、言った。
「開かぬ門。叩けども叩けども応じる者はない……」
 ヴェルーリヤはその、白い布切れのような者の腹に、おぼろげながらギャヴァンの神印が刻まれている事に初めて気が付いた。己の姿を忘れても、神の名を借りて威光を振りかざす傲慢さだけは、死してなお覚えている。
 恐怖に衝き動かされ、ヴェルーリヤは番兵の手から槍を取り上げた。きらめく穂先が亡霊を切り裂いた。亡霊は声もなく滅した。
 途端、四方から押し寄せる殺意を感じ、ヴェルーリヤは凍りついた。その殺意がどこから来たものか、探るまでもなく明らかだった。神殿中の番兵や、亡霊達からであった。
 殺意はすぐに消えた。番兵一人一人の精神を探っても、精神と呼べるものは存在せず、遠くの亡霊たちに意識を飛ばしても、彼らに明瞭な感情はなかった。
 剣を持ち弓を持ち、ヴェルーリヤをジェナヴァの町から追いやった人間の屍が、番兵達の中にあるのだろう。その者の過去の殺意の残滓が、今の己の殺意に呼応したのだと、ヴェルーリヤは無理やり納得しようとしたが、不穏な予感は消せなかった。

 ※

 陸を剣で追われ、浜から矢を射かけられ、ヴェルーリヤは傷ついた姿で神殿に逃れつくと、床に倒れ伏した。斬りつけられた傷からは止むことなく血が流れ、床に血だまりを作った。
 いつ死んでしまってもおかしくない状態であった。水や大気の精霊を感じる事もできないほど感覚が鈍り、力も落ちていた。
 このまま死んでもいいと思った。
 人間は、自分には理解の及ばぬ存在であった。人間は、誰かを陥れ、傷つけて喜ぶような存在だった。傷つけ、蹂躙し、征服せずにはおれぬ存在だった。その誰かが、自分を助けた者であっても。
 救いたいと思った。愚かだった。間違っていた。
 昏睡と覚醒を繰り返しながら、それでもヴェルーリヤは何日もかけて神殿の最上階に上りつめた。群晶の間にたどり着いた時には、生命の危機は脱していた。切り刻まれ、血がこびりついた衣のまま、群晶に縋りついた。そして、一番大きな水晶に額を寄せながら、父なる神ルフマンの名を呼んだ。
「父よ、人間は私が思うていたようなものではなかった」
 目尻からあふれた涙が、水晶を伝い落ちた。ヴェルーリヤは慈悲を乞い、自分をもとの姿に返してくれと願った。水晶の中には煙が渦巻くばかりで、何者も、彼の声には答えなかった。
 ヴェルーリヤは傷が癒えるのを待ちながら、夜な夜なジェナヴァの町に意識を飛ばした。
 総督の政策によって、ジェナヴァの町はにわかに金のまわりがよくなった。人々は目先の富に惑わされ、以前よりもはるかに安い値で扱き使われているのだが、彼らがそれに気付く様子はなかった。
 思い返すもおぞましい施療院でのあの夜、ギャヴァンの施術師によって失われた右腕を取り戻した男は半月後の晩に、またその右腕を失った。突如消え失せたのだ。あの施術師の奇蹟など、限定的なまやかしに過ぎなかったのだ。男は施療院に出向き、施術師に縋りついた。術の継続を望むなら、報酬を支払えと施術師は言った。そして、報酬額を教えると、呆然とする男をそのまま追い返した。同じような人間達が、他に大勢いた。一時の奇蹟は彼らをより惨めに、より孤独にした。
 傷が癒えても、ヴェルーリヤは神殿から出て行かなかった。ここにいれば、苦痛に呻く人々の声も、自分に対する中傷や罵声も、聞かずに過ごす事ができた。
 そうしてジェナヴァの町に切なげな視線を向けて過ごす内、ジェナヴァの地霊の黒い怒りが地の底で膨らむ気配に気がついた。ジェナヴァの地霊たちは暗闇と静寂を好む性質を持っていた。ギャヴァン信仰がもたらされ、夜がいつまでも明るくなると、地霊たちの不満は怒りに変わった。その怒りは日毎夜毎に高まった。このまま人々の暮らしが変わらなければ、間もなくジェナヴァの町に目を覆いたくなるような災いがもたらされる事は明らかであった。
