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乱世の確率事象改変

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乱れ混じる想いに

 袁紹軍が陽武と烏巣に陣を敷いている間、曹操軍は官渡砦に籠り、何一つ動こうとはしなかった。
 通常ならば、陣を敷く間に奇襲を掛けるなり、陽動を仕掛けて何がしかの結果を得ようとするモノなのだが、風、稟、詠、朔夜の四人は満場一致で守りを固める方を取った。
 ただ、霞の部隊と春蘭の部隊だけ砦の外を巡回し、情報漏洩を防いではいた。
 新兵器がどのようなモノであるのか、砦で戦う為に何を準備しているのか、袁紹軍には一つたりとて漏らしてやるつもりは無い。
 守備の側が一手遅れるのは当然であり、情報漏洩はそれだけでアドバンテージを零にしてしまうに等しい。虎牢関やシ水関のような天然の要害と違い、官渡は地形的に守りに適しているとしてもそれらには及ばない。だから、策と兵器でより多くの有利を獲得しなければならないのだ。

 袁紹軍が陽武に来たとの報告から七日が経った。
 軍師達は何度も策の概要を確認し、将達は兵の士気上げや練兵に勤しんでいる。
 そんな中、秋斗は城壁の上で月と共に敵の居るであろう方角をじっと見据えていた。

「今日の朝は二人死んだ」

 ぽつりと、彼が宙に言葉を放った。
 白馬と延津では戦があった。多くのモノが死んだ。帰還した兵には怪我人も多数居る。その内、今日の朝に重傷者の二人が息を引き取った。
 医学の知識など応急処置程度しか持っていない為に、彼はその者達に何も出来ない。そも、この時代の医療技術では、現代のように人を助けることなど出来はしない。彼には気休めに話をしたり、出来る限りおいしいモノを食べさせる事くらいしか出来なかった。
 病気の予防の為に布を口に巻いて、仕事の少ない彼と月は重傷者優先で料理を振る舞ったのだ。
 糧食で作れる料理など多寡がしれているが、それでも彼らは美味いと言って笑ってくれた。

――今の俺にはこんな事しか出来ない。

 ギシリ、と拳が鳴る。震える手には、人を救えない悔しさがありありと浮かんでいた。
 多くの人を救えた現代を知っているから、彼の心は軋みを上げる。もどかしさ、焦燥、無力感……彼の胸に来る重圧は、それらの言葉では表現しきれない。
 ただ、大きく苦しく、重く圧し掛かった絶望はたった一つの事柄から。

“自分は死んでも生きている”

 なんだこれは、この茶番は、この有様は……心の中で毒づいた。
 たった一つの命を燃やして戦う彼らとは違い、自分は死んだのに生きている。なのに彼らを死地に追い遣る。
 笑いそうだった。泣きそうだった。この矛盾にこの嘘に、黒麒麟は潰されたのだとはっきりと分かった。
 これでは確かに命を捨てたくもなる……そう思った。
 きっと心の強いモノなら、下らないと断じて笑うだろうと予想出来た。しかし彼には出来なかった。もう一度の人生で幸せになりたいなど、そんな想いは、これっぽっちも思えなかった。

 たった一つの命を燃やして生かしてくれた“彼ら”の話を聞いたから。
 たった一度の人生で幸せを掴もうと足掻く皆を見てきたから。

 頭がどうにかなりそうだった。逃げ出したくて仕方なかった。

――それでも自分が世界を変えないと、生きているモノ全てを壊しちまう。

 だから彼は逃げ出す事も、壊れる事も……決して許されない。

「……戦いたいですか?」

 悲哀の滲んだ月の声にも、彼は返答をせず。じっと、敵の居る方を見やるだけだった。

「一人でも多く救えるなら自分も戦いたい……そう、思ってますか?」

 もう一度、ぎゅっと手を胸の前で握った月が声を掛けた。
 記憶を失った彼が戦うなら初陣となる。敵を殺すのも、部隊を指揮するのも、今回が初めてである。この重要な戦で打って出るには、少しばかり不安が残る。

