それからあたし達は重い足を引きずりつつ、なんとか森の中の安全地帯――約5メートル四方の広さで床に石畳が敷かれ、それぞれの角に松明が灯る石柱が立ち、中央には焚き火が可能な簡素な炉だけがある――に辿りつく事が出来た。
まずは全員その中に入って、それと同時に、脱力の息と共に一斉に床に寝転がった。それにあたし達は顔を合わせ、揃って力ない苦笑の笑い声を漏らした。
それから、まだ全身に残る徒労感を振り払いながら、あたし達女性陣は焚き火を起こして夜食にリゾットを作り始め、男達は身の回りの安全の確認と確保の為に見回りに出た。
あたし達の帰りを待っていたであろうマーブルには、以前にフレンド登録していたのが功を奏し、メッセージで今日は戻れない旨を伝えることができた。返信には……
【帰りが遅いから心配だったけど、みんな無事でなによりね。またみんなと夕食が出来なかったのは残念だけど、キリト君の判断は正しいわ。だけど、明日にはまた戻ってらっしゃい。あと……私が言えることじゃないけれど、死神には、どうか気をつけて。――マーブル】
とあった。それを見たシリカは、微笑みながら目を伏せて「はい、ありがとうございます」と口頭で返事をしていた。
それからキリト達が戻ってきたのは、ちょうどリゾットが煮えてきた頃だった。
「大丈夫、この周辺にはモンスターや他のプレイヤーは居なかった。ただ、休んでいる途中にモンスターがもしかしたらここの傍で
再湧出するかもしれないし、死神の事もあるから……決して絶対安全とは言えないけどな」
「ケッ、死神が居るとすりゃあ他所よりもオレらの内の誰かだ、って言いたそうなのがバレバレだぜ」
「よしたまえよ、ゾッとしない話だね」
口々に愚痴りながらもキリト達は、リゾットの香りと湯気に歓声を上げながら焚き火を囲む。
だが……
「……………」
最後尾で戻ってきたユミルだけは、ここと離れた角の石柱に背を預けながら座り込み、曲げた自分の膝を抱いていた。
それを見たアスナが、あたしの耳元に顔を近づけて囁きかけてくる。
「ねぇ、リズ。ユミル君、今日はずっとあの調子だね……。きっと、朝にキリト君が言ってたこと絡み、なんだよね……」
「だろーね……」
キリトは朝にユミルとあったことをあたし達に話していた。
あの子のことは一筋縄ではいかないだろうと前々から思っていたけど……昨夜の喜ばしい事があっても、いや……あったからこそ、今ああやって塞ぎこんでしまっているのを見せ付けられては、
暖簾に腕を押しているかのような、不安になる手応えを否応無く感じさせられる。
――だけど……
「まったく、しょうがないわね」
「リズ……?」
あたしはリゾットを皿によそい、あくまでいつもの感じで立ち上がってみせた。アスナが見上げてくるも、彼女は首をふるふると左右に振る。
「ユミル君の所へ行くの……? でも、きっとダメだよ……。今はそっとしておいた方が……」
「あたし、マーブルさんに教わったんだ」
「え……?」
アスナが首を傾げる。
それにあたしはニッと不敵に笑ってみせた。……あたしの秘かに恋する、どっかの誰かさんのように。
「あたしは決めたの。あたしはあの子が死神かもしれないと受け入れる。だけど……あたしは、もうあの子を悪い子だと思わない。昨夜少しだけ垣間見せてくれた、あの無邪気なユミルくんが本当のユミルくんだと、あたしは信じてる」
「リズ……」
それからアスナは頷いて、少しだけ微笑んでくれた。
「……やっぱり、リズはわたし達の中で一番まっすぐで、しっかりしてるよ」
「褒めてもなにも出ないわよ。それに……ああいう子を見てると、なんだか刺激されちゃうのよね」
「なにが?」
「保護者的感情」
「―――――」
そのあたしの一言に、アスナはポカンと口を開けた後、すぐに眉尻を下げて可笑しそうにぷっと噴き出した。
「あはははっ。ホント、リズってそういうお姉さん的なトコあるよねー」
「マーブルさんには適わないけどね」
あたしは背にアスナのクスクス笑いの加護を受けながら、リゾットを手にユミルの元へと向かった。
◆
「ユミルくん」
「……………」
チラリとも見ずにユミルはだんまりを決め込む。
