花唄
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第一章
第一章
花唄
桜が咲きその花びらが舞う。かぐわしい香りと人々のそれ等を楽しむ声がする。しかしその中で一人つまらない顔をして飲んでいる女がいた。
黒い髪にうっすらとウェーブをかけ淡い化粧をしている。黒く縁のない眼鏡が実によく似合っている。何処か知的な雰囲気を漂わせるこの女性は今一人座って酒を飲んでいた。
「遅いわね」
彼女の名を萩原美佐子という。ごく普通のOLでごく普通の生活をしている。今がごく普通に彼氏とお花見をする為にここに来ているのであった。
しかしここに来たのは彼女だけだった。彼氏の宮脇一成はまだ影も形も見せてはいない。そんな彼を待って今ビールを少しずつ飲んでいるのだ。
お弁当やお菓子、ビールをこれでもかという程持って来た。特にお弁当は手作りで彼女が一成の為に夜遅くまで念入りに作ったものである。しかしその彼が来ないのだ。これで面白い筈がなく詰まらない顔で今こうして一人で飲んでいる有様なのであった。
「なあ姉ちゃん」
そこにガテン風のいかついおっさんが二人やって来た。腹巻と濃い髭が如何にもといった感じであった。しかも彼等はそれぞれ一升瓶を抱えている。本当に見たままの花見での酔っ払いであった。
「どうしたんだい?一人で」
「友達来ないのかい?」
「はい、まあ」
美佐子は不機嫌な顔でその二人に答えた。
「そうなんです。それで困って」
「ふうん、何か困った事情になってるみたいだな」
男達のうちの太った方が言ってきた。
「まあそれでもだ」
今度は痩せた方が言ってきた。
「待ってりゃそのうちいいことがあるぜ」
「そうそう」
彼等は口々に言う。
「何たってな。今日はお花見だ」
「いいことがないとな」
この言葉は完全に酔っ払いの言葉であった。根拠がある筈もなかった。
「だからよ。待っておくんだな」
「桜でも楽しみながらな」
「ええ、そうします」
少し笑みを作ってそれに応えた。相変わらずその手には缶ビールがありそれが離れはしない。
「それで誰を待ってるんだい?」
「お友達だよな」
「いえ、彼氏なんですけれどね」
苦笑いをしてこう答えてきた。答えると同時にビールを少し飲む。もう顔は結構紅くなっている。それがほんのりと桜色になっていて彼女も桜になっていた。
「まだ来ていないんですよ」
「おう、彼氏と一緒にお花見か」
「そりゃまたいいねえ」
彼等はそれを聞いて顔を綻ばせてきた。
「俺達なんてあれだからな」
「そうそう」
二人は顔を見合わせて言い合う。
「仕事仲間で集まってどかんと一杯」
「女の子なんか一人もいねえ」
「そうなんですか」
「といってもあんたを誘ったりはしないよ」
「そんなことやったらセクハラになっちまうからな、ははは」
次に笑って述べてきた。
「まあ待ってりゃいいさ」
「そうだよな、やっぱり」
「桜が見ているぜ」
彼等は言う。
「優しくよ」
「そういうことだな。桜ってのはやっぱりいいもんさ」
痩せた男は酔った目で桜を見る。その顔も完全に酔っているがそれでも桜はしっかりと見ていた。
「心をな、安心させてくれるからな」
「はあ」
「だから娘さん」
優しい声をかけてきた。
「待ち人来たらずなんてのは考えなくていいからな」
「ゆっくり待てばいいってことだな」
太った男も言ってきた。
「そういうことだろ」
「その通りだ」
彼は同僚に応えた。
「じゃあこのままいればいいんですね」
美佐子もそれを聞いて何か安心してきた。それで問うた。
「そうですよね」
「ああ、そういうことさ」
「わかりました。それじゃあ」
こくりと頷いた。その言葉を受けることにした。
「このまま待ってます」
「おう。じゃあな」
痩せた男はここで左手で敬礼するような仕草をしてみせた。悪戯っぽい仕草だがそれがやけに様になっていた。何処か気さくでそれでいて格好がつくものであった。
「またな」
「はい」
「じゃあ俺も」
太った男も仲間の真似をして左手で挨拶した。右手の一升瓶が絵になっている。
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