「戦いにもいろいろありますよ」

 今度は穏やかな声が耳を擽った。
 兵器を使って戦うのも、策をぶつけて戦を掌握するのも、結局は戦っている事に変わりはない……月はそう言いたい。
 頭では理解している……しているのだが、彼の中で暴れる心は喚いていた。
 凪と試合をした時の感覚が胸に湧き上がる。目の前に立ちはだかる敵を、彼は求めていた。この想いを飼いならすには、自分が何か出来ているという結果がやはり必要だったのだ。
 それは嘗ての黒麒麟とほぼ同じ渇望。洛陽で我慢して我慢して、戦場に安らぎを求めたあの時と似ている。
 呆れた。舐めていた。分かって無かった。こんなにも苦しいとは思わなかった。目の前で死に行く人を見れば、こんなにも助けたくなるとは思わなかった。
 大きく長く、彼は息を吸って吐く。
 胸いっぱいに広がる空気は現代とは比較にならない程に新鮮で、哀しいくらいに爽やかだった。

「うん、そうだな。ありがと、月」

 隣に目を向け、ふっと微笑みを零す。ずっと支えてくれる白銀の少女に感謝を向けて。優しく微笑み返した月の笑顔には、荒れていた秋斗の心も僅かに癒される。

――ホント……敵わないなぁ……

 荒れ狂う想いの濁流を抑え付ける術が自分より年下の女の子の笑顔とは、なんとも情けない……呆れるが、彼は月が傍に居てくれる事で救われていた。
 同時に遠く、二人は敵の居る方を見据えた。
 幾分、彼らの後ろに気配が一つ。足運びから相応の力量のモノだと秋斗には分かったが振り向かず、誰か予測した後に背を向けたままのんびりと声を掛けた。

「どうした、妙才?」

 春蘭と霞が居ない為に、秋斗が足音だけで分かる実力の人物は秋蘭しかいない。
 そのまま彼の隣に並んだ秋蘭は、二人と同じ方を見ながら口を開いた。

「袁紹軍に動きがあったらしい。明日にでも官渡に来るだろう、とのことだ」
「わざわざお前さんが伝令に来てくれたのか」
「ああ、なんとなく歩きたい気分だったのでな」
「クク……そうか、なんとなくか」

 それなら仕方ない、と言わんばかりに彼は苦笑を一つ。
 月は首を傾げて秋蘭を見るも、表情からは何を考えているか読み取れなかった。

「怖いか? 徐晃」

 戦が怖いか、人が死ぬのが怖いか、人を殺すのが怖いか、戦うのが怖いか、自分が死ぬのが怖いか。
 突然の問いかけは探り。秋斗がどう取って答えるのかで、秋蘭の対応が変わるモノ。

「ああ、怖いね。特にえーりんが怖い。曹操殿の喋り方もう一回してくれって言う度に殴られるんだぜ?」

 その程度の思惑は分かるからと、彼は話の筋を意図してずらす。
 空気を読まない。読むつもりが無い。落ち込んでいる時に落ち込むような話はしたくない為に飄々と躱す。
 相も変わらず呆れた奴だ、と秋蘭はため息を零すだけ。彼自身で割り切って話さなければ、意味が無い。
 無言のまま、三人は遠くを見据えていた。それぞれ頭の中で思う事はあるが、なんら話そうとしなかった。
 日輪の輝きは色付き、もうすぐ日が暮れると教えてくれる。

「ゆえゆえ、妙才」

 緩い風が一陣吹いたと同時に、軽く名を呼ぶ。続きを待つ秋蘭は、未だ前を向いたまま。月はきゅっと手を握りしめた。

「剣を持って戦うような人本来の力と力のぶつかり合い……純粋な暴力に重要な要素が置かれる戦争はいつかなくなる」
「ほう、興味深い話だな」

 戦争自体が無くなる、とは彼も言ってない事に二人共が気付いた。
 秋蘭は片目を細めて、月は眉根を寄せて、彼を見やる。

「もっと残酷で、もっと醜悪で、もっともっと哀しくて苦しくて、人の命も誇りもゴミクズみたいに感じられる戦争がやってくる」

 欠片も感情が含まれない、何処か機械的な声。秋斗の目は、遠くにある景色を見ているようで見ていなかった。
 言いようも無い不安が二人の胸に湧く。彼の考えが分からない。何を思って、何を見て、何を考えているか、一寸たりとて理解出来ない。それが恐ろしく感じた。
 薄く細めた目には黒が渦巻く。

