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四重唱

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第九章


第九章

「だから。絶対に」
「わかったわ。それじゃあ」
 彼女はアンドレアスの言葉を受けてまたゼウスの像を見た。そうして言う。
「ゼウス神とハプスブルク家の君主達に誓って」
「最高の舞台を」
 そう言い合って歌劇場に向かう。歌劇場に着くとその壮麗な、宮殿と見紛うばかりの中を進む。白を基調として黒と金で飾られたこの歌劇場はまさにウィーンそのものであった。まるで今にもここにモーツァルトやシュトラウスが出て来るかのようである。そんな雰囲気の中を今二人は進んでいた。そうしてすぐに練習や打ち合わせに入るのだった。
 そこにはヒルデガントもいた。しかしハンナは今はマルシャリンになっていた。彼女に対してもその顔で接している。誰もが彼女達のことを知っているがあえて言わない。舞台のことに千年していたのである。
「それでね。ここは」
 そこには当然ながら大沢もいた。大きな身振り手振りを交えてハンナ達に説明していた。
「こうして。それで」
「ここはこうですね」
 ここで若い女の歌手が話に入って来た。小柄で金髪をショートに切り揃えている。あどけない青い瞳が実に奇麗でその服も少女めいたものであった。
「それでこうで」
「そうそう、その通りだよ」
 大沢は笑顔で彼女に応えた。そうして彼女の名も呼んだ。
「フロイラインローゼンベリー、お見事」
「有り難うございます、マエストロ」
 そう大沢に述べて一礼する。マエストロとはイタリア語で師匠という意味である。クラシックの世界では演奏者や指揮者、歌手に敬意を込めてこう言うのである。
 今大沢がローゼンベリーと呼んだこの女性もまた今回の舞台の出演者である。名をマゾーラ=ローゼンベリーという。オクタヴィアンの妻となる令嬢ゾフィーの役である。ヒルデガントの今の想い人でありハンナにとっては恋人を奪われる形になる人である。実に微妙な関係であると言えた。
 だがハンナはそのことを顔には出さない。冷静に舞台のことに熱中するだけであった。そんな彼女に大沢が声をかけてきたのであった。
「フラウリューゲンベルク」
「はい」
 ハンナは大沢の呼びかけに応えた。
「貴女はですね」
「どうすれば宜しいですか?」
「このままで御願いします」
 彼は丁寧な調子で彼女にこう述べた。
「そのままですか」
「既に貴女はマルシャリンそのものです」
 元々大沢は歌手の個性を大事にする歌手である。演奏家達の個性も大事にする。そのうえでそれぞれの個性をまとめあげて最高の演奏にしていく。カルロス=クライバーに匹敵するとも言われている見事な能力の持ち主なのである。
「ですからこのままで」
「わかりました」
 ハンナは彼の言葉に頷いた。それで納得したのである。
「それではそのように」
「マルシャリンは言うまでもなくこの作品の柱です」
 大沢はこの時舞台だけを見ていたのではなかった。このウィーンという街全体を見ていたのである。薔薇の騎士はウィーンを舞台とし、ウィーンで生まれた作品である。そしてこの国立歌劇場で昔から上演されてきた。かつてナチスはリヒャルト=シュトラウスの作品を上演禁止にしたことがあるがこの作品だけは禁止にすることができなかった。それは何故か、この作品があまりにも素晴らしいからである。ナチスもそれを認めるしかなかったのだ。もっともヒトラーは歌劇に対する素養もかなりのものであったことが知られているが。ただし彼が愛したのはワーグナーでありシュトラウスではなかった。それも理由だったのかも知れない。シュトラウスはワーグナー的なものの他にモーツァルト的なものを入れ、そうして独自の花を開花させたのだから。
「そのマルシャリンになられている貴女は」
「このままでいいと」
「そうです。そしてそれはですね」
 大沢は今度はヒルデガントに顔を向けるのであった。
「貴女ですが」
「私はどうすれば」
「貴女についても言うことはありません」
 彼はヒルデガントにもこう述べた。
「そのままで御願いします」
「私の思うままにですか」
「はい。私もこれまで多くのカンカンを見てきました」
 カンカンというのはオクタヴィアンの仇名である。元帥夫人が彼をこう呼ぶのである。マルシャリンとカンカン、そしてゾフィーがこの作品の三本の柱となっているのだ。
「ですが貴女はカンカンそのものです」
「私がですか」
「そうです。ですから貴女もそのままで」
「わかりました。それでは」
 ヒルデガントも頷いた。大沢はまずはこの二人に対して感嘆の言葉を漏らすのであった。
「これはどうやら。最高の薔薇の騎士になることが約束されましたね」
「随分と自信がおありなのですな」
 アンドレアスは彼のその感嘆の言葉を聞いてこう言葉を返した。
「まだリハーサルもはじまっていないのに」
「全ては貴方達のおかげです」
 大沢はそのアンドレアスに対しても言うのであった。その感嘆を。
「ですからここは」
「おいおい、これはまた」
 一緒にその場にいたバジーニが彼のあまりもの感嘆の言葉に思わず苦笑いを浮かべるのであった。
 
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