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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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ヴェルーリヤ――石相におけるジェナヴァ――
  ―1―

 1.

 黒く波打つ海が岸を洗う小島で三点鐘が鳴ると、神殿の門前に折り重なる死者達が一斉に身を起こす。陰鬱な響きが沖の彼方に消える頃には、死者達はめいめい弓と槍を持ち、それぞれの持ち場についている。それまで警備についていた死者達は、入れ替わるようにその場に倒れ伏す。この海上神殿に明けない夜が訪れて以来、鐘の音だけが時を告げ、死者達は鐘だけを頼みに意思なき行動を続けていた。
 神殿の裏の洞窟では、やはり物言わぬ死者達が、魚の脂を搾る作業を続けていた。朽ちた手がもげ落ち、労働できなくなった死者があると、他の死者達が崖の上からその骸を海に突き落とした。そして、稀に沖から流されてくる死者があると、迎えて仲間にした。
 神殿の内部では、八つの礼拝所と八十八の部屋で黄鉄鉱が打ち鳴らされ、不条理な力に支配された骸骨たちが魚の脂のランプに火を入れた。
 その明かりによって、一人の青年が目を覚ます。青年は根と伏流の神ルフマンに奉仕する神官の(ころも)に身を包み、青白い顔に半月の光を集め、目には起きぬけとは思えぬ鋭い光をらんらんと輝かせていた。
 青年は骸骨が捧げ持つランプを受け取ると、火の中に砕いた蛍石を投じた。濃い紫の燐光が、青年の姿を包んだ。青年は天蓋つきのベッドを離れ、寝室を出た。いつも通りの、彼の無益な一日の始まりだった。
 彼はまず、書庫に向かった。何に使われる事もない知識を蓄える為に、彼は一日の大半を書庫で費やすのだった。
 途中の廊下で、彼は異変を感じ足を止めた。
 何かが違う。
 違和感の源へ、彼の眼はまっすぐ吸い寄せられた。
 月が、満ち始めている。
()れかあれ」
 張り詰めた声が廊下に響くと、前後の闇から青い鬼火を纏う亡霊たちが引き寄せられてきた。
「月を見よ」
 青年は窓にランプを掲げた。
永遠(とわ)に変わらぬと思われたこの夜の半月が満ちつつある。(ゆえ)を知る者はおらぬか」
「我には門しか見えぬ」
 目のない亡霊が答えた。
「開かぬ門。叩けども叩けども応じる者はない。慈悲を乞えど、押し寄せる波の音を海に打ち返すばかりの高い門。ああ」
「闇さえも押し潰すとう沈黙にも寄せ来る、揺らめくものを感じます。神々も沈黙を守りはすまい」
 輪郭を失いかけた亡霊が、次いで答えた。
「揺らめくものとは何ぞ」
「わかりませぬ。私には見えませぬ。炎に似て炎にあらぬものを、ただ感じるのみに御座います」
「よかろう」
 青年はランプを下ろした。
「以後、神殿に僅かでも異なる気配があれば、ただちに我に報じるよう皆に申し伝えよ」
 亡霊たちが闇に消え失せた後、彼は踵を返し、神殿の最上階に向かった。
 そこは唯一屋根のない礼拝所であった。月と星の下で、巨大な水晶の群晶が、青年の背丈より遥か高く聳えていた。青年は骸骨の番兵を下がらせて、群晶の前に立った。水晶の中には煙が渦巻き、不思議な様相を見せていた。全身の皮膚がざわつき、とりわけ額が強く疼いた。青年は水晶の中の煙に意識を集中した。
「我が父、根と伏流の神ルフマンよ、今日こそ我が声にお応えくだされ」
 青年は縋るように言った。水晶の中の煙は大小の渦を巻くばかりで、何の変化もなかった。青年は待った。しかし煙の様相が変わりを見せず、また肌に触れる感触も、頭内(ずない)に囁く声もないと知るや、諦めて水晶の礼拝所を立ち去ろうした。
 すると、ある気配が、彼を呼び止めた。
「ヴェルーリヤ!」
 煙が割れ、水晶の中に老人の顔が大きく映し出された。老人は白銀の瞳で青年を見つめ、白銀の髭に覆われた口に意図のわからぬ笑みを浮かべていた。
「変わらず退屈をしておるようだな」
 青年・ヴェルーリヤは憎しみと苛立ちをこめた目で、水晶の中の顔を睨んだ。
「貴様など呼んでおらぬ。招かれざる亡霊よ、()く神殿から立ち去れ!」
「お前の神聖な領域で起きている事を知りたいのではないのかね?」
 挑発的な声に、ヴェルーリヤは唇を強く結んだ。
「相の領界が揺らいでおるな。木相で派手な戦が行われておる」
「ここ石相との領界に異変を来すほどの戦であるのか」
「木相で、偉大なる渉相術師が死んだ」
 声は応じた。
「その者の最後の術が行われた余波が及んだのだろう。波は大きなうねりへと育ちながら他の相へ広がりゆく。石相、木相といった単位の話では収まるまいな」
 ヴェルーリヤは眉間に皺を刻んで、言葉の意味を吟味した。
 相は人間に認知可能な現実の範囲であるが、相の上級単位として、階層が存在する。
「人間ごときの為した術が、階層単位の異変をもたらすと申すか」
「あまり人間を侮るでないぞ。お前が神聖かつ不変と信じておるこの神殿もその波を(こうむ)り、必ずや変化が訪れる」
「私は如何なる変化も許さぬ」
 ヴェルーリヤは老人の顔を一層きつく睨みつけた。
「神殿の静寂と平穏を乱す者は何人(なんぴと)であろうと許さぬ。私は父の名に懸けて神殿を守ろうぞ」
「父の名に懸けて、か」
 老人は嘲るように笑った。
「それで、どうするのだ、ヴェルーリヤ。永劫にこの神殿に閉じこもり、不変の夜の静寂に身を委ね、どうするというのだ?」
「黙れ」
「外界のうねりは大きいぞ。多くの人間が死ぬぞ?」
「黙れ!」
 ヴェルーリヤは耳を覆った。
「黙れ。私の知った事か。人間など、みな滅べばよいのだ!」
 老人は口から大きな嘲笑を放った。ヴェルーリヤが固く目を閉じ、耳を塞いでも、その声は容赦なく彼の鼓膜を打ち、心を打った。
 やがて、顔は煙の中に消えていった。ヴェルーリヤは群晶の前に跪き、力なく手で顔を覆った。