「今回使う兵器は真桜のおかげで改良出来たモノだけど、次かその次の戦では他の奴等も使って来るかもしれない。人は思考する生き物だ。誰かが使った兵器の情報は洩れるし推察される。何が起こったか、何を使ったか、何を集めたか……多くの情報を洗い流して紐解けば、頭の良い奴が考えて作る事の出来る程度のもんだ。もっと強い兵器を作るかもしれない。そうなるとこっちもそれ以上を作らないと対抗出来なくなるから、物資と技術を奪い合い、膠着し、戦争はより長く残酷になる……だろうな」

 二人は口を開けて何も言えない。話される事柄は、兵器を見て聞いてしまえばその通りだと思えたが為に。
 強い新兵器の使用は既存の戦を捻じ曲げる。彼の故郷の歴史で例えるなら火の国の天魔王がいい例だ。件の武器の本当の恐ろしさを知るのは彼だけだが……今回の兵器だけ見ても、この世界には有り得ないモノであった。
 投石器はもっと昔からこの大陸や外にあったはずなのに、この乱世に於いては何処も使っていなかったと聞く。それがどういう事か、分からない彼では無い。
 秋蘭は少し危うさを感じる。既に彼はこの戦の事を見ていない、そう思った。

「……徐晃、あまり先を見過ぎるな」

 思わず咎めた。
 先に思考が引き摺られ過ぎると足元が厳かになる。目の前に落ちている重要なナニカを見落としてしまう。
 少しだけ顔を横向けて、秋斗は秋蘭と目を合わせた。渦巻く黒に、秋蘭は僅かに押された。試合の時のような気迫では無く、鬼気迫る何かを感じて。

「……怖いよ、俺は。何千、何万って人がボロボロ死んでいく戦争ってもんが恐ろしい」

 悲哀に顔を曇らせたのは月。彼が兵の死に心を痛める姿を、ずっと隣で見てきたから。
 秋蘭はじっと黙って聞いていた。まだ人を殺していない彼が、どれだけのモノに成長するか分からなくて。

「でも、それでも腐った世界を変えるには、戦争しか手段が無いのも事実。曹操殿がやろうとしてる事も大体だけど理解してるし、それが正しいと思ってる。人も国も、単純明快になんざ出来ちゃいない」

 すっと目線を外して、彼は前を向く。明るい色が輝いていた。好きな色の空は、まだ来ない。
 ふと、今日の朝に死んだ二人が浮かべた笑顔を思い出した。
 彼らが戦った証は、この乱世を終わらせないと無意味になってしまう。自分達が勝たなければ無駄死にで、妥協など許されない。
 そして何より……彼が変えなければ、この苦しくも愛しい世界は……。
 何処か哀しい笑みを浮かべて、彼は笑った。

――持てる全てを賭けて、日輪と真月の上がる綺麗な藍橙の空を。記憶が戻った時に俺が消えても、後の事は黒麒麟とお前さん達に任せるさ。

 先は続けず、心の中だけで決意を固めて。

「すまんな妙才。だが、先の事ばかりは見ちゃいない。目の前の戦の事も考えてるよ」
「……ならいいが」

 続けられなかった先の言葉が気になったが、秋蘭も踏み込もうとはしない。

「なんせあの曹操殿に任されたんだ。俺にとっちゃあ誉れある仕事ってもんだよ。あの人に任されちゃあ失敗なんざ絶対に出来ないし」
「くくっ、じゃあ期待させて貰おうか、お前の働きに」
「いんや、それだけじゃあダメだ……俺と真桜とゆえゆえとえーりんと朔夜と、遊び心満載なバカ野郎共の働きに期待しててくれ。な?」

 笑い掛ける彼は、月も一緒に戦ってるのだと示していた。
 ほんの数か月前とほぼ同じ。徐州で一緒に策を練って、煮詰めて、兵達を励まして……あの頃となんら変わらない事を自分達はしていたのだと、月だけは気付く。
 それが嬉しくて、哀しかった。