「あたし達でリゾット、作ったんだ。食べない? 今はマーブルさんが居なくてちょっと味のグレートは落ちちゃうだろうけど、料理スキルが900代のアスナがメインで作ったんだから、すごくおいしいよ?」
ユミルは被ったフードを僅かに左右に振り、足元の石畳と森林の境目へと目を逸らした。
「……一応、リアクションは返してくれるのね。ありがと。……だけどさ、言葉でお話、しないかな?」
しかし、ユミルの反応は変わらない。
そのまま、背後のキリト達の喧騒が背中を叩くだけの気まずい沈黙が続く。
――だけど、退くもんですか。負けてたまるもんですか。まだまだこのくらいでへこたれるあたし、篠崎里香ではない。
手に持つお皿に僅かに力がこもる。
……あ、そうだ。
ここでちょっとした天啓を思いつく。
「……ユミルくん、このリゾットなんだけどね」
「……………」
「まず、焚き火の上に乗せたフライパンにバター落としてさ、お米と微塵切りに刻んだ玉葱を入れて炒めるの」
「…………?」
ユミルが突然何を、と言いたそうに僅かにこちらをチラリと見て首を傾げた。あたしは構わず、まるでグルメ番組のリポーターさながらに言葉の抑揚に熱を入れた調理解説を続ける。
「こっからが腕の見せ所なんだ。次に水とブイヨン、あと隠し味に少しのコンソメを入れるんだけど、玉葱が蜂蜜色に炒めてきた直後に入れなきゃ美味しくならないんだよね。お水も気持ち分量を多めに入れるの。そしたらふっくらとした炊き上がりになるんだよ。ふつふつと煮えてきたら下味を付けた干肉を入れて、ここで火を弱めてお鍋に蓋をして時間をかけて煮るの。そうすることで、お肉の旨みをじっくり染み渡らせるんだ。そしてお米が炊き上がったら、ひとまず完成。……だけどここで一手間!」
あたしはユミルが左手に持つ皿を注視していることを確認してから、右手でウィンドウを広げる。食材のリストをポン、と次々にクリックして順番に取り替えながらオブジェクト化させていく。
「食べる前に、こうやって……まずは粉末チーズをかけるんだ。……ホラ、とろけてきて美味しそうでしょ? そしてトドメに香辛料のハーブとセージ、荒挽き黒胡椒をを振り掛けることで――」
――くきゅるぅ~~
「……~~ッ!?」
ユミルの腹の虫が鳴り、慌てて手でお腹を抑えている。きっとフードの下の顔は真っ赤になっていることだろう。
「――と、このように食欲増進効果のある、実にいい香りを演出して、本当に完成です。……よかった、食欲はあるんだね」
「たっ、食べ物で釣るなんで卑怯だよっ! なんでキミ達は昨日の夕食といい、ボクを胃袋から攻めて来るんだよっ!?」
見事に釣られた彼はガバッとあたしを見上げ、勢いよくそうツッコんだ。その勢いでフードがスルリと髪から滑り落ち、予想通り赤い顔と涙目ながらに睨む翠の瞳が露わになった。
――名付けて、【ハングリー・コミュニケーション大作戦】、大成功である。
あたしは心の中で『YES!』とガッツポーズをとった。
そして込み上げる笑顔を抑えることなく、そのままニヤリと話を切り出した。
「お、やっと喋ってくれたわね」
「あっ……!」
一瞬きょとんとしたユミルは慌てて顔を伏せてフードで再び顔を隠そうとする。が、首と後頭部にフードが引っかかり、もたもたと手間取っていた。
あたしはそれに苦笑しつつ、ユミルの隣にすとんと腰を下ろして同じく石柱に背を預けた。
「……食べてくれないかな。これは、ユミルくんの分なんだから」
「い、いらないっ……」
ついにフードを被る事を諦めたユミルは、ふいとそっぽを向く。
「リズベットが、ボクの分も食べていいから……」
「――リズ」
「え?」
「リズベットじゃなくてっ……リ・ズッ!」
「わづっ!?」
あたしは未だに堅苦しく自分をリズベットと呼ぶユミルにカッと来て、ついユミルの頭のてっぺんを片手で鷲掴み、こちらに捻りながら怒鳴りつけてしまった。ユミルが珍妙な悲鳴をあげてパチクリとその大きな瞳で、間近にあるあたしの目を驚いた顔で見た。普段はああ見えて、本当に表情の変化が豊かな子だ……と、心のうちで思いながらも、今は言いたい事をユミルの顔に叩きつける。
「ああもうっ! だから、あたしのことはリズって呼びなさい! あたしも、もうキミの事はユミルって呼ぶから!」
「え、えっと……」
「分かった!?」