 ※

 月の雫がしたたり落ち、ヴェルーリヤは群晶の間で生を享けた。
「願いを叶える」
 それが、彼が人間の似姿を得て初めて聞いた言葉だった。
「望み通り、人間達のところに行くがよい」
 威厳に満ち、低く響く、甘美な声であった。ヴェルーリヤは群晶に抱かれて瞼を開いた。真円に満ちた月の光がヴェルーリヤの眼球を焼いた。ヴェルーリヤは、目から流れ出て頬に伝う己の涙を感じた。得も言われぬ幸福感に心が満たされていた。彼は、生まれて初めて唇を開いた。
「感謝します、根と伏流の神よ」
 月の光が肌に触れ、その活力が体に染み渡るまで、横たわったまま待った。十分な力が満ちると、水晶を伝い、床に下りた。
「裏の洞窟にお前の舟を、その先のジェナヴァの断崖にお前の家を用意した」
 頭内に声が響いた。彼は神殿の構造をよく知っていた。迷わず、隠し通路を通って裏の洞窟に出た。果たして、洞窟に隠された船着き場に、一艘の小舟が浮かんでいた。
「ヴェルーリヤ。善き精霊よ、それがお前の名だ」
 ヴェルーリヤは、黒くのたうつ海に櫂を差し入れ、一筋の月光の道をなぞって進んだ。間もなくジェナヴァの町の灯が、その先に見えてきた。彼の心は凪ぎ、ただあの町に行かねばならぬという静かな使命感に満ちていた。水や大気の精霊たちが、彼を祝福し、彼を微笑ませた。彼もまた、このような精霊たちの一つであったのだ。
 ジェナヴァの砂浜は狭く、三方を崖に囲まれていた。崖をくり抜いて造られた、崩れかけた階段を上った先に、小さな家があった。ヴェルーリヤはその戸を開けた。隅にベッドが一台あるだけの家であった。月の光を食べて生きる彼に、それ以上の物は必要なかった。
 ヴェルーリヤは家に背を向け、草に埋もれた石畳を辿ってジェナヴァの町へ歩いた。ルフマンの印の描かれた衣が、風にはためき音を立てた。
 精神を研ぎ澄ませば、声にならざる苦痛の声が、耳に聞こえてきた。生と、老いと、病と、迫り来る死が無数の人々にもたらす苦痛である。
 この為に生まれてきた。人々を痛みから救いたいと、神に願って生まれてきた。
 町の外れの、貧しい区画にたどり着いた。ヴェルーリヤは心を無にし、感覚に導かれるまま歩き、小さなあばらやにたどり着いた。
 あばらやには、中年の娘と老いた母が二人で暮らしていた。老いた母は体内の悪しき腫瘍がもたらす痛苦によって譫妄(せんもう)状態にあり、娘はそのうわ言に耳を傾けながら額の汗を拭いてやっていた。
 娘は戸口に現れた侵入者に驚き、腰を浮かせ、その姿を凝視した。月の光を喜び、自ら光を放つような白い肌。冴えわたる星に似た、冷たくも柔和な瞳。紫がかった藍色の髪は、そのまま夜を映したようである。娘の直観は、眼前の青年が人ならざる者である事を告げた。
 ヴェルーリヤは若くない母娘を見つめて、母親が病苦の為に、残された時をただ一人の家族と大切に分かちあう事ができずにいる状況を悟り、憐れんだ。
 ヴェルーリヤは衣擦れの音を立てて歩み寄り、老婆の隣に立った。そして、横たわる老婆に腕を差し伸べて、そっと胸に抱いた。