「……そうだな、お前達皆が作ってくれたモノだった。すまない、月」

 申し訳なさげに秋蘭が目礼を一つ。
 ハッとした月は、慌てて両の手を胸の前で振った。

「い、いえ、私はあまりお役に――」
「んなこたない。月のおかげで皆の笑顔が増えた。胸を張っていいんだよ」
「うむ、私も皆も、月の世話になっているからな。ありがとう」

 遮られ、泣きそうになった。
 二人に笑い掛けられればじわじわと顔が赤くなって、

「へぅ……」

 いつもの口癖が漏れてしまった。

「徐晃、頭は撫でるなよ?」
「おっと、危ねぇ」
「はぁ……お前のソレは病気に違いない」
「……自分でもそう思う」

 いつも通りに月の頭を撫でようとした秋斗に向けて、秋蘭は呆れたようにため息を一つ。一応、月が雛里への罪悪感に苛まれ過ぎないように咎めて止めたが、他人の色恋沙汰に深く首を突っ込むのは御免だとこれ以上はやめておく。
 ただ、月は少しばかりしゅんと落ち込んでいた。彼女の内に育つ恋心は抑えがたいモノに育っているが故に。
 聡く読み取った秋蘭が目を細めて、話を変えようと秋斗を見据えた。

「……それだけ切り替えられるなら私が出て来るまでも無かったか」
「んなことねーよ。妙才のおかげでもっと気を引き締められた。ありがと」
「ふふ、どういたしまして。だが引き締め過ぎるのも良くないぞ?」
「クク、なら酒でも飲みたいね」
「馬鹿者め、霞ではあるまいし却下だ」

 残念、と軽くおどけて彼は外を見るのを止め、両手を頭の後ろに組んで振り返り、歩みを進める。

「さ、そろそろ最後の軍議をしに行こうかね。ゆえゆえ、怪我人達に振る舞う料理、今日は任せるよ」
「分かりました」

 やれやれと苦笑を落として、秋蘭は彼の背を追い掛けようとしたが、一度だけ振り返り、空を見上げた。
 日輪の光が温かく差し込んでいるというのに、彼の冷たい瞳を思い出してか、薄ら寒く感じた。
 そうして、ぽつりと言葉を零す。

「……異質な才と先見を以ってしても、華琳様のように乱世を楽しむ事など出来んのだな、お前は。どうか……人を殺しても歪むなよ」






 †





 金色に輝く鎧は眩い光を反射し、威風堂々、と言った様子であった。
 他の軍からすれば趣味が悪いと言わざるを得ないが、麗羽はこの色を気に入っていた。
 人の社会に於いて、金とは最も単純な力である。物が買える、名声も買える、名誉も買える、人脈も買える……そして人の命でさえも買えてしまう。
 欲望の化身とでも言おうか。それとも人の業とでも言うべきか。発展した現代でも紙の束に人生を左右されるモノなど溢れかえっている。
 人の世をより良くする為に生み出されたモノではあるが、金という力の魅力に取り入られれば、人は堕ちてでも求めてしまうのは世の常。
 麗羽は袁家の傀儡として過ごしてきたが故に、この色が自分を守ってくれているのだと知っている。そしてこの色が人を救う為に必要だとも知っている。
 だから、彼女はこの色が嫌いでは無かった。

 居並ぶ袁紹軍の兵達の前、麗羽は優雅に、そして優美に馬の上で微笑んでいた。
 仰々しい鎧は力の証。本心を隠してくれる、黄金の虚飾でもある。しかし、兵達には彼女の本来の姿など分かろうはずもない。見たまま、感じたままが全てである。金の力であれなんであれ、主が自信に溢れている事こそが、この戦場前に於いては何よりの心の安息。