鼻先が触れそうなくらい顔を詰め寄らせてそう言うと、恐る恐るコクコクと頷きが返ってきた。
今までずっと落ち込んでいたこの子の表情を一気に吹き飛ばせたのは良かったけれど……少し、乱暴だっただろうか。
「ど、どうしたの……。いきなり、なんていうか……フランクになって……」
よく見ると、少し怯えて泣き出しそうなユミルの顔に少し反省し、彼の頭に置いた手を皿に戻しながら、それでもあたしは鼻を鳴らす。
「もともとあたしは堅苦しいの苦手なのっ。……とにかく食べなさいよ、冷めちゃうじゃない」
「言葉遣いも、なんか素になったみたいだね……。ともかく、それでもいらない……キリトから今朝の話、聞いてるんでしょ……?」
「……ん、聞いてる」
ユミルは気まずそうにあたしから顔を逸らして自分の爪先を見つめた。
あたしもキリト達が取り囲む焚き火の揺れ動く火を眺めた。
……あたし自身、今朝の現場に居合わせていなかったから詳細は分からない。けれど、宿でキリトから聞いた話は、この子の傷ついた心境を理解するには充分足りえた。
「……昨夜の事、後悔しているのよね。それでもあたし達を信じきれないから。いつかあたし達が……裏切るかもしれないから」
「分かってるんだったら……」
「だけど、そんなの関係ない。あたしはまた昨日みたいにキミに食べてもらって……また少しだけ、あたし達のことを信じてみて欲しい。それだけのことよ」
その言葉に、ユミルは小さく、肩だけの嘆息をした。
「……勝手だね。キミ達はいつもそうだ。勝手にボクの心の中に、土足で入り込むようにさ……」
そしてその顔を伏せ、曲げた膝の間を見つめる。
「…………なんで、放っておいてくれないかな……」
まるで溢れる涙を堪えるように、心をさらに塞ぎ込もうとする湿った声が届く。
それを横目で見たあたしは、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「えっと……あたしは、マーブルさんみたいに大人じゃないし、キミよりたぶん、数年だけ人生の先輩なだけだから、あんまし偉そうな事は言えない。……だけど、大事なことだからよく聞いておきなさい」
あたしは夜空を見上げる。
「――……人っていうのは、そういう生き物だからよ」
遥か高くにある空は、大部分が天蓋と霊木の枝で覆われてはいるものの、その僅かな隙間からはしっかりと星々を見て取ることが出来る。
「人は一人なんかじゃ絶対に生きていけないわ。それは呼吸とか、食事とか……そういうのとはまた別の、人が人として生きていくうえで最低限に必要なものなの。キミだって、あたし達に会うまではソロだったとしても、初心者のころはそうじゃなかったはずだよ。なにより……現実世界でも、キミにも大切な人がいるはず。……あたしにだってもちろんいる。親や友達でしょ、それに――」
「やめてよっ……現実の話をするのは……!」
ユミルは顔をその膝の間に深く
埋めた。
小さく震えるその肩を見れば、彼にも親や大切な人がいると伺える。だが今はそれは、この世界、この事件、この話には必要の無いものだった。あたしは素直に謝罪をする。
「ごめん……タブーだったよね。……じゃあさ、ホラ、真ん前のキリト達を見てみなさいよ」
あたしは目の前数メートル先の彼らを見る。すると、隣で顔を上げる気配がした。視界の端にその顔は映らず、表情は伺えない。
ハーラインはリゾットのおかわりを給仕のアスナに頼みながら、何かをにこやかに話しかけており――まずナンパ絡みに違いない――隣のキリトが苦い顔で肘で彼の脇腹を突いていた。アスナも苦笑いで彼の皿を受け取っており、その隣では同じく鍋の中のリゾットを皿によそっていたシリカが恐る恐るデイドへと皿を差し出しており、デイドはムスッとそっぽを向いた顔でそれを手に取っていた。シリカの足元では、小皿に盛られたリゾットをピナがペロペロと舐めるように少しずつついばんでいる。
「……どう? キミと同じ時期にあたし達のパーティに参加したハーライン達も、最初はどうなることかと思ってたけど……今ではああやってあたし達に溶け込んでいるんだよ。それは、あいつらだって、人と傍にいれば交わらずにはいられないから。……デイドなんて、ずっとシリカを目の敵にしてケンカ腰だったたけど、今じゃなんだかんだで照れ隠ししながらおかわり頼んでたし」