 彼は、老婆の体内に巣食う痛みを少しずつ薄めながら自分の体に流しこんだ。そうして、自分の体を通過させることで痛みを浄化し、後は大気の精に任せた。老婆の表情は次第に穏やかになっていった。全ての痛みを取り除いた後、老婆を元通りベッドに寝かせた。老婆の瞼が二、三度、痙攣するように動き、目を開けた。その目に宿る光が穏やかなものである事を確かめるや、ヴェルーリヤ何も告げず、あばらやを後にした。
 彼は声なき声に導かれ、夜を縫い歩いた。
 戦によって処刑された敵兵が埋めこまれた塀の中で、斬り落とされた足がすすり泣きを発していた。次にたどり着いたあばらやは、その足の持ち主の家であった。両足を失ったその男は、封筒を作る仕事で細々と食い繋いでいた。出歩く時は両腕で地を這うので、彼は常に砂埃にまみれていた。夜毎(よごと)、彼のありもしない両足は激しく痛んだ。その幻肢痛の激しさに、彼は砂だらけの寝床の中で、歯を食いしばって涙を流していた。
 月の光を遮って、ヴェルーリヤが板戸の隙間に立った時、その清冽な存在感に、男は一瞬、痛みを忘れた。
「痛むのか」
 澄んだ声でヴェルーリヤは尋ね、男の、存在しない足を憐れんだ。
「痛むのだな」
 そして、寝床の砂を払い、さも足が存在するかのように、両方のふくらはぎと、膝と、太ももの辺りを丁寧に撫でさすった。男ははじめ緊張して息を詰めていたが、不思議と痛みが取れていくにつれ、全身の力が抜け、悲しみや惨めさまでもが癒されていくのを感じた。
「待ってくれ」
 ヴェルーリヤが立ち去ろうとする時、男はやっと声をあげた。
「何か――謝礼を――」
「よいのだ」
 ヴェルーリヤは男の両手を包みこむように握って言った。
「我が命は、この為にある」
 再び戸外に出た彼は、川沿いの、前の二軒よりは比較的しっかりした作りの家に吸い寄せられて行った。その家は、一階の表部分で商いをし、裏口では下働きの子供が泣いていた。入っていくと、小さな子供が女主人にひどくぶたれていた。ヴェルーリヤはその子の痛みを取り除き、落ち着かせた後、子供にひどい扱いをせぬよう女主人に頼んだ。
「私とて、好きでこうしているのではありません」
 女主人は気まずそうに弁明した。
「私はこの子に無理のない程度に働かせ、必要なだけの食事は与えています。それでもこの子ときたら、何度言っても盗み食いをやめないのです」
 女主人は、数年前から続く不作を訴え、訴えながら涙ぐんだ。彼女もまた飢えており、できる事なら下働きの子にも存分に食べさせてやりたいと願っている彼女の心中を汲み取った。
「ならば私が、人々が不作に苦しんでいる状況を我が父に取り次ごう。奉じる神はあるか。ないならば、以後は根と伏流の神ルフマンを信仰するがよい」
「それで暮らしがよくなるのですか」
「必ずや」
 ヴェルーリヤは静かに、しかし力強く答えた。この頃、彼はまだ、人間を愛していた。


 
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