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四重唱

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第十六章


第十六章

 その沈黙した彼等はただ舞台を見ていた。ハンナ、いや元帥夫人だろうか。彼女の歌声を。その演技を。全てを見てその中に引き込まれていたのだった。
「夢は自分の意志で創り出せるものではないのよ」
 この言葉さえも。全てのようだった。今は。
 その静かな世界の中でオックス男爵が姿を現わす。彼は完全に元帥夫人に動きを合わせていた。夫婦であるが夫婦でなく。そうして舞台の上にいたのだった。
「このことは貴女の美しい御手に任せます」
「宜しいですわ」
 二人の息は完璧なまでに合っていた。しかしそれだけで舞台が出来上がるのではない。そこにある美もまた至高のものであるがそうさせているのは他ならぬ二人の歌と演技であった。アンドレアスもまたオックス男爵になっていたのだ。そうして完璧なまでの男爵を見せていた。
「これだよ」
 ある批評家が呟いた。
「これがオックスなんだ」
 コミカルでありながらそこにはノーブルなものも持っている。それと共に若々しさもある。実はオックス男爵の年齢は三十五歳に設定されている。元帥夫人は三十二歳であるからその設定はかなり若くされているのである。しかも曲がりなりにも男爵は貴族である。その高貴さも出ていたのだ。だからこそ最高のオックス男爵になっていたのだ。
「これがな。これでいい」
 満足しながら舞台を見ている。ここれ観客達はあることに気付いた。
「あの男爵は」
「何処か」
 女装したオクタヴィアンに言い寄るシーンだ。好色な男爵の人柄を見せる場面であるがここでの演技に彼等はふと気付いたのである。
「何処か気遣っているな」
「そうだよな」
 そう言い合うのだ。やはり好色なのだがそれ以上に優しさを感じる。一見して粗野なのであるがそれでもそこに優しさがかいま見えていたのだ。
「あんな男爵は見たことがない」
「優しい男爵か」
 彼等はそれに満足していた。そうした男爵に。
「高貴なだけでなく」
「優しさを見せてもいる」
「中々。面白い男爵だ」
 そう思うと舞台がさらによくなるのだった。それを見ながらさらに薔薇の騎士の世界の中に入っていく。第一幕のクライマックスであるオクタヴィアンと元帥夫人の二重唱の場面では。女性の中には涙さえ流す者までいた。
「嫌だわ」
「まだ。第一幕なのに」
 そうは思っていても流れるものは流れる。それを止めることができなかったのだ。
「どうしてこんなに哀しいの?」
「何度も観た薔薇の騎士なのに」
「これは。ただの薔薇の騎士じゃない」
 出た結論はこれであった。
「これまでにない薔薇の騎士だ」
「これまでにない」
「ああ、そうだ」
 そう言う者がいた。
「これだけの薔薇の騎士はない。あの元帥夫人は」
 ハンナを見て。この言葉が出た。
「演じられている元帥夫人じゃない。元帥夫人そのものだ」
「そのものなのか」
「だからこんなに」
「そして。あの時のウィーンだ」
 あの時の、と言われた。それは果たして何時のウィーンなのか。舞台のうえでのウィーンなのか、それとも初演された時のウィーンであるのか。それは言った者にすらわからないものであった。だがあえてこう言うのであった。
「今あそこにあるのは」
「彼女達もあの彼女達なのね」
「ああ」
 誰かがまた誰かの言葉に頷いた。もう彼等、彼女達は今の舞台から離れられなかった。
「元帥夫人がいる」
「今ここに」
 第一幕が終わろうとしていた。黒人の男の子に白銀の薔薇を持って行かせる。その時においてさえ。何かが死んでいったのを誰もが感じたのだった。
「死んでいく」
「また何かが」
「けれどそれが何かは」
「もう言えない」
 言えなくなっていた。ただ彼等ができることは。舞台を観ることだけだった。第一幕の後の挨拶も終わり第二幕になって。男爵とオクタヴィアンの争いにも皆何かを感じていたのだった。
 
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