クルスニク・オーケストラ
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第十三楽章 聖なる祈り
13-3小節
何だ、それ。何なんだ、それは! ジゼル!
ジゼルは胸を押さえて膝を突いた。しゃがんで肩を掴んで支えた。
「しっかりしろ!」
するとジゼルは首を振って、カウンタードラムを見やった。
カウンタードラムはすでにルドガーとエルの手で開かれている。中にいる白い少年が――信じがたいことだが、大精霊オリジンだ。
『望むなら、時歪の因子化だって解除できるよ』
このタイミングでそれを言うか! この性悪精霊が!
今この場で時歪の因子化して消える可能性が高いのは、エルと、ジゼル。
どちらか選べと言うのか? よりによって、俺とルドガーにとって「一番」である人間を前にして。
分史世界を消して二人の人間を消滅させるか、二人のどちらかを選んで世界を遠からず滅ぼすかを、選ばせるのか?
――分かっていたじゃないか。これが精霊だ。試すと言いながら俺たちクルスニクを2000年も弄び続けた存在ども。
「ダメだよ……分史世界のコト、お願いしないと……」
腕の中で、支えていたジゼルが、エルに同意するように肯いた。
表情は骸殻で分からない。分からなくても、分かるんだよ、俺には。お前、今、笑ってるだろう?
「ルドガー」
「兄さん……」
「お前が心から望むことを言え。お前の欲しい世界を願え。俺が付いててやるから」
そんな顔するな。弟のワガママに付き合うんだ。兄貴としては最高の終わり方だ。
「――分史世界を、消してくれ」
『エルとユリウスとジゼル……彼らのことは、いいんだね?』
「みんなは……俺がっ」
ルドガーが全て言い終える前に、ジゼルが急に立ち上がった。
ジゼルは胸を押さえてふらつきながら、カウンタードラムの前に歩いていく。そして、ルドガーの肩を掴んで、カウンタードラムの前から押しどける。さらにエルも、両脇に手を入れて抱え上げて、ルドガーに押しつけた。
『それが君の祈りの正体かい? ジゼル』
祈りって何だ。正体って何だ。オリジンは何を言ってるんだ。ジゼルはどうなるんだ。
ジゼル、お前も! どうして自分のことなのに黙ってるんだ!
『黙ってるんじゃない。もうしゃべれないんだ。気づいてたんじゃない?』
――いつも前向きな言葉を紡いでいた。なのに、カナンの地に現れてから、ジゼルは一言もしゃべっていない。
おかしいと思っても、目を背けた。認めてしまったら、消える、気がして。
『よく考えればおかしいと分かるはずだよ。受け継ぐのがあくまで《記憶》なら、その後に人格があるようにふるまうのはどうして? 《レコードホルダー》はとっくに死んでいて、その後の思案なんてないはずなのに。まるで人格があるかのように、彼女は彼らの取るであろう行動、欲する行動に従って生きていた』
それは……《レコード》が疑似的な人格を作ることで、ジゼル自身の人格を防衛してたんじゃ……
『《記憶》にはいくつか種類がある。肉体の記憶、精神の記憶、魂の記憶――ってね。《レコード》とは魂の記憶だ。魂に刻まれるほどの、そう、未練。でも今のジゼルに魂はない。ここにいる彼女はいわば、ジゼルの肉体そのものの記憶であり、肉体に蓄積された記憶をベースにした人格。《クルスニク・レコード》に左右されない、ジゼル・トワイ・リートの本性なんだ』
本性……誰かが反芻するように呟いた。
「――人の本性とは」
クロノスがオリジンに並びながら後を引き取る。
「大方が利己的で、身勝手で、欲に塗れている。どんな聖人でもその装飾を剥ぎ取っていけば、現れるのは我欲よりさらに深い《我》だ。我がの何某かを望む拘泥だ。有史以来、そうでない人間など一人もいなかった。死して魂が抜ければ《我》だけが残る。《我》だけで動く肉塊があるとしたら、それはヒトではない。自己保存を優先するケダモノだ。ただ」
クロノスがジゼルを一瞥し、舌打ちせんばかりに苦々しい表情をした。
「この女は例外中の例外らしい。装飾だけでなく、本性さえ他者の幸福への《祈り》だとは。感心を通り越して恐れ入る。本性に《我欲》がないこの女はもはや人間の域にない」
『いいや、人間だよ』
クロノスの批評にオリジンが穏やかに口を挟んだ。
『人間だからこそ、ジゼルはこの域に至ったんだ。苦痛を強いられ、白眼視されながらも、友情を築き、恋を知り、信頼し合ったからこそ』
だいすきでした――頭にリフレインする、「ジゼル自身」の声。
俺への気持ちもジゼルの助けになっていたのか?
『ジゼル・トワイ・リート。君は君の《祈り》のためにその身を差し出せるかい?』
彼女は、肯いた。
「どうやら自ら最後の一人になって、残る骸殻能力者の因子化も解除する腹積もりらしい」
最後の時歪の因子化。
それが意味するところなんて、分かりすぎるくらい分かってた。
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