「皆さんっ」

 麗しい声は良く通った。仮面を付けた麗羽の本気は、自信に溢れているが故に。
 華麗な動作で片手の甲を口元に持って行った麗羽は、不敵に笑った。

「敵は我が袁家の威光と、あなた方の雄々しく勇ましい戦いぶりに恐れ慄き、亀の如く城に引き籠ってしまいましたわ」

 バカにした笑いを含み、目を細めて言い放てば、兵達の心にもその心が伝わる。
 大したことは無い。見ろ、我らが勝利を主は疑っていない、と。

「あの幽州の大戦と同じく」

 そのまますっと顎に手を持って行った。碧の瞳が鋭く輝く。普段なら高笑いをしているはずが……今回の彼女は違った。
 思い出させるのは勝利の戦。あの時も、こちらが兵数の有利を以ってして敵を城に押し込んだのだ。
 状況はほぼ同じ……だからこそ、彼らは思い出す。彼の白馬の王が、怒りに燃えて打って出た時にどれだけの命を蹂躙したかを。
 記憶に新しい事実は、慢心が湧き立ち始めた心に緊張の糸を張りつめさせた。

「分かりまして? 窮鼠猫を噛む、という言葉を心に刻み込みましょう。失敗を生かせないようでは、勝利と栄光は手に入らないのですから」

 応、と上がる返答は力強く、彼らの精神状態をより良いモノへと導く。
 満足したのか、麗羽はまた手を半円、優美に上げて行く。
 次に何を言うのか、意識を尖らせて待つ兵達には期待が浮かぶ。

「さて……袁の勇者達よ、わたくし達は美しいっ」
「っ!」

 戦の前口上は自分が……と言っていたのだが、麗羽に任せてくださいなと言われて預けていた明。
 夕が考えたであろうそれに最後方で堪らず吹き出した。
 どんな発言が出ても合わせるつもりだったのに、余りにおかしな言葉を発したので耐えられなかったのだ。
 斗詩は麗羽の自信満々で自然な様子を見て、呆れのため息を零していた。
 そして兵達は……ポカンと口を開けて主を見つめることしか出来ない。

「敵の武骨で美しくない要塞を華麗な方法で打ち崩し、優雅で美しいわたくし達が切り裂く……これこそ攻城戦の美学ですわ」

 ぐるりと一巡見回す。麗羽は本心を含ませていた。
 信頼を置く王佐の発案と、袁家の財力と人材、技術力を以ってすればこそ作れたモノは、彼女にとって何より美しく見えた。
 人は利便性を求め、思考錯誤を繰り返して進化してきた。カタチとしてそれが為される様は、感動すら覚えるモノであった。

「……見なさいっ」

 バッ……と大仰な手振りで示す先には幕が張られた大きな物体。中身は袁家の攻城秘密兵器。夕の合図で布が外され、中身が露わになると同時に、兵達からどよめきが上がる。

「これぞ、袁家による才と財の結晶! これさえあればあんな城などけちょんけちょんのぎったぎたですわっ! お~っほっほっほ!」

 皆がぞっとしていた。そして自分達に向けられなくて良かったと、心底安堵していた。
 自分達の虎の子が使うモノより遥かに大きい物体が其処にはあった。何倍も大きいのであれば……どれだけの威力が出るのか、兵士達には想像もつかない。
 ただ、心に来る安心感だけは、確かに膨らんだ。
 幾分、乾いた音が二回鳴る。麗羽が手を叩き、皆の視線を集めた。兵士達の目からは、攻城戦に対する不安が全て消えていた。

「さあ、行きなさい! 袁家の勇者達よ! 雄々しく、美しく、華麗にあの城を打ち崩し……勝利と栄光をっ!」

 応える雄叫び、天を衝く。油断と慢心は無く、自信と興奮に満ち溢れた声であった。
 明と斗詩は、互いに目を合わせて頷き合い、己が仕事の為に持ち場へと動き出した……大きな槍を打ち出す兵器を引き連れて。



 †



 土煙を上げて近づいて来た大軍。黄金に輝く鎧は光を反射して眩い。城壁の上、秋斗はうざったそうに目を細めていた。
 まだ遠く、何故か一か所に旗が纏まっているその軍は、一定の距離を以ってピタリと動かなくなった。

「めちゃくちゃ遠かったのにバカみたいな高笑いが聞こえたんだが……アレが袁紹の声か?」
「……そうだ」

 うんざり、と言った様子で、麗羽を良く知る秋蘭が頷く。
 敵軍の鎧の色をじっと見やって、どうやったらそんな色に染められるのかと彼は不思議に思った……が、さすがに今は聞かない。氣の概念になんにせよ、この世界は彼の理解の範疇を超えている部分があり過ぎる為に。
 辺りをせわしなく見回していた真桜の目に、そこかしこで振られた旗が映った。城壁の上のあちこちと……城壁の下のあちこちで。