「行かなくてよいのか?」
 唐突に何者かの声を聞いて、ヴェルーリヤは群晶の間で背筋を伸ばした。長らく煙が渦巻くだけであった水晶の内部に、銀の髪と、銀の髭を伸ばした老人の顔が映りこんでいた。ヴェルーリヤの誰何には応じず、老人は白銀の目で、ヴェルーリヤを見つめ返した。
「よいのか? このままで。あの夜毎の乱痴気騒ぎをやめさせなければ、地霊の怒りは収まらぬ」
 ヴェルーリヤは顔を背けた。
「私にその手立てはない」
「本当にそうか? お前は考える気がないだけじゃろう」
 老人は残酷に言い募る。
「本当に、よいのか? このまま見過ごすのか?」
 考えなければならないと、ヴェルーリヤはわかっていた。この得体の知れぬ老人の言う通り、人間たちが大いなる災禍に呑まれるのを見過ごしたいと、そのような事は思っていない自分自身に、嫌でも気付かざるを得なかった。
 それでも、町に行くことを思うと怖かった。人間たちは、今度こそ自分を仕留めるであろうと予測できた。人間の事を思うだけで、顔は青ざめ、体は震えた。ヴェルーリヤは人間が怖かった。今や世界中の何もかもが怖かった。
 老人は執拗に囁く。
「多くの人間が死ぬぞ?」
「黙れ!」
 耐えきれずヴェルーリヤは叫んだ。耳を両手で塞ぎ、激しく首を左右に振った。
「黙れ……やめてくれ……」
 それからひと月と経たぬ晩であった。
 ついぞ、膨張した地霊の怒りが陸を裂き、ジェナヴァの中心街を底知れぬ奈落へと呑みこんだ。その大地の亀裂は黒い瘴気を噴き上げて、町を覆い尽くそうとした。
 人々は無駄な抵抗を試みて、瘴気に呑まれ死んだ。生き残った人々は武器を手に、船に乗り、ルフマンの神殿が聳える小島へと船を漕いで押し寄せた。
 人が来る。武器を持って。
 ヴェルーリヤにはこの後起こる出来事がはっきりと予測できた。
 初めの内、人々は、この傷の痛みを取り除いてくれと縋りつくのだ。
 そうして目先の苦痛から逃れた後、この災厄が何によってもたらされたか、考えようとする。
 そして、ヴェルーリヤが何を説こうとも、彼らの暮らしがもたらした災厄であるとは、認めやしないのだ。
 彼らはヴェルーリヤを疑い、誹謗し、殺すのだ。
 侮辱し、陥れ、殴り、蹴り、鞭で打ち、引き回して見世物にするのだ。しかるのち剣で斬りつけ、矢を射かけて殺すのだ。
 上陸した人々が、恐慌に駆られ悲鳴を上げながら、神殿の門に殺到した。
 ヴェルーリヤは何も考えなかった。ただ己の恐怖に任せて、固い結界で神殿を覆った。
 殺到した人々は慈悲を乞いながら門を叩いた。
 開かぬ門。叩けども叩けども応じる者はない。
 やがて、地霊の怒りは海を越え、門前に殺到する人々の姿を呑みこんだ。
 人々が死んでいく間、ヴェルーリヤは頭を抱え、群晶の前に蹲ったまま、動かずにいた。
 地霊たちはジェナヴァの人間が死に絶えると、満足して深い奈落に帰って行った。
 ジェナヴァにおいて信仰されていた享楽の神ギャヴァンはというと、決して冷酷なわけではないが、冷淡な性格の神であり、一つの小さな町が滅びたところでさして興味を示さなかった。ジェナヴァ以外にもギャヴァンを奉じる人々は幾らでもいるからだ。
 ジェナヴァの土地からは、あらゆる神が消えた。空には切り落とされたような半月が冴え冴えと光を放ち、以後、夜が明ける事はなかった。
 そして、小島の神殿には、門前に折り重なる死体が残された。


 
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