「……………」
隣を見てみれば、ユミルはキリト達をどこか羨ましそうに、眩しそうに目を細めて眺めていた。
「なにもべつに、今からキミにあそこに混じって来いって言うわけじゃない。ただ、今あたしが言ったこと、ちょっとでも胸の内に憶えててくれたら嬉しいかな。いつかきっと、意味が分かる時がくるよ。……ホラ、見てて」
その声にユミルはあたしへと向き、あたしはスプーンを取り出してリゾットを一口すくって頬張ってみせた。ハーブの香りと胡椒の刺激が唾液腺を刺激し、しっかりとコンソメと肉汁の旨みを吸ったお粥の風味が口いっぱいに広がる。
うん、うまい。
「マーブルさんの受け売りだけど……大丈夫。うん、我ながらビックリのおいしさね! ……調理はアスナ達も一緒だったけど」
そしてスプーンを皿に戻してユミルへと差し出す。そしてニヤリと笑ってみせる。
「今食べないと、次はきっとアスナとシリカの二人がかりでキミに食事を勧めてくると思うよ? それでも食べられないってんなら、なんなら……あたしがフーフー息で冷ましながら、一口一口あーんって食べさせてあげよっか?」
「…………な」
この言葉にユミルは数秒硬直した後、ぼっ、と火と付けたかのように顔を赤くして目を丸くした。
「んなっ……ばっ……!?」
ニヤニヤと再びスプーンへと手を伸ばし始めたあたしの手から、ユミルはそれをお皿ごとひったくった。
「ば、馬鹿なこと言わないで! たっ……食べればいいんでしょ食べれば! 毒は入ってないって分かったしっ? あの二人がまた来るのはイヤだから、仕方なく、ひ……一口だけは食べてあげるよ! し、仕方なくだからね!」
……………。
あー……なんだろう。この感じ。
あたしが言う権利があるかどうかは分からないけれど。
――これ、なんてツンデレだろう?
めちゃくちゃ可愛い。男の子のクセに。思わず頭を撫で回したくなってしまう。こっそり脳内でひときしり
耽溺して
悶絶する。
ユミルはそんなあたしの複雑な心境に気付かないままリゾットを一口すくい、口に運びかけたところでチラリとこちらを向いた。
「ちゃ、ちゃんと食べるからさ……見られるのイヤだから、あっち、戻っててくれないかな……?」
頬を朱に染めて言うその薄い唇は桜貝のようで。
そこから発せられる羞恥を堪える声すら、あたし達と変わらない高く自然なトーンで。
…………というか。
可愛すぎて、逆に少し腹が立ってきた。
「はいはい、分かりましたー」
と、あたしは素直にその場を立ってぽんぽんとエプロンドレスのスカートをはたいた。
「……あ、そうそう。あとね」
キリト達のもとへと数歩歩き出してふと、あたしはユミルへと振り返った。ユミルは尚もスプーンの先と睨めっこをしていたが、なにかとこちらへと顔を上げた。
「キミを放っておけなかったのは、単純にあたし達がキミを放っておけないと思ったからよ。キミはたぶん、自分が思っている以上に周りから良く想われてる人間よ、自信を持ちなさい。……マーブルさんも言ってたよ。私はユミルを信じてるって」
それを聞いたユミルはしばし、なんとも言い難い複雑そうな顔で逡巡していた。そして、
「…………そ」
と、極めて簡素な返事だけが返ってきた。
あたしはその返答に頷き、そして先の言葉を補足した。
「うん、ユミルは可愛くて無垢な男の子だって」
「……んなっ!?」
「あははっ、ジョーダンジョーダン。あとでちゃんとお皿は返してよね、なんちゃって乙女クン?」
「なんちゃ、おとっ……!? こ、このっ……!」
真っ赤な顔で立ち上がろうとしたユミルに笑いながら、あたしは一足先に駆け足でキリト達のところへと戻った。
ニコニコ顔で待っていたアスナが私を迎え入れてくれ、『ご苦労様』という
労いの言葉に、あたしは『ミッションコンプリート』とグッと親指を立てた。
ユミルが来るなら来るで、全員で焚き火を囲めるので良しと思ったのだが……
結局、ユミルはこちらへやって来ることは無かった。
……けれど。
全員の食事が終わって、寝る準備のために騒ぎも静まった頃。
ユミルは、こっそりとあたしのもとへ、顔を伏せながら無言でお皿を返しに来たことをここに記しておく。
――そのお皿は、綺麗に平らげられていたことも。