「兄やん、投石器とアレの準備、ばっちりやで。下の奴等も、“その下の奴等”も……な」

 真桜は悪戯を仕掛けた子供のような笑みを浮かべた。この砦での防衛準備は万端である。後は敵をじっくりと待つだけ。
 満足だ、というように彼はにやりと笑い返した。

「クク、あそこまで出来たのはお前さんの螺旋の力のおかげだわな」
「ふっふー、ウチご自慢の螺旋、舐めとったらあかんで?」
「ああ、ああ、そうだろう。そのまま天を衝いちまえ」
「くっくっ、いつか兄やんが言うとった“ぎがどりる”作ったんねん」
「あははっ! 楽しみにしとく。その時の口上は間違えるなよ?」

 戦前の緩い空気は兵達に安息を齎すモノ。初めての兵器運用で失敗は許されないが、工作の総まとめである二人が落ち着いているなら、何も問題は無いのだと緊張感が和らいでいた。
 二人だけに分かる話で、クスクスと笑い合う秋斗と真桜の様子に、風と稟の側に居る朔夜がむすっとむくれた。

「戦前なのに……」
「秋斗殿は強がりで意地っ張りですから」
「いいんじゃないですかねー。これから目の前で人が死ぬんですから……」

――お兄さんが黒麒麟を見せたいなら、あのくらい落ち着いてる様子を示すべきなのですよ。

 風は先を続けず。
 秋斗の様子は怯えを隠すためだろうと判断した二人。朔夜の機嫌はそれでも直らない。彼女も人が目の前で殺されるのを見るのは初めてになるのだが、余り恐怖を感じてはいなかった。

「秋兄様は、そんなに怖いのでしょうか……」
「朔夜は怖くない、と?」
「……血は見ました。怪我人は見ました。人が死ぬのも見ました。殺される、所だけは見てません。誰かが殺す、病や傷で死ぬ……それらに何か、違いがあるのですか?」

 結果は変わらないというのに……朔夜はそう言いたい。
 続けられるであろう言葉を予想して、稟は眉を寄せる。風は……のんびりと目を瞑っただけ。

――この子は軍師として完成され過ぎている。人の命を駒としか見ない、否、見れない。本来は……私達はこうあるべきなのでしょう。

 出来る訳が無いが、とは稟も言わない。
 如何に冷徹に策を出そうとも、稟は人の命を軽くは見れない。躊躇いは持たないが、悲哀込み上げる心がある。人的損害を減らす策を優先させる傾向があると自覚してもいる。
 胸が痛むのだ。割り切ってはいるのだが生来持つ優しさ故に……こればかりは性分なのでどうしようもない。
 優しい軍師特有のよくある悩みだが、稟だけは少し状況が違う。
 彼女は……経験の浅い状態で黒麒麟の身体を扱ってしまった。命を散らす姿がトラウマとして居座っている。だからこそ、余計に悩む。軍師としての欲望も宿していてすら、である。

「こらー」
「あうっ」

 稟が難しい顔で悩んでいる間に、ぺしり、と風が朔夜の頭を叩いた。
 怒ってますよ、と眉を寄せ……ジト目の奥は鋭く光っていた。

「思ってても素直に口に出すモノは軍師失格なのです」

 別段、風は考え方を咎めようとしない。見た目に惑わされがちだが、軍師としての彼女は曹操軍で一番冷たい。人の心を誘導するのが得意なのは、彼女が他人を壁越しに観察できるからだ。
 感情を差し込まない術を心得ている彼女は、朔夜と稟の中間に居る、と言ってもいい。
 今は朔夜も軍師として此処にいる。ならば兵の掌握にヒビを入れる発言は控えるべき……風の言はそういった言い分。
 ハッとして辺りを見回した朔夜は、誰にも聞かれていなかった事にほっと安堵を一息。

「……ごめんなさい」
「風は朔夜ちゃんの先輩ですからねー」

 じ、と稟を見るエメラルドの瞳は極寒の冷たさ。朔夜に示すと同時に、風は稟の優しさを咎めている。
 ありがたい、と感じて微笑み、コクリと稟は頷いた。そうして、黒をちらりと見やり、思考を切り替えた。

――華琳様が事前準備し、秋斗殿と真桜が作り上げたこの砦。そして敵の攻城兵器を予想しての我ら軍師の策。敵にぶつける不可測すら春蘭や霞、凪達で準備済み。官渡に攻め入った時点で袁家はもう、逃げられない。

 ゾクゾクと快感が背筋を走る。まだ始まっても居ないのに、戦に対して稟は歓喜を覚えた。
 この戦は一つ一つと策を張った盤上の遊戯。一手打つ毎に命を対価として払う、高価で残酷な将棋のようなナニカ。
 醜いと思うが、稟の内に巣食うケモノは極上の餌を喰らっていた。武人に欲があるように、軍師にも度し難い欲望が確かにあるのだ。
 風も朔夜も、そういったケモノを身の内に飼っているのは知っている。彼女らにとって、効率を優先する華琳と彼の存在は、何より得難い主と言っていい。
 ふと、稟は彼の場合どうなのかと心配になった。
 自分はこの欲を理解しているから割り切れる。しかし普通の男に思える彼ならば……

 思考を回す内、ビシリ、と空気が張りつめた。彼が急ぎ、城壁の上から身を乗り出しただけで。
 主要人物や壁周りの兵達は彼に倣って敵を見やった。

「……やっぱりそうくるか、新しい!」

 ゴロゴロと押し迫ってくるその兵器を見て、彼が楽しそうに声を上げた。
 皆、ソレが何か理解出来た。誰にでも分かるカタチで、誰かが思い浮かんでもいいはずのモノ。そして……彼が攻城戦に用いられるかもしれないと示唆していた兵器。

「クク、ここはヨーロッパじゃねぇんだけどな」

 彼が発した不思議な地名に首を傾げるモノ多数。知っているのは、彼に外の世界の事を聞いてみたいと願い、知識を吸い上げている朔夜だけ。
 ただ、他の皆もその兵器の名前は聞いていた。彼がいつか使おうと主要人物だけに教えていたから。

「“ばりすた”……やんな?」

 真桜が遠目に見える兵器をどうにか見定めようと目を凝らしながら口に出し、秋斗が頷く。
 袁家が持ってきた攻城兵器はバリスタ。
 強弩部隊を持つ袁家なら、特大の弩を作る事は予想出来る。射程が余り長くない兵器ではあるが、点に対する威力と精度は折り紙つきである。

「朔夜、真桜、角度計算。こっちの兵器をアレから撃ち出されるモノが届かない範囲まで下がらせろ」
「はいっ」
「にしし、固定しやんで良かったわ。了解やっ」

 バリスタを壊さないのか、とは誰も聞かない。
 すぐさま動いたのは秋蘭と軍師達。兵器の運用は真桜と秋斗と朔夜に任せ、彼女達は違う仕事の為に動き出した。
 近付いてくる兵器を見据えながら、彼はポツリと呟く。

「中国でヨーロッパの兵器だなんて……バカげてるよ、本当に。ただ……火薬が使われんだけまだマシか」

 秋斗の声を聞いたモノは、誰も居ない。

 赤い髪、黒い髪、兵では無い二人の姿が遠いのによく見えた。片方の女が手に持つ大きな武器からは、投石器対策の護衛なのだろうと直ぐに分かる。

――なんだ……あいつ……?

 まだ遠い。近付く赤が気になった。視界から外せなかった。
 次第に、じくじく、じくじくと昏いモノが胸の内に湧き上がる。
 知らないはずなのに、誰かも分からないはずなのに、彼の拳が湧き上がる感情からギシリと握りしめられた。
 視線が絡まると……遠いというのに彼女は口を引き裂いた。
 その笑みを見れば、心の中が真黒いタールのように粘りつく。彼はその感情の名を知っている。

 顔も見た事の無い少女の事を、彼の心は殺したいと喚いていた。

 違和感があった。背中に下がる武器を疎ましく感じた。
 ズキ……と頭と胸が痛んで、彼の脳内に一つの光景が浮かび上がる。

 紅い髪が舞った血みどろの戦場。
 口を引き裂いたのはあの女。
 叫びを上げる慟哭と怨嗟の声は、彼のモノでは無かった。
 最後にぽつりと、願う声が聴こえた。

 彼が歯を噛みしめると同時にその光景は宙に消え行く。
 彼女と同じように口角を吊り上げて息を吐き、剣を抜けば、彼は自分が自分である事を僅かに認識出来た。

「張コウ。どうやら俺はお前を生かさなくちゃならんのに……殺したいらしい」

 震える声が紡がれる。
 自分が誰かも分からない。自己の根幹がズレてブレて曖昧にぼかされる。

 つっと流れた一筋の涙は誰の為か分からなかった。
 ただ、誰かを想っていた大切な気持ちだけは、嘘ではないと信じたくなった。

 耳に吹き抜けた最後の幻聴は、優しくて穏やかで甘いモノだったのだから。






















 回顧録 ~ヒノヒカリニミチビカレテ~




 夕闇に燃える橙だけは絶対に忘れない。

 二人で見た世界が美しすぎて、自分の心は緩んでしまっていたのだろう。

 彼女と生きられる事が嬉しすぎて、弱くなってしまっていたのだろう。

 嘘つきでいよう、貫き通そうと思っていたのに

 涙を零す自分を抱きしめた彼女に

 抑え切れず……全てを話してしまった。

 自分が他の世界から来たことも

 この世界の歴史を曖昧ながら把握していたことも

 長くて辛くて苦しい乱世が終わらなかった事も

 自分が何度繰り返してきてのかも

 確かにあった幸せも

 彼女を何度死なせてしまったのかも

 彼女が本来辿るべきだったはずの結末も

 全て、全て、話してしまったのだ。

 じ……と、聞いていた彼女は、自分を見て笑った。


 涙を零しながら

 泣き笑いで、絶望の底に堕ちながら、彼女は笑った。


 大変だったのか、とか

 辛かったか、とか

 大丈夫、この世界では過ごしたのは全部事実だから、とか

 自分とあなたは確かに此処に生きている、とか

 そういう言葉を期待していたのかもしれない。

 しかし、彼女は全く思いもよらない言葉を発した。



 “嘘つき”

 “皆がどんな想いで戦ってきたと思ってるのか”

 “誰かの幸せと居場所を奪ってまで、幸せになんかなりたくない”



 そうして、人の心を大切にしていた優しい彼女は絶望の底

 短い刃で彼女自身の首を引き裂いた。

 吹き出る赤、赤、赤が身を染める。

 昏い暗い瞳が頭から離れなくなった。

 自分の目の前で、彼女は死んでしまった。

 世界は、残酷でしかなかった。

 たった一つの選択で、たった一度の弱さで、

 大切な彼女を殺してしまった。


 嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき


 脳内で反芻される声に耐えきれず絶叫を上げ、自分の意識は闇の底に堕ちた。



 嘗て覇王が言っていた。

『人は、一度きりの人生で幸せを掴もうと足掻き、もがき、苦しむからこそ美しい』

『誰もが後悔しないように精一杯生きている。後悔の果てに繰り返して得るマガイモノよりも、自分の手で掴みとったモノこそ真実にして価値があるのではないか』

『乱世で失わせた命は未来を創る大切な糧。それを喰らっても前に踏み出せず過去に生きるというのなら、皆は何の為に殺し殺され死んだのか』

 そういう事だ。

 自分は嘘を貫き通さなければならない。

 この世界の真実を知っている自分だけは、役割を演じる道化師にならなければならない。




 そしてまた、この残酷な世界は繰り返した。










 自分を殺す為に

 今まで居なかった敵を表舞台に引き上げ

 優しかったはずの味方の過去さえも捻じ曲げるという

 最悪の事象改変を伴って。



 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

麗羽さんの貴重な口上シーン。
三國無双2の張コウを思い出してください。
原作もきっとあの美しい人の影響受けてると思うんですよね。

官渡の戦い秒読み。
袁家の兵器はバリスタです。ただのバリスタじゃないですが。

彼に変化がありました。全ては繋がってます。

回顧録でも動きがありました。世界が簡単に変えられるわけない感じで。

次は官渡の戦い本番。

ではまた 
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